天の川
 
 
虫の声が響いている。
夏の夜。
人々はとうに寝静まっている刻限。
それを待っていたかのように、虫たちはより一層忙しげに羽を擦り合わせた。
 
草むらに人間の着物が脱ぎ捨てられている。
漆黒の着物に、濃紫の袈裟。
無頓着に投げられた錫杖。
その先端に付けられた金の輪が、闇夜に幻想的な輝きを放っている。
 
常ならず無秩序に放り出された品々が、今の弥勒の心境を物語っていた。
 
 
 
大蟷螂の夢で目が醒めた。
現に戻った弥勒はほっと胸を撫で下ろしたが、
それでも荒い息はすぐには引かず、何より右手の風穴は変わらずそこに穿たれている。
それが、弥勒にとっての現実。
 
全身に嫌な汗をかいていた。
内面に似合わず幼さを残したその額は濡れ、前髪が貼り付いている。
熱い…。
疲れて眠っている仲間を起こさぬよう、弥勒は静かに小屋を出た。
 
 
 
パシャンと心地良い音を立てて、弥勒は水面から顔を出す。
深く静かな淵に波紋が幾重にも広がった。
 
水に浸かったまま呼吸を整え、弥勒は天を仰ぎ見る。
壮大な銀河が夏の夜空に懸かっていた。
その銀河を挟むように織女星と牽牛星。
(俺には縁の無い話だな…)
 
視線を戻し、今度は顔を出したまま軟らかい水をかいて泳ぐ。
 
死ぬのは特別なことではない。
誰だって、いつかは死に逝く。
その死が人より早く訪れるということも、今更殊に怖れるわけではない。
ただ……
 
ただ、そのことを知らず知らずのうちに意識して、
己の幸福を自ら制限してしまうことが、弥勒は少し悲しい…。
 
決して人と深くは関わらない。
そう決めたのは、己の身の辛さを少しでも軽くするため。
誰とも、何も、約束はしない。
なぜなら、いつ約束を果たせぬまま死すとも限らないから。
 
浮き草のように漂って、綿毛のように風に舞う。
共に旅をする仲間ができた今でも、その飄々とした心境に大した変化は無い。
でも、時として、一番楽だと思っていたその生きざまが、逆に、
まるでそのツケを求めるかのように弥勒の心をえぐることがある。
 
こんな、天の川が綺麗な夜には殊更に…。
 
弥勒は大きく息を吸い、再びトプンと音を立てて水中に潜った。
 
水の感触は滑らかで優しい。
何より、溢れる涙を隠してくれる。
人は皆、生まれる前には母親の胎内で水に包まれていた。
死んだら、そんな優しい水の感触に帰ることができるだろうか…?
 
 
 
その頃。
リリリリ…と中から小気味良い音を放つ草を踏み分けて進む素足があった。
深紅の着物が闇にぼうっと浮かび上がる。
犬夜叉は寝たふりを決め込んでいたが、弥勒がこの夜中に外へ出て行ったのはちゃんと知っている。
 
ふと、足元に弥勒の袈裟を見つけた。
そう遠くへは行っていないと知り、ひと先ずほっとする。
「あの野郎…」
 
最近、兎角弥勒の行動が気にかかって仕様が無い。
風穴に、そこそこの武術。ちゃっかりもので、おまけに頭がうんと切れる。
最初こそ癪に障ったが、共に旅する時を重ねるうちに、だんだんと頼もしくも思えてきた。
そんな矢先。
 
見てしまった。
 
全ての強がりを取り除いたような、あいつの顔。
親父の墓だとかいう大穴の中で、死を覚悟した、今にも消え入りそうなあいつの顔。
いつも明るく穏やかな表情しか見せないから、ややもすると忘れそうになっていた。
このままでは、あいつは、いつか風穴に呑み込まれて死んじまうのだということを…。
 
弥勒の脱ぎ捨てた袈裟を見下ろしながら、そんなことを考えていると、
川の方から、パシャッ、バシャッという音がした。
犬耳がぴくんと立ち、足は岸へと急ぐ。
 
 
 
「…犬夜叉?」
 
そう言う弥勒の声は犬夜叉の耳には入らない。
目の前の弥勒の姿に、犬夜叉は思わず息を呑んだ。
 
弥勒は丁度、岸辺の岩に手をかけ、水から上がろうと半身持ち上げたところだった。
白い、ぺったりとした胸が犬夜叉の瞳を釘付けにした。
そんな犬夜叉には無頓着に、弥勒は更に体を持ち上げる。
 
「お、おい…」
別に自分が恥ずかしがることは無い、第一、男同士なのだ。
判ってはいるが、突然、裸体を目の前に曝されて、さすがに犬夜叉はたじろぐ。
 
あれよあれよという間に、弥勒は岩の上に一糸纏わぬ姿で立ち上がった。
濡れた髪から、水滴がぽたぽたとしたたり落ちる。
初めて見るその裸体は、想像以上に細く、犬夜叉は思わず目を伏せる。
 
ぺたぺたと、濡れた足が岩の上を歩く音がしたかと思うと、
その足はすとんと草の上に下り立ち、自分の脇を通り過ぎて行く。
犬夜叉は再び顔を上げて、その後姿を見る。
 
普段、袈裟の裾から僅かに覗く、女のようにか細い足首を見て、
この男がかなりの細身だということは想像していたが、ここまで細いとは…。
一切の無駄を省いた、高度に洗練された肉体は、その飄々とした内面と釣り合っている。
釣り合って…あまりに釣り合って…かえって哀しく思えるほどだ。
 
 
 
弥勒は薄っぺらな手ぬぐいを一枚腰に巻いて、脱ぎ捨ててあった袈裟の上にどかっと腰を下ろした。
そして、近づいて来る犬夜叉に、先ずは言い訳。
 
「今夜は、やけに蒸しますなあ」
 
「けっ、おめーのことだから、夜這いにでも行ったかと思えば…」
弥勒の隣にどかりと座り込んで犬夜叉が言う。
 
いつもの悪態に、弥勒は安心して微笑んだ。
しかし、犬夜叉は悪気は無いが、気が回らないのが難点。
 
「けどよ、夜這いに行った相手が実は大蟷螂だった、なーんて、あり得るからな。いつかみてえに…」
言ってから、さすがにまずいことを口にしたと気づく。
見れば、弥勒の顔からは笑みが失せ、その双眸は淀んでいた。
 
普段の弥勒ならば、そのくらいのこと、気にも懸けないどころか、
逆に機知を働かせて犬夜叉をぎゃふんと言わせてやるところだが、
今宵ばかりは、そんな気にはなれない。
先刻の悪夢はまだそれほど遠くへは去っていなかった。
 
「み、弥勒…?」
 
大きな瞳で自分の顔を覗き込む犬夜叉に、弥勒はそれでも精一杯の笑顔を返した。
けれど、その笑みがどこか強張っていることは、鈍い犬夜叉にもよく解かる。
細い肩を露わにした弥勒は、すぐにも消え入りそうで…。
硬い光を放つ金の耳輪でさえ、今はその存在の儚さを強調するものでしかない。
 
「明日は、七夕だな」
星が瞬く夜空を見上げて、弥勒がふと呟く。
犬夜叉も弥勒と同じ空を見上げた。
澄んだ空に、細かい星々がたくさん散りばめられている。
 
「七夕は、俺の誕生日なんだ…」
 
ぴくっと犬夜叉の心臓が跳ねた。
別段、奇異な発言ではない、それが弥勒の口から出たものでなければ。
だが、日々共に過ごしていても、決して己を曝け出そうとしない弥勒がそんなことを漏らすなんて…。
それに、あの一種、武装道具でもある敬語が弥勒の言葉から抜けている。
 
その異様な雰囲気をわざとぶち壊すように、犬夜叉が空を見上げたままの弥勒に言う。
 
「まさかおめえ、その歳になって誕生日祝いしてくれって言うんじゃねえだろうなっ」
犬夜叉のぶっきらぼうな言葉に、ふっと軽く噴き出す弥勒。
その顔に明るさが少しだけ戻って、犬夜叉の心も少しだけ軽くなる。
 
「この歳になって、か…。お前、私がいくつになると思う?」
弥勒の細長い四肢と、幼さの残る甘い顔と、知識の詰め込まれた頭脳と、悟りきったような表情。
それらを考え合わせると、ますます解からなくなる。
「いくつだ?」
 
その問いには答えず、弥勒は語り出す。
「数えるのが、怖いんだ。自分の歳を…」
 
振り向いた弥勒の顔には自嘲とも強がりともつかぬ笑みが浮んでいた。
が、その笑みも、さっと波が引くようにすぐに消え失せ、瞳が悲しい色をして光る。
 
「いつまで数えられるか判らない。もうこれで最後かもしれないって、毎年毎年思うんだ」
「……」
 
「だから、俺は自分の誕生日が好きじゃない。無論人にも教えないし、
 誕生日祝いなんて、自慢じゃないが、もらったことも無いな」
 
「弥勒…」
 
「かえって、辛いだけだからな…」
最後にぼそっと呟いた弥勒は遠い目をしていた。
自分の膝を抱きかかえ、気のせいか、少し震えている?
 
 
 
しばらくして、
「ま、それが私の運命なのです。思い悩んでも仕方ありません」
と、再び笑顔。
 
ため息をついたのは、逆に犬夜叉の方だ。
(この男、また自己完結しやがるつもりかよ…。)
近づけそうで近づけない。
そんな弥勒との距離が犬夜叉にはとてつもなく歯痒い。
 
「…ったく、しょーがねえ…」
そうぼやきながら、犬夜叉は自分の衣を脱いだ。
そして、その緋ねずみの毛で織られた衣を、痛々しいほど薄っぺらな弥勒の肩にばさりと掛ける。
 
「犬夜叉?」
「うるせえ。もらったことが無いんなら、俺様がくれてやるぜ。誕生日の祝いくらい」
そう言って、衣の上から弥勒の肩に手を置いた。
その命を繋ぎ止めようとするかのように。
 
「約束だ。弥勒…」
低い声で、犬夜叉が言う。
「奈落は必ず俺が倒す。…だから、おめえは自分の誕生日くらい、ちゃんと数えとけってんだ」
 
「犬夜叉…」
ぷいとそっぽを向いてしまっているので、その表情は覗えないが、
肩に掛かった手はがっしりと自分を掴まえている。
その力強さが弥勒の心に染み渡っていく…。
 
 
 
夜が更けて、さすがに風が涼しくなってきた。
弥勒は器用な手つきで素早く袈裟を身に纏う。
「帰りますか」
「…おう」
 
先に立って歩く弥勒の後姿を見守りながら、犬夜叉も歩き出す。
見慣れた格好の弥勒は、普段の弥勒に戻ったようだった。
 
と、不意に弥勒が立ち止まった。
「××××」
 
「あ?」
聞こえね―よとばかり、犬夜叉は弥勒の傍まで行く。
 
「いえ、天の川。…綺麗ですね」
「ああ…」
 
もう一度、二人して満天の星空を見上げる。
ちょうど同じくらいの身丈の二人。
…と、すぐ隣の弥勒の顔がすっと近づいて来たかと思うと…
 
「!!」
 
唇が、重なった。
ほんの一瞬。
そのあまりの柔らかさに、本当に触れたのかどうかさえ疑わしいくらい。
 
目をぱちくりさせて呆然と佇む犬夜叉を余所に、弥勒は悪戯っぽく笑うとすたすたと歩き出す。
 
「…お、おい。コラ!待て、弥勒っ!!」
 
涼しい顔で振り返る弥勒。
「お返しです。誕生日祝いの」
 
平然と言ってのける弥勒に、犬夜叉の血が上る。
「なっ…、何だと、てめー。あーもう、取り消しだ取り消しっ!!」
 
「駄目です。もう、お返ししてしまったのですから」
「なにぃー!」
 
「ちゃんと約束守らないと、化けて出ますよ」
「てっめえ…」
 
弥勒の顔にも、犬夜叉の顔にも笑みが溢れる。
 
 
 
その夜、織姫と彦星は一際明るく輝いた。
弥勒を、二人を、祝福するかのように…。
 
 
 
end★
written by 遊丸@七変化

弥勒さまの誕生日って、本当はいつなんでしょうね?
でも、何となく、初夏が似合うような気がしません?
星座は乙女座vvなんかがぴったり、なーんてっ。
あ、でも、七月七日って…蟹座。
ん?でも、旧暦だとすると…双子座?
じゃあ、犬も双子座ということにして、
二人仲良くお空に浮かべるってのはどうだ!?
(脳味噌腐敗中…)