四万十・宇和島・宿毛チャリツアー

〜仰木隊長も駆けた激戦区を巡る

中 編




◆旅行日:2014年5月18日〜5月20日

◆行程:
※下線はミラージュスポット(一部推定含む)
※グレー文字は前編/後編にて

◇5月18日:
成田空港→(ジェットスターGK401)→松山空港→(空港リムジンバス)→松山市駅前→(宇和島バス)→宇和島駅前→(徒歩)→とみや(昼食)→(徒歩)→宇和島市観光協会→(レンタサイクル)→宇和島城→(レンタサイクル)→天赦園→(レンタサイクル)→宇和島駅→(JR予土線)→江川崎駅→(徒歩)→ホテル星羅四万十(宿泊)


◇5月19日:
ホテル星羅四万十→(徒歩)→四万十 川の駅 カヌー館→(レンタサイクル)→岩間、口屋内、勝間、高瀬、三里、佐田の各沈下橋→(レンタサイクル)→中村城址・為松公園・四万十市立郷土資料館→(レンタサイクル)→一條神社→(レンタサイクル)→四万十市観光協会→(徒歩)→ホテルココモ(チェックイン)→(徒歩)→物産館サンリバー四万十→(徒歩)→味劇場ちか(夕食)→(徒歩)→ホテルココモ(宿泊)


◇5月20日:
ホテルココモ→(徒歩)→中村駅→(土佐くろしお鉄道)→宿毛駅・駅内観光協会→(レンタサイクル)→宿毛市営野球場→(レンタサイクル)→片島港→(レンタサイクル)→咸陽島公園→(レンタサイクル)→国民宿舎 椰子→(レンタサイクル)→道の駅 すくもサニーサイドパーク(昼食)→(レンタサイクル)→宿毛駅前→(宇和島バス)→宇和島バスセンター→(宇和島バス)→道後→(徒歩)→道後温泉本館→(徒歩)→道後温泉駅前→(空港リムジンバス)→松山空港→(ジェットスターGK404)→成田空港

◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。表示されるまで時間がかかる場合があります。また、不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




四万十で迎えた旅の二日目。


早朝5時前に起床。折角四万十に来ているというのに、おちおち寝てはいられないのです(笑)。


ベランダに出てみると、四万十の山々には見事に靄が立ち込めていました。これはこれでいい雰囲気。
この日は、一日かけて中村までサイクリングの予定なので、天気が悪いと大変な目に遭いますが、予報によれば、お昼くらいからは晴れだすようなので、それほど心配はありません。
朝靄に煙る四万十の山々は、幽玄な趣き。墨絵のよう。
靄は刻々と変化して、やがて龍のような形に。


氏康パパ?
昨夜と同じレストランで、7時30分から朝食。


龍がまだ居ますね。
素朴ですが、一品一品が美味しく、残さず食べました。

ご飯もお味噌も梅干も、すべて四万十の地域で作られたものだそうです。

干物の鯖は…足摺の清水鯖、かもしれませんね。
カヌー館でレンタサイクル(四万十りんりんサイクル)を利用する旨を告げたら、フロントで割引券をくれました(レンタサイクルは電話で事前予約済みですが、使用できました)。


8時間半借りて、乗り捨てで、1台1,000円とはありがたいです。
8時20分頃、ホテルを出発。


昨日上って来た坂を下りて、西土佐大橋を渡らず真っ直ぐに進みます。
橋のすぐ傍で、テントを片付けている人がいます。


四万十川の川岸でキャンプなんていいですね。
ホテルから10分足らずで「カヌー館」に到着。


カヌー館は、川遊びの拠点となるお店で、カヌー、ラフティング、屋形船等、様々なアクティビティを取り扱っています。
中はログハウス的な雰囲気。

近くには本当のログハウスもあり、宿泊ができるようです。

ここは食堂のようですが、時間が早いため、誰もいません。
手続をして、無事チャリを2台借りました。

26インチのマウンテンバイクです。

カゴは無いため、荷台に紐で括り付けます(紐は持参)。

乗降の際、ママチャリみたいに脚を前から通すことができず、後ろ側から通すのですが、後ろには荷台にでかいリュックがあるため、(短い脚を)かなり高く上げないと乗り降りできないという…。若干の不便はありますが、概ね乗りやすい自転車です。
靴をマリンシューズに履き替え、リュックを荷台に括り付け、ウェストポーチをして、カメラを首から提げ、いざ出発。

時刻は8時55分。

先ずは、来た道を少し戻り、昨日渡ってきた西土佐大橋を渡ります。

それでは、本日の目的地・中村までの地図を見てみましょう。

江川崎にあるカヌー館を出発し、ほぼ四万十川沿いに国道441号線と高知県道340号線を南下して中村へと向かいます。

ゴールは、中村駅より少し南にある四万十市観光協会。17時までに自転車を返却すればいいので、時間はたっぷり8時間。

中村までの間にある6つの沈下橋を休憩ポイントとし、川遊びができそうなところを見つけて川に入る予定。

行程は約40km。標準時間は色々調べてみますと、約4時間と書いてあるものもありますが、途中で沈下橋に立ち寄ったり川遊びをしたりでプラス2時間、中村城跡に立ち寄ってプラス1時間としても、まだ1時間余裕があるので、大丈夫でしょう。

上流→下流の方向へ移動するため、道は基本的には緩やかな下り坂。体力的にも問題ないでしょう。
 
ミラージュツアーとしては、実はあまりチェックポイントがありません。「口屋内」はお馴染みですが、舞台となった建物等はありませんので、雰囲気だけ楽しみます。「鍋が森」は名前だけ出てきました。見所としては、「中村城跡」周辺のみになります。


橋の上から江川崎の方を向いて。

東岸の高台の上に星羅四万十が見えます。

朝靄が山の上にまだ少し残っていますね。

もうすっかり見慣れた感じのする合流地点の街に別れを告げ、一路南へ。
しばらくは四万十川を左手に見ながら南下していきます。


この時点で、天気はうす曇り。
川が大きく湾曲したところで振り向くと、西土佐大橋と、鷹の巣山らしき山が見えました。


思い出深い鷹の巣もそろそろ見納めですね。
カヌー館から約20分、「橘大橋」を通過。


この橋を渡ってしまうと、山中のトンネルを通る441号のバイパスに入ってしまうので、渡らず真っ直ぐ行きます。
蛇行する四万十川沿いから少し離れ、道は集落の中を通ります。


雄大な大自然の中を流れる四万十川ではありますが、流域にはこうした小さい集落が所々にあるようです。
出発から25分ほど。「津大橋」が見えてきました。


国道441号は、この津大橋を通り、四万十川の東岸沿いへと移動します。
来た方向を振り返って。
私たちも津大橋を渡ります。
橋の上からは、四万十川の支流のひとつ、目黒川が合流する地点を見下ろすことができます。


四万十の支流を旅するのも惹かれますね。
津大橋を渡って少し先に「網代休憩所」があります。


川沿いはこうした休憩所(トイレ)が所々にあるので、大変ありがたいです。
津大橋以降は、中村までずっと、四万十川を右手に見る形になります。


程よい下り坂で自転車が加速すると、あまりの気持ちよさに「ヒャッホー!」と叫びたくなります(実際叫んだ/笑)。
四万十川沿いの道を走っていますが、ずっと四万十川が見えているわけではなく、時には道が川から少し離れたり、時には木々が遮って視界が悪くなったりします。

そんな中、ちらっと視界が開け、川面が見えると、即絶景です。

緑の水面が緑の山を映して、更に濃い緑になっています。
四万十川流域を自転車で走っていて気付くのは、栗の木がとても多いということ。

四万十地域が栗の名産地だということは聞いていましたが、実際に来てみて納得。こうして川沿いにちらほらと生えているのは自生の栗でしょうか。

しかし、昔と比べると、栗の出荷量は激減しているそうで、四万十町などでは、栗再生プロジェクトなるものを推進して、栗の生産を増やし、栗を使ったスイーツの開発などを行っているようです。そう言えば、高知市内のお土産屋さん等でも四万十の栗を使ったお菓子をよく見かけます。
川が見えませんが、右の方に迫る山々の裾を流れています。


道路こそ通っているものの、他に何も無い、自然の風景が広がっています。
いや、おじいちゃんおばあちゃんがいました。


秘境感漂っていますが、ちゃんと人の暮らしがあるんですね。


四万十川と国道の間には畑があり、その畑を耕しに来たようです。
人がいるということは、集落が近いということ。集落が近いということは、沈下橋も近いということ。


というわけで、やっと最初の沈下橋「岩間沈下橋」の表示が見えてきました。
国道から沈下橋へと下りる道があります。
こちらが岩間沈下橋。


おっと向こうから車がやってきます。


沈下橋と言うと、観光スポットとして脚光を浴びていますが、地元の方々にとっては、正に生活の一部なのでしょう。意外と頻繁に車の行き来があります。
自転車を沈下橋の手前に停め、橋の上へとやって来ました。


こちらは、下流方向。
折角、欄干のない沈下橋なので、足を投げ出して座ってみましたよ。


うほう、川が近い。
渡りきったところで、橋を振り返って。


山間を流れる四万十川、四万十川に架かる沈下橋、沈下橋の先にある集落。


雄大な自然と人々の暮らしが美しく融合した風景です。
昭和41年に建設されたこの岩間沈下橋は、四万十川の沈下橋の代表的存在です。

色々なところで紹介されているので、このH型の橋脚に見覚えがある人も多いのではないでしょうか。

車で来たらしい観光客っぽい方もちらほら。
岩間沈下橋の見学は15分程度で切り上げ、先を急ぎます。


写真は、岩間沈下橋近くの集落の様子。石垣が見事です。
岩間沈下橋を過ぎると間もなく、四万十川はU字型のカーブに差しかかります。


このカーブで振り返った岩間沈下橋がまた絶景だったりします。
このアングルで撮った写真もよく見かけますね。


こちらは、望遠で撮っていますが、実際にこのU字カーブから見た景色はこんな感じ↓

 
なんか…もう、魂が吸い込まれそうです。こういう場所が、本当に日本にあったんだなあと、改めて感動を覚えます。恐るべし高知県。
「日本最後の清流」として名高い四万十川ですが、実は水の透明度から言うと、さほど優れているわけではないようです(もちろんきれいはきれいですが、同じ高知県では仁淀川の方が「仁淀ブルー」などと言われ、持てはやされているようです)。四万十川の価値は、水質のみにあるわけではなく、自然と人間の暮らしの共存という点にあるのだそうです。大昔から続く雄大な自然が損なわれることなく、人々の暮らしがそこに根付いているということですね。今見た沈下橋や集落しかり、アユ・ウナギ・ゴリ・テナガエビなどの伝統漁や青海苔の養殖しかり。更に言えば、流域の農業や林業もそうでしょう。自然を大切にしながら、その恩恵を受けるという昔ながらの生活が今も続いているということ、それが四万十川という大河の最大の魅力なのかな、と思います。

下流の方を見て。


どこを切り取っても絵になりますね。
道端に咲いていた花。


蘭の種類でしょうか。国道とは言え、山の中を走っているようなものなので、街中ではあまり見かけないような花も咲いています。
岩間沈下橋の少し先にある「かよう大橋」(※渡りません)。

この橋のすぐ近くに四万十りんりんサイクルのターミナルのひとつ「四万十楽舎」があります。

ここもカヌー館と同様に色々なアクティビティを扱っているようです。特徴的なのは、廃校になった校舎を利用していること。校長室とか保健室に宿泊できるそうですよ。
引き続き、441号を南下します。


四万十川との間に田んぼが広がることも。
かと思えば、川に近寄って、小さな合流点を見つけたり。


こういう些細な流れが集まって四万十川が形成されているんですね。
今度は山裾ぎりぎりの道。
ふとした時に、木々が途切れ、ちょっとした絶景が拝めたりします。
山側には、こんな古いお社が建っていたり。
少しでも平坦な土地があると、ちゃんと農地になっています。


こちらは、フキ畑。
山に囲まれた土地ですが、ちゃんと人が暮らしているので、そこかしこに送電線を渡す鉄塔が見られます。


しかし、これ見ると、どうしても霊波塔に見えてしまうんですよね…。激戦区の霊波塔…。あれは、伊達方のでしょうか、赤鯨衆のでしょうか。
岩間沈下橋から約50分、10時54分に口屋内に到着。

写真は、口屋内沈下橋のすぐ近くにある「お茶堂」。自由に使える休憩所のようです。

何か見覚えあるなと思ったら、テレビ東京の土曜スペシャル「源流点を目指す旅」シリーズで、照英さんたちがここで休憩していました。
この「お茶堂」から下を見ると、沈下橋へと降りていく坂道と、右手の方に沈下橋が見えます。


それと、ここはちょうど黒尊川との合流地点。対岸の方に流れ込んでくる黒尊川がよく見えます。
こじんまりとした民宿の脇から、下へ降りる道が続いています。


こちらが口屋内沈下橋。部分的に白くなっていますが、2011年の台風で大部分が流されたとのことですので、新しい部分と古い部分が混在しているのかと思われます。

ミラージュの中では、口屋内も伊達対赤鯨衆の激しい攻防が繰り広げられた場所でした。前述の鷹の巣と内容が多少かぶりますが、作中に口屋内が登場してきた場所をおさらいしてみたいと思います。

●最初の登場は23巻。裂命星を足摺に運び終えた後のこと。黒尊川アジトに敵襲があり、砦がひとつ奪われたとの報告が入り、嶺次郎の指示によって、高耶さん率いる遊撃隊が口屋内に派遣されたのでした(23巻117ページ)。奪われた砦は奪還しましたが、高耶さんはこの戦で敵が伊達の武器を使っていることに気づくのでした。

●その後、高耶さんは前線の鷹の巣へと派遣され、勝利を収めて、軍団長昇格の知らせが入ります。しかしその直後、上杉であることが発覚し、足摺に呼び戻され監禁されるわけですが、ちょうどその頃、高耶さんを追って赤鯨衆に入隊したばかりの直江が永吉に呼ばれてやってきたのが、この口屋内でした。
<直江は数日を日吉で過ごした後、永吉に呼ばれ、宮本の車で口屋内のアジトへ移動することになった。四万十では最も大きなアジトだということで、作戦本部が置かれるのもそこだという。願ってもない。直江が口屋内に着いたのは、高耶が足摺に向かった二日後のことだった>(24巻『怨讐の門 赤空編』52ページ)
「日吉」というのは、江川崎より北の、愛媛県側にこの地名があるようですので、その辺りのことかと思われます。口屋内のアジトは四万十で最も大きなアジトとのことですが、そうとは思えないくらい実際の口屋内はのどかなところです。ただ、集落や民宿、学校などもあるようですし、黒尊川との合流地点であるということを考慮すると、(黒尊川方面にアジトや砦があるようですので)口屋内が重要な拠点になるのは納得です。

●直江はその後すぐに鷹の巣へと移りましたが、そこで高耶さんが監禁されていることを知り、足摺へと向かおうとしたところで永吉に捕らえられ、再び口屋内へと送り返されたのでした。
<永吉に捕らえられ霊枷を施された直江はその後、拘置施設の整う口屋内へと送り返され、数々の手荒な尋問を受けたが、恐らくは不利な事態に置かれているであろう高耶の身を案じ、黙秘を続けていた>(24巻『怨讐の門 赤空編』99ページ)
上杉であることが既に露見しているとわかった直江が、高耶さんの身の潔白を証明するために一計を練り、上杉景虎を処刑するよう依頼する…なんてシーンもありましたね。

●次に口屋内が作中に出てきたのは、25巻でのこと。監禁状態から救出された高耶さんが、自らの意思で赤鯨衆とともに戦う決意をした時、口屋内が攻め込まれ、陥落したとの知らせが舞い込んできたのでした(25巻36ページ)。

●口屋内が陥落した後、中下流域の前線が一気に中村手前まで後退したところで、戦闘は一旦、上流の窪川へと移ります。25巻から26巻にかけて、窪川を守り、大正砦を奇襲で落とした後、一条方の寝返りも効いて赤鯨衆が一気に盛り返し、四万十下流にいた伊達本隊も一気に江川崎まで後退しました(25巻108ページ〜)。口屋内については書かれていませんが、この時、赤鯨衆が奪還したものと思われます。

大よそ、以上のようなところかと。思ったより、登場箇所は多くなかったですね。こうして見てみると、鷹の巣と同様に攻防の最前線といったところでしょうか。後は、直江が監禁された場所だったくらい…。ううん、暗いイメージだな。

因みに、この口屋内は一大アジトだとのことですが、どこをそのアジトとしていたのかなと考えるに、恐らくは学校ではないかと。他に大きめの建物は無さそうですので。この写真で、沈下橋の先に白っぽい建物が見えますが、それがその学校です。

左の方には、黒尊川が奥から流れて来ているのが見えます。黒尊川アジトは、この先、黒尊川の上流の方にあったのでしょう。高耶さんもそこにあった砦を奪還しに行っています。
上流の方を向いて。


相変わらず山と川しか見えない…。
と思ったら、目の前を大きな鳥が滑空していきました。


おお、鷹だ! と思ったのですが、鳶かもしれません。
↑の写真を撮っているオレ。


沈下橋の楽しみ方は様々です。先ずは、眺める。そして、座る。更に上級者は、飛び込む…。さすがに、私はそこまではしていませんが。
沈下橋を渡り、対岸の方までやって来ました。

学校の建物が見えます。直江が監禁されていたのもあの学校かな…。

西の空が晴れてきましたね。
対岸から来た方を望んで。


口屋内は、四万十で最も大きなアジトだそうですが、本当に小さな集落しかありません。
橋を戻り、最後にもう一度振り返って。
口屋内沈下橋の見学時間は20分ほど。


11時17分、細い坂道を上って、国道に戻ります。
口屋内沈下橋を過ぎてすぐ、「しゃえんじり」という農家レストランがあります。

四万十の食材を使った郷土料理がバイキング形式で頂けるそうで、お昼はここで食べたいな〜と考えていたのですが、この時、二人ともまったくお腹が空いておらず…。宿の朝食が充実してたからね…。結局食べずに、そのまま進むことに。

因みに、この「しゃえんじり」も、りんりんサイクルのターミナルだそうです。
口屋内から十数分、道はまた四万十川から少し離れます。


四万十市街まで21kmの表示が。江川崎から中村までの、大よそ半分ほどを消化したことになります。
視界が開けてきました。


前方には山が連なり、四万十川はその山の麓に沿ってカーブしています。
そのカーブ地点に、また絶好の撮影ポイントがあります。


国道の右側にせり出した、木がこんもりと生えているところがそれ。撮影スポットとして、ちゃんと整備してあります。
更に、人に頼まなくても記念写真が撮れるよう、「撮っちょ木」なる三脚的なものまで設置してある親切さ。


そう言えば、ここも何かのテレビ番組で出てたな…。
肝心な眺めの方は、こんな感じ。


晴れてくると、またいいですね。色彩が一気に明るくなります。


多少不自然ですが、2枚繋げてみました。写真などではよく見ますが、自分が実際にこういう景色の中に立つと、えも言われぬ気持ちになります。自分の存在が少しずつ溶け出して、目の前の圧倒的な自然の中に吸い取られていくような…。ミラージュの中では、激戦区だった四万十ですが、こんな景色を前にしたら、おいらなら戦意喪失するな、きっと(笑)。

「撮っちょ木」の撮影スポットを出てすぐ、U字カーブの先に、三つ目の沈下橋「勝間沈下橋」があります。
勝間沈下橋の方を望遠で。


山裾の木と一体になってわかりにくいですね…。
口屋内沈下橋を出て50分、12時7分に勝間沈下橋に到着。
勝間沈下橋は、三本足の橋脚です。
沈下橋手前には広い川原があります。
天気も良くなってきたことですし、川原に自転車を停めて、少し川遊びをすることに。
いよいよ四万十川に触れますよ。


少し見上げるアングルでの沈下橋も素敵です。
靴はマリンシューズに履き替え済みなので、そのまま川に突入。


水は、初めは少しだけ冷たく感じますが、慣れてくれば大丈夫。
浅瀬には何かの稚魚らしき魚がうようよいます。


何の稚魚でしょうね。
こちらは、四万十名物のゴリ?でしょうか。
川岸には小さなボートが停まっています。観光用っぽい感じはしないので、漁師さんのかもしれませんね。
周りを見回していると、足元にツンツンするものが。

何と、さっきの小魚たちに狙われていました(笑)。

え? 角質を食べられてる? あっという間に天然のドクターフィッシュ状態。
一旦、カメラを防水カメラに取り替えまして…水中撮影。


ゴリらしき魚がいますね。
人食い魚(笑)は、好奇心旺盛らしく、カメラが潜っても逃げません。


川の中はきれいなエメラルドグリーン。透明度はそこそこですかね。
遊び心で、下から見上げるアングルで撮ってみたら、空飛ぶ魚が撮れました。


ピントが甘いのが悔やまれますが、意外とこの旅のベストショットかもしれない…。「空飛ぶ魚 in 四万十川」。
40分弱、たっぷり遊んで、再び中村を目指します。

勝間沈下橋を出たのは、12時45分。

本当はもっと遊んでいたかったんですけど、お昼を食べていない割には、スケジュールが少し押し気味なので。
勝間沈下橋を出てすぐ、四万十川の向こう、南西の方角に「鍋が森」という山が見えるはずですが…、どれだかよくわかりませんでした。写真は一応、鍋が森の方向?かと(勝間沈下橋付近からは手前の山が邪魔をして見えないようです)。

「鍋が森」は、25巻で口屋内が陥落した後、赤鯨衆の防衛ラインとなった場所です。

<高耶が「現着」したときには、口屋内はすでに完全に伊達霊域にとりこまれていた。撤退した赤鯨衆は三キロほど下流の鍋が森にやむなく防衛拠点を据えた>(25巻『怨讐の門 白雷編』40ページ)

<直江たちが鍋ヶ森のアジトに到着したとき、すでに高耶は出発した後だった>(25巻『怨讐の門 白雷編』48ページ)
高耶さんは、鍋が森に着いた後すぐに、捕虜救出のため、松野にある伊達の兵器工場へと向かったのでした。嶺次郎に正式に入隊を許可された直江も高耶さんを追い、鍋が森から松野へと向かっています。


国道は四万十川から少し離れ、のどかな景色の中を進みます。
四万十市街まで15.1kmの表示。

「四万十市街」というのは、中村の市街地のことです。

余談ですが、中村はかつて「中村市」でしたが、2005年に西土佐村と合併して「四万十市」になっています。四万十川の流域で言うと、江川崎の少し上流までは四万十市、その先は「四万十町」となります。この四万十町は2006年に窪川、大正、十和が合併してできた町。ですので、ミラージュ四国編発行当時は、四万十市も四万十町も存在していませんでした。
途中、小さなトンネルを抜けると、また四万十川のそばに出ました。

屋形船がゆっくりと上流に向かって進んでいくのが見えます。
その後すぐに、川遊び拠点の「かわらっこ」を通過。


ここも「りんりんサイクル」のターミナルのひとつです。
少し行くと、「なっとく」というお店の屋形船乗り場がありました。

さっきの屋形船はここから出たものかもしれません。

ミラージュにも屋形船でウフフのシーン(笑)がありましたが、あれはもう少し下流ですね。
時刻は13時6分。四つ目の沈下橋「高瀬沈下橋」に到着。

勝間沈下橋以降は、沈下橋の間の距離が比較的短くなります。勝間沈下橋からこの高瀬沈下橋までは約20分。
高瀬沈下橋の見学は5分程度で切り上げ、先を急ぎます。
高瀬沈下橋を過ぎ、「川登」という地区で、四万十川沿岸の道は、国道441号から高知県道340号へとバトンタッチ。


441号は、中村へ行くには近道ですが、蛇行する四万十川を避け、山中を通るので、そちらには行きません。
「川登大橋」を振り返って。


下流に来るに従って、少しずつ川幅が広がってきているように感じます。
道がまた川から少し離れると、田植え直後の水田が広がっていました。
「四万十の碧」という屋形船やさん。


このあたりになると中村からもだいぶ近くなっているので、観光客も多いようです。バスツアーでしょうかね。
13時36分、五つ目の沈下橋「三里(みさと)沈下橋」に到着。


傍の電柱に、平成17年9月の台風による洪水のラインが記されていました。ここまで来る途中にも集落の中に過去の浸水ラインが表示してあったのを見ました。豊かな四万十も恩恵ばかり与えてくれるわけではないということですね。川沿いの集落は、大雨の度に避難したりするんでしょうか。
人が渡っている沈下橋というのもいいですね。観光に来たおねえさん方のようです。


三里沈下橋も5分程度で切り上げます。
三里沈下橋を出てすぐ、採石場のような場所が。
道路を跨ぐベルトコンベアに、「もうすぐ中村」の文字を見て、中村が近づいてきたことを実感。


残る沈下橋はあとひとつ。
13時54分、最後の沈下橋「佐田沈下橋」に到着。


中村から一番近いだけあって、大きな駐車場に観光バスが停まっています。
降りていくと、観光客もそこそこ。


屋形船やさんの幟が立っているなあと思ったら…
橋のすぐ下に、屋形船が停まっていました。折角ですから、ここで例の屋形船のシーンを振り返ってみたいと思います。

<宴会で賑やかな中村城を抜け出して、高耶は密かに直江を呼びだし、四万十川岸に降りてきていた。(略) 人目を避けて、屋形船乗り場の桟橋に降りてきた>(26巻『怨讐の門 黒陽編』122ページ)

<「のしあがってこいと言ったはずだ。直江」 直江は目を見開いて呆然となった。「何をもたもたしてる。オレをいつまでも待たせるな!」 (高耶さん……) 言うと突き放すようにきびすを返す。不意に理不尽な思いが直江の体を駆けめぐり、思わず追いすがって、高耶の二の腕を掴み振り返らせた。驚く高耶を無視して、桟橋まで引きずっていき、力任せに係留してある屋形船の中に突き飛ばす。「! ……なにをッ」 直江は自らも乗り込んで、係留ロープを切ると、船を思いきり川の流れの中へ押し込んだ>(26巻『怨讐の門 黒陽編』125ページ)
まるで生き急ぐように事を進めていく高耶さんに直江が苛立ちをぶつけると、高耶さんはこう言ったのでした。「終わりを見つめて生きていたら、終わりまでしか生きられない。そう思わないか」と。高耶さんの中で、もう迷いは無くなったのでしょうね…。

ところでこのシーン、軍議があった中村城を抜け出して、屋形船乗り場にやってきたとのことですから、中村城から近い場所と考えるのが普通でしょう。

中村城の近くで屋形船乗り場ってあるのかな…と調べたところ、以前「船辰」という業者があったようなのですが、現在休業(廃業?)している模様です。写真は、中村城付近とは、周辺の景色が違いますが、イメージということで。
あの後、屋形船でどこまで行ったんだろうとか、船上でやっぱり色んなコトをしたのかなとか(笑)、どうしても下世話な妄想に走ってしまいがちですが、その後の回想シーンを読むと、大方の(?)ファンの予想を裏切り、高耶さんが自分の本当の心と向き合い、自分が換生してきたのは、他でもない直江がいたからなのだと悟り、言葉少なに直江にそれを告げようとする、実にピュアな展開だったことがわかります。

<夜を渡る舟の中で、高耶は素顔を惜しみなくさらけ出していた。その微笑に、直江は小さな菩薩を見た。覚えのある微笑は――かつて聖母が浮かべた、あの微笑だったと気づいたとき、直江は胸の痛みを抑えることができなかった>
(26巻『怨讐の門 黒陽編』155ページ)

思いの外、真摯な会話が交わされていた屋形船のシーンですが、それでもその後は直江がちゃっかり手を出したに違いない…などと邪推する私はやはり腐り果てているのかもしれません。
さて、佐田沈下橋ですね…。こちらの沈下橋は、車がすれ違えるよう、橋の真ん中辺りの幅が少し広くなっていました(でもこんなところですれ違うの怖そう…)。


ここまで来ると、川幅もだいぶ広くなり、山が遠のいている感があります。中流域の雰囲気とはかなり違いますね。
最後の沈下橋ですので、自分が乗ってきた自転車を橋の上で記念撮影。
橋の上から川を見下ろして。


この写真、原寸では、川の中にゴリらしき魚がうじゃうじゃいるのが確認できます。
佐田沈下橋は青い二本足の橋脚。
10分ほど見学して、最後の沈下橋を出発。


いよいよ中村へ向けてラストスパートです。
佐田沈下橋に程近い「佐田休憩所」。
ここにはちょっとした展望スペースがあって、広くなった四万十川を見下ろせます。


山もますます遠のき、河口に近づいていることがうかがえます。
中村までしばらく山中の細い下り道が続きます。


結構スピードがでます。因みに、私は自転車に乗りながら撮影しているわけですが、スピードがでている時は、ファインダーはのぞかず、適当にシャッターを切っています。
中村の市街地にだいぶ近づいてきた頃、道路右側にぽっかりと空き地が現れ、古い屋形船が置き去りにされていました。

位置的には、「船辰」という屋形船の業者があった辺りのはず。よく見ると、雑草が生えていますが、川原の方へ降りられそうな気もします(降りませんでしたが)。もしかして、廃業した船辰の屋形船でしょうか。だとしたら、高耶さんと直江が乗った屋形船って、この屋形船じゃ…。

思わずドキドキしながら写真を撮ってしまいました。
屋形船が放置されていた場所のすぐ先が中村城です(写真前方の山中)。

山の名前としては「古城山」というらしいですね。

山の上に見える建物は旅館の建物かと思います。赤鯨衆のアジトになっていた資料館の建物はここからは見えません。
県道340号と別れ、四万十川の堤防の上へ上ってみます。
中村での四万十川は、もうすっかり河口近くの雰囲気です。

具体的な場所は特定できないのですが、中村のどこかの「河原」で潮と高耶さんの一幕がありました。

<潮は、あれからひとり河原に佇んでいた。会談が終わった気配を知っても戻らなかった。誰とも口をきいていない。高耶が潮を見つけて、土手をおりてきた>(26巻『怨讐の門 黒陽編』216ページ)

九州から駆けつけた清正と赤鯨衆の会談で、高耶さんが上杉景虎であることをとうとう知ってしまった潮は、ショックの余りその場を抜け出し、河原にやってきていたのでした。
この会談が行われた場所は、「四万十川沿いの小さな料亭」(26巻199ページ)とのことなのですが、ネットで色々調べてみても当てはまりそうなお店を見つけることができませんでした。なので、その料亭の近くだろうと思われる潮が佇んでいた河原も場所は特定できません。

潮は怒りに任せて高耶さんを殴りつけようとしますが、結局殴れなかったんですよね。最後に「また……温泉掘りに行こうな」と言った潮の一言が胸に沁みます。潮自身も結局は初生人ではなかったわけですが、潮にとってだけでなく、高耶さんにとっても、お互い、赤鯨衆の中では同じ「現代人」として向き合える唯一の相手だったんだろうなと思います。

前方に、中村のシンボル、赤鉄橋が見えてきました。
川と反対側には中村城のある古城山。


あの山の上まで行くわけですが…、ちょっと遠回りしないと行けないようです。
赤い鉄橋が、緑の芝生に映えますね。
時刻は、14時51分。赤鉄橋のもとまでやってきました。この赤鉄橋、正式名称は「四万十川橋」というようです。

カヌー館から赤鉄橋まで、途中遊んだりはしましたが、6時間ほどかかったことになります。

残り2時間で、中村の街を回ります。では、市街地の地図を見てみましょう。


<町のほぼ中心部にある、中村城跡は今は為松公園と呼ばれている。城郭はない。名残が郷土資料館の建物にかろうじて見られるだけだ。一条家の城である。高知県西部では一番大きな街だ。市街地はビルが並び、ビジネスホテルも目に付く。碁盤目状の町並みは整然としていて、祇園、鴨川、東山といった地名もあり、ミニ京都といった風情だ>(26巻『怨讐の門 黒陽編』109ページ)

中村の城下町は城跡がある古城山の東側にあり、確かに碁盤目状になっています。都から逃げてきた一条家の築いたこの町は「小京都」とも呼ばれているそうです。くろしお鉄道の中村駅がある辺りは、比較的新しい街のようで、レンタサイクルを返却する四万十市観光協会や今回宿泊するホテルもこの近くにあります。

地図上でピンクの線は、佐田沈下橋から四万十川沿いを下ってきて、郷土資料館に行くまでに通った道。パープルの線は、郷土資料館のある古城山を反対側へと下り、再び街中へ戻って一條神社や幸徳秋水の墓を回り、レンタサイクルの返却場所である四万十市観光協会まで行った道のりです。

四万十川河口の街・中村は、ミラージュではすっかりお馴染みのような気がしますが、作中で具体的な場所が出てきたのは、四箇所のみだったかと思われます。@アジトとして使われていた中村城跡の郷土資料館(&為松公園)、A高耶さんと直江が密会した屋形船乗り場、B清正との会談が行われた四万十川沿いの小さな料亭、C潮が佇んでいた河原。

前述の通り、Aの屋形船乗り場は現在恐らくなくなっており、Bの料亭とCの河原の具体的な位置は不明。料亭については、元からモデルは無かったのか、あったけど無くなったのか、私が探しきれていないのか。ともかく不明なので、中村でのチェックポイントは実質的に@の中村城跡のみとなります。

こちらの写真は、赤鉄橋の前から振り返った古城山(中村城跡)。
一旦、街中に入ってから、登城口へと向かいます。
中村城周辺の地図です。


私たちは、ピンクの道を上って行き、★印の場所で自転車を置いて、郷土資料館を見学した後、パープルの道から山を下りました(市街地に戻るにはピンクの道を戻ったほうが早いのですが、何となく反対側へ行ってしまいました)。


山中には遊歩道があるのですが、今回は通っていません。作中で、兵頭&寧波&小源太が軍議の後、それぞれ資料館を抜け出して中村市街を一望できる場所にやって来るシーンがありましたが(26巻119ページ〜)、後から考えると、この遊歩道のどこかにその場所があったのではないかと…。ぬかりました…。リベンジしたい…。
乗ったままではとても進めない山道なので、自転車から降りて上っていきます。
「中村城跡三の丸」と書かれた石碑。


遺構はあまり残っていないので、こういう石碑で辛うじてここが城跡だとわかります。
前を行く相方が遊歩道の方へ行こうとしたのですが、その先が階段になっていたため、すぐに引き返してきました。
自動車道の方が少し遠回りですが、自動車道を行きます。


しばらく行くと、少し開けた場所に出ました。
右手に上へ登る階段があり、「郷土資料館」の看板が出ています。

ここで自転車を停め、階段を登って行くことに。

公園案内図によると、一応この辺りは駐車場になっているそうです。自動車道はこの先も続いていて、一度カーブを切って山を上り、郷土資料館のすぐ手前に、もうひとつ小さな駐車場があります。
「中村城跡」の石碑。この後ろの石垣は恐らく当時のものなのでしょう。


中村城跡の古城山一帯は、現在、「為松公園」という公園になっています。23巻の裂命星輸送時に、一行が足摺衆と合流したのがこの為松公園でした。
<到着した為松公園で足摺の男たちと合流した。「こっからはわしらが先導しちゃるき、任せとうせ」 (略) 中村から先は完全なテリトリーだ。輸送段の方は先刻の戦闘でダメージも負っている。この先は足摺の男たちに委ね、車両を乗り換えて足摺岬まで向かった>(23巻『怨讐の門 青海編』91〜92ページ)

為松公園のどの辺りという記述はありませんが、車両が合流できるスペースというのは、この辺り(資料館へと登る石段の下)しかないかと思われます。あまり広いスペースのない山中ですが、人目を避けるためにここで合流したのでしょう。

写真は、石段を左手に見て。
資料館の方へと行く石段の反対側も、少し高台になっていて、桜の木がたくさん植えられているようです。


中村の人はここでお花見をするのかもしれませんね。
それでは、石段を登って資料館の方へ。
石段を登った先、資料館の西側もちょっとしたスペースがあり、ブランコや鉄棒などの遊具がありました。


山を上って下りるだけでは公園という実感がまったく無いのですが、一応こういうスペースがあるので「公園」と名がついているのでしょう。
石段を登って右の方へ進むと、資料館の手前に小さな駐車場があります(写真の白い車が停まっている辺り)。

この先は道が細くなっていて、その道も資料館前で行き止まりなので、車両の通行はここまでのようです。
<城跡にある郷土資料館を改造してアジトに用いていた。中村の街にも、ポツポツと明かりが灯り始める時間である。続々と幹部が集まってくる。篝火を焚いた玄関先に次々と車が到着した>(26巻『怨讐の門 黒陽編』110ページ)

宇和島総攻撃についての軍議が開かれるこの郷土資料館に、幹部が車で到着するシーンです。

ここだけ見ると、資料館の目の前まで車が乗りつけたようにも思えますが…
<そして誰よりも視線を集めたのは、揃って到着した仰木高耶と兵頭隼人である。待ち受けていた隊士から一際どよめきが起こった。(略) 篝火の道を歩いてくる姿にも、いまはオーラがある。隊士たちはまるでハリウッドのトップスターでも待ち受ける群衆だ。室戸の兵頭をつき従わせて格負けがない。歩く姿にも迫力があり、凛とした表情で衆目を一気に惹きつける。そこにだけスポットライトを集めたような、ずば抜けた華が、高耶にはあった>(26巻『怨讐の門 黒陽編』110ページ)

「篝火の道」と書かれていますので、車を降りてから、多少は歩いたということでしょう。やはり、先ほどの駐車場の辺りで車から降りたのかもしれません。
資料館の前から、駐車場の方を見て。

ここに篝火が焚かれていたのでしょうか。何の変哲も無い小道ですが、隊士たちが居並ぶ中、篝火に照らされて登場というのは、なかなか迫力がありそうです。

ましてや、あの高耶さんのオーラでは、誰もが圧倒されてしまうこと請け合いですね。横浜のインターコンチの階段を思い出します。あの時は小太郎を従えていましたね。やっぱ高耶さんって誰かを従えている姿が似合うのかな…。
この四万十市立郷土資料館は、1973年に愛知県の犬山城を模して造られたものだそうです。
入口で入館料320円を支払って中へ。


6階建てで、展示室の中ほどにある階段で上り下りするようになっています。
ニホンカワウソの剥製が展示されていました。


2012年に絶滅種指定されてしまったこのニホンカワウソが、最後まで生息していたと考えられる場所が、高知県幡多地域(四万十・足摺)なのだそうです。
他にも、弥生時代の出土品、土佐一條家にまつわる史料、幕末志士や幸徳秋水の遺品等を展示しています。

展示室はさほど広くありません。

宇和島決戦の軍議が開かれた場所は、「広間」としか書かれていない(26巻110ページ)ので、どこなのかは特定できません。
最上階にやってきました。


ここは展望台になっています。
ん? なぜかテーブルと椅子が…。


テーブルは小さく、椅子も二脚だけですが、まるで今の今まで会議してましたというような風情。
しかも、テーブルには幡多地域の地図。軍議? 軍議ですか? 宇和島攻めの?

<「赤鯨衆という名の独立国を四国に求めたい」 (独立国……!) 高耶の言葉は、皆の心にズシンと響いた。そういう示し方をした人間は過去にいない。今までにない新しい響きだった>(26巻『怨讐の門 黒陽編』118ページ)

宇和島攻めに関してだけでなく、この中村では、赤鯨衆の未来が決定づけられたと言っても過言ではないでしょう。「<裏四国>を成そう」と高耶さんがはっきり口に出して告げたのも、中村(の四万十川沿いの小さな料亭)でのことでした(26巻211ページ)。
最上階から見た中村の市街地(南東の方角)。


遠くの方に中村駅や、この日宿泊予定のホテルココモも写っています。
こちらは南の方角。四万十川に架かるくろしお鉄道の鉄道橋が見えます。


あの夜、高耶さんと直江を乗せた屋形船はあの先まで行ったんでしょうね。
郷土資料館の東側には遊歩道が伸びています。

前述の通り、「兵頭&寧波&小源太が軍議の後、それぞれ資料館を抜け出して中村市街を一望できる場所にやって来るシーン」は、この先のどこかでのことだったのかもしれません(未確認)。

時間的にあまり余裕が無くなっていたこともあって、うっかりしていました…。要リベンジです。
登ってきた道とは反対側の道から山を降りてきました。

時刻は16時過ぎ。中村城跡の山を登り始めてから降りてくるまで、丸々1時間かかってしまいました。

レンタサイクル返却まであと1時間。その前にいくつか見ておきたい場所があるので市街地に戻ります。

この先は、ミラツアとは関係ありませんので、飛ばしたい方は後編(宿毛)へどうぞ。
保健所の建物の前に、四万十川の水が流れる人工滝がありました。


四万十流域の町ならではですね。
寄りたかった場所のひとつは一條神社。一条氏の御所跡に建てられた神社です。

お参りを…と思っていましたが、階段の高さに断念。自転車とは言え、長時間の運動でそこそこ疲労している模様。まあ、ミラージュスポットというわけではないですしね。

そう言えば、お昼を食べていませんが、不思議と空腹感はあまりありません。絶景でお腹いっぱいといった感じ。
アーケード街を通っていると…
居酒屋さんの前で、土佐弁のビール広告を発見。「こじゃんと」という言葉も、赤鯨衆のせいか聞き馴染みがある気がします。

もちろん中村に限らず、高知県内では色んなところにこの土佐弁ビール広告が溢れているようです。こちらはアサヒですが、キリンバージョンもありまして「たっすいが、はいかん!」と書かれてあります。薄いのはダメ、の意味。さすがは酒飲み県といったところでしょうか。
寄りたい場所の二つ目は、相方の希望で、幸徳秋水のお墓。中村の市街地で目立つNTTの鉄塔の近くにあります。
幸徳秋水は、中村の人だそうです。

明治時代の思想家で、大逆事件(明治天皇の暗殺を企てたとされる)により39歳の若さで処刑されました(冤罪とする説が濃厚だそうです)。

土佐出身の思想家・政治家って本当に多いですよね。時代を変えるような原動力が、この四国の端っこから生まれるっていうのは、どういうことなんでしょう…。

ミラージュでも、闇戦国の新しい潮流がこの土佐から生まれたわけですが、名も無き戦士たち、自由を求める集団がこの土佐から湧き上がってくるというのは妙に説得力がある気がしてしまいます。
16時30分、再び赤鉄橋のたもとに戻ってきました。


旧市街地を離れ、レンタサイクルを返却するため、観光協会の方へと急ぎます。
前方にくろしお鉄道の鉄道橋が見えます。


この鉄道橋の少し先まで、四万十川の東岸を行きます。
四万十川から離れ、国道56号を行くと、カーブの先に、この日泊まるホテルと、観光協会がある「サンリバー四万十物産館」が見えてきました。
16時43分、四万十市観光協会に到着。17時の返却に間に合いました。

もっと余裕があるかと思いましたが、意外とぎりぎりでした。最初の方で沈下橋ごとに結構時間をかけていたのと、中村城跡が思っていたより高い山だったせいかと思われます。

写真中央が観光協会の建物で、画面より右の方に、同じ敷地内にある物産館が建っています。今夜泊まるホテルは、右奥に写っているグレーの建物。
ホテルココモ。普通のビジネスホテルです。

安価だったのと、大浴場(というほど広くもありませんでしたが)があったので、ここに決めたのですが、レンタサイクル返却場所から目と鼻の先にあるとは、ありがたい限りです。

先ずはチェックイン。
いつもながら寝るだけなので、簡素なお部屋で充分OK。


何はともあれ、先ずは大浴場へ。小さくても、やはり部屋のお風呂よりは気分がいいです。
リフレッシュしたところで、ホテル目の前の「サンリバー四万十物産館」へ。時刻は18時12分。

道の駅的な雰囲気ですが、道の駅ではなく、あくまで物産館ということのようです。
四万十の幸と言えば、一番初めに思い浮かべるのはやはり青海苔でしょうか。

こちらの物産館にも「のりコーナー」があります。「青空レストラン」の文字がありますが、ちょうどこの少し前に四万十市の青さ海苔やゴリが紹介されたばかりでした。

見て回っているうちに、あっという間に時間が…。19時に予約していた居酒屋さんを30分先延ばししてもらう羽目に。

色々買い込みまして、一旦ホテルの部屋に置きにいってから、旧市街にある居酒屋へ。
買ったおみやげ等は、後編の最後でご紹介します。


夕闇迫る中、歩いて旧市街の方へ急ぎます。


写真は、駅前交差点から中村駅を望んで。
予約していたのはこちら、「味劇場ちか」。


食べログでは、中村で一番評判が良さそうでしたので。


なぜ「劇場」と名がつくのかと言いますと…
こんな感じで、吹き抜けになっていまして、二階のカウンター席から舞台を見下ろすように厨房が見下ろせるからかと思われます。


なかなか良い雰囲気です。



先ずは、北川村産のゆずサワーで乾杯。やっぱり高知県で飲むゆずサワーは違います。サワーは一杯で終わりにして日本酒を頼もうと思っていたのですが、あまりに旨くて結局最後までゆずサワーを飲んでいました。料理も地場の美味しいものが揃っています。清水さばの刺身に、破竹とエンドウの煮物、小いかの酢味噌和え。中村は足摺に近いので清水さばの刺身なんかも扱えるのでしょう。足摺衆のように活きが良いさばは臭みもなくて美味。破竹はみずみずしく、薄めの味付けが◎。


川エビの唐揚げ、ゴリの唐揚げ、四万十天然うなぎの丼、にぎりずし。高知市でも四万十の幸は居酒屋さんなんかで食べられますが、本場中村で食べるとまた別格ですね。天然うなぎは、相方が是非食べたいと言うので、事前に予約注文していたもの。他の方の口コミを見ますと、この天然うなぎに関しては賛否両論のようです。美味しいと言っている人もいれば、ゴムのような硬い歯ごたえで期待はずれだったと言う人も。確かに、何でもかんでも「天然=高級=うまい」という図式が成り立つわけではないと思いますが、私は割と美味しかったかと。ふんわりとして脂の乗っている養殖ものとは明らかに違い、天然ものは小ぶりで、身は締まっていて、脂の乗りはしつこくない程度。歯ごたえは硬いとは思いませんでしたが、適度な噛み応えはあります。養殖のうなぎがちょっとくどいなと感じられる人には、天然ものの方が合っているのかもしれませんね。要は好みかな。まあでも、今回は折角四万十に来たので、ありがたくうなぎを頂きましたけれども、絶滅が囁かれているくらいですから、あまり食べすぎない方がいいのでしょうね。

すぐ下で、職人さんが料理を作っている様子を眺められるわけですが、できた料理は岡持ちに入れられ、するするする〜っとロープで二階に引き上げられます。なかなか楽しい。
適度に酔っ払いまして、21時頃、お店を後に。

途中「ペンギン村」という名の居酒屋を見かけたのをきっかけに、アラレちゃん音頭を口ずさみながら(世代が知れるな/笑)街を闊歩していると、道路標識に書かれた「足摺岬51km」の文字が目に留まり…、いつかきっと足摺へ行くぞと決意を新たにする、赤鯨衆の一大拠点・中村の夜でした。

続きは後編にて。

2015.03.13 up



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