わだつみの広島ツアー

〜宮島で潮の満ち干を楽しもう!

前編




◆旅行日:2012年10月14日〜15日

◆行程:
※下線はミラツアスポット
オレンジ色文字は後編にて

◇10月14日:
東京駅→(のぞみ)→広島駅→(徒歩)→広島駅北口観光バス待機場→(徒歩)→広島駅南口→(徒歩)→アーバンビューグランドタワー(広島グランドホテル跡地)→(徒歩)→広島城→(徒歩)→旧広島市民球場跡地→(徒歩)→相生橋→(徒歩)→原爆ドーム→(徒歩)→宝(ランチ)→(徒歩)→平和記念公園→(徒歩)→平和大通り〜鯉城通り→(徒歩)→紙屋町西駅→(広島電鉄)→広電宮島口駅〜宮島口フェリー乗り場→(松大汽船)→宮島(松大桟橋)→(徒歩)→御笠浜→(徒歩)→表参道商店街〜町家通り〜表参道商店街→(徒歩)→フェリー乗り場待合室→(徒歩)→宮島桟橋→(宮島参拝遊覧船)→大鳥居→(宮島参拝遊覧船)→宮島桟橋〜松大桟橋→(松大汽船)→宮島口〜広電宮島口駅→(広島電鉄)→胡町駅→(徒歩)→お好み村・大丸堂(夕食)→(徒歩)→魚樽本店(居酒屋)→(徒歩)→ホテルニューヒロデン


◇10月15日:ホテルニューヒロデン→(徒歩)→広島駅→(JR山陽本線)→新井口駅→(徒歩)→商工センター入り口駅→(広島電鉄)→広電宮島口駅〜宮島口フェリー乗り場→(松大汽船)→宮島(松大桟橋)→(徒歩)→厳島神社→(徒歩)→ロープウェー紅葉谷駅→(ロープウェー)→ロープウェー獅子岩駅→(徒歩)→弥山本堂、霊火堂、三鬼堂→(徒歩)→弥山山頂、展望台→(徒歩)→干満岩→(徒歩)→ロープウェー獅子岩駅→(ロープウェー)→ロープウェー紅葉谷駅→(バス、徒歩)→牡蠣屋(ランチ)→(徒歩)→千畳閣→(徒歩)→大鳥居→(徒歩)→ミヤトヨ本店、やまだ屋本店(もみじまんじゅう購入)→(徒歩)→松大桟橋→(松大汽船)→宮島口〜広電宮島口駅→(広島電鉄)→…途中下車寄り道…→広電広島駅→(徒歩)→JR広島駅→(のぞみ)→東京駅

◆同行者:パートナー


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このところ月一ペースで旅をしていますが、気候のいい秋にもせっかくだからどこかへ行こうということに。行き先はすんなり広島に決定。私も相方も初めての広島です。牡蠣に穴子にお好み焼き。最近、ミラージュツアーの過酷さに気づき始めた相方ですが、広島はうまいものが多いので割と簡単に釣ることができました(笑)。


『わだつみの楊貴妃』前・中・後編をしっかり復習して、いざ出発。
今回の旅もJR東海ツアーズで申し込みました。往復ののぞみと広島市内のビジネスホテル付の1泊2日で一人22,800円。安い。
車内で朝ごはん。野菜ジュースも忘れずに。


乗ったのは、朝6時16分東京発ののぞみ。家を出たのはまだ暗いうちでした。真っ暗な中、無理やり起こされて朝ごはん食べさせられる亀きち亀ぞうがちょっとかわいそう…。たまにだから、がまんしてね。
富士山。


毎回お決まりですが、見えると撮らずにはいられないんですよね。
さて、『わだつみの楊貴妃』の序盤で、高耶さんと千秋は、毛利の偵察がてら城北高校の修学旅行に参加していたのでした。

<九時に名古屋を出た幹線は、いまちょうど関ヶ原のあたりに差しかかっている>(『わだつみの楊貴妃・前編』80ページ)

これがその関ヶ原の辺り(名古屋を出て10分程度。似たような景色の連続でどこら辺がそうかわかりにくいのですが、写真に写りこんでいたホームセンターの所在地で確認)。関ヶ原と言えば、東西文化の境界線のような場所ですが、日清のどん兵衛もここを境に東西違う味付けにしているらしいですよ(日清HPより)。
車内で闇戦国の動向について話し合っていた高耶さんと千秋ですが、そんな深刻な空気もお構いなしに会話に乱入してきたのは、例によって森野沙織でした。しかし、彼女がその底なしのパワーを発揮するのも、本編では、この『わだつみの楊貴妃』が最後…でしたよね? この『わだつみ〜』は、全40巻の中でも、本当に大きな転換点となる重要なお話なので、旅にも自ずと気合いが入ります。

おっと。新幹線は広島駅に到着しました。写真は広島駅北口にある送迎用観光バス待機場。さすが修学旅行のメッカ・広島ですね。城北高校の一団も「駅前ターミナル」から観光バスに乗ったとのことですが、ここから乗車したのでしょうか。
広島駅の南口に出てきました。時刻は10時20分。


ほとんどの観光地と繁華街は駅の南側にありますので、旅の始点はここになります。
南口を出てすぐのところに、広電の広島駅があります。

広島と言えば、やはりこの路面電車ですよね。原爆で焼け野原になった広島の街を路面電車が走っている光景を、写真でよく見かけます。
私たちは今回の旅で、広電(広島電鉄)の「宮島フリーパス」を使うことにしました。

広島電鉄の電車、宮島口〜宮島間のフェリー、弥山へ行くロープウェーが二日間乗り放題で2,000円という、広島ミラツアにはもってこいのフリーパスです。

広電の電車案内所でパスを入手しておき、私たちは先ずは徒歩で市内を回ります。


それでは、広島市内のマップを確認してみましょう。
赤字はミラツアスポット(一部推定含む)、緑字はミラージュとは関係なく立ち寄った場所、そしての点線は作中に名前が出てきた通りです。
広島駅を出た私たちは、広島城、旧広島市民球場跡地、相生橋などを経て原爆ドームへ。お昼を「宝(天ぷら屋)」で食べた後、平和記念公園を見学します。それから、松山さつきが泊まっていたホテルを探して平和大通りを少し歩いた後、鯉城通りを北上して、紙屋町西駅から広電に乗り、宮島へと向かいます(ここまでの道のりは黄色い線で示してあります)。
広島のミラツアスポットと言えば、他にも、広島港(直江のウィンダムが置き去りにされたという…)、呉の音戸の瀬戸公園(直江と八海が面会した場所)なども見てみたいところでしたが、今回はどうしても時間的にスケジュールに乗らなかったので断念。その代わり、一日目の夕方以降と二日目の丸一日をかけて、たっぷりと宮島を楽しみたいと思います。

広島駅から歩き始めてすぐ、この日宿泊する予定の「ホテルニューヒロデン」の前を通り過ぎました。


そうなんです、二日とも宮島を回るくせに、宿泊するのは広島市内なんです。だって、宮島の旅館に泊まると高くつくし…。


ニューヒロデン(広電系列)にしたのは、特に広電を意識したわけではなく、いくつか選べたホテルの中で、安くて立地が良かったからです。
作中にも書いてありましたけど、広島市内はデルタ地帯で、川が多いです。


写真は、ニューヒロデン前の栄橋から見た京橋川(右)と猿猴川(左)の分岐点。
栄橋を渡り、真っ直ぐ西に歩いて行くと、一際目立つタワーが見えてきました。


アーバンビューグランドタワーと名づけられたこのタワー。実は広島グランドホテルの跡地に建てられたものだそうです。広島グランドホテルと言えば、高耶さんたちが広島入りして一日目に、綾子ねえさんの指定で、夜叉衆四人が一同に会した場所ですよ。


そして、直江の力の喪失が高耶さんにばれたり、二人が身も凍るようなやり取りをしたり(高耶さんの台詞、本当に容赦なかった…。直江は直江で高耶さんのこと本当に憎んでいる様子だったし…)、あと、英田さんが死んじゃったり…色々ありました。
この地にあった広島グランドホテルは、1994年10月に閉館となり、同系列のリーガロイヤルホテル広島に吸収合併されたそうです。『わだつみ〜』出版から一年余りで閉館になってしまったんですね。


本編完結してから数えても結構な年数が経っているので、どこへミラツアしてもこういうことはしょっちゅうあるわけですが、やはり一抹の寂しさは拭いきれません。
因みに、今建っているアーバンビューグランドタワーは、分譲マンションを中心に、オフィス、商業施設からなる複合型ビルだそうです。


タワーの前を広電が走っています。路面電車を見ると、少しテンションが上がります。
グランドホテル跡地を通り過ぎ、更に直進して、広島城のお堀端に着きました。ここからだと天守閣の姿が見えません。


広島城は元々立ち寄る予定はなかったのですが、相方がせっかくだからと言うので、お堀を渡ってみることに。
広島城は、1589年に、毛利輝元によって築かれた城です。毛利輝元と言えば、ミラージュ的には直江の左胸を貫通した銃弾を撃ち放った張本人ですね。


まあその輝元も、蘇ったものの、魂は幼子のように脆弱だったわけですから、同情もしてしまいます。桑原先生は、もしかしたら、直江殺害の犯人に読者の憎しみが集まらないよう、わざと輝元をああいうキャラクターにしたのでしょうか。
お堀を渡ると、「広島大本営跡」という場所に着きました。日清戦争の際に、ここに大本営が置かれ、明治天皇が指揮を執ったのだそうです(建物は原爆投下により倒壊)。


その大本営の向こうに見える天守閣は、1958年に復元されたものです。天守閣に登るほどの時間はないので、今回は遠くから眺めるだけにします。
こちらは、二の丸跡にある被爆樹木のユーカリ。爆心地から740mの地点で被爆しながら、生き残った樹です。


こういうのを見ると、この地が、過去に原爆投下された「ヒロシマ」なのだと、改めてハッとさせられます。いつまでも戦争の「生き証人」であって欲しいなと思います。
さて、広島城を後にして、旧広島市民球場跡地にやって来ました。本日二度目の「跡地」…(涙)。

<こうこうと明るい広島市民球場では、今夜はナイター試合をやっているらしい。相生橋のたもとまで来ると、派手な歓声がよく聞こえた>(『わだつみの楊貴妃・前編』150ページ)

つわものどもが夢の跡…。現在この跡地の活用方法はまだ最終的に決定していないようです(世界遺産である原爆ドームの近くにあるため、色々問題があるらしい)。旧広島市民球場が取り壊されたのは、2012年2月とのことですから、結構最近まであったんですね(間に合わなかった…)。
現在の広島市民球場(マツダスタジアム)は、広島駅の南東、線路沿いにあります(新幹線から見えました)。

上の引用は、高耶さんと千秋がグランドホテルに向かうくだりですが、二人は恐らくこの相生橋を西側から渡って市民球場の前を通り過ぎたのだと想像します(城北高校の宿泊先は明らかではありませんが、グランドホテルへ歩いて三十分以上かかるということから)。

こちらは、相生橋の西端から撮った写真(市民球場は、橋を渡った左手にありました)。橋の中央辺りから南(写真右側)へもう一本橋が伸びているのがわかりますでしょうか(その橋の向こうに原爆ドームが写っています)。そう、この橋はT字型の橋なんですね。
橋の中央から平和記念公園へと繋がる部分(T字型の縦棒部分)。前方の樹が生い茂っている場所が、本川と元安川に挟まれた中洲にある平和記念公園です。

原爆投下以前、この中洲には有数の繁華街があったそうですが、原爆により、街も人も一瞬のうちに消滅したのだそうです。

このT字型の相生橋は、上空からも目立つため、原爆投下の目印になったと言われています。
相生橋の上から元安川を見下ろして。右手に平和記念公園、左手に原爆ドームがあります。

この先に架かる橋(元安橋)のたもとから宮島へ船で行く「世界遺産航路」っていうのもあるらしいですよ(写真に写っている船はそれとは違うと思われます)。

私は、もし次に機会があれば、高耶さんたちと同じように、広島港から宮島へ向かう船に乗ってみたいです。
相生橋の上を走る路面電車と原爆ドーム(わかりにくいですが、画面中央の街灯のすぐ左)。

戦前・戦中・戦後と、100年余りもの間、広島の街を見守り続けてきたこの路面電車。原爆投下で甚大な被害を受けたにも関わらず、三日後にはもう運行を再開していたのだとか。

毎年、8月6日の午前8時15分には、原爆ドーム付近を走っている電車は近くの停留所に停車し、乗員乗客が皆黙祷をするのだそうです。


<あれが原爆ドームだ。あまりにも有名すぎる建物のまわりには、たくさんの修学旅行生がいてガイドの説明を聞いている。折れてむき出しになった鉄骨、崩れたままになった壁、無残なその姿は、原爆投下直後のまま残されている>
(『わだつみの楊貴妃・前編』111ページ)

城北高校の一行が最初に訪れたのがこの原爆ドームでした。戦争を直接知らない私たちが見ても当然悲痛な気持ちになりますが、その時代を生きてきた高耶さんや千秋はどんな気持ちでこの無残なドームを見つめていたのでしょう。1960年代には、当時の惨状を思い起こさせるとのことから、市民から撤去を望む声が多く寄せられ、取り壊しの危機に瀕したこともあったそうです。実際に原爆投下直後の光景を目にしてきた人々にとっては、このドームを見るのは、身を切るような痛みを伴うことなのだろうと思います。それでも、この負の遺産がそのままの形で残され、今もこうして平和な街並みの中に無残なままの姿を曝しているその意義というものを、私たちはいつまでも忘れてはいけないのだろうと、戒められる思いです。

この、あまりにも有名な原爆ドーム。初めて実物を見ましたが、思っていたよりこじんまりとした建物で少々驚きました(相方も同意見)。因みに、世界遺産に認定されたのは、『わだつみ〜』が出版された数年後、1996年のことです。

1945年8月6日、午前8時15分。原子爆弾は、このドームの上空580メートルの地点で炸裂しました。

ドームが全壊しなかったのは、爆風を受けた方向がほぼ真上であり、爆風が内部を通過しやすい構造であったためだそうです。当時、建物内で勤務していた約30名の職員は全員即死したと推定されます。

ヒロシマの空に、平和を願わずにはいられません。
さて、時刻は12時少し前。平和記念資料館に向かう前に昼食を取っておきます。


選んだのは、本通りのアーケード街から少し脇道に入ったところにある「宝」というお店。
お昼は天丼メニューが充実しているようですが、夜も営業していて、ジャンル的には小料理屋さん…になるのでしょうか。

人気店らしく、私たちが着いた時には、店の外に既に数人待っているお客さんが。そして、私たちが並んだ後ろにもすぐに行列ができました。

少しだけ待って中に通されると、カウンターと奥に座敷が二つばかりの狭い店内。すぐに満席になりますが、料理が出てくるのは早いし、お客さんも食べたらさっさと帰るので、回転率は良さそうです。
私が注文したのは、この牡蠣天丼。このボリュームで、牡蠣が6個だか7個だか入って1000円ですよ。そりゃ混むはずです。


相方は普通の天丼900円を頼んだのですが、なんと、その天丼には松茸が入っていました(メニューには松茸入りとか書かれていないのに! たまたま?店主の気まぐれ?)。そう言えば、あまり知られていないような気がしますが、広島って全国有数の松茸の産地らしいですね。
昼食を食べ終えた私たちは、元安橋を渡って、平和記念公園にやって来ました。


写真は「原爆の子の像」。原爆で亡くなった子供たちの霊を慰めるために建てられたこの像の周辺では、学生たちが集まり、祈りを捧げていました。
この像の近くには、折り鶴を捧げるブースがあり、全国から届いた平和を祈る折り鶴が美しく飾られています。
元安川と対岸の原爆ドーム。


川岸では修学旅行中と思われる学生グループが先生やガイドの説明を聞いているようです。


高耶さんたち、城北高校の一行も、文脈からすると、ここから原爆ドームを眺めたのかなという気がします。
植え込みに囲まれた内側に「平和の池」があり、その中に「平和の灯」が燃えています。灯の向こうには「原爆死没者慰霊碑」、更にその先に「平和記念資料館」が建っています。
平和の灯。


元火となったのは、あの弥山の霊火堂の火らしいです(弥山は二日目に行きます)。


この火は、地球上から核兵器がなくなるまで燃え続けるのだそうです。
慰霊碑の前までやって来ました。ここもよくテレビなどで見かけますね。


アーチ型の碑の向こうに、原爆ドームを望むことができます。
慰霊碑の前から資料館を撮影。
城北高校の一行は館内を見学した後、一階のピロティ部分を集合場所にしていましたが、確かにありますね、ピロティ。


その向こうには、女子生徒たちが気を失った現場の噴水も見えます。


先ずは、資料館を見学しに行きましょう。
館内は写真撮影可能ですので(フラッシュ撮影は不可)、少しだけ中の様子を紹介します。

こちらは、吹き抜け部分にある原爆ドームの模型。原寸の73%の大きさだそうです。

館内は、やはり修学旅行生が多くて、かなり混雑していました。どこに行っても混雑していると普通はうんざりするものですが、今回だけは別。混んでいることに、どこかほっとしてしまいます。
原爆が落とされた8時15分で止まったままの腕時計。

この瞬間、広島市街が一瞬にして吹き飛び、爆心地にいた人々は全身の水分が蒸発・炭化し、何を思う間もなく絶命しました。この時計の持ち主はどのようにこの瞬間を迎えたのでしょうか。

「当時の広島市の人口35万人(推定)のうち9万〜16万6千人が被爆から2〜4カ月以内に死亡したとされる」(ウィキペディアより)

被害の大きさは、数字にしてしまうと実に単純に表せますけれども、実際にこれだけの人数の人たちが、ひとりひとり、被爆し、苦しみのうちに亡くなったということ、彼らひとりひとりに本来なら平穏に生きるはずだった未来があったことを、私たちはどれだけ本当の意味で理解することができるのでしょう。
人類史に刻まれた凄惨な出来事というのは、もちろん広島や長崎だけではないですが、日本に生まれた者にとって、原爆について語り続けていくことは義務であり、使命なのだということを改めて感じずにはいられません。



こちらの展示は、熱で変形したガラスや瓦です。実際に触れてみることができます。
展示を見終わると、長い廊下に出ます。大きな窓から差し込む明るい陽の光に、絶望的な気分も、少しだけ救われるような思いです。

この廊下を歩きながら千秋が言ったのが次の台詞。

<「この資料館、最近改装したらしいな。すっかりきれいになった。昔はもっと暗い感じで、写真が多くて、生々しい展示の仕方だったと思ったんだがな」>(『わだつみの楊貴妃・前編』116ページ)
資料館が改装されたのは、1991年のこと。私は初めての訪問なので、以前の様子はわかりませんが、旅行後、母親に写真を見せながら「昔はもっと生々しかったらしい」と言ったところ、「事実は事実なんだから、隠さず酷いものをちゃんと見せるべきだ」と、千秋とまったく同じようなことを言ったのには驚きました。

因みに母は、終戦間際の生まれで、幼い頃は悪いことをすると、「ピカドン(原子爆弾のこと)が来るよ」と祖母によく脅されたそうです(母は鳥取県出身)。

こちらの写真は、資料館の廊下の窓から撮影したもの。原爆ドーム、平和の灯、慰霊碑、資料館が一直線になるように設計されているのがよくかります。
お読み頂いている方にも、だいぶ暗い気持ちにさせてしまったかもしれませんね。原爆のことについては、胸の中で、そっと肝に銘じることとして、ミラツアを続けましょう。


さて、こちらは、資料館の裏側にある噴水です。高耶さんたちが一階のピロティに降りてくると、この噴水の辺りで、大勢の女子生徒たちが気を失って倒れていたのでした。これが、作品のタイトルにもなった『楊貴妃』との最初の接触でしたね。
倒れている女子生徒たちを放っておけず、自分の“精気”を送り込んでいた高耶さん。羨ましいなあ。私も高耶さんに分けて欲しいなあ。精気とかいろいろ(笑)。


それにしても、曇天の下の噴水って寒々しいだけですね。薄曇りで、雨は降りそうにないですが、宮島での夕景を楽しみにしているので、ちょっと心配です。
元安橋の南にある平和大橋を渡ります。写真は平和大橋の上から平和大通りの方向を撮影。

平和大通りには、松山さつきの宿泊していたホテルがあります。作中に名前は出てきませんので、次の3つのポイントから的を絞って探してみましょう。

@平和大通りに面している(且つ、恐らくは鯉城通りから遠くないところ)。Aちょっとしたシティホテル並み。B玄関前に植え込みがある。
さつきのホテルを高耶さんたちが訪れたのは二度。一度目は、“赤い鳳凰”についてさつきから話を聞くため。二度目は、その日の夜、さつきから失踪した鳴美の幽霊が出たとの連絡を受けて、でした。


鯉城通りのほど近くに、ANAクラウンプラザホテル広島(旧広島全日空ホテルから2007年にリニューアルオープン)があります(写真中央の茶色い建物)。位置と規模は記述と合致します。
そして、玄関前まで来ると、ちゃんと植え込みがあるではないですか。


ここで、さつきが高耶さんたちを待って座り込んでいた&鳴美のホログラムが現れたのでしょうか。
念のため、もう少し先にある、三井ガーデンホテル広島も見ておきます。しかし、こちらは植え込みらしきものはありませんね…。


二十年も昔のことですし、当時とは様子が違っているかもしれませんが、今見る限りでは、ANAクラウンプラザホテル広島(当時の広島全日空ホテル)に軍配、でしょうか。
<三人は、いったんホテルを出た。平和大通りを元安川方向へ歩き、市電に乗るため、鯉城通りに出る>(『わだつみの楊貴妃・前編』139ページ)

上の引用は、高耶さんたちが最初にさつきのホテルを訪れた時のこと。城北高校の宿泊先に戻る際、高耶さんたちが通った道が写真の黄色いライン(平和大通りから鯉城通りへの曲がり角)。平凡な街角も、高耶さんが通ったんだと思うと、特別な場所に見えてくるから不思議です。
余談ですが、宮島で楊貴妃と漁姫の会話を聞いたさつきが、吉川元春の「キッカワ」を吉川晃司だと思い込んだなんていうギャグシーン?がありましたね(他にもモウリをモーリス、オダを織田裕二と言ったり)。あれ、吉川晃司に関しては、あながち的外れとも言えないようです。吉川さんのお家は、実際、吉川元春の末裔なのだとか。そう言えば、吉川さんの出身は広島でしたね。こんな意外な繋がりがあるとは。

実は、吉川晃司、大好きでした。ファンクラブにも入ってたし、コンサートも行ったなあ…。私が中坊の頃の話です。でも、今の歳を取った吉川さんもかっこよくて、嬉しい。
話がだいぶ逸れましたが…、私たちはいよいよ宮島に向かいます。時刻は15時半。予定通りです。


紙屋街西駅から広電に乗車。結構混んでますね。
ここでようやく、今朝購入しておいた宮島フリーパスの出番です。

「広島ミラツアにはもってこい」と書きましたが、弱点もあります。先ず、JRを利用すれば、広島〜宮島口間は30分ほどですが、広電で行くと、倍以上時間がかかること。それから、フェリーと電車の始発、最終の便がJRより早くor遅くないこと。どうしてもの時はJRを利用するとして、折角のパスなので私たちはなるべく広電に乗ることにしました。

乗車して1時間弱、海を隔てて宮島の弥山が見えてきました。市街地では路面電車だった軌道も、いつの間にか普通のレールに。
広電宮島口駅。


フェリー乗り場は横断歩道を渡ってすぐのところにあります。
松大汽船のフェリー乗り場付近から、宮島を望んで。厳島神社の大鳥居が見えます。


宮島口が作中に登場したのは次の3回だったかと。@景虎の指示を受け、秋吉台から車で駆けつけた綾子ねえさんが友姫とともにここから宮島に向かう。A萩城から脱出した頼竜が景虎への殺意を燃やしながらやって来るが、連絡船の運航は中止されており、警備員に阻まれる。B戦いが終わった後、連絡船の待合室で待っていたさつきと鳴美を綾子ねえさんが迎えに行く。
おっと、フェリー乗り場の様子をゆっくり撮影する間もなく、連絡船の出航時間になってしまいました。写真はまた翌日。


今夜、宮島に宿泊する観光客なのか、乗船するお客さんはとても多かったです。修学旅行生も大勢いて、賑やかでした。
陽がだいぶ傾いてきています。空は曇っていますが、美しい夕暮れが見えるでしょうか…。


すれ違ったフェリーはJRの連絡船。宮島口〜宮島間はJRと松大汽船の二つの会社がフェリーを運航しています(宮島フリーパスが使えるのは松大汽船)。
宮島に到着。
修学旅行生と観光客でいっぱいです。


やはり、さすがは世界遺産。
連絡船の待合室や改札ががあるフェリーターミナル。


JR、松大汽船ともにこの建物を使っています。
早速、鹿さんがお出迎え。

知床で、バスの中から鹿を見かけるたび、テンションが上がっていたのは一体なんだったのだろうというくらいたくさんいる(笑)。

宮島の鹿も一応、野生ということらしいです。太古から生息していたものが、人に馴れ、人里に住むようになってしまったのだそうです。
さて、これからの計画ですが、一旦相方とは別行動。私は御笠浜辺りから、刻々と変化する夕焼けを背景に大鳥居の撮影を楽しみます。


その後、19時くらいにフェリーターミナルで再び落ち合い、夜の遊覧船に乗る予定。


地図に示した表参道商店街は、宮島で一番賑やかな通りです。お土産屋さんや飲食店が軒を連ねています。一本山側の町家通りは表参道と比べると静かな通りですが、古い旅館やレトロなカフェがあり、落ち着いた雰囲気。


厳島神社、弥山などは明日に回します。
海沿いの道を歩いて御笠浜までやってきました。向こうに厳島神社の社殿が見えます。この日は21時半頃が満潮(大潮)です。この時の潮位は140〜150cmくらい。


手前に三脚を立てて撮影している方がいらっしゃいますが、ここは絶好の撮影ポイントなんですね。私もこの辺りで撮影を楽しむことにします(もちろん三脚持参)。
御笠浜から撮影した大鳥居。

宮島観光では、潮位が非常に重要になってきます。ご存知の通り、満潮時と干潮時では厳島神社の社殿と大鳥居の様子がまったく異なってきますので。変化を楽しめるよう、できれば大潮の日を狙うのがいいかもしれません。

私は、以下の要件を満たすことを考えて日程を決めました。@厳島神社拝観(早朝)の際は満ち潮(高耶さんVS信長のバトルの際も満ち潮だったから)。A夜の遊覧船で大鳥居の下を潜る(満ち潮)。B引き潮の時に、歩いて大鳥居まで行く。
随分欲張りな気もしますが…、大潮の時に二日間宮島にいれば可能です。宮島に行かれる方は、スケジュールを組む前に↓のHP等で潮位を確認されるといいかもしれません(個人的には「tide736.net」の方がグラフになっているので視覚的にわかりやすいと感じました)。リンク切れの際はご容赦下さい。

宮島観光協会のHP(年間潮汐表のページを参照)

・tide736.net(日本沿岸736港の潮汐表、個人サイト)

空はだいぶ暮れてきました。
17時半頃、雲は相変わらずありますけれども、なんとか美しい残照を見ることができました。


赤く染まる空、それを反射する海、闇に沈みゆく山、そして水中に建つ鳥居。本当に美しい風景だなと思います。
晴れていたらもっと綺麗だったかもしれませんが、この日の山際の色づき具合もなかなかのものです。
御笠浜の様子。岬のようになっている先端では、観光客が入れ替わり立ち替わり写真を撮っていきます。


三脚組は邪魔にならぬよう、このやや左の方で撮影を楽しんでいます。
18時にライトアップが始まりました。
しばらく撮り続けていると、夜の遊覧船の第1便がやってきました。
この宮島参拝遊覧では、潮位が高ければ、このように大鳥居の下を潜ってくれます。


私たちはこの後、19:15の便に乗る予定。
厳島神社の社殿もライトアップしています。

<潮の満ちた闇の中に、美しい朱塗りの回廊が浮かび上がっている。社殿のところどころで燃えている篝火が、満ちた水面に映えて美しい>(『わだつみの楊貴妃・中篇』73ページ)

夜の厳島神社とは、信長公の初登場シーン(成田譲の姿で)の舞台に相応しいですね。写真ではただのライトアップですが、これが篝火だったなら、もっと荘厳な雰囲気に満ちていたことでしょう。
そろそろ、三脚撮影を切り上げ、散歩がてら桟橋の方へ向かうことにします。


闇に沈む瀬戸内海の向こうに対岸の灯りが見えます。昼間あれだけ賑わっていた宮島も、ひとたび暗くなると、あっという間に人気が失せます。
こちらは、表参道商店街。


宮島のお店は閉まるのが早いようです。日帰り客は暗くなれば早々にフェリーで引き揚げるでしょうし、宿泊客は旅館でそろそろ夕ご飯という頃でしょうか。
町家通りも少し歩いてみました。


夜の町家通りは風情があるとのことでしたが、まあ風情はあるんですが、ちょっと寂しい感じが。一人で歩いてたから余計かもしれません。お客さんを乗せた帰りなのか、人力車とすれ違いました。
表参道商店街にあるこちらの杓子、長さが7.7メートル、最大幅が2.7メートル、重さが2.5トンあり、世界一大きい杓子だそうです。


宮島は杓子発祥の地だそうですね。
フェリーターミナルで相方と落ち合い、トイレに行ったところ、入り口にこんな戸が。

これ、鹿が入らないための「鹿戸」らしいです。前にしか進めない鹿の性質を利用して、引いて開けるようになっています。宮島では普通の民家にもあるのだとか。


別行動の間、相方は夜まで営業している小洒落たカフェでお茶してました。カフェ好きの相方、一人で1時間半もの間黙々とカメラ弄りをして喜んでいるオレ…。一体どっちがおっさんなんだか(笑)。
夜の宮島参拝遊覧は、一人1,500円、予約制です。


船は屋形船のような形で、屋根の下に普通に席がありますが、そこに座ってしまうと、大鳥居を潜る時、上が見えないので、皆さん船の前後の屋根がない部分に座っていました。
出航して間もなく、ガイドさんの話に耳を傾けているうちに、大鳥居のそばに着きました。


大鳥居の奥に、ライトアップした社殿が見えます。水が満ちた状態で、このアングルは…、さすがに船に乗らないと撮れない一枚です。
そして、船で大鳥居の下を潜ります。


ライトアップされてはいるものの暗いし、船は動くしで、撮影はかなり困難。ブレブレです。
潜って、大鳥居の内側から。向こうに対岸の灯りが見えます。


船上はあちこちでシャッターを切る音が。
帰りにもう一度内側から大鳥居を潜ります。


結構な迫力。
近くで見た大鳥居の柱はとっても立派。樹齢400年のクスノキだそうです(この大鳥居についてはまた翌日)。


30分ほどの乗船時間でしたが、一度乗ってみる価値はあります。詳細は↓のHPへどうぞ。

宮島参拝遊覧(アクアネット広島HP)
本日の観光はこれにて終了。


フェリーターミナルで、松大汽船の最終便(20:15)を待ちます。この時間になると、待合室もがらがら。
フェリーの中もこの通り。


やっぱ、この時間まで宮島にいる人は普通島内に泊まるんだよな…。
広電まで空いていましたよ。途中からは多少混んできましたが。
この時、時刻はすでに21時半過ぎ。私たちは途中下車し、新天地界隈へとやって来ました。

<並木通りで綾子と別れた千秋は、宿舎に帰るべく夜の新天地を歩き出した>(『わだつみの楊貴妃・前編』189ページ)

広島入りした日の夜、念願叶ってお好み焼きを食べた千秋は、綾子ねえさんと別れた後、この近くのどこかの「細い路地」で、鹿之介&漁姫と出会ったのでした。写真は新天地交差点(場所はひとつ目の地図参照)。
そして、私たちももちろん食べますよ、お好み焼き!


おっと、この先に千秋と綾子ねえさんが別れた「並木通り」があったのですが、チェック漏れで撮り逃しました。
この雑居ビルの2階〜4階が「お好み村」になっています。お好み村は、お好み焼き屋さんの集合体、今で言うフードテーマパークみたいなものです。


綾子ねえさんが指定したグランドホテルに向かう途中、千秋は
「どーせならお好み村あたりにしてくれりゃよかったのにな」などとぼやいていましたが、その後、新天地に来たということはやはりここ、お好み村に来たんでしょうか。
私たちが入ったのはこの大丸堂というお店。
有名人のサインがたくさん。


きゃりーぱみゅぱみゅとか、ゴールデンボンバーとかありました。
広島スペシャル(そば、肉、玉子、イカ天、ねぎかけ)を注文。


確かにすごいボリューム。ねぎもいっぱい乗ってて美味しかったです。
大丸堂はさくっと切り上げて、二軒目です。薬研堀にある「魚樽本店」というお店へ。
この日は日曜日。…そうだ、宮島からの帰りがやけに空いていたのも、明日が月曜だからだったのかもしれません。


日曜の22時半過ぎ。居酒屋さんも静かです。
私たちも少し疲れたのか、もうそんなに食欲はなく。それでも折角だから瀬戸内の海の幸を楽しみたいと頼んだのがこちら、小鰯の刺身と真鯛の酒盗。どちらも酒の肴にぴったり。


今夜の日本酒は、広島・呉の地酒「雨後の月」。淡麗で飲みやすい。名前もいい。
広電はもう終電が終わっていたので、薬研堀から宿泊先のホテルニューヒロデンまで歩きました。


部屋に入ったのは午前0時ちょっと前。
広島駅のすぐそばですので、窓からは新幹線と在来線のホームが見下ろせました。


続きは後編にて。

2013.02.10 up









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