火輪ツアー 其壱

〜有名観光スポット編

後 編




◆旅行日:2015年10月22日〜10月24日

◆行程:
※下線はミラージュスポット
※グレー文字は前編にて

◇10月22日:

成田空港→(ジェットスターGK611)→阿蘇くまもと空港→(リムジンバス)→通町筋バス停→(徒歩)→熊本ホテルキャッスル→(徒歩)→行幸橋→(徒歩)→桜橋→(徒歩)→船場橋洗馬橋電停→(徒歩)→熊本県立第一高等学校→(徒歩)→桜の馬場 城彩苑(ランチ)→(徒歩)→加藤神社→(徒歩)→熊本城(頬当御門〜宇土櫓&天守&本丸御殿〜不開門)→(徒歩)→下通りアーケード新市街アーケード→(徒歩)→代継橋→(徒歩)→下通りアーケード・バルテカ エミリア(休憩)→(徒歩)→熊本ホテルキャッスル→(徒歩)→居酒屋・HERO海(夕食)→熊本ホテルキャッスル(宿泊)

◇10月23日:
熊本ホテルキャッスル→(徒歩)→藤崎八旛宮→(徒歩)→上通りアーケード→(徒歩)→テレビ塔→(徒歩)→堀端→(徒歩)→熊本ホテルキャッスル→(徒歩))→熊本城・市役所前電停→(市電)→
熊本駅→(JR豊肥本線:武蔵塚光の森国道57号立野駅立野火口瀬赤水外輪山)→宮地駅→(徒歩)→阿蘇神社→一の宮インフォメーションセンター→(徒歩)→阿蘇はなびし(ランチ)→(徒歩)→霜神社火焚殿→(徒歩)→道の駅阿蘇→(徒歩)→西巌殿寺→(徒歩)→阿蘇駅前バス停→(産交バス)→阿蘇市商工会前バス停→(徒歩)→おしま屋家具cafe(休憩)→(徒歩)→阿蘇ホテル一番館(宿泊)

◇10月24日:
阿蘇ホテル一番館→(徒歩)→下新町バス停→(産交バス)→大観峰入口バス停→(徒歩)→大観峰→(徒歩)→大観峰入口バス停→(産交バス)→阿蘇駅前バス停→(徒歩)→阿蘇駅→(JR豊肥本線)→立野駅→(徒歩)→武蔵茶屋(ランチ)→(徒歩)→立野駅→(南阿蘇鉄道)→南阿蘇白川水源駅→(徒歩)→白川吉見神社白川水源→(徒歩)→白川水源入口バス停→(産交バス)→高森中央バス停→(リムジンバス)→阿蘇くまもと空港→(ジェットスターGK614)→成田空港


◆同行者:パートナー


さて、ここからは後編ということで、ようやく阿蘇へと突入します。


8時43分発、JR豊肥本線宮地行きの列車に乗車。今回乗るのは宮地行きですが、豊肥本線は、立野から阿蘇谷に入り、大分まで続いています。


※このレポートを書いている現在、一部区間(肥後大津〜阿蘇)で運休中。復旧のめどは立っていないようです。
熊本駅を出て、少しすると、白川を渡ります。


白川を渡ると、なんとなく熊本の街に別れを告げる感が。
15分程度で水前寺駅に到着。


この辺りまでは、学生や通勤客の乗降が盛んでした。


水前寺と言えば、もちろん水前寺公園。開崎と色部さんが会った場所ですね。次のレポートでご紹介します。
途中、武蔵塚という駅を通りました。

<原付をかっ飛ばして市内に戻ってきた三池哲哉は、武蔵塚のあたりで、無残な事故に遭遇した>(18巻『火輪の王国 烈風編』31ページ)

霜神社から飛び去ったほかげを追って、哲哉が古城高校へ向かう途中での出来事。事故は、蛇蠱が孵化して国造神社の古墳から勝手に抜け出してきた稲葉朱実が起こしたものでした。この朱実ちゃんには結構振り回されましたね。まあ本人だって好きでやっているわけじゃないですけど。

因みに、この近くには「武蔵塚公園」というのがあり、晩年を熊本で過ごした宮本武蔵のお墓があるそうですよ。
その次の駅が、光の森という駅なんですが、ここまでは熊本市、ここから先は熊本市ではなくなるという、いわゆる市境なんですけれども…。作中に、何度か「市境」という表現が出てきましたね。

<市境にさしかかったあたりで、ようやく清正たちは阿佐羅の姿を捉えることができた>(19巻『火輪の王国 烈濤編』32ページ)

古城高校屋上から鬼八の首を抱えて飛び去った阿佐羅を、清正らが追跡するシーンです。

<市境付近まできた紹運は車を見つけた>(19巻『火輪の王国 烈濤編』129ページ)

古城高校近くの桜橋で信長に殺された高橋紹運が、別の体に憑依して阿蘇を目指していた一幕です。この直後、千秋に調伏されてしまいました。
清正や高橋紹運らがこの時通っていたのは、恐らく阿蘇と熊本市街を結ぶ国道57号だろうと思われます。57号は、この光の森駅の近くを通っていますが、列車の中からはよく見えませんでした。


車内天井には、レトロな扇風機が付いています。昔はこういうの付いてましたよね。最近見かけないので懐かしい。


前編の最初に出したのと同じ地図で恐縮ですが、一応載せておきます。( )付の地名は、今回は立ち寄っていないスポットです。

<阿蘇の地形はとても面白い。周囲を全周一二八キロもの外輪山に囲まれた巨大なカルデラのなかに七つもの町村がある。その盆地状のほぼ中央に有名な阿蘇の五岳をはじめとする中央火口丘群がそびえたつ。よく阿蘇山というと、そういう名の高い山があるものと勘違いする人もいるようだが、そうではなく、正しくは外輪山も含めた全体を阿蘇山と呼ぶ。太古の昔、この地には先阿蘇山と呼ばれる活火山群があった。それらが大規模な噴火活動で、四百億トンもの噴出物を出した結果、地下が空洞化し、陥没してできたのが、この巨大な阿蘇カルデラであるという>(16巻『火輪の王国 中編』67ページ)

「七つもの町村」というのは、合併によって現在は状況が異なっています(以前の阿蘇町、一の宮町のあたりは「阿蘇市」になっています)が、阿蘇の地形については、とてもわかりやすい記述ですね。地図からも外輪山に囲まれたカルデラとその中央にある火口丘群が見て取れるかと思いますが、実際に阿蘇のカルデラ内に入ると、スケール感とともに、阿蘇の地形を体感することができます。

中央火口丘群で隔てられた南北のカルデラは、北側を「阿蘇谷(あそだに)」、南側を「南郷谷(なんごうだに)」と呼ぶそうです。二日目は、阿蘇神社と霜神社、西巌殿寺を巡り、阿蘇谷の北部にある内牧温泉に宿泊します。最終日三日目は、大観望に立ち寄ってから南郷谷に移動。白川水源を見て、高森からバスで熊本空港へと戻ります。

空港最寄駅の肥後大津を過ぎ、立野に近づくにつれ、緑の多い風景になってきました。


この辺りからは風景が目まぐるしく変わり、目が離せません。
進行方向左手(北側)の、やや高いところに、並走する国道57号が見えてきました。


国道57号は、宮地駅まで豊肥本線とほぼ並走していますが、進行方向の右だったり左だったり、結構頻繁に移動するようです。
進行方向右手(南側)に移った国道57号。色んな人物が何度もここを通っていましたね。

<杉並木がとぎれ、やがて国道は阿蘇の外輪山へと続いていく。谷を右手にみながら、まっすぐな道を走っていく。その道は、もうだいぶ前に走ったことのある道だった。三十余年前。織田の手から美奈子を守るために潜んだのも、ここ阿蘇の山中だった>(16巻『火輪の王国 中編』140ページ)

病院の近くで拾ったタクシーに乗り、開崎が国道57号を阿蘇に向かうシーンです。杉並木というのがどの辺だったのかよくわからないのですが、確かに右手に谷があります(進行方向=阿蘇は写真左の方)。
列車からだと見えにくいですが、進行方向右側、国道57号の向こうはずっと谷になっていて、谷底には、白川が流れています。

鬼八の首を抱えた阿佐羅と鳥人衆たちが、信長のヘリに狙われながら阿蘇を目指し、この谷を飛ぶというシーンもありましたね。

<いま、康夫は阿佐羅という希望の女神とともに飛行している。(略) やがて眼下は山が迫る谷になってきた。下を流れる川は白川だ。もうすぐ立野の駅が見えてくる。この谷は立野火口瀬。活断層によってできた阿蘇外輪山を南北にわける唯一の切れ目だ。阿蘇への入り口だ>(19巻『火輪の王国 烈濤編』36ページ)

写真にちらっと写っている川は白川です。。
しばらくすると、車窓からも、その立野火口瀬が見えてきます(こちらは進行方向右の車窓から)。


外輪山の切れ目です。この先が阿蘇のカルデラです。


地形がよくわかって、思わず興奮してしまいます。
こちらは左の車窓から。こちら側も外輪山の切れ目がはっきりとわかりますね。


列車は間もなく立野駅に到着します。


複数の線路があるのは、立野駅を過ぎてから、列車がスイッチバックをするためです。
立野駅に到着。立野駅の前で、開崎と八海が待ち合わせをしていましたね。この日は立野で下車しませんが、翌日は下車していますので、立野駅と付近の国道57号から見た火口瀬の様子などは、また後ほどご紹介します。

駅名の看板には次のように書かれています。

「健磐龍命が水路を開こうと外輪山を蹴りやぶった。このとき力あまって尻もちをつき「立てぬ」といわれたのが訛って地名となり駅名となった」

由来が本当かどうかはわかりませんが、自然を肌で感じられる土地には、必ず何らかの神話があるものですね。思えば、火輪シリーズの物語の根底にあるのも阿蘇の神話ですしね。
立野駅を過ぎ、スイッチバックをすると、景色が一段高くなったようです。

先ほどは、車窓の左右別々からしか見えなかった外輪山の切れ目が、ひとつの視界に収まりました。

<(康夫たちは)息を切らして汗びっしょりになりながら、必死で逃げる。機関銃とヘリの轟音が谷に響く。やがて視界が開けてきた。(阿蘇だ) 屏風のような外輪山が左右に腕を広げる。カルデラのなかに入ったのだ>(19巻『火輪の王国 烈濤編』40ページ)

外輪山の切れ目が、立野火口瀬であり、その向こうに、うっすらと…写真ではわかりづらいですが、うっすらと烏帽子岳が望めます。
康夫たちは、カルデラ内に入った後、山林に紛れ込みながら飛んだとのことですので、外輪山沿いに飛んでいったものと思われます(。

豊肥本線も、立野からカルデラに入った後、しばらくは外輪山のすぐ麓を北上していきます。

写真は、豊肥本線が北に進路を変えてすぐ辺りの外輪山。熊本地震では、どうやらこの辺りの斜面が崩れ、阿蘇大橋が崩落してしまったようです。
反対側の車窓を撮った写真もありました。すぐ下の国道57号と、そこから右方向の谷にかかる阿蘇大橋が小さく写っていました(画像左の方、青い看板のそば。窓ガラスに車内が写り込んでわかりにくいですが)。


※報道でご存知かと思いますが、この土砂崩れの影響で、阿蘇大橋は崩落し、豊肥本線と国道57号は不通となってしまいました。レポートを書いている現在、豊肥本線は前述の通り、一部区間(肥後大津〜阿蘇)で運休中。国道57号は大きく迂回する必要があり、今後は、外輪山にトンネルを掘って阿蘇市に入るルートの新設も検討されているそうです
しばらく行くと、左の車窓から見える外輪山に、もしや…と思える景色が見えてきました。

<織田のヘリ部隊の追跡をやっとの思いで逃れた康夫たち鳥人衆は、外輪山の断崖状になったあたりに、ほら穴のような窪みを見つけたところだった>(19巻『火輪の王国 烈濤編』58ページ)

外輪山の斜面が、何かの採掘場なのでしょうか、断崖状に削られている部分があります。
望遠で見ると、こんな感じ。ほら穴があるかどうかはわかりませんが、康夫たちが逃げ込んだ断崖状になったあたり…という場所のイメージはここでしょうか。

康夫は、外輪山の断崖状の部分に逃げ込んだ後、追いかけて来た佐伯遼子に殺されたのでしたね。ヒムカ教…。同じ教えの中でも、それぞれの持つ背景によって思想が全く異なっていたり、佐伯遼子のように教義よりも己の感情や信条に忠実な女性がいたり…。

鬼八の物語をただの昔話や神話としてだけではなく、現代にも脈々と受け継がれているものとして、(歪んだものだとしても)ひとつの形として描いているのは、なかなか面白いと感じました。もちろん現実問題としては、いやですけどね、ああいう選民思想は(高耶さんの康夫批判は痛快だった)。
民族のルーツとか、古代の日本ではあったであろう民族間の争いとか、現代の日本ではあまり触れられない歴史にスポットを当てているのが火輪シリーズの面白さのひとつですね。

さて、列車は赤水駅に着きました。

<国道五十七号線には大友が立野神社付近にバリケードを築いていて、一般人の行き来はできなくなっている。突破しようとした清正たちはその瞬間、侵入者となった。ただちに追手がつき、執拗な逃走劇が始まった。赤水のあたりまで逃げたが、まききれず、たちまち路上戦闘になった>(19巻『火輪の王国 烈濤編』49ページ)
古城高校からバイクで阿佐羅を追って来た清正・光秀・哲哉の三人組は、立野のバリケードを突破したはいいものの、この赤水付近で追手の怨霊と戦闘になりました。

因みに、「立野神社」というのは、豊肥本線と国道57号が阿蘇谷に入って北へ進路を変える直前辺りにあります。正に阿蘇に入る直前という位置です。車窓からはよく見えませんでした。

写真は、赤水駅を過ぎた辺りの北外輪山。
ところで、康夫たちが逃げ込んだのは「外輪山」と書いてあるだけで、立野から入って北か南かは書かれていないのですが、康夫を殺めた佐伯遼子が高耶さんを抱えて連れて行った場所が北外輪山の上だったことから、康夫たちが逃げたのは北の方だったことがうかがえます(19巻87ページ)。


列車は内牧温泉のある内牧駅の手前辺りを走っています。北側の車窓に、大観峰が見えてきました。霞んでいて、わかりにくいかもしれませんが、象の鼻のような形の岬状の山が阿蘇谷に突き出ています(矢印の部分)。
この日は、晴れてはいるんですが、空の透明度はあまりよくなかったようで、遠くの景色はかなり霞んでしまっていました(写真は加工してあるので、それでも幾分マシにはなっています)。

南側の車窓からは、中央火口丘群が見えてきました。往生岳、杵島岳と、その手前に、プリンのような形をしていることで有名な米塚がうっすらと見えています。

山の名前は、撮影した位置と地図などを見比べて、慎重に確認していますが、万一間違えがありましたら、ご容赦下さい(教えて頂けると助かります)。
更に西に進んで、こちらは、阿蘇駅の手前くらいの南側の車窓。


少しずつ阿蘇五岳が姿を現してきて、高岳まで視界に入るようになりました。


そして、よくよく見ると、高岳と往生岳の中間くらいから煙のようなものがうすく立ち上がっているように見えます。あれ、中岳の火口がある辺りですね。どうやら火口から上がっている噴煙のようです。うわあ、ちょっと感動。
10時15分、目的地の宮地駅に到着。

ホームから五岳の方角を見ると、高岳から右に下った辺りに、やはり噴煙らしきものが。

この時は、「噴火警戒レベル3」が発令されていて、火口周辺には行けない状況でしたので、当然と言えば当然なんですが…、阿蘇の山々が今も活動しているんだということを、噴煙を見て、実感することができました。

今回は阿蘇山上へは踏み込みませんが、物語のクライマックス…火口での呪法、鬼八と阿佐羅の悲劇、火の粉に包まれた二人…色んなことが思い起こされます。
※中岳の火口見学についてですが、火山活動の状況により規制がかかったり解除されたりしますが、このレポートを書いている現在では、熊本地震の影響により、火口までの通行ができない状況にあるようです。詳しくは、阿蘇火山火口規制情報のページをご確認下さい。


宮地駅の北側に出てきました。


阿蘇神社へ行くには、宮地駅が最寄りなんですが、阿蘇駅より降りる人が少なく、小さめの駅舎です。
宮地駅から阿蘇神社まで、ゆっくり歩いて25分くらいでしょうか。


阿蘇駅前や宮地駅前からバスも出ているようですが、利用される場合は本数が少ないので要確認です。


オレンジ色のラインが今回歩いた道(お店探しで別の道も歩いていますが、それは省略)。


阿蘇神社をお参りした後、一の宮インフォメーションセンターに立ち寄り、昼食を食べ、霜神社の方へと向かいます。


地図上赤い矢印の方に「阿蘇やまなみ病院」という病院があります。三池晴哉が運び込まれた「宮地の病院」というのは、ここではないかと推測します(わざわざ行って見てはいませんが、オレンジ色の×印の辺りから撮った外観を後で載せています)。
写真は、宮地駅前から北を向いて。


取りあえず、駅前からひたすら真っ直ぐ歩いて行きます。
しばらく直進し、信号のある交差点を左折した道に湧水がありました。


阿蘇では、「水基(みずき)」と呼ばれるそうです。阿蘇神社付近には20箇所もの水基があるそうです。


苔むしている感じがまたいいですね。
阿蘇神社の鳥居前まで来ました。


阿蘇神社は、珍しい「横参道」となっています。


社殿は、参道の左側にあります。鳥居を潜って進んで行くと…
社殿は正面にはありません。


参道横に、神社の入口となる楼門が建っています。
江戸時代末期に建てられた、実に立派な楼門です。テレビなどで何度か目にしていましたが、実物を見るとまた結構な迫力。

ミラージュでは、二つのシーンで阿蘇神社が登場していました。

一つ目は、三池晴哉が千秋と哲哉を連れ、元は霜宮の御神体だった「黄金蛇頭」の所在を確かめるために訪れたシーン(17巻63ページ〜)。

二つ目は、北外輪山の上で、哲哉・黒豹(小太郎)・七朗と合流した高耶さんが、中岳火口へ行く前の情報収集と作戦会議をするために立ち寄るシーンです(19巻133ページ〜)。
二つ目の、高耶さんたちが作戦会議で立ち寄ったシーンから見ていきましょう。


<高耶と哲哉は阿蘇神社に到着した。(略) 「おおよその態勢が掴めました」といって七朗は楼門の下で大きな地図を広げた>(19巻『火輪の王国 烈濤編』133〜134ページ)


重厚感のある、この楼門の下で地図を広げながら作戦を練っていたのですね。
楼門の下。


数人が集まって話すには手ごろなスペースです。


高耶さんがいたのはどの辺かなあ。
<右手の参道のほうから哲哉を呼びながら、数人の男たちがやってくる。地元の人のようだ。「お……おじさんっ」 哲哉の養父の子・規彦がいた。親類たちの見知った顔が揃っている>(19巻『火輪の王国 烈濤編』136ページ)

火焔遠見で高耶たちを見守っていた晴哉からの指示で、霜宮の祝子たちが加勢にやって来たのでした。

写真は、楼門と北側の参道を向いて。

「右手の参道」とはどちらを指すんでしょうね…。楼門に向かって右、であれば、こちら側ですが…
楼門の下から見て右、であれば、こちらの南側の参道(来た方=宮地駅の方)ということになりますね。

楼門の下にいたわけですから、こっちかなと思うのですが…、しかし、晴哉が入院していたと推測される病院は阿蘇神社の北にあるんですよね…。うーん、どちらかは不明です。

祝子たちが協力を申し出ると、哲哉は改めて鬼八の首を破壊する決心をします。高耶さんは中岳火口へ向かうと告げたものの、信長の動きも気になり、迷っているところへ現れたのがあの人でした。
<≪俺がいんだろうが、景虎≫ ふ、と高耶が目を上げた。(略) 振り向くと同時に、篝火の炎が音を立てて鉄籠の外にあふれたので、居合わせた者たちは驚いて後ろに逃げた。また火のオロチか! と哲哉と高耶は思わず緊迫したが、炎は蛇にはならずそのかわり、ゆっくりとうねって人の姿になったのだ>(19巻『火輪の王国 烈濤編』139〜140ページ)


門前の篝火に姿を映してきたのは千秋でした(19巻168ページ)。本当、千秋って、直江とはまた違う意味で、高耶さんと息が合っている。いや、「息が合う」という点で言えば、むしろ直江より千秋との方が相性が良いような気もします。ケンカもするんですけどね。それでもさすがの夜叉衆ツートップといったところでしょうか。どれだけ仲違いしても、上杉の名が揺らいでも、結局力を合わせて事を成してしまうという…。


写真は、参道を挟んで楼門の向かい側にある手水。ここも湧水が滾々と湧き出ています。
冷たく気持ちいい湧水で手を清めて、参拝を。


写真は、楼門を潜ってすぐ正面にある拝殿。境内には、謡曲で有名らしい「高砂の松」というのがありました。縁結び祈願で有名なんだとか。
お参りして、お守り買って、再び楼門の外に出てきました。写真は、楼門を出て、参道を渡り、少し直進したところにある売店。

<そこに声をかけてきたものがあった。頼まれて売店へ飲み物を買いに行っていた三池哲哉である>(17巻『火輪の王国 後編』63ページ)

千秋が阿蘇神社の門外で晴哉を待ちながら、開崎は直江だったという綾子の報告について考え込んでいる時、売店でコーヒーを買って来た哲哉が戻って来たのでした。

その売店は、この店のことでしょうか。土産物などを売っているようですが、門前町の土産物屋よりはだいぶ地味で、確かに「売店」といった風情。自販機もありますしね。
その売店前から、楼門の方を向いて。


※熊本地震による阿蘇神社の被害状況は、報道でも大きく取り上げられていましたが、楼門と拝殿が倒壊、その他の神殿も損壊するという、大変ショッキングなものでした。あの立派な楼門が、地域の人々にとってどれだけ誇りであっただろうかと思うと、いたたまれない気持ちになります。熊本城同様、途方もない時間と費用がかかるとは思いますが、復興を切に願っています。

阿蘇神社公式HPへはこちらをクリック(現状、募金について書かれています)。
阿蘇神社の参拝を終えまして、売店からほど近い「一の宮インフォメーションセンター」にやって来ました。

この時、阿蘇では「阿蘇deスイーツめぐり」というイベントを開催していて、そのチケットがここで購入できるとのこと。

阿蘇と言えば牛、牛と言えばミルク、ミルクと言えばうまいスイーツなわけで。スイーツめぐりについては、また後ほど。

因みに、翌年1月のツアーでは、ここで電動自転車を借りて国造神社まで行きました。この後レポートを書く予定です。
阿蘇神社の参拝を終えた時点で、時刻は11時。


まだ早いのですが、この先霜神社へ向かう途中では昼食を取れそうな場所はないため、阿蘇神社の門前町で食べます。
その前に。


門前町に、「御神水おみくじ」というのを売っているお店があり、以前テレビの旅番組で見てから、やってみたいと思っていたので、ひとつ購入。
おみくじはどうでもいいんですけど、阿蘇の湧水に紙を浮かべるという行為が、何となく、白川水源で直江が高耶さん探しのために行った術を彷彿とさせ、気分だけ味わいたいなあと。


浮かび上がった言葉は、「長所も短所もあんたの個性あんただけのもの」という毒にも薬にもならないものでした。まあそんなもんだ。
ランチを食べるお店は事前に食べログで調べて目星を付けていたのですが、地図に落とされた位置が間違えていたようで、少々うろうろした挙句、探し当てたその店がなんとお休みだったという…不運に見舞われまして…。


まあ、門前町には他にもお店がありますから、写真の「はなびし」というお店に入りました。時刻は11時30分くらい。
注文したのは「舞茸とゴボウのかき揚げとろろそば」。880円。


割と美味しかったですよ。でも、先に出された野菜のお通し(大根と小松菜?高菜?)の方がもっと美味しかった。煮びたしみたいにしてあったかと。阿蘇は野菜も美味しいですね。
時間的に前後しますが、こちらの写真は、お店を探してうろうろしてた時に撮ったものです。前出の地図の×印付近から。


道がカーブしていますが、突き当たった民家の向こうに見える大きな建物が、「阿蘇やまなみ病院」です。先に書いた通り、三池晴哉が運び込まれた「宮地の病院」はここだろうかと思いながら撮影しました。


12時05分、昼食を食べ終わりまして、霜神社へ向けて出発します。阿蘇神社の門前町(緑のライン)を北に歩くと、県道110号に突き当たり、その県道110号をひたすら西に向かって歩くと、哲哉の実家や三池の本家があるという役犬原の集落に入ります。役犬原の小さな郵便局があるところで、南に進路を変え、田舎道を歩いて行った先に霜神社があるのですが…これが結構わかりづらい(郵便局のところで曲がらず、もう少し先から南下した方がわかりやすかったかも)。

もちろん事前にヤフーやグーグルの地図で調べていたのですが、田舎すぎて詳細な地図が出てこないというパターン。その上、地図に書かれていない道も実際にはたくさんあるので、地図と現地の道路を見比べても自分がどこにいるか把握しづらいという…。結局、少し遠回りしてしまいました(オレンジ色のラインが今回私たちが歩いた道)。

車を使ってナビを頼りに行く場合は良いかもしれませんが、徒歩で行くという方は、ヤフー地図などで航空写真を印刷して持って行くといいかもしれません。そっちの方が断然わかりやすいです。地図上だと距離感がわかりづらいと思いますが、最短のルートで検索すると、徒歩35分くらいの距離になります。

その県道110号を、いざ西に向かって歩いていきます。


割とすぐに視界が開けてきて、長閑な景色が広がります。
辺り一面、収穫が終わった田んぼが広がっています。


霜神社の火焚神事は、稲などの農作物を早霜から守り、五穀豊穣を祈願するためのものですが、そういう神事が昔から脈々と受け継がれてきたというのも、この景色を見ると納得がいきます。


こちらは道の北側(真北ではなく、東より。北東方向です)。北外輪山と大観峰が見えます。
大観峰を望遠で。来る時に列車から見たのとは逆のアングルです。


原寸大の写真では、売店の建物と白っぽいアンテナの塔がふたつ確認できます。高耶さんと千秋がバトルを繰り広げた展望台は、頂上平らな部分の左端くらいでしょうか。


南を向くと、田園の向こうに、涅槃像が見えてきました。

<阿蘇五岳を遠くから眺望すると、その姿は、ひとの寝姿に似ている。東から根子岳・高岳・中岳・杵島岳・烏帽子岳。根子岳の切り立った岩のゴツゴツがちょうど人の鼻、口、顎に見え、なだらかな高岳が胸、噴煙をあげている中岳はちょうどへその部分にあたる。その寝姿を昔から、阿蘇の人々は「釈迦の涅槃像」と呼んできた>(16巻『火輪の王国 中編』156ページ)

うん、確かに涅槃像だ。事前にネット上では見ていましたが、実際に、阿蘇谷の中に身を置いて、自分の目で見ると迫力が違います。阿蘇は、やはり、体感すべきもの、なのでしょう。想像だけではよくわかりませんが、実際に来て、歩いてみると、スケール感がよくわかります。

1枚に収まらないので、写真を繋げてみましたが、不自然ですみません。山の名前は、多少位置が違うこともあると思います。ご了承下さい。中岳は、山頂と火口は少し離れているんですね。楢尾岳は手前にあって、中岳の火口はその向こう側にあります。阿蘇五岳のうち、杵島岳は、ここからは往生岳の背後に隠れて見えません。烏帽子岳は少し離れていて、往生岳の麓辺りに小さく尖った山頂が見えていました。

根子岳を望遠で。確かに、鼻と口と顎に見えますね。南阿蘇の側から見えても根子岳はほぼ同じような形に見えます。

<遠雷のなる冬の夜だった。時折、根子岳のむこうに閃く光がフラッシュをたいたように部屋を白く染める。静まり返ったその山荘にいるのは、自分と彼女だけだった。優しい横顔を、暖炉の火は赤く照らしていた。こんなときでさえ、その女は美しかった。自分が暗殺者よりも冷たい眼をしていることを、男は知っていた>(18巻『火輪の王国 烈風編』143ページ)

直江の回想シーンです。織田の手から美奈子をかくまったのは、この根子岳が見えるどこかの山荘だった…のですね。根子岳のギザギザしたこの形がまた、こういうシーンにはぴったりです。
烏帽子岳を望遠で。中央にぽつんと三角の山頂だけ顔を出しているのが烏帽子岳。

この烏帽子岳も色々ありました。加藤神社で拉致された高耶さんは、烏帽子岳中腹にあるログハウスで軟禁されていましたが、モデルとなったログハウスが実際にあるかどうかは不明です(調べても出てこないから無いのかも)。

高耶さんが吉川元春の言葉で記憶を取り戻しそうになったり、高耶さんと清正が共謀して脱出を試みたり、直江VS偽直江のバトルが勃発したり。個人的に印象的なのは、やはり小太郎(の憑坐)の最期ですね。「私という直江なら景虎様から離反しない」と叫ぶ小太郎が…、哀れだけど、彼にとってはある意味これで幸せだったのかも…とも思えてしまいました。
引き続き、県道110号を真っ直ぐ進んで行きます。


写真は、進行方向の西を向いて。


遠くに外輪山が見えます。
こちらは、振り返って、東を向いたところ。

こちらも、外輪山が見えます。

東西と北の三方を外輪山に囲まれ、南を向くと、中央火口丘群があるというこの景色を、阿蘇谷の真ん中から360度ぐるりと見回すと、大昔、ここに巨大な火山があって、噴火によって外周を残して落ち窪んだのだということが実感できます。こりゃあ、地形ロマンだな。

ブラタモリで阿蘇やってくれませんかね。(地震前に)熊本には行っていましたが、阿蘇は確か行っていませんよね。もしかして私と同様、中岳待ち?
県道110号を25分くらい歩いたところで、役犬原の集落に入りました。
役犬原郵便局。


「役犬原」の文字を見ると、火輪の物語の中に入ったようで、ちょっとわくわくします。


それにしても、ここらの人の「足」はやっぱ軽トラなんだな。
郵便局の前辺りから、南へと方向を変えます。


結構立派なお家が多いようですね。三池の本家とか、こういうイメージかなと思いながら眺めていました。
おお、これが阿蘇赤牛さん?


見知らぬ通行人は珍しいのか、めっちゃこっちを見ています。
田んぼ、お墓、赤牛、時々民家。という風景の中を進んで行きます。


前方には涅槃像が。


長い距離を歩くのは疲れますし、時間もかかりますけど、その時間分、阿蘇を体感し、満喫しているということでもあるんですよね。
前述したように、少し大回りをしてしまいました。写真は、前出地図の歩いたルートの最南端付近にて。


こういう場所って目印がないからちょっと焦ります。印刷してきた地図は役に立たないし。


道のずっと先に高岳が見えます。
少し北に戻って、集落の中に入ってきました。

もはや自分がどこにいるのかわかりません。方向音痴なので、相方がいなかったら、もしかしたら辿り着けなかったかも…。

地図はちゃんと読めますが、私は二回角を曲がると方角がよくわからなくなるほどの方向音痴です。街中なら地図と周囲の状況を見比べれば自分がどこにいるかわかりますし、旅行中はコンパスを常に携帯しています。でも、こういう場所で地図が当てにならないときたら、そこそこの危機感がありますよ。おまけに人がまったく見当たらない…。
でもなんとか、見つけることができました。


「霜宮神社」という看板が出ていました。


写真右の方の道へ進むと参道入口があり、お社は、電柱の向こう、木が生えている辺りです。
霜神社の参道とお社を遠くから。本当に小さい、地域の神社といった趣きです。

<天上の鬼八の首が怨霊となって命(みこと)を恨み、作物に早霜を降らせて枯らすようになってしまったのである。人々は食べ物がなくなって生活ができず、困った命は鬼八の霊を慰めるため阿蘇谷の真ん中にお宮をつくり、下界に戻ってくれるよう頼んだ。おかげで鬼八の首は下界に戻り、霜宮(下宮)としてまつられ、以後、霜を降らすこともなくなったという>(16巻『火輪の王国 中編』85ページ)

正確に「真ん中」という意味ではないのでしょうけれども、感覚的に、阿蘇谷の中央…というのは、歩いてきてよくわかりました。しかし、霜神社のご神体の正体って…実際のところ、何なのでしょうね。
桑原先生も、この神話と、現代も脈々と受け継がれている神事に、何かミステリアスなものを感じて、火輪の物語を着想したのでしょうか。火輪のストーリーはすべて霜宮のご神体である「鬼八の首」に起因するとすれば、この霜神社は正に、火輪シリーズの原点といった場所なのでしょう。


参道の方へ向かう途中、道の右手の方(霜神社とは反対側)に、「火焚殿」への入口がありました。こちらは後ほど寄らせて頂くとして、先ずは霜神社へ。
結局、門前町の辺りから1時間ほどかかり、ようやく霜神社に到着。作中で、霜神社が舞台になったのは、次の三回だったかと。

@千秋と哲哉が三池本家を訪れた翌朝、晴哉の後をつけて千秋が訪れる(16巻82ページ〜)

A高千穂からほかげを連れ戻し、晴哉とほかげが火焚殿に行っている間、千秋と哲哉が待っている(17巻213ページ)

B阿佐羅が覚醒した後、晴哉の命で、三池の祝子たちが集結する(19巻54ページ)

先ずは最初の、千秋が晴哉の後をつけて来たシーンから。

<集落のなかの道路を少し入り、晴哉はとある神社にやってきた。鳥居の奥に、祠とでも言ったほうがいいような小さいお社が、ぽつんと立っている。霜神社。と鳥居の額には書いてある>(16巻『火輪の王国 中編』82ページ)
随分と年季が入っているように見受けられますが、確かに「霜神社」の文字が。

迷った末に辿り着くと、感動もひとしおですよ。

霜神社を代々守っている三池は、実は(高千穂の伝説では)鬼八の妻だった阿佐羅と、後から入ってきた大和民である御毛沼命の子孫であり、いつか阿佐羅が再び生まれた時には鬼八を復活させ、大和の支配から脱却するという使命を負っているのだ…という辺りは、桑原先生の創作ですが、古代神話に見え隠れする民族の闘争を絡めた設定は、真実味があり、とても面白いですね。代々受け継いでいる三池とは別に、新興宗教として派生したヒムカ教の存在などもまた物語に深みを添えているように感じました。
『火輪の王国』は、闇戦国の展開や高耶さんと直江の関係性が大きく動いたお話ではありますが、根底にある物語がしっかり練られているので、ミラージュの前後の話と切り離しても十分に楽しめるお話だと思います。


杉の木の並ぶ、ちょっとした参道の奥に、お社が建っています。
こちらが霜神社のお社。境内も実にささやかなスペースしかありません。ここに三池の祝子たちが集結したんですね。


<晴哉の指示を受けて、役犬原の霜神社には続々と三池の祝子たちが集まりつつあった。決して広くはない境内に、阿蘇に住む祝子、約五、六十人が顔を揃えた。(略) 境内には、晴哉の指示で火が焚かれた。むろん祭りのときに起こした御神火を使っている。さらに社は扉が開け放たれ、祭りの時と同じ祭壇が設置された>(19巻『火輪の王国 烈濤編』54ページ)
<晴哉は祝子たちの真ん中を、社にむかって歩き始めた。人々はじっと息を詰めて晴哉を見守った。火焚殿での事故のことはもう皆に伝わっている。境内は緊張が高まった。晴哉はゆっくりと社にあがると、全員を見渡した>(19巻『火輪の王国 烈濤編』55ページ)


「哲哉の意志に従う」という晴哉と皆の結論は泣かせましたね。古い慣習に縛られる三池に反発する哲哉でしたが、決して三池やこの土地を大切に思っていないわけではなく…。
亡くなった哲哉の父・英哉は、ヒムカと大和の混血児の子孫として「三池はヒムカと大和をつなぐ橋でありつづける」と語ったそうですね(19巻46ページ)。哲哉にそこまでの自覚があったかはわかりませんが、大事に思う今を未来へつなげようとする哲哉の意志が結局は皆をまとめ、事態を収束させる力となったわけで。

一方、同じヒムカの血を引く者でも、純血を求め、過去の世界に理想を求めたヒムカ教は滅びの道へと進んでしまうという…。色々考えさせられますね。

社の扉は閉ざされたままでしたので、中の様子はわかりません。この中に、火焚神事で温めるというご神体があるはずですが…本当にあるのかな…。
霜神社からも、阿蘇五岳が見えます。石碑のちょうど後ろくらいが高岳ですね。

<晴哉はゆっくりと両腕を組むと、南に横たわる阿蘇の五岳を静かに見やった。(略) 「そう。三池とは御池。すなわち中岳の火口を意味する」 というと晴哉は五岳の中央にかすかに見える白い噴煙を指さした>(16巻『火輪の王国 中編』87〜88ページ)

晴哉が千秋に鬼八の伝説や三池家について語った一幕。雲に紛れてはっきりとはわかりませんが、この時も中岳の辺りにうっすらと白い噴煙が見えていました。
参道を来た方へ戻って行きます。


鳥居を出て、右へ行った方に火焚殿があります。
鳥居を出てすぐのところに、街灯のついた電柱があるのですが、千秋と哲哉が晴哉を待っていたのはここ…でしょうか。

<そのころ千秋と哲哉は霜神社で晴哉達を待っていた。傘のついた電球の下に座り込んで、哲哉は長い間黙りこくっていた。(略) 「ホントにこの血の中にも、阿佐羅の怨念が混ざってんのかな」「…………。三池」「阿佐羅の怨念抱えながら生きてんのかな」「阿佐羅のだけじゃないさ」 千秋は電信柱の上の月を見上げて呟いた。「たくさんの、いろんな奴の怨念が、入っているんだろうよ」「先生」 そうだ。代を重ねるにつれていろんな血が入ってきて、阿佐羅の血も薄まっていく。それは怨念も薄められていくということだ>(17巻『火輪の王国 後編』213〜214ページ)

電球ではなく、蛍光灯ですが、神社の一番近くにある電信柱はここだったかと。それにここからなら、火焚殿の方(火焚殿自体は路地の奥なので見えませんが)を見ることができるので、恐らくはこの辺りで晴哉を待っていたのでしょう。
鳥居を出たところから、火焚殿の方を向いて。


赤い矢印で指しているのが、ひとつ↑の写真の電柱です。


火焚殿は、この道を少し行って左に路地を曲がったところにあります。
この路地の先に火焚殿があります。
鳥居には「火焚殿」と書かれた額がかかっています。


手前は神楽殿、奥の三角の瓦屋根の建物が火焚殿です。
こちらが火焚殿。火輪の王国の冒頭は、十二歳になったほかげが、火焚少女として火焚殿に籠るところから始まっていましたね。

そして、その数年後、ほかげの中の阿佐羅が目覚めようとした時、晴哉がほかげを殺めようと決意したのもこの火焚殿の中でした。

<火焚殿ではほかげが鬼の形相になって阿佐羅と格闘している。たった数時間でほかげの顔は老婆のようになってしまった。朦朧としながらほかげは晴哉を見上げた。「た……まも……り」 晴哉は苦しげに眼を細めると、ほかげのそばに歩み寄った。(略)「英哉に子殺しの罪を犯させずに済んだ……」そう告げると。晴哉はほかげの細い首にゆっくりと手をかけた>(17巻『火輪の王国 後編』217〜218ページ)
結局、その途中で阿佐羅が覚醒し、火焚殿は爆発音とともに吹っ飛び、ほかげはヒムカの飛行能力で飛び去ってしまったのでした。

火焚殿の中を覗いて見ると、割と普通の座敷のような部屋が見えました。どうやら、火を焚き続ける土間の隣に座敷があって、座敷の方から二十四時間火を見守るということになっているようです。

火焚殿の屋根の上に小さな屋根が付いていますが、あの下から煙が出ていく構造のようですね。
敷地の一角に「火焚殿復興記念碑」なる石碑が建っていました。


復興記念? よく読めば、火焚殿はどうやら平成二十一年九月、火焚神事の最中に事故で焼失してしまったそうです(ご神体は無事に運び出されたらしい)。現在建っているのは、その翌年八月に再建されたもの。
火焚殿の隣に建つ「神楽殿」。

夜渡祭の時、この中で古代神楽が奉納されるそうです。

ただ、舞うのは火焚き乙女ではなく、男性神職だそうです。それと、ミラージュでは、ほかげが裸足で火の上を渡りながら舞い踊っていたようですが、実際は火の周りを回るだけだそうで。まあ、普通に危ないですしね…。もしかしたら、昔は本当に火の上を歩いていたのかもしれないですが。
13時15分、火焚殿を後にしました。


写真は霜神社一帯から少し南下した地点で、霜神社の方を振り返って。


道路の先の左側、木が生えている辺りが霜神社です。
望遠で。

参道と、小さな社が見えますね。その背後には、大観峰。

ああ、これが阿蘇なんだな…という実感が湧いてきます。

※霜神社の熊本地震での被害状況は、ネットで色々検索してみたのですが、ニュースのようなものはほとんど出てきませんでした。恐らくは、大きな被害はなかったのではないかと思っています。
霜神社から、先ずは阿蘇駅の方へ向かいます。


千秋と哲哉が最初に三池本家を訪れた時に辿ったルートを逆行するような感じですね。


阿蘇駅前からバスに乗って、この日の宿泊地である「内牧温泉」まで行くのですが、その前に「道の駅 阿蘇」と「西巌殿寺」に立ち寄ります。


今回、私たちは、宮地駅から阿蘇神社を経てずっと歩いて来ましたが、霜神社だけ行くのであれば、阿蘇駅や隣のいこいの村駅からの方がよっぽど近いです。
しばらく南に向かって歩いた後、西方向へ曲がりました。

ちょうど立野の方向ですね。外輪山の切れ目が見えます。

画面左側の斜面は、中央火口丘群の裾野です。

しかし、熊本の市街地もそうでしたが、阿蘇も意外とまだまだ暑かったです。長袖のシャツ1枚だったのですが、とてもとても…。袖をまくらないと暑くてたまりません。
こちらの写真は、東の方角を振り返って。


遠く、外輪山に囲まれています。


阿蘇谷のスケール感、伝わりますでしょうか…。
中岳の方を見ると、今度は黒っぽい噴煙が出ていました。


こういう土地に住んでいたら、否が応でも自然の恵みと脅威を感じるでしょうし、神や祖先という存在について考えざるを得ないのでしょう。神話が生まれ、現在でも語り継がれるだけの環境があるということですね。
途中、「西岳川」という川を渡ったら、火山灰だらけで驚きました。中央火口丘群の方から水と一緒に流れてきたのでしょうか。火山灰…と言うと、火輪シリーズのラストシーンを思い出さずにはいられません。

<雪のように降ってきたそれを、哲哉は手を伸ばして受けとめた。火山灰だ。中岳の。(略) ほかげだ、と思った。火口から噴くそれは、妹を焼いた灰だ。骨も残らなかった妹の灰だ。哲哉は小さなそれを掌に包みこんだ>(19巻『火輪の王国 烈濤編』260〜261ページ)

高耶さんと直江が炎の中で再会するシーンといい、この哲哉のシーンといい、火輪の物語は壮大過ぎて、読了後、かえって虚無感を覚えるほどでした。
田園の中の道が国道212号と交わるところに、霜神社の看板が立っていました。


小さな神社ですけれども、火焚神事はやはり有名なのでしょうか。
国道212号を南下していきます。


道の先には、根子岳・高岳・中岳の辺りが見えます(涅槃像の頭から〜お腹の辺り)。
しばらく行くと、阿蘇駅のホームと黒い駅舎が見えてきました。
国道212号は、阿蘇駅付近の国道57号と交わるところで終点となります。

写真、右奥から左手前方向へ走っているのが国道57号。右手前から国道57号に接しているのが国道212号。因みに、ここは、下を豊肥本線が通っているため、高架になっています。

後ろに写っている山は、左が高岳、右は往生岳。

千秋が哲哉を乗せて、車でここを通っていましたね(赤い矢印方向へ)。
アングルを変えてみました(国道57号から、立野方向に背を向けて)。


<豊肥本線阿蘇駅の少し先の交差点を左折し、細い道を入っていったところの集落が、哲哉の実家がある役犬原だ>(16巻『火輪の王国 中編』68ページ)


阿蘇駅の少し先の交差点というのが、ここですね。ここを左折して、恐らくは、さっき私が通ってきた道のりを車で行ったのではないかなと思われます。
陸橋を渡って阿蘇駅の方へ向かいます。
下を見ると、豊肥本線の線路と、阿蘇駅が見えました。
阿蘇駅のすぐ南にある、道の駅 阿蘇にやって来ました。霜神社から…あれ、それでも50分くらいかかってますね…。


土産物とか、農産物とか売っています。


ここに相方を置いて、私は更に阿蘇駅の南側にある西巌殿寺を見に行きます。
写真は、阿蘇駅前の交差点(右の方、木の生えている辺りが道の駅)。

熊本空港で直江(開崎ではなく直江本人)を乗せた八海の車が、この交差点を通って、西巌殿寺に向かっています(赤い矢印の方向へ)。烏帽子岳で小太郎と対決した翌日のことです。

<車は昨夜小太郎と戦った烏帽子岳山腹を横目に見ながら、国道をひた走る。阿蘇駅前を右に入ると、草千里へと続く道路の入り口に、目指す西巌殿寺はあった>(17巻『火輪の王国 後編』197〜198ページ)
西巌殿寺は、阿蘇駅前から真っ直ぐ伸びている道をひたすら南下したところにあるので、場所はわかりやすいです。


写真は、駅前から10分程度歩いたところ。
駅前から歩いて15分程度で、西巌殿寺の入口に到着(途中、スイーツめぐりりチケットを使えるお菓子屋さんに立ち寄ったので、実際はもう少し早く着くかと)。


<大昔から山岳仏教が盛んで、阿蘇山上には、古坊中と呼ばれる八十八もの堂塔伽藍が競い合うように建っていた。(略) たくさんの僧侶・修験者が日々修行に励む、それはそれはにぎやかな風景だったに違いない。その本堂だったのが西巌殿寺だ。(略) 古坊中は戦国期の争乱で焼き払われたと伝えられている。そのあと、加藤清正の手によって麓に移され復興した。これを麓坊中という。現在の西巌殿寺は山上から本堂を移したものだった>(17巻『火輪の王国 後編』198ページ)
古坊中は、今は、石碑だけが残る草原になっているそうですね。今回は行きませんが、阿蘇山上に行く時は見てみたいです。

麓坊中も、明治に入って次々と廃寺となる中、西巌殿寺だけは山上からここに移され、存続することができた、ということらしいです。

一帯の賑やかな雰囲気はありませんが、「坊中」という地名は今も残っているようで、歩いてくる間に「阿蘇町坊中」という交差点がありましたし、阿蘇駅は昭和の中頃までは「坊中駅」と呼ばれていたそうです。

写真は、門を入ったところ。奥、左方向へ石段が伸びています。
こんな感じ。


<車から降り立つと迎えのものが出てきて案内をした。立派な杉木立の石段を登っていったところに本堂はある>(17巻『火輪の王国 後編』198ページ)


確かに立派な石段。杉木立の間から差し込む木漏れ日が何とも神秘的な雰囲気で。


しかし、直江は車イスだったはずだから、ここは登れないはず。上の本堂近くに直接乗りつけられる入口があるのかもしれないですね。
阿蘇谷を散々歩いてきて疲れた足で、何とかこの長い石段をようやく登り切ると、ここで初めて、ある違和感が…。


建物は? 本堂は、どこだ? と。
あれ。見渡しても、建物がどこにもない。火輪の王国では、本堂が描かれていたはずですが。

<全体が黒みを帯びた、いかにも年代古い建物だ。正面から見るとそう大きくはないが意外に奥行きがあって、中では法要のようなものが行われている>(17巻『火輪の王国 後編』198ページ)

その本堂で、直江が阿蘇惟光と対面し、大火輪法についての説明を受けたことになっていますが…。

短い石段と土台のようなものがあるのみですね。
反対側にぐるりと回ってきました。礎石のようなものがあります。どうやらここが本堂“跡”ということのようですね。明治の頃、古坊中から移した際は本堂はあったはずですから、その後何らかの原因で失われ、作中に出てきた本堂は、ここに再建したものと仮定して描かれていたのだろうか…などと、この時は考えていたのですが…。

実際は、平成13年に、ここにあった本堂が全焼してしまったのだそうです。ということは、火輪の王国が描かれた時は、やはりちゃんとあったんですね。

一応、来る前に公式HPなどはチェックしていましたが、片隅にさりげなく書かれていただけだったので気づかなかったようです。ウィキペディアもチェックするべきでした。現地には何の説明書きもなかったので、びっくりしました…。
古く、趣きのありそうな本堂を見られなかったのは、とても残念ですが、礎石の形から、「大きくはないが意外に奥行きがある」というのは何となく感じ取れました。

写真は、本堂の礎石を少し離れたところから(石段とは反対側から)。

それと。直江が外輪山へと差し込む光を見つめながら高耶さんのことを想っているというシーン(19巻13ページ)がありましたが、この辺りは木々が多く、外輪山がある方向の眺望はほとんど無かったかと(南側は若干開けていますが、南にあるのは外輪山ではなく、中央火口丘群)。
こちらの写真は、ほぼ↑の写真の位置から背後を振り返って。

すぐ後ろは、県道111号(阿蘇パノラマライン)に面しています(この道を写真右方向へ行くと、草千里です)。さっき潜ってきた門も県道111号に面したところにありましたが、こちら側に車をつければ、石段を上がることなく本堂に来られるのですね。

<移動の準備は整っていて、寺の裏手口には数台の車が止まっている>(19巻『火輪の王国 烈濤編』17ページ)

いよいよ大火輪法を行うという段になって、直江が本陣を据える草千里へと出発するシーンです。一応、車イスですからね。やはり、こちらの出入り口を利用していたのでしょう。
空港から八海の運転する車でここ西巌殿寺に入った直江は、大観峰で(高耶さんと千秋の)衝突の気配が感知された際、無茶をしようとして八海に無理やり薬で眠らされた経緯がありつつも、その後多少冷静さを取り戻し、古城高校でジュリアの安否が不明になったまま、混乱のうちに、草千里へと発ったのでした。


写真は、石段を降りて真っ直ぐ進んだところにある門(門の向こうが降りて来た石段)。どうやら、こちらが正門だったようですね。
一旦、道の駅阿蘇に戻って、相方と合流し、阿蘇駅までやって来ました。


道の駅や、この阿蘇駅は、さすがに観光客が多いですね。外国人観光客も結構いました。


15時15分阿蘇駅前発の路線バスに乗って、この日の宿泊地である内牧温泉へと向かいます。
この日のミッションは完了しました。またしても長い一日でした。


散々歩いた阿蘇の田園風景を、バスの車窓から眺めつつ、温泉地へ向かいます。


阿蘇谷に温泉はいくつもあると思いますが、温泉地らしい温泉地となると、やはり内牧温泉になるのでしょう。旅館も多いですし。




そして、幸いにも大観峰に近い場所にあり、アクセスも近いので、翌日午前に大観峰へアタックする予定です。





展望所までは行きませんが、近いところまで路線バスが通っていますので、路線バスで行き、帰りは逆向きのバスで阿蘇駅へと戻ります。
内牧温泉の中、「阿蘇市商工会前」というバス停で降りまして、スイーツめぐりチケットを使うために、「おしま屋」というお店に来ました。


一見、雑貨屋さんなんですが、カフェコーナーもありまして、阿蘇産の野菜を使ったスムージーが、スイーツめぐりチケットで飲めるとのこと。
注文したのは、ブルーベリーのスムージー(ブルーベリー、トマト、イチゴ、パイン)と、だいだいのスムージー(ミカン、トマト、パイン)。


なかなか美味しい。旅行中はビタミン不足になりそうですし、体調を整えるのにも良さそうです。
先ほど、阿蘇神社近くの「一の宮インフォメーションセンター」で購入したスイーツめぐりチケットですが、3枚綴りで500円です(写真は1枚使用してから撮影したもの。二人分)。

参加している25軒の中から、好きなお店を選んで、決められた商品と交換できます(種類が選べる場合もある)。

例えば、↑のスムージーなんかは、普通に買うと1杯450円ですので、かなりお得に阿蘇のスイーツを楽しめるということになっていますね。

期間限定のイベントですが、割りと毎年開催されているようですので、興味のある方は検索してみて下さい。
16時8分、予約してある「阿蘇ホテル一番館」に到着。


部屋や露店風呂から阿蘇五岳が一望できるという眺望の良さに惹かれて、ここにしました(来るまでも嫌というほど見ましたが)。評判もそこそこ良さそうでしたので。


熊本に引き続き、こちらのホテルでもふるさと割を利用させて頂きました。1泊2食付き、2名で30,249円(税込)のところ、ふるさと割クーポンで15,000円引きとなり、合計15,240円。一人当たり7,620円。


2015年度は、ふるさと割をたくさん使わせてもらいました。旅行好きの人間にとっては、本当にうれしい企画でした。
和洋室のツイン。熊本ホテルキャッスルほど豪華な感じはしませんが、ここもいつも泊まっているマッチ箱のようなビジネスホテルと比べれば実に広々としています。


ふるさと割さまさまですね。
部屋からの眺め。

すぐ下を流れるのは、黒川。ウィキペディアによると、「河川名は、豊富な湧水源から出る清らかな流水という意味の白川に対し、火山灰を含む濁水という意味から来ている」とのこと。

なるほど。さっき見た川もそうでしたが、阿蘇谷を流れる川は火山灰を含むことが多いのでしょうか。

だいぶ霞んではいますが、涅槃像を眺めるのには良いロケーションです。
スイーツめぐりチケットを使うため一度外出し、戻ってから夕暮れ時の涅槃像を眺めながらゆっくり温泉に浸かると、そろそろ夕食の時間。


写真は、夕食の時に出た「阿蘇名水しぼり」と書かれたおしぼり。中央火口丘群(中岳からは噴煙が出ている)とくまモンが描かれていますね。おしぼりにもご当地ものがあるとは。


お料理は、まずまずといったところでしょうか。どれも味付けは割りと良くて、美味しかったです。阿蘇赤牛のお鍋はちょっと煮過ぎてしまった…。オレが悪い。でも美味しかった。あまり脂っぽくないのが良いですね。肉が食べられない相方にはでっかいエビが出ていました。

昼間あれだけ阿蘇の田園風景を見せつけられたら、その米で作った酒を飲まずにはいられないわけで。

純米吟醸酒「うち田」を飲んでみました。阿蘇谷の米を使って、福岡県の久留米で造っているのだそうです。以前は阿蘇で造っていたものの酒蔵がつぶれてしまったのだと、給仕の人が説明してくれました。すっきりとしていて、飲みやすいお酒ですね。

右は熊本ワインのナイアガラ。このひと月ちょっと前に、北海道でおたるワインのナイアガラ(特撰は特にすばらしい)を飲んですっかり魅了されてしまった経緯があり、こちらもちょっと気になって注文してみました。んん…おたるワインの出来と比べるのはやはり酷かな。こちらは同じ甘口でも、だいぶすっきりした飲み口。ただ、ナイアガラのあの芳しい香りは、もの足りません。でも、気をつけて色んなところのワインコーナーを見ていると、結構見かけるので、ファンはいるのかもしれませんね。

こちらは、スイーツめぐりチケット(二人分残り4枚)で交換したもの。

下段の二つは、阿蘇駅の近くにある「菓心なかむら」の「フロマージュタルト」。チーズが濃厚でとても美味しい。上段左は、内牧温泉の温泉街の中にある「MIYUKI」という洋菓子店の「チーズBOU」。こちらも濃厚でとっても美味。MIYUKIはバスの運転手さんから勧められたお店で、お洒落な感じのケーキ屋さんでした。上段右の二つは、内牧の温泉街から少し外れたところにある「渡辺万十」のおまんじゅうといきなり団子。こちらは1枚のチケットで二つ交換できました。

しかし、宿の夕食だけでお腹いっぱいになってしまったので、大半は持って帰って食べました…。
夜になると、霧が出てきました。部屋の窓から外を見ると、街の灯りがぼや〜んとしてちょっと幻想的。

この季節、阿蘇は雲海が出ることでも有名らしいですね。「涅槃像雲海ツアー」というのもあって(特定宿泊施設の宿泊者が対象)、早朝に大観峰付近までバスで連れて行ってくれるらしいので、これを使えば大観峰のミッションも解決できていいかもしれないと迷ったのですが…結局参加はしませんでした。

早朝の雲海もとても魅力的ではありますが、行って帰ってくるだけで一人3,500円も取られますし、バスを使えば自力でも行けますからね。
さて、旅の最終日、三日目になりました。


阿蘇谷の朝は冷えるんですね。フロントの奥にある暖炉には火が入っていました。霜神社の火焚神事が8月後半から始まるというのもわかる気がします。


それにしても、阿蘇、暖炉…と言うと、どうしてもあの回想シーンを連想してしまいます。直江と美奈子さんの…(18巻143ページ)。アニメでも、ちゃんと暖炉が描かれていましたよね。
食べ物の写真が多いので、朝食は省略。


こちらの写真は、朝食後に出て来たデザートのわらびもちと、阿蘇の牛乳。


牛乳は良いですね。阿蘇の朝に、阿蘇産の牛乳。体の中に阿蘇の風が吹くようです。
朝9時過ぎにホテルをチェックアウトして、近くのバス停まで移動。


写真は黒川沿いを歩いて、ホテルの方を振り返ったところ。


薄くはなってきていますが、まだまだ霧が残っています。
「下新町」というバス停を9時31分に出る路線バスに乗車。


杖立温泉行きです。大観峰付近まで行くバスはこの路線しかないようですね。本数も少ないです。
山道をぐんぐん登っていきまして、十数分で、大観峰入口に到着します。
大観峰入口バス停付近から。


下界はガスっていましたが、外輪山の上に来ると青空が広がっていました。まだ少し残っている雲海がとてもきれいです。


空の透明度も前日より多少良いみたいですね。
北外輪山をバックに秋のすすきが揺れていました。


外輪山のふちは本当に平らですね。不思議な光景です。何となく隕石孔のようでもあります。
おっと。ここで見とれていても仕方ありません。ここは大観峰ではなく、あくまで「大観峰入口」というバス停です。


大観峰へはここから歩かなくてはなりません。写真右の道路を上がっていくとが大観峰。
こんな感じの風景の中を延々と歩いていきます。


当然ながら、歩行者なんて他にいません。


でも、てくてく歩いていくと、道端に見慣れない高山植物が咲いていたりして、時折心なごみます。写真左から、ヤマラッキョウ、ウメバチソウ、ツリガネニンジン、フデリンドウ…だと思いますが、違うものがありましたらすみません。

序盤は登り坂でしたが、しばらくすると、ほぼ平らな草原の上に出てきました。


遠くに、大観峰の売店らしき建物が見えます。
更に近づいたところ。


売店の屋根と、電波塔が見えますね。
バス停から35分以上かかって、大観峰売店前まで到着しました。

この日は土曜日ということもあってか、朝から駐車場は大賑わいですね。まあ車で来れば楽ですしね…。

免許を取った今であれば(2016年4月に取りました)、恐らくはレンタカーでも借りていただろうなと思います。しかし、車の旅も一長一短なわけで、行動範囲が広がり、無駄なく回れるのですが、前日の阿蘇谷の移動なんて、車ですっと走ってしまっていたら、あそこまで阿蘇谷の雰囲気にどっぷり浸れてはいなかっただろうなとも思うわけです。どちらが良いかは一概には言えませんね。
売店の建物まで来たのは良いんですが、展望所はまだまだ先のようで…。


ほんと、ミラツアは過酷だ…。
おお。結構遠いな。


高耶さんと千秋がバトルを繰り広げた展望所は、前方に見える電波塔より更に先なのでした。
売店の建物から、15分くらいかけて、展望所に到着。

人が多くて、誰もいないところなんて、撮影不可能という状態。まあ、天気が良いからですね。やはり大観峰は晴れてないと。

<千秋修平は人質交換の指定場所である大観峰へとやってきていた。ここは元々は遠見が鼻と呼ばれていたが、阿蘇で最も見事な眺望を得られるところから徳富蘇峰によって大観峰と名付けられた。北外輪山では最も高い場所で、阿蘇五岳とカルデラが一望のもとである。涅槃像が一番美しく見えるところでもあった>(17巻『火輪の王国 後編』250ページ)
石碑の正面に回って。


石碑の背後に見えるのは、北外輪山のふち。
<月のある晩だった。壮大な五岳の輪郭がくっきりと見える。まるで月の下で巨人が眠っているようだ。ここはカルデラ内に岬のように突き出ており、吹き付ける風もかなり強い。外輪山にはいくつか岬を意味する「鼻」のつく場所があるが、昔巨大な湖だったというから、それらもあながち嘘ではない。(略) 「大観峰」と書かれた石碑の前に立ち千秋修平は相手が来るのを待った>(17巻『火輪の王国 後編』250〜251ページ)


写真は、石碑の前から展望台の方を向いて。展望台の先は阿蘇谷、その向こうに涅槃像の五岳が見えます。
大観峰の石碑の下、展望台へと続く階段の脇に、「遠見ヶ鼻」の石碑もありました。

<「それより人質の解放が先だ。稲葉はどこだ」 「稲葉はこない」 「……っ」 階段のほうから別の声があがって、千秋は驚いて振り向いた。知っている声だ。展望台のほうから学ラン姿の高校生が歩いてくる。その顔を見て千秋は思わず眼を剥いた。姿を見せたのは彼らに連れ去られたはずの仰木高耶だった>(17巻『火輪の王国 後編』252ページ)

大観峰へは、人質となった稲葉朱実を救出するためにやって来た千秋ですが、交換条件の阿佐羅(ほかげ)は、前述の通り、霜神社の火焚殿で覚醒し、飛び去ってしまったのでした。一方、ヒムカ教側が人質として拉致した稲葉朱実も、蛇蠱の卵が孵化して覚醒し、国造神社から自力で脱走してしまっています。

ところで、大観峰の前で待っていた千秋に対し、高耶さんは展望台の方から現れたそうですが…、千秋が来る前からそこで待っていたのか(先に居たら千秋が気づきそうですが)、ヒムカ教の人たちに連れられて飛んで来たのか…。でも、前後の感じからすると、ヒムカ教徒が登場した方とは別の方向から高耶さんが現れたような印象を受けるのですが…。この辺は定かではありません。
新上杉のことについて知ってしまった高耶さんは、もはや誰も信じることができない状況で、千秋をも疑っていました。いや、心底疑っていたのかどうかはわかりませんが、あれはほとんど自己防衛本能のようなものなんでしょうね。

攻撃をしかける高耶さんに対して、千秋も応戦はするものの、やはり「いい人」を発揮していましたね、ここでも。しかし、高耶さんの記憶を引きずり出そうと、力ずくでその精神に手を突っ込んだ時、「尋常でないほど脆弱なもの」に触れてしまい、驚いて力を緩めたのでした。

写真は、石碑の先にある展望台。ここが一応、行き止まりのようです。
展望台から石碑の方を振り向いて。

どの地点から吹っ飛ばされたのかはわかりませんが、千秋は、あの石碑に二度も叩き付けられていました。最初は高耶さんに念で突き飛ばされて(18巻10ページ)、二度目は小太郎が放ったらしい霊獣の虎にふっ飛ばされて(18巻23ページ)。

千秋は、火輪シリーズでは災難続きでしたね。球磨焼酎呑んで余裕ぶっこいていたのも束の間、夜叉衆は空中分解してしまうし、自らは信長との衝突で肉体を失ってしまうし…。そう言えば、綾子ねえさんも、このシリーズでは散々でした。本妙寺で拉致されて以降、信長のもとで長い監禁生活に入ってしまうんですもんね。高耶さんと直江なんて、むしろまだ幸せな方かもしれない。あんだけ苦しんでも最期は一緒になれたんですから。それが火輪シリーズの唯一の救いかな。
展望台の南西角からは、平らな北外輪山がよく見えます。

具体的な場所はわかりませんが、この北外輪山も舞台となった場所のひとつでした。あっちまで行く予定はないので、ここで振り返ってみたいと思います。

<康夫が佐伯遼子に墜とされたあと――。埋まった土砂のなかから、高耶は遼子に助けられた。幸い土砂は入り口を塞いだだけで済んだらしい。遼子に抱えられて、高耶は外輪山のふちへと運ばれた。北外輪山の上は広大な牧草地になっている。どこまでも続く冬枯れの牧草地に波を立たせながら、冷たい北風が渡っていった。ふたりはそこに降りた>(19巻『火輪の王国 烈濤編』87ページ)
古城高校の屋上からヒムカ教の康夫らに連れ出された高耶さんでしたが、佐伯遼子が康夫を殺害したことにより救出されたのでした。

<「背中を押されて立ち止まれない人間は、いつかみんな破滅する。方向修正は何度でもできる。引き返す権利はみんな持っている。自分を、解放してやることは――許してやることは、それは、恥じることなんかじゃない。決して恥じることじゃないんだ」 遼子は驚いたように高耶を見た。心が、不意に楽になったのを感じた>(19巻『火輪の王国 烈濤編』93ページ)

この時、鬼八の首は手元にあり、高耶さんはこれを芦ノ湖に持って行くつもりでした。しかし、いつの間にか佐伯遼子に御厨樹里が憑依して、鬼八の首を抱いて飛んで行ってしまったのでした。佐伯遼子って何か憎めないキャラですね。


改めまして、大観峰展望台から望む、涅槃像です。絶景とは、こういう景色のことを言うのでしょうね。中岳の白い噴煙が上がっていたら、もっとよかったかもしれません。

<「――おまえとも、もういっしょにはいられない」 「か……げとら……」 高耶は痛そうに眼を細くすると、さよなら千秋、と呟いた。疑心暗鬼はそこまで深いのか。いやたとえ千秋が味方だとしても高耶はひとりで行くつもりのようだった。だれの手も借りてはいけないと思ったのか。自分ひとりで、始末をつけようという気なのか。高耶は、自分自身にとても疲れている。直江に会ったら伝えてくれ、と憔悴した声で高耶は告げた。「オレを殺すなら、自分の手で殺しにこいと」>(18巻『火輪の王国 烈風編』25ページ)

<高耶は霊獣の頭を静かに撫でると、草地に降りてゆっくりと谷のほうに歩きだしていった。(略) 追いかけようとしたが体が痛んでついていかなかった。高耶は足を止めない。千秋の声も強風にかき消され、谷に降りていくふたつの影はやがて闇に溶けていった>(18巻『火輪の王国 烈風編』25ページ)

大観峰の展望所の先から、クマザサに半ば埋もれるように道が伸びているのですが、高耶さんはここを降りていったのでしょうか。


月明りの中、霊獣だけを引き連れてこんな道を降りていく高耶さんの胸中を想うと、やりきれない気分になってきます。


阿蘇谷に降りた後、高耶さんは熊本の古城高校へと向かうわけですが、途中、江津湖で冥界上杉軍を発動させるための開扉法を行い、自分には既にその権限がないことを知って泣き崩れるのでした。


ところで、桑原先生は、真冬の日没後に大観峰に行ったことがあるそうですが(19巻あとがき)、夜の大観峰というのも見てみたい気がしますね。満月の夜とか、どんな光景が広がっているんだろう…。
元来た道を戻っていきます。

写真は、石碑のところから売店や駐車場の方へ続く道。

<「景虎様……! 景虎様ああっ!」 背後から聴こえてきた声に千秋は振り返った。駐車場からの長い砂利道を駆けてきた男がいた>(18巻『火輪の王国 烈風編』26ページ)

国造神社から景虎様を追いかけてきた竹俣慶綱が登場するシーンですが…、ここの道は、昔、砂利道だったということのようですね。
売店でジャージーソフトを食べてから、再び大観峰入口バス停へと戻ってきました。

バスを待っていると、空に鳥人の姿が。

パラグライダーですね。景色が良いから気持ちよさそうです。

バスの本数が少ないので、大観峰入口バス停に到着してから次のバスまで、2時間近くあり、時間を持て余すかなと思っていたのですが、歩く距離が長かったため、意外とそれほどの余裕もなく…。

往復ともバスを利用しようとすると、今回乗った便を利用するほか無いようですね。それでもちょうど良い便があっただけましです。

※大観峰は、熊本地震で大きな被害はなかったようで、一応行くことができるみたいです。
11時49分大観峰入口バス停発のバスに乗り、阿蘇駅までやって来ました。


阿蘇駅からは、12時58分発のJR豊肥本線に乗って、立野方面へ。


阿蘇谷に別れを告げ、今度はカルデラの南側・南郷谷へと向かいます。
前日も乗った豊肥本線を、立野まで戻ります。


写真は、「外輪山の断崖状になったあたり」を再び車窓から望んで。


前日より幾分くっきりと見えますね。
望遠で。


確かに、ほら穴でもあったら、身を潜めるのには絶好の場所です。
13時31分、立野駅に到着。


ここで南阿蘇鉄道へ乗り換えとなりますが…、お昼も過ぎましたので、ランチということにします。


写真は、立野駅(ホーム側から)。
改札を出て(改札ってあったかな? 確か無人駅だったけど)、外側から。

阿蘇駅周辺ではなく、わざわざ立野でランチタイムを取ったのは、もちろん、立野駅周辺の様子が見たかったからなわけで。

<立野は阿蘇の外輪山の切れ目にあり、ちょうど北阿蘇を走るJR豊肥本線と南側を走る南阿蘇鉄道の分岐点にもなっている。タクシーは目的地の立野駅前についた。駅前には開崎を待っていたらしい見覚えのある4WDが泊まっていた。「開崎様……!」 ダッフルコートの男が降りてきて、こちらへ手を振った。八海だ>(16巻『火輪の王国 中編』142ページ)

熊本市内の病院からタクシーで駆け付けた開崎が立野駅前で八海と落ち合うシーン。立野駅はちょっと珍しい形をしていますね。駅っぽくない。
※立野駅は、JR豊肥本線白川が流れるところが深い谷になっていて、立野駅はその北側の少し高いところに建っています。その更に北側の高いところを国道57号が走っているという位置関係です。


ランチを食べようと思っているお店は、国道57号沿いにありますので、そちらの方に向かって坂を上がっていきます。


国道57号に上がって、軽く感動を覚えました。火口瀬は、前日、車窓からも少し見えましたが、ここに来ると、本当によくわかりますね。外輪山の切れ目というのが。ここを白川と鉄道と国道が通っていて、阿蘇と熊本を繋げている。そして、道の先には、中央火口丘群の姿が。真ん中の三角形の山が烏帽子岳。その右の少し低いのが御竈門山(おかまどやま)、左端の方に見えるのは杵島岳かと。

立野駅は、写真右の方、少し低い位置にあります。前日通りましたが、JR豊肥本線が阿蘇に入る時は、スイッチバックして、国道57号より左側の山際を走って阿蘇谷へと向かいます。南阿蘇鉄道の方は、右から迫る外輪山の中に掘られたトンネルを潜って南郷谷へと入って行きます。

この国道57号はシリーズ中、色んな人たちが何度も往復していましたね。その57号から火口瀬と、その向こうに中央火口丘群を望むこの風景は、何なら火輪の王国という物語の中で最も印象深い風景だと言っても過言ではない気がしてきます。ここもまた、阿蘇という地形を体感できる眺めです。立野で降りて、本当に良かった。

立野については、前日少し触れましたが、一応まとめてみますと、立野付近が舞台になったのは主に次の三つのシーンだったかと思います。
@千秋の運転する車で、千秋と哲哉が三池家に向かうシーン(16巻67ページ)。
A開崎が熊本の病院からタクシーで立野駅へ向かうシーン(16巻140ページ〜)
B古城高校屋上から鬼八の首を抱えて飛び去った阿佐羅と鳥人衆たちが信長のヘリに追われながら阿蘇を目指すシーン(19巻32ページ〜)

そのどれもが、地形の描写は印象的でした。立野火口瀬は文字通りゲートのような地形で、阿蘇――火輪の王国への入口を象徴する場所だと言えるでしょう。

↑の写真、信号のところで国道57号を渡ってすぐのところに、「武蔵茶屋」というお店があり、ここで昼食を頂きます。立野駅からは7〜8分の距離。


店名は「武蔵茶屋」ですが、「武蔵うどん」と書かれた看板もあるので、うどん押しのようですね。


本店は、前日熊本から来る際に通った武蔵塚の近くにあるようで、ここは「立野店」ということのようです。
相方も私も、天ざるうどん、税別1,200円を注文。


今どき、1,200円でこのボリュームの天ざるはなかなかお目にかかれません。


天ぷらサクサク、うどんツルツルで、満足な昼食でした。
お腹いっぱいになったところで、再び国道57号を渡り、立野駅の方へと降りていきます。

<車は国道から右に折れて、狭い坂道を谷のほうへ降りていった>(16巻『火輪の王国 中編』142ページ)

開崎を乗せたタクシーが国道57号を降りるシーンです。

写真右の道路が国道57号。ここを降りて行くと、立野駅前へ行けます(ここより少し先の、さっきの信号のところで右折しても行けるようなので、開崎のタクシーがどちらから下りて行ったかは定かではありませんが…、一応こちらの方が近道ではあるようです)。
立野駅に戻り、南阿蘇鉄道のホームへ入ると、トロッコ列車が入線していました。

というか、このトロッコ列車が乗ろうとしていた14時35分発の列車なのでした。移動手段としか考えていなかったので、トロッコかどうかって気にしていなかったのですが、たまたま観光用のトロッコに当たったようです。

後方には普通の車両もあるんですが、折角ですのでトロッコ料金800円(運賃別)を支払って、トロッコに乗ることに。
この後、団体客がどっと入って来て、かなり盛況でした。


南阿蘇鉄道は、1986年、旧国鉄高森線を引き継いだ第三セクターです。

路線は、立野から高森までのさほど長くない距離ですが、南郷谷の美しい田園風景や、中央火口丘群の迫力のある景色を眺められるので、乗っているだけで楽しいです。
特に、トロッコ列車というのは、風を感じられるのが良いですね。


やっぱり普通の車両とは全然違います。


それに、車掌さんのアナウンスが結構面白い。轢いてしまったイノシシを社員で食べた話とか、沿線の手の届きそうなところにアケビがなっていて、通る度に採って食べたいと思っている話とか…。
深い谷に架かる鉄橋を渡ったり。
真っ暗なトンネルを潜ったり。
トンネルを出て、南郷谷に入ると、烏帽子岳(左)と、夜峰山(よみねやま・右)が見えてきました。
途中の長陽駅では、なぜかウルトラマンがウクレレを弾いて登場。


ローカル列車は、企業努力がすごい。というか、皆さん楽しんでやっているんでしょうけどね。
南側の車窓には南外輪山が。北外輪山ほど平らな感じではないんですね…。

畑から煙が上がっていて、一瞬、野焼き?と思ったのですが、あれは冬の終わりですよね。これは、たぶん何かを焼いているだけなのでしょう。

阿蘇の野焼きと言えば、四国編で、清正の前に、中岳で死んだとばかり思っていた高耶さんが野焼きの火を通じて姿を現すという一幕がありましたね(大友と同盟を組むに当たって、高耶さんが清正に協力を要請した)。
そして、北側の車窓には次第に、中央火口丘群が見えてきました。


これは、涅槃像の南西辺りから見ているような感じですね。


左手前の山は、御竈門山。その右のなだらかな部分が釈迦の胴体(一番高いところが高岳)、右端、顔部分の根子岳は画面から切れてしまっていますが…。
望遠で、中岳の辺りを(右の一番高いところが高岳)。


中岳火口は、ここから直接見ることはできませんが、何となくあの向こうが火口なんだろうな、というのがわかります。
少し進んで、恐らく中岳の真南になるであろうという地点から。


うわ、噴煙なのか、湯気なのか、うっすらと白い雲のようなものが出ています。


規制が解かれたら、必ず行きたいですね。高耶さんと直江が再会した火の山を見に。
15時17分、南阿蘇白川水源駅に到着。

白川水源は、ここから歩いて数分の距離にあります。


※南阿蘇鉄道ですが、熊本地震による影響で、このレポートを書いている時点では、中松―高森間でのみ運行が再開されています。JRとの接続がある立野へは行けないので、今はなかなか厳しい状況だとは思いますが、南阿蘇の観光には欠かせない存在だと思いますし、がんばって欲しいですね。


白川水源を見て、今回のツアーミッションは終了。旅も終わりです。熊本空港へは、延岡から高千穂・熊本空港を経由して熊本駅まで行く「特急たかちほ号」というバスが、ちょうど良い時間に高森駅近くの「高森中央バス停」を通るので、それに乗車することにしました。

高森へは再び南阿蘇鉄道に乗っても良いのですが、時間が合わなかったので、路線バスを利用しました。白川水源近くから、空港行きのバスが出る高森中央バス停まで行けるので好都合です。運賃100円だし。

白川水源へ向かう道(バス停のある通り)にて。


この先、道路の左側に白川水源への入口があります。
そこそこの観光地なので看板が出ていますし、鳥居も建っていますので、場所はわかりやすいです。


ミラージュでは、熊本の病院から連れ去られた高耶さんの行方を捜すため、開崎が、立野駅前で合流した八海とともに、ここを訪れていましたね。


<車が到着したのは、白川吉見神社である。白川水源というほうが馴染みがある。ここ白水村は湧き水の豊富な土地で、熊本市内を流れる白川の源でもある>(16巻『火輪の王国 中編』209ページ)
鳥居を潜り、物産館の脇から続く遊歩道を歩いていきます。


この奥に、白川水源と白川吉見神社があるようです。
<八海と開崎は降りて、すぐ下を流れるせせらぎの音を聞きながら、杉の森の奥へと入った>(16巻『火輪の王国 中編』209ページ)


遊歩道のすぐ脇に川が流れていますね。しかし、もっとささやかな流れかと思いきや、結構な水量です。
奥へ進んで行くと、料金所のようなものがあります。


白川水源の環境を守るため、一人100円の協力金を払って下さい、とのこと。この環境を守ることに使ってくれるなら、喜んで出しますよ。
料金所を過ぎるとすぐに、湧水池があります。

<ふたりは一番奥の神社の社の前まで来た。社殿の前には湧水の池がある。とても透明度の高い池で、昼間なら、底のほうからエメラルド色の美しいグラデーションが見られるのだが、あいにく今は暗闇のなかである。池は闇を映しており、水が湧く際のさざなみが、積もった雪からのわずかな明かりに、静かに光っている>(16巻『火輪の王国 中編』209〜210ページ)

写真右にあるのが、その湧水の池。左の鳥居の奥が、白川吉見神社の社殿です。
鳥居を潜ったところ。


人もたくさんやって来たので、先に参拝をしに行きます。
<池のふちには段差があり、水汲み場となっている。開崎らはそこへ降りた。(略) 「いったい、なにをなさるのですか」 「水鏡法を行う」 開崎は静かに革手袋を外した>(16巻『火輪の王国 中編』210ページ)


開崎はその水鏡法によって、水面に阿蘇の地形を再現し、そこへ高耶さんの名前を書いた人型を浮かべ、彼が烏帽子岳中腹辺りにいることを突きとめたのでした。そして、この湧水から水化蛇を生み出し、高耶さんの元へと先導させたのでした。
幸い今は昼間なので、開崎たちとは違って、美しい湧水を眺めることができました。透明度が高く、実にきれい。ずっと見ていても飽きないほど。

島原で見た湧水とどっちがきれいかな(長崎アウディノスツアー参照)。甲乙はつけがたいですね。

島原もそうですが、この白川水源も、火山の恵みなんですよね。

静岡県浅間大社の湧玉池なんかもそうですね。あれは富士山の恵み(2016年8月に行ってきましたので、後でレポート書きます)。

ここで水を汲めるようになっているので、空になった水筒に入れました。冷たくておいしいお水です。高耶さん捜索の手助けをしてくれたお水だと思うと、余計にうまい。

湧水量は毎分60トンもあるのだそうです。すごい量。なるほど、さっき歩いてきた遊歩道脇の川も勢いがあるわけだ。
※南阿蘇にはいくつもの湧水があり、その一部は熊本地震の影響で枯れてしまったとの報道がありましたが、白川水源については、被害はほぼなかったようです。


白川水源の湧水で淹れるコーヒーというのに惹かれ、遊歩道脇にある「水源茶屋」に立ち寄りました。
アイスコーヒーを頂きました。


旅のシメに、白川水源のアイスコーヒー。今回も良い旅でした。
遊歩道の入口辺りだったかと思いますが、さっきの水汲み場の方から流れてきたらしい水路があり、水際まで行って手を入れられそうでしたので、水中撮影をしてみました(水汲み場は手を入れられませんので)。
←その映像がこちら(YouTubeにて限定公開)。

さっきの水汲み場の下流になりますので、多少小さなゴミのようなものも流れてきていますが、水はやはりきれいですね。

最初の方で一瞬、小さな魚影も見えます。撮影中ファインダーは見ていませんので、あまり良い映像ではないですが…。

水はとても冷たくて、この映像を撮っている間が限界でした。
あとはもう帰るだけなので、遊歩道入口にあった物産館で色々買い物をし、バス停で高森へ行くバスを待ちます。


写真は、物産館で買った名水まんじゅう。ご当地でしか食べられないと思うと、大してお腹空いてなくても食べずにはいられなくて…。バスを待っている間、冷たいうちに頂きました。やっぱりね、水が良いからおいしいんですよ、こういうのは。中のこしあんも良い。
白川水源入口バス停を16時45分に出まして、高森中央バス停に16時52分に到着しました。

高森中央バス停は、高森町観光交流センター(写真の建物)の前にあるので、時間つぶしや休憩には困りません。

背後に見える山は、東外輪山。高森は、南郷谷の東に位置していて、高千穂にも比較的近い距離にあります。

そう言えば、高森は作中に名前だけ出てきていました。明智光秀ら、反織田同盟の砦があり、後に大友の軍勢に攻め落とされたようです(17巻21ページ、19巻119ページ)。
こちらの写真は、交流センターの前から、北の方角を向いて。ああ、涅槃像ですね。

<阿蘇カルデラの、中央火口丘群をはさんで南側一帯は、南郷谷と呼ばれている。こちら側からだと阿蘇五岳の『釈迦の涅槃像』は向かって右側に頭がくるので寝姿もやや趣が異なる>(16巻『火輪の王国 中編』207ページ)

民家の向こう、右の方に頭部の根子岳、その左に胸部の高岳・中岳が見えます。中岳の辺りは噴煙なのか白っぽいガスが夕陽を浴びてぼんやり赤く光っていますね。朝は、この涅槃像を逆側から眺めていたのだと思うと、不思議な気分です。
17時47分に高森中央バス停を出発、18時36分に熊本空港に到着しました。


空港に着く頃にはすでに日も暮れています。


この後、19時40分発のジェットスター成田行きで帰宅。無事、旅を終えました。
さて、ここからは恒例のお土産紹介コーナー。


こちらは、空港で買った熊本名物馬刺し。冷凍してあって、帰宅した頃には半解凍くらいになっています(かなりでかい保冷材が入っているので結構もちます)。


これはですね、自分で食べるのではなく、お留守番していた彼ら↓へのお土産です。
旅行の度に良い子でお留守番してくれている亀きち(左)と亀ぞう(右)。


帰宅して、私がキッチンに立つと、ごはんがもらえるとわかっていて、そわそわし始めます。


馬刺しは大喜びで食べてくれました。余った分は再び冷凍して、少しずつあげることに。
白川水源の物産館で買った(ミニトマトは高森のバス停近くの八百屋さんで買った)、南阿蘇村産の野菜いろいろ。


ほうれん草110円、長なす120円、ピーマン50円(値下げしてた)、芋がら250円、ミニトマト100円、ぎんなん150円、お米0円。

お米は、いくら以上購入すると1杯掬っていいとかいうキャンペーンをやっていて、それでもらったものです。農産物も豊富だし、阿蘇は豊かですね。
どの野菜も安くておいしいですが、阿蘇の特産と言えば、やはり高菜でしょう。


右上のビニール袋に入った高菜の漬物は、白川水源の物産館で購入したもの。地元の方が漬けたもののようです。あまり日持ちはしませんが、フレッシュな漬物で、刻んでご飯にかけたり、チャーハンにしたり、色々使わせてもらいました。


他の二つは、二日目に道の駅阿蘇で買ったもの。オカンへのお土産です。
阿蘇神社で買った絹のストラップ。特段阿蘇神社らしいものというわけでもないのですが、何か記念になるものが欲しかったので。


今私のスマホにはこのストラップがついています。

お読み頂きまして、ありがとうございました。火輪ツアーの第一弾でした。熊本も良かったですが、阿蘇は特に印象深かったです。阿蘇谷を歩き、大観峰の眺望と立野の地形に感嘆し、トロッコで阿蘇の風を感じ、阿蘇の湧水を飲み…。阿蘇は体感すべきもの、とつくづく思いました。しかし、最も阿蘇を体感できるであろう阿蘇山上へはまだ行っていませんので、熊本と阿蘇の復興を祈念しつつ、それは今後の楽しみにしたいと思います。

この後アップ予定のミラージュツアーは次の通りです。

●2016年1月 熊本・阿蘇ツアー
●2016年2月 横浜・横須賀ツアー
●2016年2月 箱根プチツアー
●2016年5月 富山ツアー
●2016年8月 奈良ツアー
●2016年8月 浅間大社プチツアー


万歩計データ
10月22日:22,837歩
10月23日:29,193歩
10月24日:20,467歩


2016.09.28 up



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