二度目の京都ミラツア

〜大転換以後の京都を巡る旅

後 編




◆旅行日:2013年5月24日〜5月26日

◆行程:
※下線はミラージュスポット
※グレー文字は後編にて

◇5月24〜25日:
海浜幕張バスターミナル→(夜行バス)→京都駅→(市バス)→野々宮バス停→(徒歩)→トロッコ嵯峨駅→(トロッコ列車)→トロッコ亀岡駅→(トロッコ列車)→トロッコ嵐山駅→(徒歩)→嵯峨とうふ 稲(ランチ)→(徒歩)→天山の湯(立ち寄り湯)→(徒歩)→山越中町バス停→(市バス)→龍安寺前バス停→(徒歩)→龍安寺→(徒歩)→立命館大学前バス停→(市バス)→北野天満宮バス停→(徒歩)→北野天満宮→(徒歩)→北野天満宮バス停→(市バス)→京都市役所前バス停→(徒歩)→木屋町通り→(徒歩)→フランソア喫茶室→(徒歩)→四条大橋→(徒歩)→四条京阪前バス停→(市バス)→銀閣寺道バス停→(徒歩)→哲学の道→(徒歩)→東天王町バス停→(市バス)→四条河原町バス停→(徒歩)→うしのほね本店(夕食)→(徒歩)→河原町三条バス停→(市バス)→京都駅→(JR奈良線)→稲荷駅→(徒歩)→アーバンホテル京都

◇5月26日:
アーバンホテル京都→(徒歩)→伏見稲荷大社→(徒歩)→稲荷大社前バス停→(市バス)→京都駅前バス停→(市バス)→四条烏丸バス停→(市バス)→高雄バス停→(徒歩)→神護寺→(徒歩)→高雄バス停→(市バス)→四条烏丸バス停→(徒歩)→松富や壽(ランチ)→(徒歩)→錦市場→(徒歩)→四条烏丸バス停→(市バス)→東寺東門前バス停→(徒歩)→東寺→(徒歩)→羅城門跡→(徒歩)→羅城門バス停→(市バス)→九条河原町バス停→(徒歩)→京都駅→(新幹線こだま)→東京駅

◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




旅の二日目。前日はほとんどミラツアっぽくなかったですが、この日は色んなミラージュスポットが登場しますので、お付き合い頂けますと嬉しいです。

朝6時ちょっと過ぎにチェックアウトし、伏見稲荷大社に参拝します。折角、縁あって伏見に来たのなら、やはりここには来なくては。

朝早いせいか、人影もまばらで、静かです。
伏見稲荷大社は、全国に3万社あると言われる「お稲荷さん」の総本社です。1300年余りの歴史があるそうですよ。


写真は外拝殿。朱色が目に鮮やかです。
鳥居形の絵馬?がたくさん奉納されていました。


伏見稲荷と言ったら、やはり鳥居が有名ですしね。
その有名な千本鳥居にやって来ました。


鳥居を奉納する慣わしは江戸時代から続いているそうです。
狭い間隔で鳥居が連なる景色は圧巻。


異世界に迷い込んだような、幻想的な雰囲気です。
お狐さんの絵馬もありました。


自分で顔を描くみたいですが、色んな顔があって面白い…。
お稲荷さんはそこそこにして、7時18分稲荷大社前発の南5系統のバスに乗車しました。日付が変わりましたので、新しい500円カードを使用します。

先ずは旅の起点・京都駅へ。

写真は塩小路橋を渡るバスの車窓から見た七条大橋。七条大橋は前年、来ましたね。早朝散策して、『みなぎわ〜』のラストシーンに思いを馳せたのでした。
本日のミッションは、もちろん、この旅のメイン・神護寺です。


神護寺へは京都駅から四条烏丸まで行き、8号系統に乗り換え、高雄で降ります。高雄は均一運賃区間外ですので、500円カードを使用する際は、区間を越えたバス停からの運賃が別途必要です。
9時少し前、高雄に到着。

昨日に引き続き、天気には恵まれたようです。

新緑の中、バイクを走らせるのは気持ちいいでしょうね。ツーリング客もちらほら。


神護寺とその周辺です。バス停から神護寺の楼門まで、少し距離があります。川までは下り、川からは上り、高低さも結構あるので、ちょっとしたハイキングですね。写真を撮りながらのんびり歩いて25分。普通に歩けば20分程度でしょうか。

それでは早速、谷に向かって階段を下りて行きましょう。
緑陰の中を歩くのはとても清々しい気分です。
階段を下り切ったところに、「高雄橋」が架かっています。
高雄橋の上から清滝川を見下ろして。


清滝川はこの先で、前日に嵯峨野鉄道から見た保津川に注いでいます。
橋を渡り終えたら、ここからいよいよ上り。


「高尾山神護寺参道」の看板が立っています。
この石段の長いことと言ったら。


前年に行った鞍馬寺もそうでしたが、なんでミラージュツアーってこういうところが多いんですかね。
途中、いくつかの茶屋を通り過ぎ…。
長い石段もようやくラストスパート。私の前を行く老夫婦がしんどそうでしたが、それでも頑張って登っていました。


<楓の下の長い長い石段を登っていくと、ようやく山門が見えてきた。美しい石段だ。昨日ふった雨に濡れた楓から、ときおり水滴が滴る。京都愛宕の紅葉の名所で知られている寺は、秋になればこの楓がすべて紅く染まるのだろう>(29巻『無間浄土』165ページ)

この石段を登り、綾子ねえさんは鴨川で出会った兵頭に会いに神護寺を訪れたのでした。

<山門には警護の者とおぼしき男たちが立っている。綾子が登っていくと、たちまち槍を交差させて行く手を阻んだ。綾子は動じもせず、「兵頭隼人に用があるわ。鴨川の換生者と言えばわかる。会わせて」>(29巻『無間浄土』166ページ)
階段の果てにやっと山門が見えてきました。この山門を訪れたのは綾子ねえさんだけではありませんでしたね。綾子ねえさんを迎えに来た明智光秀と比叡山の行者たち、それから30〜31巻では「APCDウィルス」は「セキゲイ宗」がばら撒いたと信じたマスコミや一般市民が多数この山門に押し寄せたのでした。

<普段は静かな高雄の山間に、報道陣が次々と押し掛けてきた。マスコミだけではない。山門に押し寄せた人々の中には一般市民の姿も混ざっている>(30巻『耀変黙示録T』104ページ)
ここ神護寺は、赤鯨衆と現代人(もっと言えば、死者と生き人)が表立って接触した最初の場所だったのではないでしょうか。裏四国の成立、更には斯波英士の会見により、闇戦国は現代社会を本格的に巻き込むことになったわけですが、その衝突が形となって現れたのが正にこの場所でした。

<兵頭は細眉を般若のようにつり上げ、押し殺した声で、「なぜ事実を見ようとせん。おんしらは、おのれが理解できる範囲でしか物事を考えようとはせん。何を守っちゅうか知らんが、ええ加減にしたらどうじゃ」>(31巻『耀変黙示録U』118ページ)
現代人を前に、APCDは霊の憑依だと堂々と言い放った兵頭さん、格好良かったですね。真実を突きつけて向き合う方が余程面倒なことになるはずなのに…適当に誤魔化すことをよしとしない性格なんでしょうね、兵頭隼人という男は。

そうこうしているうちに、神護寺は比叡山の攻撃を受け、現代人も巻き込んでしまうわけですが、赤鯨衆の隊士も負傷者の救助に加わる中、警察に同行を求められた兵頭は素直に「応じよう」と答えたのでした。逃げも隠れもしない、さすが室戸の長と思える堂々とした態度です。
山門を潜って、境内内側から。


赤鯨衆の隊士らは、押し寄せたマスコミや一般市民らを、ここで堰き止めていたんですね。
少し進んでから、山門を振り返って。
↑の位置から、境内の方を向いて。木々に囲まれ、まだ伽藍が見えません。


<京都の街の濁った空気を忘れさせるような、山気に満ちた寺院だ。幽寂の緑濃い境内は、意外にも人気はない>(29巻『無間浄土』166ページ)

綾子ねえさんが感じた通りの静かな境内です。
奥へ進んで行くと、二棟のお堂が見えてきました。


写真左が毘沙門堂、右が五大堂です。位置関係は前出の地図を参考にして下さい。
こちらが毘沙門堂。


<童子に案内されて境内に足を踏み入れた。毘沙門堂の前を過ぎ、右手には美しく積まれた広い石段の奥に大金堂の大きな屋根が見えてきたが、そちらには行かず、童子は谷のほうへと綾子を案内した>(29巻『無間浄土』166ページ)
左が毘沙門堂、右が五大堂。


綾子ねえさんは、この毘沙門堂と五大堂の間を奥へ進んだものと思われます。
そして、毘沙門堂の前を通り過ぎる辺りで、五大堂の影から右手に石段とその上の金堂が見えてきます。記述の通りですね。
綾子ねえさんは、兵頭のいるかわらけ投げの方へと案内されましたが、私たちは先ずこちらの金堂を参拝します。


しかし、石段が多いお寺だな。
この石段を兵頭さんが駆け上るシーンがありました。


<「おい、安藤! 中川! いるなら返事を!」 呼びながら境内を駆け回ったが、どこにもいない。兵頭は金色のどしゃぶりの中、金堂へと駆け上がった>(31巻『耀変黙示録U』178ページ)


太秦の警察署に連れて行かれた兵頭が、金色の雨が降るのを見て、白バイを奪って神護寺へ戻ってきた時のことでした。
<最後の一段に足をかけたときである。「!」 上空に異様な気配を感じて、振り返った。そして息を呑んだ。この世のものと思えない光景が広がっていた>(31巻『耀変黙示録U』178ページ)


金色の雨によって消えてしまった何百何千もの人々の首を持つオロチの姿を兵頭は見たのでした。
<神護寺金堂は、境内の広い石積みの階段をあがった高台にある。昭和の建築で、歴史は浅いが、瓦葺き・入母屋造りの立派な大堂だった。兵頭は堂内にいた。月光の差し込む畳の上に、愛用の念ライフルを抱えた格好で方ひざを立てて座り、祭壇に向かっている>(31巻『耀変黙示録U』103ページ)

門前にマスコミらが押し掛け、境内に缶詰状態になっていた時の一幕です。

<神仏など、ろくに信じない兵頭だ。その兵頭が、この神護寺に移ってきてから、時折こうして金堂にこもることがあった。だがそれは殊勝な信仰心からなどではない。対話する相手は仏などではなく、いつも自分自身だった>(31巻『耀変黙示録U』103ページ)
金堂にた兵頭は、そこに現れた中川と、裏四国以後の世界について語り合いました。

<「……平等っちゅうもんを、わしは胡散臭い言葉じゃと思うちょる。平等は甘えを生む。怠惰を生む。平等だと思うき不平等感が生まれる。富む者と貧しい者はなくならん。解消されるもんでもないと思う。そういう意味で、仰木はおんしが期待する救世主でもなんでもない」>(31巻『耀変黙示録U』109ページ)

<仰木高耶は、誰の味方でもない。誰かの代わりに戦うのでもない。生を勝ち取る闘いを、各々に背負わせることを選んだのだ。生き人に対しても>(31巻『耀変黙示録U』109ページ)
兵頭さんらしい、冴えた分析だなあと思います。彼の見方はきっと正しい。でも…恐らく、高耶さんにしてみれば、裏四国を生んだあの選択は、そんなにクールなもんじゃなかったんじゃないかなという気がしてなりません。生き人の願いも、死者の辛さもわかってしまう高耶さんが、両者の狭間でどれだけ葛藤していたことか。自分に誰かを裁く権利などないけれども、少しでも多くの人が納得のいく生き方ができる世の中を…、自分が憎まれることで、ひとりでも多くの人が幸せになれるなら…と苦渋の決断で、そうせざるを得なかったというのが本当なんじゃないかなと。高耶さんの中にあるそういう熱い、ドロドロした想いを、ずっと傍にいた直江なら理解していたんだろうな、と思うと、兵頭さんの想いが高耶さんに届かない理由がわかってしまう気がします。
そう言えば、兵頭も直江も、ある同じ台詞を吐いているんですよね。「なにが今空海だ」(29巻145ページ、31巻106ページ)という台詞ですが、同じ台詞であっても、そこに含まれる高耶さんへの理解は少し違うものなんだろうなと思われます。

高耶さんが、兵頭のことを「最初の頃の直江に似ている」と思うシーン(23巻249ページ)がありましたが、そんな風に思うのも、なるほどな、と納得してしまいます。

さて、こちらの写真は、金堂の向背部分です。

向背(堂の正面階段に張り出した庇部分)のほうから声があがった。振り返ると、白衣姿の中川が靴を脱いで、月の光の射し込む畳の上へとあがってくるのが見えた>(31巻『耀変黙示録U』104ページ)

<兵頭と中川は反射的に振り返った。シャッター音……? 振り向いたその視界に、向背の柱の陰から躍り出る人影が映った>(31巻『耀変黙示録U』111ページ)
金堂の中は撮影禁止ですので、ギリギリのラインで撮ってみました。

ちなみに金堂では、国宝の薬師如来立像と十二神将立像を拝観することができます(拝観料500円。山門では拝観料の徴収はなく、金堂に入りたい人だけ拝観料が徴収されるようになっていました)。

こちらの写真は、金堂の前から石段の下を見下ろした様子。画面左方向に行くと山門、右方向にかわらけ投げの谷へと続く道があります。
再び、金堂前の石段下から。


木が茂っていてわかりにくいですが、中央に立っている木の左側、奥の方に、かわらけ投げの方へ行く道があります。
森の中の小道をたどって行くと、小さな売店と広場が見えてきます。
<地蔵院という堂が建っている。そこは眺望が開け、眼下には清滝川錦雲峡が見下ろせた。その展望所にひとり男が立っている>(29巻『無間浄土』166ページ)


兵頭に会いに来た綾子ねえさんが案内されたのが、このかわらけ投げの展望所でした。
<男は谷に向けてライフルを構えていた。傍らにいた童子が谷に向けて素焼きの小さな皿を投げると、男は遥か谷底に落ちていくそれを撃ち割った。見事な腕だ。百発百中で見事に命中し、皿は谷に砕け散る>(29巻『無間浄土』166ページ)


ここから谷に向けてかわらけを投げます。かわらけは、広場の脇にある売店で2皿100円で売っています。
お。修学旅行生たちがやって来ました。


ひとりずつかわらけ投げにチャレンジする彼らをしばし見学してみましたが、なかなか難しそうですよ。でも、うまくいくと、気流に乗って、かなり遠くまで飛んでいきます。
もちろん、私たちもチャレンジ。


画面左端の方に白く映ってる点が、投げた「かわらけ」です。本当に小さいので、谷に落ちていくこの小皿を撃ち抜くなんて、並大抵の腕ではないですね。
私もやってみましたが、全然うまく行かず…。谷底の方まで飛ばしきることはできませんでした。これじゃあ、兵頭の助手の童子にもなれないな(笑)。

天気が良かったので、眺めは最高です。

あ、かわらけ投げに夢中で、地蔵院の写真を撮るの忘れた…。
伽藍の方へ戻って来まして、ひとつ見忘れたお堂を。大師堂です。作中では比叡山の呪法に襲われていました。

<中川の叫びを背に受けながら、兵頭は大師堂へと走った。<裏四国>と連動して、神護寺の霊的防御を司る大壇と四基の小壇が据えてある。暗い堂内では、隊士たちが兵頭を待ち受けていた>(31巻『耀変黙示録U』127ページ)

<朝日の中であらためて見る大師堂は、ほぼ全壊していた。巨人の手で握り潰されたように屋根は飛び梁は折れ、建材が剥き出しになり、かろうじて原型を留める堂内も足の踏み場がない>(31巻『耀変黙示録U』168ページ)
ミラージュによって色んなところがぶっ壊されているので、もうちょっとやそっとの破壊では驚かなくなりましたよ(笑)。


神護寺の拝観を終え、山を下ります。
参道途中のお店で休憩していくのもいいんですが、現時点で10時半前と、お昼には早すぎるので、今回は素通り。


紅葉の時期はさぞかしきれいでしょうけれども、緑のもみじというのも気持ちがいいものです。
もうすぐバス停というところで、遍路装束の方々とすれ違いました。背中には「南無大師遍照金剛」の文字が。

<ここは空海ゆかりの寺だ。中国から帰国した空海が住まい、都に真言密教を広めた拠点となった。空海はここに住まいながら東寺を造営し、高野山の草創を進めたという。いわば真言密教の第一歩を記した寺というわけだ>(29巻『無間浄土』165〜166ページ)

空海ゆかりの寺ということで、「三弘法まいり」のついでに巡っているのでしょうか。
11時8分発のバスに乗り、市街地へと引き返します。
8号系統の終点・四条烏丸でバスを降り、錦市場(写真中央奥、アーケードの中)へやって来ました。


たくさん見たいものがありますが、先ずは素通りしまして、ランチを食べるお店へと向かいます。
錦市場からほど近い場所にある、こちらの「松富や壽(まつとみやことぶき)」さんで昼食を頂きます。


テレビで紹介されてたのを見て、良さそうだなと思ったのがきっかけでした。
町家を改装した京都らしい趣のある店内で、バイキング形式のランチが頂けるというちょっと変わったお店です。


1,380円(土日祝日価格)でしたが、今は少し値上げしているようです。
安心安全な食材にこだわっているようで、味付けもとても優しい感じです。


旅行中はどうしても栄養バランスが崩れがちなので、こういうランチをいただけるのは嬉しいですね。
えらい少食の人みたいな盛り方ですが、何度もおかわりしてるんですよ。


千円台のバイキングですから、種類がそんなに豊富というわけでもないんですが、京都の家庭料理といった感じのメニューは、どれもほっとするお味のものばかりで、とても満足です。
お腹いっぱいになったところで、再び錦市場へ。


実は初めてなんですよ、ここに来たの。前から来たいとは思ってたんですが。
「京の台所」と言われるだけあって、美味しそうなお惣菜が並んでいます。


他にも、観光客向けのお土産屋さんなんかもあって、見てて飽きないです。


オカンへのお土産のちりめん山椒(写真撮るの忘れた…)、亀きち&亀ぞうへのお土産の生湯葉、帰りの新幹線の中で食べる練り物などを購入。
錦市場を見終えて、時刻は14時前。

この旅、最後の訪問地は京都駅より南側に位置する東寺です。四条烏丸から207系統のバスでやって来ました。

京都は大抵の観光地はバスが通っているし、アクセスが非常に便利なので助かりますね。渋滞にかかると大変ですが。

写真は東寺の東側にある慶賀門です。


東寺とその周辺。東寺は、京都駅の南西に位置しています。

東寺は、ミラージュの中に名前だけですが出てきましたから、一応ミラツア扱いで、背景を緑色にしておきました。


こちらは慶賀門から入ってしばらく進んだところにある、拝観受付の門。どうやら、この日は五重塔の特別公開をしていて、中を拝観できるようです。
先ずはその五重塔へ行ってみましょう。


<「高野山の壇上伽藍にある根本大塔は恐らく巨大な霊波塔だ。京の霊波塔は、東寺のあの巨大な五重塔。受け取り口は多分、羅城門」>(28巻『怨讐の門 破壌編』134ページ)


高野山の山門で、加藤清正が直江に対して空海の呪法を語った言葉です。京の都へ送る莫大なエネルギーをつくるためのシステム、それが実は四国八十八箇所遍路の正体だったという壮大な設定でしたね。八十八箇所を遍路が巡ることによって生まれたエネルギーは、霊猪の口から吐き出され、高野山を経由し、この東寺の五重塔を霊波塔として羅城門で受け取っていた、それが空海が行っていた鎮護国家の呪法の仕組みであると。
<門脇綾子は、薄れていく靄の向こうの街並みに、ここからは小さく見える東寺の五重塔を目を凝らして探し出した。(京都が弱くなったのは、東寺の力が弱まったせい?) 王城の地を支えた力がごっそり消えたおかげで、京都の霊も見境なくなってきた。空海の東寺は国家を盛り立てるための大拠点だったはずだが、その東寺は綾子が京都にやってきた頃には、すでにカラカラに干上がった状態だった>(29巻『無間浄土』58ページ)

尼僧に身をやつした綾子ねえさんが、遠く比叡山から東寺の五重塔を眺めてのシーンです。裏四国が成った後、気の流れが逆転し、エネルギーが京都に来なくなったからですね。

「古都の玄関の象徴」とも言われる東寺の五重塔ですが、比叡山からも見えるとは。比叡山に行ったら、この五重塔の姿を探してみたいです。
五重塔の初層部。特別公開中につき、中を拝観させて頂きました(内部は撮影不可)。

中央に何体もの仏像が安置され、その中心に心柱を見ることができました。一本の心柱で全体を支え、各階は通し柱を持たない柔構造は揺れのエネルギーが接合部で吸収されるので、地震に強いそうです。心柱構造は、近年ではスカイツリーに採用され、話題になりましたね。

現在建っているこちらの五重塔は、四度の焼失を経て、1644年に再建された五代目だそうです。
こちらは金堂。現在のものは1603年に竣工したものです。

中には、本尊の薬師如来坐像と、その両脇に日光菩薩、月光菩薩が安置されています。広い堂内に安置された薬師如来坐像は総高10メートルもあり、圧倒的な存在感があります。

長い時間、この薬師如来さまと対峙している方が多かったのが印象的でした。中には外国人観光客と思しき方もいらっしゃったりして。
こちらは講堂。現在のものは1491年に竣工したもの。

講堂の中には、「立体曼荼羅」と呼ばれる二十一体の仏像が安置されています。大日如来を中心とし、如来、菩薩、明王、天部の仏たちが整然と並ぶ様は、実に迫力があります。空海が密教の教えを表現するために構想したものだそうですが、本当に曼荼羅から仏さまが出てきたかのようで、圧巻です。

東寺に来たのは初めてですが、こんなに見応えのあるお寺だとは知りませんでした。
こちらは御影堂(大師堂)。かつて空海が住まいとしていたところで、現在の建物は、南北朝時代に再建・増築されたもの。

空海の念持仏であった不動明王(秘仏)と、弘法大師坐像が安置されています。

五重塔や金堂、講堂はチケットを買わないと拝観できないのですが、この御影堂は有料エリア外となっています。
御影堂に、「弘法大師さま今月のことば」というのが置かれていました。「人の短をいうことなかれ 己の長を説くことなかれ」と書かれています。

ミラージュの今空海さまは、「人の短」をナイフで抉り出して塩を塗りたくるような皮肉女王だったよな、と思い出したり(笑)。そのかわり、己にも人一倍厳しかったわけですが。人の短をいうことなく、己の長を説くこともない生き方ができれば、きっともっと楽な道を歩めたのでしょうけど…、高耶さんにはできそうにないですし、それもまた高耶さんの魅力のひとつだったんでしょうね。
御影堂の南にある毘沙門堂。


かつて羅城門の上層にあった兜跋毘沙門天像を安置するために建てられたそうです。その毘沙門天像は現在は宝物館に収蔵されています。宝物館は毎年限られた期間だけ公開しているらしいので、機会があったら見てみたいですね。
東寺北側の水辺で、亀さんと鷺さんがにらめっこ。


なんか癒される…。
北の門から出て、東寺西側の「壬生通り」に来ました。

壬生と言えば、新撰組? この通りを北(写真手前方向)に四条辺りまで行くと(実際には途中で線路があるので行けませんが)、新撰組の屯所があった壬生に行き着きます。

それはいいんですが、これから羅城門跡地へ行くつもりですが、実は調べ方が浅くて場所があやふやなまま来てしまいまして…。果たして見つかるのかどうかちょっと不安。
羅城門跡地は、現在は住宅地の中の小さな公園になっていると言います。


家々の間を歩き、何人かの人に教えて頂いて、歩いて行くと…。
ありました〜。うわ、本当に普通の公園だな。「花園児童公園」と書いてあります。

羅城門は、かつて平安京の中央を南北に貫いていた朱雀大路の南端に建っていた門で、都の正門とも言うべき門であったと言います。立派な門だったのでしょうけれども、個人的には、芥川龍之介の『羅生門』のおどろおどろしいイメージが強いんですよね…。

因みに、先ほど拝観した東寺は、この羅城門の東に置かれたから「東寺」であり、かつては「西寺」もあったそうです。
小さな公園の中に、「羅城門遺址」の石碑と案内板が建っています。

東寺見学の際に触れましたが、この羅城門跡は、ミラージュ的には、四国呪法においてエネルギーの受け取り口となっていた場所です。空海の頃は、羅城門は都の表玄関だったとすれば、この門を霊力の受け取り口に設定したのも頷けます。

しかし、羅城門跡に滑り台が建っているなんて、不思議な感じ。
九条通りの方から見た羅城門跡の公園。


九条通りからは小道を少し入ったところにありますが、小道入り口にちゃんと「羅城門跡」の標識がありました。きっと住宅地を抜けて行くよりも、一旦九条通りに出てからの方がよっぽど見つけやすかったかと。
「羅城門」バス停からバスに乗り、京都駅に戻ります。


が、208系統に乗るべきところを、ぼけっとしていて、先に来た202系統に乗ってしまいました。途中で京都駅へは行かないことに気づき、九条河原町で下車。いっそ、羅城門から京都駅まで歩いた方が早かったかも…。
八条口から南北自由通路を通って、烏丸口(中央口)の方へやって来ました。時刻は17時15分。帰りの新幹線の発車時刻まで1時間を切っていますが、今回は裏四国以降のミラージュツアー。前回チェックしなかった京都駅の大階段を見ないわけにはいきません。


と言うわけで、大階段へ向けて、西側(改札口に向かって右側)のエスカレーターを登っていきます。
京都駅の4階部分、大階段の下が「室町小路広場」です。

<おち合う場所は、室町小路広場だった。そこから西の方角へ、まるで天井まで届くかと思う巨大な階段が伸びている。地上十二階まで一直線に伸びるスケールの大きな外階段だ>(29巻『無間浄土』182ページ)

外国人の団体ツアー客が来てました。京都駅自体、観光地のようなものなんでしょうか…。
大階段前から室町小路広場を見て。

人質となった綾子の受け渡し場所として、兵頭が光秀に指定したのがこの京都駅の室町小路広場でした。

「晴家殿はどこだ」と問う光秀に、「上じゃ、ついてこい」と兵頭は答え、階段を上って行きます。
二人は階段を上ったようですが、ちゃんとエスカレーターがありますので、ここはエスカレーターで行きましょう。


大階段は、途中から屋根が途切れ、空が見えるようになります。ビルのガラス壁に映る青空がきれいですね。
エスカレーターをどんどん上って行きます。


<階段の最上段、展望バルコニーのように張り出したそこに、綾子が現れた。赤鯨衆の隊士と中川に伴われている>
(29巻『無間浄土』183ページ)


展望バルコニーのように張り出したところ? そんなの最上段にあるか???
とりあえず、一番上まで上ってみましたが、バルコニーっぽい部分というのがよくわからない…。

この写真は、一旦一番上まで上った後、階段を下りて撮影したもの。

最上段の一部にガラスの覆いがありますが、そこのことか?と、この時は腑に落ちなかったのですが、後でよくよく写真を見て初めて気づきました。桑原先生が指しているのは、恐らく、更にその上の、赤い矢印で示した部分のことですね(改築等してなければの話ですが)。人がいますし、確かにあそこが本当の最上部(12階部分)です。この写真ではよく見えませんが、画面右の方に、最上段まで続く階段がまだ続いています。
<兵頭と光秀は階段をのぼっていく。十階部分にあたる踊り場で立ち止まり、「ここで待て」と光秀に指示して、兵頭はさらに階段をあがり始めた>(29巻『無間浄土』183ページ)


こちらの写真が、光秀が待たされたという10階の踊り場。
10階の踊り場辺りから上を見上げて。

赤い矢印が、綾子ねえさんと中川先生らがいたと思われる場所。

<「景虎に伝えて。赤鯨衆から離れるよう。じゃないと、あたしがあんたを≪調伏≫にいくって」>29巻『無間浄土』183ページ

この階段を上る兵頭を上から見ながら、綾子ねえさんが中川先生に告げた台詞です。景虎様が怨霊とともに闘っているのを最も許せなかったのが綾子ねえさんかも知れませんね。
<兵頭が残り一階分の階段に足をかける。「行きなさい」 と耳元に中川が言った。そこで解放された。階段を下り始めた綾子とすれ違い様、兵頭が言った。「――隊長には会わせん」>(29巻『無間浄土』183ページ)

こちらがその残り一階分の階段。ひとつ上の写真のバルコニー部分の右側にあります。緊迫した空気の中、綾子ねえさんと兵頭がすれ違った階段です。

そして、兵頭が最上階に着くと同時に銃撃戦が始まったのでした。
兵頭にライフルで狙撃された綾子ねえさんでしたが、≪壁≫を立てて辛くも助かりました。飛んでいくかわらけを百発百中で命中させる兵頭さんに狙われるなんて怖すぎる…。

<光秀らの注意が逸れた隙に、兵頭らは屋上の奥のほうへと駆け出した。(略) 兵頭たちの姿は奥の非常階段へと消えた>(29巻『無間浄土』184〜185ページ)

屋上は「葉っぴいてらす」という緑化スペースになっています。当時とは様子が違うかもしれませんね。
緑もあるし、眺めもいいし、市民の憩いの場になっているようです。


兵頭たちが消えた非常階段というのはどこにあるかよくわかりませんでした。あまり時間がなかったので、隅々までは探していませんが。
最上階から大階段を見下ろして。


これで、今回のミッションはすべて終了。新幹線に乗る前にお弁当も買いたいし、そろそろ戻りましょう。
帰りの新幹線は例によって、「ぷらっとこだまエコノミープラン」で予約した18時9分発のこだまです。一人9,800円。


昔は安いと思いましたが、LCCが普及してきた昨今では、やはりJRは高いとしか思えません。成田から博多まで行ったって、ジェットスターのセールなら5,000円切ったりしてますしね。
でもまあ、新幹線は快適なのが嬉しいですけどね。旅の余韻に浸りながら、缶チューハイを開けるのも楽しみのひとつ。


ホームで売っていたアイスを買ってみました。宇治園というお店の「小佳女(おかめ)あいすクリーム」。京都のかと思ったら、大阪のお店らしいです。でも創業は京都らしい…。なかなか美味しかったですが、私はハーゲンダッツの抹茶の方が好みかな。
お弁当は、柿の葉すしを買ってみました。鯖と鮭と鯛が入っています。柿の葉の風味があって美味。「あじみ屋」というお店のですが、柿の葉すしって、奈良のものかと思ったら、こちらも大阪のお店でした…。

写真右奥は、錦市場で買った練り物。酒のつまみとしては最高です。

右手前も錦市場で買ったもので、鴨のねぎ間串です。普通の鶏肉とは違う、鴨独特の旨みがたまりません。冷めてもうまかった。
ここからは、恒例お土産紹介コーナー。今回は少ないです。

こちらは錦市場の「湯波吉」というお店で買った引上ゆば。お留守番の亀きち&亀ぞうへ。以前日光で買ったパックの日持ちする湯葉よりこっちの生湯葉の方がお気に召したようで、喜んで食べてくれました。私も食べましたが、確かに風味が豊かで食感もよく、美味しかったです。

しかし…、旅に出るたび、亀きち&亀ぞうにお土産買ってあげてるので、彼ら何気に各地のうまいもん食ってますね…(※普段は人間用の加工食品はあげていません。あげる場合は塩抜きをするなどの工夫をしています)。
北野天満宮の露店で買ったお猪口。


いつ頃のものか等詳細は不明。小唄の歌詞が書かれているらしいのですが、何て書いてあるのかも読めず…。ただ、一箇所窪んでいるこの形が気に入って購入。親指にちょうどフィットするんですよ、この窪みが。持った感じがなかなか心地良いんです。
こちらは、神護寺で購入したお守り。

どことなくヤンキー好みな派手さ加減がすごいですね。憤怒の不動明王だからでしょうか、黒字に赤い紐っていうのも、お守りとしては珍しいような…。裏には、不動明王の梵字と「高雄山 神護寺」の文字が刺繍されています。

神護寺の本尊は薬師如来ですが、なぜかお守りは不動明王。その昔、神護寺には空海作の不動明王像があったらしいので、その縁故からでしょうか…よくわかりません(その不動明王像は、後に平将門の乱の際、将門討伐を祈祷するために下総(千葉県)に運ばれ、現在は成田山新勝寺に安置されているそうです)。
こちらは東寺で買った「三弘法まいり」のお香。


「三弘法」とは京の弘法大師と縁のある、東寺、仁和寺、神光院の三つのお寺のこと。四国八十八箇所を巡る前に、旅の安全を祈願するため、詣でる風習があるんだそうです。


前年に京都で買ったお香立てを使って楽しんでます。


お読み頂きまして、ありがとうございました。二回目の京都ミラツアということで、振り返ってみれば、高耶さんも直江も不在のミラージュツアーでした。もっぱら綾子ねえさんと兵頭さんにスポットが当たる形になりました。こんなツアーは初めてかも。名シーンという部分もあまりなく、ちょっと寂しいツアー…だったような(強いて言えば、神護寺で兵頭さんがかわらけを撃つシーンが名シーンっぽいかな。あれはちょっと印象的なシーンですね)。内容的にも裏四国成就以降の部分がほとんどでしたので、重苦しい雰囲気が多かったですし。
でも、旅としては、なかなか素敵な旅でしたよ。個人的には何より、哲学の道でホタルが見れたのが(1匹だけですが…)とても嬉しかったです。人が生活しているすぐ傍で健気に生息するホタルに感動しました。東京都心でも明治初めくらいまでは渋谷川でホタルが見られたそうですが…。哲学の道周辺の自然環境がいつまでも保たれることを願っています。
あと、羅城門跡はミラージュ抜きにしても、なかなかいい体験でした。何も残ってはいないんですが、ここに平安京の表玄関があったのかと思うと、すごく不思議な感じで。歴史を知る面白さってこういうことなのかなと。
これで、京都のミラージュツアーは(幕末編を除いて)ほぼ余すところなく完了したかと思います…が、そう言えば、比叡山もありましたね。所在地的には比叡山は滋賀県ですが、京都側からもアクセスできるので、京都を基点にしたミラツアがまたできるかもしれません。
このレポートは2014年3月から4月にかけて書いています。相変わらず遅れてますね…。この京都ミラツアの後は、2013年12月に行った四国ミラツア、更に2014年に入ってからもいくつかツアーをしてますので、これから気合入れて書きます。


万歩計データ:
5月25日:12337歩
5月26日:20775歩

25日の方が歩いたような気がするんですけどね。
今回までほぼオモチャみたいな歩数計を
使っていたので、あまり正確じゃないかも。
次回2013年12月の四国ミラツアから新しいのを使っているので、
次回からは信頼できるデータになってます。

2014.04.14 up








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