夢うつつに咲く花













春の闇は、どうしてこうも柔らかいのか。
生暖かい空気がゆらゆらと胎動する中に、どこから漂ってくるのか、土の匂いが混じっている。
マンションの林立するこの街のどこに土があるというのだろう。
それでも、どういうわけか土の匂いが鼻につくのだ。

高耶はふと、歩みを止めた。
冬の寒さから解き放たれた空気を胸いっぱいに吸ってみる。
その中に、名前はわからぬ花の香りが混じっていた。
生命は芽吹き、世界は動き出そうとしている。

「もう春か」

誰も通らぬ深夜0時過ぎの歩道でそう独語すると、今度は少し歩調を速めて歩き出した。
連日の残業で季節も忘れてしまうほど疲れてはいたが、高耶の気分は悪くない。

帰る家がある。待っている人がいる。
そう思うと、心の奥がほわんと温かくなる。
このやさしい春の闇のように。

直江と一緒に暮らし始めてもう大分経つのだが、最近はろくに顔を合わせていなかった。
不動産業の直江とはそもそも休みが合わない上、高耶の仕事が忙しいのである。
しかも、ここ二週間ほどは、直江が実家に帰っていた。
橘家の父親と次男が相次いで風邪で伏せってしまったため、寺の仕事を手伝いに行ったのだ。
今朝になって、二人の具合がよくなったので、今夜はこちらに帰ってくるというメールが入っていた。

何だか随分長いこと会っていなかったような気がする。
高耶も今日くらいは早く帰宅したかったのだが、あれもこれもとやりかけの仕事に手をつけるうちにまた遅くなってしまった。
いい加減なところで切り上げればいいのかもしれないが、どうもそれができない性分らしい。

直江は今頃何をしているだろう。
リビングでパソコンでもいじりながら自分の帰りを待っているだろうか。
時々そわそわして歩き回ったり、携帯をチェックしたりしているかもしれない。

マンションに入る一歩手前で、先を急ぐ高耶の目の前を不意に横切るものがあった。
ひらひらと視界に飛び込んできたのは、淡いピンク色の花びらだった。

桜?

とっさに手を差し出すと、小さなその花びらは、お行儀よく高耶の手の上に収まった。

この辺りに桜の木などあっただろうか。
見回してみても、その姿は見えなかった。

その場に払い捨ててしまおうとしたのを思いとどまり、高耶はそのささやかな「みやげ」をスプリングコートのポケットに忍ばせた。

高速エレベーターで32階へ上り、自宅のドアを開けた途端、高耶はしかし、予想外の事態に思わずその場に立ち尽くしてしまった。
今夜はついているはずの灯りが、ついていない…。

直江は帰っていないのか?
早足で上がって、リビングの照明をつけた。
辺りを見回して直江の気配を探すと、テーブルの上にマグカップと書類を見つけた。

帰って来ている。
寝室だろうか? それとも風呂? でもリビングの灯りもつけぬまま?
一旦帰って来て、またどこかへ出かけたのか? こんな夜中に?

「なおっ…」

呼びかけた名前を呑み込んで、高耶は目をみはった。
思いがけぬところに、彼の姿を発見したのだ。

ソファーの端から、長身の男の両脚がはみ出している。

(直江っ!?)

回り込み、その姿を見て、高耶は肩から力が抜けるのを感じた。
もしかして具合が悪くて倒れているのかと一瞬危惧したが、杞憂だったらしい。

床に落ちた手は書類を掴んだまま。
たまった仕事に目を通しているうちに眠ってしまったのだろう。
それにしても、ライトひとつついていないということは、まだ明るいうちに寝入ったということだ。
直江にしては珍しい。よほど疲れていたのだろう。

今もなお深い眠りのただ中にいるのか、高耶が鞄を下ろし、コートを脱ぎ始めても、起きる気配はない。
ネクタイを緩めながら歩み寄り、高耶は直江の目の前にしゃがみ込んだ。

知り合った頃より増えた皺の数は、二人がともに歩いてきた年月の証だった。
それでも相変わらず端正で、かえって渋みを増して小憎らしいほど男前度の上がっている顔を、高耶は改めて見つめる。

ただただ深く眠っているようで、表情はない。
いや、ないわけではないのかもしれない。
よく見れば、不思議な表情をしている。
静かに悲しんでいるようにも見えるし、何か大きな幸せを噛み締めているようにも見える。

一体どんな夢を見ているのだろう。

高耶がそんなことを思った時だ。
前触れもなく、直江の目尻に透明な涙が浮かんだかと思うと、すうっと流星のような速さで頬を流れ落ちたのである。

高耶は目を見開いた。
急に胸を締め付けられる想いがした。
まるで、自分が悪い夢でも見たかのように動悸が激しくなる。

「直江、直江っ」

たまらなくなって、直江を揺さぶった。

「高耶さん…?」

目を開けた直江は、まだどこか夢の世界を引きずっているように、瞳の奥を揺らせている。

「直江、大丈夫か?」

「高耶さん…。高耶さん、なんですか? 本当に、高耶さんなんですか?」

どういうわけか、今度は高耶が揺さぶられた。

「何言ってるんだ、おまえ」

「高耶さんが…高耶さんが…いる」

言うなり、直江は高耶を腕の中に抱きすくめた。

「ああいるよ。当たり前だろ。どうしたんだ、何、悪い夢みたんだよ?」

「…途方もなく長い夢をみていました」

半ば縋りつくような形でひとしきり高耶を抱きしめた後、直江はぽつりぽつりと語り出した。

「闇戦国は…、信長との最終決戦は…、私たちを遥か遠い場所へと追いやったんです」

とっくに終わったことを、と一笑に付すには、直江の顔が真剣すぎた。

「あなたは…仰木高耶は、魂核の寿命をどうすることもできぬまま、私の腕の中で…果てました」

たった今経験してきたことのように、青ざめて直江は語る。

「あなたの身体は朽ちて桜の木になりました。私は、萎縮してしまったあなたの魂をこの身体の中に入れて、独り、旅をしていくんです。いつ粉々に砕け散ってしまうともしれないあなたを胸に抱えながら」

「直江、オレは――」

「春になって、あなたの桜を見に行くと、綺麗な薄紅色の花を無数に咲かせていました。その美しさに圧倒されて立ち尽くす私のもとに、小さな花びらが舞い降りてきて…手の平でそっとそれを受け止めた瞬間、唐突にあなたがいないことを痛感し、途方もなく、悲しくなったんです」

夢にしては長すぎる話を、直江はまだ濡れたままの瞳で語った。
高耶はソファーの背もたれにかけていたコートのポケットから、ひとひらの花びらを取り出した。

「外はもう春だ」

宥めるように穏やかに言って、高耶は直江の手を取り、その花びらをそっと乗せてやった。

「花は咲き、世界は動いてる。オレもここにいる」

「この世界の方が夢だったら…?」

直江はどこか必死だった。

「あなたの魂を胸に抱き、私はあなたとひとつになりました。それは穏やかで果てしなく優しい感覚でした。けれどふと思ったんです。私の中にいるあなたは本当のあなたなのかと。もしかしたら、私の妄想が創り出したあなたなのではないかと…」

真偽を見定めようとするように、直江は高耶の瞳の奥を覗き込んでくる。

「今目の前にいるあなたが、夢の中のあなただとしたら…。私が創り出した妄想だとしたら…。目が覚めたら、私はまた独りの世界に戻っていくのだとしたら…」

「直江っ」

高耶は叱るように強くその名を呼ぶと、緩めていたネクタイをするすると解き、床の上へと投げ捨てた。
そうして上着を脱ぎ、シャツも脱いだ。
目の前で上半身裸になっていく高耶を、直江は呆気に取られて見つめている。

「オレは、ここにいるだろ?」

直江の手を取り、自分の心臓の上に乗せた。

「動いてるだろ? ちゃんと、生きてるだろ?」

「高耶…さん」

大きな手の平が、じっと脈打つ鼓動を確かめている。
まるで母親の子守歌に聴き入る子供のように、直江はやがて落ち着きを取り戻した。
高耶は柔らかい蕾が綻ぶようにふわりと破顔した。

「おまえ、もう少しマシな夢見ろよな。今度夢ん中でオレのこと殺したら許さねえぞ」

直江は苦笑すると、テーブルの上に置いてあった照明のリモコンを取り、部屋の灯りを落とした。
そうして、自分もシャツを脱ぎ、今度は肌と肌を触れ合わせて、闇の中でやんわりと高耶を抱き寄せた。
今夜はやけに暖かく、裸でいてもさほど寒さを感じない。

「本当に、夢とは思えないくらい、リアルな夢だったんですよ」

「いくらリアルでも、ただの夢だろ?」

高耶はそう嘯くと屈託なく笑った。
窓から入る月明かりがフローリングの上に歪な長方形を浮かび上がらせている。

「なあ、明日は橘不動産の定休日だろ?」

「ええ」

「オレも代休もらったんだ」

就職してからがむしゃらに働き通しだった高耶が初めて休暇取得したことに、直江は驚いたのか、目を丸くしている。

「花見でもしないか?」

「…いいですね」

「これ、マンションの入り口に飛んできたんだ」

高耶は直江の手の上にある花びらを指先でいじりながら呟いた。

「この辺に桜の木なんてあったっけ?」

「ありますよ」

と、直江はさも当然のことのように言う。

「川沿いがちょっとした桜並木になっているんです。ちょうど昨日今日が満開ってところですね。今日は少し風がありましたから、だいぶ散ってしまったかもしれませんが」

桜の枝が風にしなり、無数の花びらが一斉に闇の中へと飛び立つイメージが高耶の中に湧き起こった。

「知らなかったんですか。ベランダからも見えるのに」

「え、マジ?」

「ここは高層階なので、近くから見るような迫力はないですけど。それでも、綺麗ですよ。桜が咲いているだけで、どんな景色も幻想的に見えるから不思議ですね。…高耶さん?」

闇の中に浮かび上がる薄紅色。
どことなく蠱惑的なその情景に誘われるように高耶が腰を浮かせかけた途端、直江の力強い腕に引き戻された。

「今はどこにも行かないで」

「直江っ…」

「あなたは、桜の花びらのようだから、こうして抱き締めていないと不安なんですよ」

「……」

「ひらひら、ひらひらと。不確かな春の闇の中へと消えていってしまいそうで」

「…馬鹿だな」

高耶は少しだけ悲しそうに微笑すると、直江の首に腕を回した。

「あなたを、確かめさせて」

そう囁いて、ソファーの上で覆い被さってくる直江の熱い口づけを全身に受けながら、高耶は心の中で密かに語りかけた。
好きなだけ確かめてくれ、と。

おまえの中のオレが、消えてしまわないように。
この世界のオレが、消えてしまわないように。

そうだ。確かめさせてくれ、直江。オレにも。

オレは今も、おまえの中で生きているんだと――。








●あとがき●
イラストはだいぶ前に描いたものです。白状しますと、去年のクリスマスに、数日間限定でトップに貼り付けようかと目論んでいました。描いた当初のテーマは「高耶さんの笑顔」。微笑ではなく、思いっきり楽しそうに笑う高耶さん。そういう表情の高耶さんって、なかなか見ないと思いませんか? よく見る高耶さんのイラストって、いつも、ガンを飛ばしているか、苦痛に耐えているか、怒っているか、切なそうな顔をしているか、闘志を漲らせているか…のどれかのような気がしまして。辛うじて微笑まではあるかな。でも、思いきり、楽しそうに笑っている高耶さんって、あまり見ないですよね? ふとそんなことを思い、ここは高耶さんに存分に笑ってもらおうと、描いてみたのがコレです。まあ、玉砕した感がありますが…。
クリスマスは結局別のイラストをトップに置いたので、こちらはお蔵入りに。その後、バレンタインデーにバレンタインデー用の小話をつけてアップしようとしていたのですが、間に合わず、断念。そうしてこの度、桜がらみの小話をつけてようやくアップと相成ったわけです。小話の設定は、「折り鶴のねがい」の設定を意識しています。





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