臼杵&国東ツアー

〜嶺次郎と直江の足跡をたずねて

前 編




◆旅行日:2015年6月25日〜6月27日

◆行程:
※下線はミラージュスポット
※グレー文字は後編にて

◇6月25日:
成田空港→(ジェットスターGK601)→大分空港→(高速バス・佐臼ライナー)→臼杵インターバス停→(徒歩)→うさ味(ランチ)→(徒歩)→臼杵石仏→(徒歩)→臼杵石仏バス停→(路線バス)→辻口バス停→(徒歩)→稲葉家下屋敷→(徒歩)→サーラ・デ・うすき→(徒歩)→五嶋旅館(宿泊)

◇6月26日:
五嶋旅館→(徒歩)→臼杵城址→(徒歩)→五嶋旅館
→(徒歩)→二王座歴史の道〜龍原寺〜上臼杵駅→(JR日豊本線)→大分駅→(徒歩)→マルショク(スーパー)→(徒歩)→大分駅→(JR日豊本線)→別府駅→(徒歩)→別府駅西口バス停→(亀の井バス)→鉄輪バスターミナル→(徒歩)→地獄蒸し工房(ランチ)→(徒歩)→ひょうたん温泉(立ち寄り湯)→(徒歩)→地獄原バス停→(大分交通バス)→別府タワー前バス停→(徒歩)→シーサイドホテル美松→(徒歩)→とよ常(夕食)→(徒歩)→シーサイドホテル美松(宿泊)

◇6月27日:シーサイドホテル美松→(徒歩)→別府駅→(JR日豊本線)→別府大学駅→(徒歩)→六勝園・別府海浜砂湯前バス停→(大分交通バス)→国東バスターミナル→(タクシー)→文殊仙寺→(徒歩)→岩戸寺→(徒歩)→岩戸寺バス停→(大分交通・国東観光バス)→小原バス停→(徒歩)→道の駅くにさき→(徒歩)→黒津崎バス停→(大分交通・国東観光バス)→大分空港→(ジェットスターGK604)→成田空港


◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。表示されるまで時間がかかる場合があります。また、不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




ミラージュツアーとしてはマイナーですが、大分県も臼杵と国東半島の文殊仙寺が舞台になっているんですよね。出てきたのは、四国編の最中の27巻。高耶さんの発案により、大友の兵力と国崩しを得るため、嶺次郎らが赤鯨衆を代表して宿毛の咸陽島公園からヘリで大分に向けて飛び立ったのでした。

しかし、この27巻の表紙は何度見てもすごいですね。普通に本屋さんで買った人は買いづらかっただろうな…。これだけ見たら一体何の話だって感じですもんね。前巻の姫島で行った孔雀経法のシーンをイメージしたものだと思いますが、魂核寿命が迫り、肉体的にも精神的にもともすれば振り切れてしまいそうな高耶さんを直江という存在が繋ぎとめているという心象風景的なものを実によく表していると感じます。
すべての巻でやっているわけではないのですが、余裕がある時は、再読する際、地名やミラツアでチェックしたい箇所に、こんな風に付箋をつけています。ダイソーで売っている付箋ですが、文庫本にちょうどいいミニサイズだし、半透明だし、使い勝手がいいです。エリアごとに色を使い分けると更に便利。例えば、大分はオレンジ、四万十は黄色、宿毛・足摺は青とかいうように。

今回の大分のくだりは、27巻のみで、短くまとまっているので、チェックも比較的ラクです。

このツアーレポートは、ミラージュツアーとは関係ない部分も多々ありますので、わかりやすいように、関係ある部分の文章だけ背景を緑色にしておきます。
写真は大分空港。

大分もジェットスターが就航して、だいぶ行きやすくなりました。梅雨の時期ではありますが、2015年1月にセールをやっていた際に早々にチケットを購入していました。

因みに今回のチケットは、往復で7,800円/一人(空港使用料、支払手数料込)です。ジェットスターのチケットは、最近はもっと安く買えることも多いので、この値段でも高く感じてしまうんですが…これって感覚が麻痺してますよね…。LCCが無い頃は、飛行機のチケットって、セールで一人片道1万円くらいで買えたら超ラッキーっていう感じだったのに…。オレらみたいな貧乏旅行している人間にとって、ジェットスターが無ければ、ここまで色んなところに旅行するのはまず無理だったでしょう。本当に感謝ですね。


マップは、大分県と四国の一部です。宇和島総攻撃を控え、大分の大友を味方につけるため、嶺次郎、中川、直江、清正の四人を乗せて咸陽島公園を飛び立ったヘリが先ず着いたのが佐伯でした。大友の許可を得てから嶺次郎らは彼らの本拠地・臼杵に移動します。大友との会談を前日に控え、嶺次郎らが屋敷に通される一方で、直江は水面下の交渉を進めるため、国東半島にある文殊仙寺に向かったのでした。
というわけで、今回のツアースポットは、臼杵と国東半島の文殊仙寺のみです。大分空港に着地する私たちは、先ず高速バスで臼杵入りし、臼杵で一泊。大分とくればもちろん温泉なわけで、二日目はミラツアとは関係なく、日豊本線で北上し、鉄輪温泉で地獄蒸し体験&日帰り入浴をして別府で宿泊。三日目は電車とバス、タクシーを乗り継いで国東半島の文殊仙寺、それと折角なのでそこから比較的近い岩戸寺を巡拝します。


10時20分、大分空港から、「佐臼ライナー」という高速バスに乗車しました。佐伯行きですが、途中、臼杵インターで降りることもできます。


写真は、その佐臼ライナーの車窓から。ここはちょうど別府の明礬温泉の辺りです。湯煙が盛大に上っていますね。この辺りでは、バスの中にいても硫黄の匂いを感じましたよ。さすが温泉県。
11時53分、臼杵インターに到着。


下の地図を見てもらうとわかるかと思いますが、臼杵インターというのは、臼杵の町からは少し離れているんですね。でも、臼杵石仏を観光するには臼杵駅辺りよりも近いので、逆に好都合だったりします。臼杵に来たらやはり、国宝の石仏を見ないとですね。


臼杵の広域図。臼杵の市街地は、臼杵城址周辺にあります。そこから臼杵石仏(上の地図左下)までは5km以上離れています。私たちが降りた臼杵インターからも3kmほどの距離。国道502号を南下して行くと、臼杵石仏入口の看板が出ていますので、そこを左折していった山の麓に石仏群があります。ミラツア部分ではないので、石仏周辺の地図は割愛します。臼杵の城下町の地図はまた後ほど。右上に津久見島という島がありますが、嶺次郎らが臼杵入りしている間、兵頭ら室戸水軍は国崩し運搬と万一の時のために、この島の陰に控えていたのでした。


国道502号をしばらく歩きます。

しばらくミラージュとは関係ない内容が続きますので、飛ばしたい方はこちらをクリックして下さい。

バスを降りた瞬間に思ったのですが、まだ梅雨明け前にも関わらず、大分は(というより九州全体がそうなのかもしれませんが)、かなりもわーっと熱気がこもっています。

臼杵石仏は有名な観光地らしく、しつこいくらい所々に看板が出ています。
天気は決して良くないのですが、緑の季節にはこんな陰鬱な天気も案外心地良いものです。この時は降りそうでまだ降っていません。


田植えが終わった水田が広がる長閑な景色が続きます。
石仏へは、ここを左折するようです。
小川沿いに山裾の方へと入っていきます。


石仏公園周辺はホタルの名所でもあるそうですよ。
石仏入口付近の水田に建つ「深田の鳥居」。

柱が短くとても可愛らしい鳥居ですが、近くの臼杵川の氾濫で下の方が埋まってしまってこの姿になったのだそうです。

鎌倉時代か室町時代のもので、石仏とも関わりがあるとされているそうですが、詳しいことは解明されていないそうです。田んぼの真ん中にこういう古いものが何気なく残っているというのが、なんともまた素敵ですね。
今回の旅は三日間とも天気が良くなかったのですが、さっきも書いたように、桜や紅葉とは違って、緑にはどことなく梅雨空が似合うというところがあるようで、意外と画になる風景が多かったように思います。
臼杵インターバス停から、ゆっくり歩いて40分余り、石仏入口の交差点を曲がってからは6分ほど。石仏観覧券販売所に着きました。

ここでチケット(540円)を購入し、この先の観覧券集札所でチケットの半券を切ってもらいます。

この建物の中も土産物などを売っていますが…

川を挟んだすぐ傍に、「石仏観光センター」と書かれた土産物屋と食事処があります。

心惹かれるものがたくさん売っていました。

石仏拝観と土産物は後にして、先ずは腹ごしらえ。この中にある「うさ味」に入ります。
私が注文した、ふぐ天丼とだんご汁のセット、1,280円。

お店の説明文によりますと、だんご汁とは「一本一本手延べしただんごをたっぷりのお野菜とともにいただく味噌仕立てのお汁、大分を代表する郷土料理です」とあります。

そのだんご汁、絶品でした。だんご(きしめんのような太いめん状のもの)自体も美味しかったのですが、色んなだしの出たこの少し甘めの白味噌の汁が奥行き深い味でうまい。中に入っている椎茸がまたとりわけうまい。そう言えば、大分の椎茸って有名ですもんね。納得。

ふぐ天丼のふぐも甘くてなかなかの美味。
こちらは相方が注文した、たち重、1,300円。

臼杵と言えばフグが有名ですが、実はタチウオも全国トップクラスの漁獲量を誇っているのだとか。

相方の感想だと、少し身が柔らかすぎだったそうです。まあ個人の好みによるでしょうけど。最終日に空港でも彼は太刀魚重を食べていますが、そっちの方はもう少し身がしっかりしていてより美味しかったそうです。
お腹いっぱいになりまして、13時12分、さっきチケットを買っていなかったので、一旦観覧券販売所に戻って、再び石仏参道へと入ります。


写真奥の建物は、昼食を食べた石仏観光センター。石仏参道へは、その手前の橋を向こう側に渡り、石仏観光センターの脇を通って小川沿いの道を進んで行きます。
少し歩くと小川の右側に観覧券集札所が見えてきます(写真右端の建物)。


臼杵石仏は、60体余りの磨崖仏群で、そのうちの59体が国宝に指定されています。大多数は平安時代後期、一部は鎌倉時代につくられたものとされていますが、誰が何の目的で造営したかは未だ明らかになっていないそうです。


石仏が彫られている岩壁は、阿蘇山の火砕流が固まった凝灰岩で、柔らかく彫りやすい利点がある一方、壊れやすいという難点もあり、千年もの風雨に晒された石仏群はかなり傷んだ状態だったそうです。
橋を渡ったところにある観覧券集札所に立ち寄り、参道を登っていきます。


石仏は、昭和55年から14年間かけて保存修復されており、現在は手厚く、覆屋で囲われています。
石仏は4群に分かれており、それらをぐるっと巡るように遊歩道が整備されています。


最初の「ホキ石仏第二群」の覆屋が見えてきました。
こんな感じで屋根に覆われています。
「ホキ石仏第二群」の「阿弥陀三尊像」。


凛々しいお顔立ちです。彫技を感じさせる傑作とのことだそうです。その辺りはよくわかりませんが、私などは年月の重みだけでありがたさを感じてしまいます。
階段を登って次の石仏群へ。


園内は所々に花が咲いていて、散歩自体が気持ちいいです。
その階段の縁に、小さな生き物が。

一瞬トカゲか?と思ったのですが、よくよく見ると…ヤモリ? いや、ヤモリは昼間出てこないですよね。じゃあイモリ? でもイモリは水辺にいるはず。

後で調べたら、どうやらアカハライモリのようでした。よくよく見ると、お腹側が鮮やかなオレンジ色をしています。近くに川はあるし、湿度が高いので出てきたのでしょうか。
「ホキ石仏第一群」の「地蔵十王像」。


地蔵菩薩の左右に、地獄で死者の罪を裁くという十王が並んでいます。鎌倉期の作。
4群の中で一番高いところにある「山王山(さんのうざん)石仏」。

大小三体の如来坐像で構成されています。

石仏と六月の緑の共演がなかなか良い感じですね。
最後の「古園(ふるぞの)石仏」。

中央の大日如来像は、臼杵石仏のシンボルとも言える像で、以前は落ちた頭が下の台座に安置されていたそうです。長くその姿が親しまれていたため(土産物として仏頭のみの置物が今もたくさん売られていました)、修復の際にはそのまま戻さない方がいいという声もあったそうですが、頭部を元の位置に戻すことを国宝指定の条件とされたことから、元の姿に復元されることになったそうです。

看板に「リストラ除け」という珍しい文句がうたってあり、とても不思議に思ったのですが、どうやら「首が繋がる」ということから、そういうご利益を期待されるようになったようですね。何事も考えようだな。
古園石仏周辺から見下ろす石仏公園。

石仏のある山際から川を隔てた平地は、散策道が整備されている公園となっています。

公園の向こう側には満月寺(まんがつじ)というお寺があり、どことなくウルトラマンに似たユニークな仁王像が建っています。
石仏の拝観を終え、公園の方に下りてきました。


写真は、公園から古園石仏の方を向いて。
石仏公園の一角には蓮畑があります。


見頃は7月中旬からと書いてありますが、この時期でもすでにたくさん咲いていました。
悠久の年月を感じさせる素朴な仏像たちにだいぶ癒されました。


またこの環境も良かったんでしょうね。覆屋に覆われてはいますが、寺院や博物館などで仏像を見るのとは全く風情が異なります。ミラツアで臼杵へ行かれる方は、折角ですので、こちらの石仏へも足を運ばれることをおすすめします。
石仏拝観と公園内の散策で、1時間ほどかかり、時刻は14時25分。

観覧券販売所の建物まで戻ってきました。この建物の前にバス停がありますので、少しの間バス待ちです(バスを利用する方は、本数が少ないので予め調べておいた方が良いです。なお、臼杵駅等にレンタサイクルもあるようですので、興味のある方は調べてみて下さい)。

建物の前に、敦煌との「友好都市調印記念之碑」というのがありました。臼杵と敦煌は友好都市なんですね。ともに仏教遺跡があるという共通点からなのでしょう。
可愛い声がすると思ったら、軒下にツバメの巣が。


季節を感じますね。
臼杵石仏バス停から、路線バスで20分ほど。臼杵城址近くの「辻口」バス停に到着しました。


時刻は15時27分。もう夕方に差しかかろうかという時間ですが、これからひとつミラージュスポットを訪ねますよ。


臼杵市街地の地図。城下町らしく風情のある道が多いです。赤鯨衆と大友の会談場所となった稲葉家下屋敷、嶺次郎らの宿泊所となった平井家屋敷を見学した後、ちょっとした展示物などがある「サーラ・デ・うすき」という多目的交流施設に立ち寄り、この日の宿である五嶋旅館へと向かいます。臼杵城址は翌朝訪れる予定です。


<ヘリで佐伯に降り立った赤鯨衆の面々は、この日、大友の本拠地である臼杵に入ることを許された。臼杵には大友宗麟が築いた丹生島城(臼杵城)がある。宗麟の時代は、ポルトガルの宣教師や商人などの行き交う一大国際都市だった臼杵も、いまは静かな小城下町だ>(27巻『怨讐の門 黄壌編』49ページ)


写真は、嶺次郎たちが案内された稲葉家脇の水路。立派な錦鯉がたくさん泳いでいます。
<清正と嶺次郎たちは大友の家臣に招かれ、滞在のために用意された屋敷へと案内された。臼杵城からほど近いところにあるその武家屋敷は、元藩主・稲葉家の下屋敷だったという重厚な書院造の邸宅で、ついこの間まで資料館として公開されていたという>(27巻『怨讐の門 黄壌編』49ページ)

ミラージュでは大友が占拠してしまったらしいこの屋敷は、現実ではちゃんと今も資料館として公開されていますのでご安心を。

写真は稲葉家下屋敷の門。入ってすぐ左手に券売所があります。
稲葉家は、関ヶ原の戦いの後に移封されてから明治維新まで、十五代に及び臼杵を治めていました。

この稲葉家下屋敷は、廃藩置県に伴って東京へ移住した稲葉家の滞在所として明治35年に建てられたものだそうです。

写真は、下屋敷の玄関。

※臼杵市役所HP内でパンフレット(PDF)を公開しています。施設内見取り図があるので、わかりやすいです。リンクはこちら↓(別窓展開、リンク切れの場合はご容赦下さい)
http://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014060500026/file_contents/inabake.pdf
<千鳥破風の立派な玄関をあがると、正面に式台がしつらえてある。清正はさも当たり前の扱いとでもいうように平然とズカズカあがっていく。だがここに泊まれるのは清正だけなのだった。赤鯨衆の面々は、左手の廊下から一度外に出て、別棟へと案内された>(27巻『怨讐の門 黄壌編』50ページ)


私たちもここで靴を脱いで上がらせて頂きます。
ところで、「立派な玄関をあがると、正面に式台がしつらえてある」と書いてあるので、私は何も考えず、玄関上がって正面にあったこの飾り棚のようなもののことを言っているのかなと、この時は思ってしまったのですが…、「式台」ってよくよく調べてみると、玄関の上がり口の段差が大きい場合に設置される板のこと…なんですね。

だとすれば、ひとつ上の写真の、玄関上がり口の階段のようになっている部分のことかな…と考えられます。が、作中ではあくまで「玄関をあがると、正面に〜」という記述なので、ここは…ちょっと謎です。
もうひとつ。この時私はぼけっとしていたようで、チェック漏れが出てしまいました。

「赤鯨衆の面々は、左手の廊下から一旦外に出て〜」と書いてありますので、その「左手の廊下」というのを見ておかなくてはならないところでしたが、すっ飛ばしてしまいました。というのも、玄関から奥の大書院へと入ると美しい庭園があり、縁側から降りられるようになっていて、「平井家住宅住宅へは下駄をお使い下さい」と丁寧に書かれていたので、おお〜嶺次郎たちが泊まった平井家住宅か〜と、つい誘われるまま、そこから下駄を履いてしまったのでした…。

こちらの写真は、下屋敷の大書院(私が庭に出たのは、画面より左の縁側から)。
こんな感じ。


玄関とは反対側の庭に面した縁側から庭に降りて、飛び石伝いに進んで行くと、平井家住宅があるようです。
で、その「左手の廊下」ですが…、玄関を上がってすぐ左側の脇室から、離れと通じる渡り廊下のようなものがあるようですので、恐らくはそのことを言っているのかと思われます。


写真は、玄関から写した脇室。奥の大書院へ入るにはこの脇室を通りますが、廊下へ通じると思われる引き戸(写真中央奥)は閉まっていたので、余計気に留めなかったようです。
というわけで、庭に出ちゃいました。

見学者向けには、大書院の縁側から降りられるようになっていましたが、考えてみれば、正式な場面で家臣屋敷へ案内するのに、書院の縁側から出るなんてことはしませんよね、なるほど。

写真は、庭の飛び石から下屋敷を振り返って。右端の方に建物が写っていますが、これが離れ(2棟ある)です。

写真右の方に枝振りの良い木がありますが、これが(後ほど出てくる)桃の木ではないかと。
嶺次郎たちが案内された順路とは少し違いますが、庭を抜けて平井家住宅へと向かいます。


どうやら飛び石の先にある、白い壁に囲まれた下屋敷より若干こじんまりとした建物がそれらしいですね。
<「なめられたもんじゃのう」 と嶺次郎が愚痴ったのも無理はない。嶺次郎たちが案内されたのは、藩主邸の隣の敷地にある平井家という名の家臣屋敷だったからだ。「あくまでわしらは家臣扱いか」 (略) 嶺次郎は柱にもたれて、不遜げに塀越しの空を見上げた>(27巻『怨讐の門 黄壌編』50ページ)

確かに、こちらは庭も狭く、塀に囲まれていて、下屋敷の方とはだいぶ趣が異なります。

写真右側にある座敷は、「離れ座敷」と説明書きにあり、平井家住宅の南東角に位置し、後から増築された部分だそうです(下屋敷から来ると最も手前側)。
上の写真の地点から右に向くと、狭い庭のようなものがあります。

<家臣屋敷の狭い庭先で、嶺次郎は庭木の小枝をむしり折った。本人も苛立っている>(27巻『怨讐の門 黄壌編』87ページ)

大友との最初の交渉に失敗した後のシーンです。嶺次郎が小枝をむしり折ったのはどの木でしょうね。
この先の飛び石沿いにも木が植わっていて、狭いながらも庭のような風情になっていますので、嶺次郎が立っていた庭先というのが、どの場所なのかは、具体的には特定できないようです。

写真は、離れ座敷の脇から少し先に進んだ辺り。

この辺りから建物の方を向くとこんな感じ↓
縁側の向こうにやや広めの座敷があります。

嶺次郎たちの居室となったのは、記述からすると、狭い庭に面した縁側のある座敷のようです。

恐らくは、さっきの離れ座敷か、こちらの座敷ではないかと思われますが、こちらの方が若干広そうですね(この他にも縁側のある座敷はありますが、位置的に客人の部屋とする場所ではありません)。こちらの方が居心地は良さそうな気はします。
来た方を振り返って。


写真奥の少し飛び出た部分が離れ座敷です。


この地点で、飛び石の通路は建物の角に沿って折れています(画面左側の方へと続いています)。
こちらは曲がったところ。


飛び石は、家の玄関まで続いていて、中に上がって見学できるようになっています。
と、その前に。

飛び石を進んで行くと、先刻の下屋敷の門とは比べようもありませんが、こちらにも小さな門がありました。

最初の交渉に失敗した直後、四国から高耶さんが倒れた(ミホに襲撃された時の毒が回って倒れた)という知らせを受け、直江が四国へ戻るため宿舎を出るシーン(96ページ)がありましたが、それはこの門の外でのことかと思われます。

ただ、ここには券売所は設けられていませんので、ここから出入りすることはできません。一旦外に出てから向こう側を見ることはできるようですが、すみません、見に行っていませんので写真はありません。
平井家の玄関。ここで、履いてきた下駄を一旦脱いで、上がらせて頂きます。


こちらはもともと客人用の表玄関で、この裏側の方に家人用の玄関があるそうです。
先刻、外の通路から見えた座敷。離れ座敷は画面左手奥の方に位置しています。

割と広々としているので、嶺次郎たちが居室にするには良さそうですが、ひとつ気になることが。

床の間に対して畳や天井板が直角に配置されるのは「床刺し」と言って不吉とされ忌み嫌われるそうですが、写真手前の間は、実はその珍しい「床刺しの間」なのだそうです(床の間は右手背後の方。写っていませんが、天井が床刺し)。武家屋敷では切腹のための部屋とされているそうなんですが(こちらの平井家住宅は江戸時代後期の建築です)…となれば、そんな部屋には泊まらないのではないかとも思われます。
<外は白々と明けようとしている。嶺次郎は隣の部屋の縁側に座り込んで、まんじりともせず、狭い庭を見つめていた。一晩中、考え事をしていたようだった。ふと明けかけの空を見上げた嶺次郎は、何を思ったか立ち上がり、玄関の方へと歩きだした>(27巻『怨讐の門 黄壌編』110ページ)


前日の会談をしくじり、直江の計らいで二度目の会談を控えた日の朝の出来事です。中川が嶺次郎の後をつけていくと、向かった先は臼杵城址なのでした。自分の弱さや迷いをふっきるため、海を見に行ったようですね。そのシーンについてはまた後ほど。


写真は、床刺しの間から見た縁側と小さい庭。
こちらは離れ座敷の中から外を見て。さっき歩いてきた飛び石が見えます。

総合的に考えて、嶺次郎たちが居室としたのは…多少狭くても、こちらの離れ座敷の方だったのではないかと、個人的には思います。

先ずは床刺しの間に泊まるのはどうかという問題。それともうひとつ、「塀越しの空を見上げた」という表現です。ひとつ上の写真でもわかりますが、床刺しの間辺りの縁側は塀から少し距離があり、間に植木も植わっているので、“塀越しの空”感…があまり無いのです。

そういった面を考慮すると、やはり、こちらの離れ座敷に彼らがいたとイメージする方がいいかもしれません。嶺次郎がもたれた柱…というのは、←の写真のこの柱でしょうかね。
平井家住宅の見学はこれで終わり。稲葉家下屋敷の方へと戻りましょう。


写真は、平井家住宅の離れ座敷脇から稲葉家下屋敷の庭園の方を向いて。


そうそう。嶺次郎たちが最初にここに通され、不満を漏らしていたところへ、清正が彼らを呼びに来ますが、その清正もこの藩主邸の庭から通じる道を通って来たようですね(51ページ)。
清正は茶でも飲もうと、嶺次郎と中川を誘ったのでした。

<藩主邸の庭は驚くほど広く明るい。桃の花が満開だった。庭に面した角の居室は、炉が切ってあり、茶道具一式が用意されている。嶺次郎たちが庭に見とれていると、「まあ、座れ。茶でも点てよう」と清正が申し出た>(27巻『怨讐の門 黄壌編』51ページ)

「角の居室」というのは、写真右側に写っている棟の一室かと思われます。この棟には四間ほどあり、「御居間」と説明書きに書いてあります。先ほど通った大書院は画面より右側。
こちらがその「角の居室」かと思われる座敷。小さい正方形の形をした畳がはめ込まれていますが、ここを開けると炉になっているものと思われます。

清正が出した茶を、嶺次郎は一瞬怯んだ後、酒でも呷るように飲み干し、作法なぞ知らんままでええと言い放ったのでした。茶の嗜みは、武将ではない、雑兵集団のボスである嶺次郎にとって、超えなくてはならない壁の象徴だったのかもしれません。相手の作法や常識をただ拒むのではなく、自己流だとしても相手の懐に飛び込み、相手の土俵でたたかう、そういう気概が必要だったのかな、という気がします。

縁側でお茶をしている人がいますが、実はここでお抹茶を頂くことができるんですよ。
御居間棟を大書院とは反対側にぐるりと回り込んだところ(稲葉家下屋敷の門を入って右手奥の方)にある「茶房下屋敷」。


こちらのテーブルで飲食することもできますが、下屋敷の方で食べることもできます。注文したら、好きなところで待っていて下さい、とのこと。
さっきの角の座敷は先客がいらっしゃったので、その隣の縁側で待っていると、ちゃんと探して持って来てくれました。

冷抹茶と季節の和菓子のセット。蒸し暑かったので、冷たいものが欲しくなります。

お菓子は臼杵の料亭・喜楽庵のものだそうです。黄色いゼリーのようなものは、クチナシで色をつけた寒天。臼杵にはクチナシで色をつけた黄飯という郷土料理もあり、クチナシがよく使われるのかもしれませんね。白い方は、白餡を練ったお菓子…かな。いずれも上品な味です。冷抹茶も使っているお抹茶が良いのか、とても良い味でした。城下町にはやはり優れたお茶文化があるものですね。
作中に出てきた「桃の花」は時期ではありませんでしたが、美しい紫陽花が咲いていました。薄紫〜薄紅色のグラデーションという不思議な色の紫陽花です。

嶺次郎たちも見とれた庭を眺めながら、ほっと一息。茶の淹れ方ひとつが交渉の結果を左右するというのは、小説だからこその話だとは思いますが、その人の人となりを表してしまうほど茶道も奥が深い世界だということでしょうか。

冷たい抹茶で喉を潤しながら、「四国の山深い谷の匂いがする」という嶺次郎の点てた茶も飲んでみたいな、なんて思ってしまいました。
時刻は16時33分。

この日のミラツアは、稲葉家下屋敷&平井家住宅のみ。これから、少しだけ臼杵の街を歩いて、予約してある旅館にチェックインします。

写真は、稲葉家下屋敷のある通りから臼杵城址の方を向いて。道路の突き当たりにある小高い丘のようになっているところが臼杵城址です。

また少しミラツアとは関係のない内容になりますので、飛ばしたい方はこちらをクリックして下さい
稲葉家下屋敷からゆっくり歩いて5分ほど。

「サーラ・デ・うすき」という施設にやってきました。臼杵に関する展示物があったり、観光客や地元の人向けの情報発信・文化交流の場があったりするサロンです。

外観は、かつて臼杵に建てられていた「ノビシャド」と呼ばれる修練院(修道士養成機関)のイメージ図が元になっているそうです。ミラージュでの宗麟公はキリシタン王国の建設を夢見て阿蘇で果ててしまい、臼杵のくだりには登場しませんが、臼杵へ来るとキリスト教保護や南蛮貿易に力を入れた宗麟公の足跡をそこかしこで感じることができます。
撮影OKとのことでしたので、写真を撮らせて頂きました。

こちらは、例の「国崩し」のレプリカ。国崩しは、宗麟公がポルトガル人宣教師たちから輸入し、日本で最初に使用された大砲です。

作中ではやたらと国崩し国崩し…と赤鯨衆には切望されていましたが、見てみると思ったより小ぶりなんですね。もっとも、あちらは霊大砲で、威力も霊的なものなんでしょうけど。
こちらは、16世紀の「ナウ」という型のポルトガル船。


臼杵の港にもこういう船が来ていたのですね。


桑原先生も書いていましたが、臼杵は、今でこそ、ひっそりとした小城下町ですが、宗麟公の時代は、明やポルトガルの商人が行き交う国際的な商業都市だったのだそうです。
サーラ・デ・うすきの近くには、昔からの佇まいを残す商店が並んでいます。


写真は、西暦1600年に創業という、九州で一番古い老舗という味噌・醤油屋の「可兒(かに)醤油」(屋号は鑰屋(かぎや))。臼杵には古くからある味噌屋さんとか醤油屋さんとかが多いようです。フンドーキンとか、フジジンとか。少し大きなスーパーなら、関東でも臼杵のお醤油は必ずと言っていいほど置いてありますから、やはり臼杵の味噌・醤油は有名なのでしょう。
サーラ・デ・うすきを出た頃から、パラパラと雨が降り出しました。


宿泊予定の五嶋旅館は、臼杵城址南側の住宅地の中。路地は城下町らしく入り組んでいて、少し歩くと方角もわからなくなってしまいそうな迷路のような場所です。雨がそぼ降る中、少々迷いましたが、それでも決して不快な感じがしなかったのは、たまにすれ違う臼杵の人たちが(大人も子供も)気持ちよくあいさつしてくれたり、親切に道を教えてくれたりしたからでしょうか。
途中、スーパーで飲み物を買ったり、道に迷ったりしながら、17時39分、五嶋旅館に辿り着きました。

庭には緑が溢れてて、狭い路地を迷った挙句に辿り着いたという演出?のせいもあってか、ちょっとミステリアスな印象。実際は、家族経営の民宿のような感じのアットホームなお宿です。

臼杵には、他にもビジネスホテルや旅館が何件かありますが、楽天で調べた時に、異様に高い評価で目立っていたのがこちらの五嶋旅館でした。しかも、一泊二食で6,700円/一人(平日限定ビジネスプラン)という安さ。これは是非泊まってみたいということで、こちらの宿を予約したのでした。
その五嶋旅館。結論から言ってしまいますと、これまで泊まった中で、恐らく一番満足度が高い宿泊施設だというのが、私と相方の共通の感想です。

建物は古く、玄関は普通の家の玄関ですし、お風呂も(わりと広くてきれいではあっても)普通の家庭のお風呂ですし、部屋も鍵がかからない、もちろんお手洗い洗面所は共通…という、本当に民宿といった感じの宿ではあるんですが、なんでしょう、妙に居心地がいいんです。

たぶん、それは、宿のもてなしが程よく行き届いているからなんでしょうね。施設が古くて、ものが限られていても、快適に過ごしてもらおうという心遣いが随所に感じられる、そして、その程度が決して行き過ぎにならない。家族経営の民宿だとそういう加減が難しいと思いますが、こちらの宿は、それが絶妙でした。おもてなしの質としては、大規模ホテルなどではかえって到達できない境地に達していると言ってもいいかもしれません。
雨の中到着すると、すぐに玄関まで出迎えて下さり、タオルを貸して下さいました。

通されたのは二階の二間続きのこのお部屋。実に広々としていてびっくり。この日はたまたまお客さんが少なかったようで、広いお部屋を使わせてくれたのかもしれません。

畳のお部屋ですけれども、小さめのソファとか可愛らしいクッションも置いてあったりして(写真に写っていませんが、画面手前の方に置いてありました)、何だか古民家カフェのようなお洒落さです。
住宅に囲まれたような立地ですが、庭やベランダには緑が生い茂っていて、決して悪い雰囲気ではありません。


雨空の下、遠くの山からは白い気が立ち上ってどこか幻想的な雰囲気さえします。
ゆっくりお風呂に入らせてもらってから、夕食です。

食堂で頂きますが、この日は、他に夕食付きのプランのお客さんがいらっしゃらなかったので、私たちだけの貸切状態でした。

夕食付きと言ってもお得なビジネスプランですので、定食のような感じだろうと思っていました。席に着いた時に出ていた、こちらの写真の内容(カンパチとイサキの刺身、カマスの塩焼きのカボス添え、胡麻豆腐、きゅうりの酢の物)+ご飯味噌汁くらいかなと思っていたら、まだ他にも、イサキの山芋あんかけとか、サザエのバター醤油炒めとか出して下さって、嘘だろ?ってくらい驚きました。しかもどれも抜群に美味しい。器も素敵。6,700円なのに。
「一の井手」という臼杵の日本酒を頂きながら、至福のひと時。

このサザエのバター醤油炒めは特に、味付け、炒め加減ともに絶妙で、これまでサザエを美味しいと思ったことがなかったらしい相方も美味い美味いと大興奮でした。

それと、何気に最も感動したのは、ご飯の美味しさ。おかずが多く、それだけでお腹いっぱいになりそうだったので、ご飯をよそってもらう時に少しでいいですとお願いしたのですが、それを後悔するほどのうまさ。お話を聞くと、親戚の方が臼杵で作っているお米で、玄米で保存していて、その都度精米しているのだそうです。他の食材もほとんどが臼杵産のものを使っているとのことでした。こういうのこそ本当のご馳走なんですよね。
どんなに立派なホテルや旅館でも、流れ作業で出てきたような食事には閉口してしまいますが、こんな風に素朴なお料理でも、心を込めて作って下さったものは、それが伝わりますし、美味しいものですよね。そんなことを改めて感じさせてくれる五島旅館の夕食でした。


そして、お部屋に戻ると、気持ち良さそうな寝床がちゃんとセッティングしてありました。ご家族経営で、実質お母さんと息子さんのお二人でやっていらっしゃるようですが、何事も手際が良くて驚かされます。
愛用のお遍路万歩計は、足摺岬に到着したようです。画像は、足摺岬と鯨。

ああ足摺…。いつになったら行けるんだろう。でも、先日(2016年4月4日)運転免許を取得しましたので、レンタカーでも行くことが可能になりました。二年くらい後には高知に移住する予定ですので、四国のミラスポットはそれからでも回れますしね…。なんて言ってると、いつまで経っても行けないか。

この日の歩数は、16,189歩でした。
一夜明けまして翌日。

この日も変わらず梅雨空ですが、相方を部屋に置いて、ひとりで早朝5時48分に五嶋旅館を出ました(早朝散歩に出ることは旅館の方に了解頂いてます)。もちろん、臼杵城址を散策するためです。

<清正に連れられて、嶺次郎がやってきたのは町の真ん中にある臼杵城址だった。小高い崖の上に立つ姿は、かつてこの城が海上にあった島であることを伝えている。「今は下が埋め立てられて海も遠くなったが、元々は城全体が丹生島という島だった。海に囲まれた天然の要害だ。船がなければ攻められん。島津はこの城を落とそうとして失敗したと聞く」>(27巻『怨讐の門 黄壌編』54ページ)
かつては島だったと聞いて、さもありなんと納得してしまうような外観です。崖崩れ防止のためか、山肌を固めてあるさまがまた、いかにも要塞といった趣きです。


臼杵城は戦国時代に大友宗麟が築き、実質的な居城とした場所で、江戸時代は稲葉氏の居城となりました。城の周囲が埋め立てられたのは明治20年のことだそうです。


臼杵城址には、嶺次郎が二度、訪れています。一度目は臼杵入りした初日、平井家の屋敷に通されたところを清正に誘われ、国崩しのレプリカを見に来ています。二度目はその翌々日(大友との交渉が決裂となった翌日)、早朝にひとりで平井家屋敷を出た嶺次郎の後を中川先生がこっそり着けて行き、亀首櫓跡から二人で美しい朝焼けを見て、初心を思い出したのでした。
それから、高耶さんが倒れたとの知らせを受け、急遽四万十へ戻ることになった直江を乗せたヘリが飛び立ったのが「二の丸跡のグラウンド」でした。臼杵城址にあった案内図では、大門櫓をくぐってすぐの辺りに二の丸跡の表示が書かれていたのですが、グラウンドはもう少し奥になります。しかし、二の丸はかなり大きかったようですので、グラウンドの辺りも二の丸跡に含まれているのかもしれません。いずれにせよ、ヘリの発着に適した広場は上の地図で示した「グラウンド」のみですので、そこから直江がヘリに乗ったことは間違いなさそうです。

それでは、物語の内容は前後してしまいますが、要所要所をチェックしながら臼杵城址を歩いてみましょう。


臼杵城址、古橋口にて。

古橋は、現在は堀に架かる橋ですが、かつては海に架かる橋だったようです。元は丹生島という島だったこの城は、古橋と今橋(城の北側、上の地図参照)の二つの橋で陸続きだったそうです。

上方に見える二つの櫓は、右が畳櫓(現存)、左が大門櫓(復元)。
上に護国神社がありますので、鳥居が建っています。


鳥居を潜ると、畳櫓の前辺りまで、くねくねと折れ曲がった「鐙坂(あぶみざか)」が続きます。


鐙坂三景。なかなか情緒のある坂道です。どことなく異世界へのアプローチのようでワクワク感もあります。

<(中川は)距離を置きながら後を追った。嶺次郎は城址の鐙坂をあがっていく。どこまで行くのかと思ったら、そのまま本丸の方まで歩いていくではないか>(27巻『怨讐の門 黄壌編』110ページ)

少なくとも嶺次郎は二度、この坂を登っているはずです。鎮西王と呼ばれた宗麟公の築いた城に登城する気分は、どんなものだったでしょう。たぶん、初日に清正に連れられて登った時と、二回目の会談を控えたあの朝とでは、まったく違った心情だったんだろうなと思われます。


その鐙坂を登り切ったところに、また鳥居があり、その向こうに「畳櫓」が建っています。
畳櫓前で道は左に折れ曲がっていて、前方を見ると、入口に当たる「大門櫓」が見えます。
こちらがその大門櫓。


天守はなくとも、城跡を巡る楽しさがあります。早朝ということで、ほとんど人はいませんでしたが、ジョギングする地元の方が何人かいらっしゃいました。
大門櫓を入らず、通り過ぎて少し行ったところに、時鐘(ときのかね)が建っています。

明治6年から平成20年まで、この時鐘は、畳櫓の横に移されていたそうです。と言うことは、27巻が発行されたのが平成11年ですから、嶺次郎が来た頃は、畳櫓の横にあったとイメージするのがいいのでしょう。

なお、この時を告げる鐘は、昭和末期頃に突き手がいなくなって鐘の音は途絶えてしまったそうですが、平成22年に整備して復活したと書かれていました。はっきり記されていませんでしたが、恐らくはコンピュータ制御で自動で鳴るようになっているものと思われます(午前6時に鳴るのを聞きました)。
少し戻りまして、大門櫓を潜ったところです。

この先が二の丸跡ということらしいです。

左の鳥居を潜ると、護国神社に繋がっています。宗麟公のレリーフは右側の道沿いにありますので、右へ行ってみましょう。
山の上はほぼ平坦で、桜が植わっていたり、所々に広場やベンチがあったりして、今は市民の憩いの場といった様子です。
途中、城の南側に、階段で上り下りできる入口があったので、そこから臼杵の街を眺めてみました。

<なだらかな山と河に囲まれたこぢんまりとした町だ。城の南側には寺町があって、甍の波が穏やかな陽光に光っている。龍原寺の三重塔が家並みの中に顔を突き出していた>(27巻『怨讐の門 黄壌編』54ページ)

清正と嶺次郎が城の先端の亀首櫓まで来た時の描写なのですが、亀首櫓は城の東端にあり、寺町は城の南側…というか南西側にあるので、亀首櫓からは寺町や龍原寺の三重塔は見ることができません。甍が並ぶ寺町の様子…は何となくこの写真からわかってもらえるでしょうか。ただ、龍原寺の三重塔はここからも見ることはできませんでした。龍原寺には後ほど、臼杵の街を散策する際に立ち寄ることにしましょう。
宗麟公のレリーフが見えてきました。

<「こっちに『国崩し』のレプリカがある。おまえに見せておこう」 ふたりは二の丸のほうへと引き返した。グラウンドでは老人たちが和やかにゲートボールを楽しんでいる。その先の臼杵護国神社の右手に、宗麟の一生を表したレリーフがある。大砲はその傍らにあった>(27巻『怨讐の門 黄壌編』56ページ)

清正と嶺次郎は、一旦、亀首櫓まで行った後、戻ってこのレリーフと国崩しのレプリカを見に来ています。
宗麟公のレリーフと国崩しのレプリカ。レリーフは、宗麟公の一生…と言いますか、キリシタン大名として名を馳せた宗麟公のイメージなのでしょう。首にロザリオを下げた宗麟公が西洋椅子に腰掛けていて、その傍らには国崩し、背後にはポルトガル船らしき船が描かれています。


写真右の方に写っているのが、国崩しのレプリカ。
<(これが……『国崩し』) いかにも西洋的な装飾を施された青銅製の大砲だ。思ったより細身で、砲身は三メートルに届かない。だが、実に秀麗な姿をしている。「本物は今、東京の靖国神社にあるらしい。道雪が造ろうとしているのは、これの霊大砲だ」 「これで島津を追い払ったのか……見事じゃ」>(27巻『怨讐の門 黄壌編』56ページ)

1586年島津軍の侵攻を受け、籠城戦となった際、この国崩しが実際に使用され、島津撃退に一役買ったのだそうです。

<フェンス越しに見下ろせる臼杵の町に午前十一時を知らせる鐘が響く。清正は大砲の台座に腰掛けて、だいぶ芽の膨らんできた桜の枝を見上げた>(27巻『怨讐の門 黄壌編』57ページ)
国崩しの上方には、清正が見上げたと思しき桜の枝が、確かに伸びていました。季節は違いますけどね。

そして、上の写真の位置から国崩しとは反対側を見ますと、こちらも確かにフェンス越しに臼杵の町が見下ろせます。

この場所で、清正は嶺次郎に乞われるまま、阿蘇での仰木高耶のことを語ったのでした。
国崩しのレプリカがある場所を通り過ぎて少しすると、左手にグラウンドが見えてきました。


老人たちが和やかにゲートボールを楽しんで」いたというグラウンドですね(56ページ)。
高耶さんが倒れたとの知らせを受け、直江が急遽、中川の用意した霊血清を持ってヘリに乗り込んだのも、このグラウンドでした。

<「本当なら私が行くべきところですが、今、嘉田さんのそばから離れるわけにはいきません。だから代わりに行って欲しいんです」>(27巻『怨讐の門 黄壌編』95ページ)

掃部先生の台詞がよく人間関係を表していますよね。嶺次郎にはやはり中川が必要なのでしょうし、高耶さんには当然直江が必要なわけです。
左手にグラウンドを見ながら、道なりに奥の方へと進んで行きます。


前方に空堀らしきものが見えてきました。
この空堀の向こう側(写真左側方向)が本丸跡、ということになります。
空堀を過ぎまして、引き続き道なりに進んで行きます。


もう少しで臼杵城の東端のはずですが…。
あ、ここですね。


はいはい、確かに海が見えますよ。
南東角に、「亀首櫓跡」という碑がありました。

臼杵城はその形状から、巨大な亀に見立てられていたそうです。その先端にあった櫓なので、「亀首櫓」というのだとか。


<櫓はいくつかあるが天守は現存しない。二の丸跡は今はグラウンドだ。本丸跡との間に空堀が残っている。清正は本丸の先端の「亀の首櫓」と呼ばれるところから港の方を見やった>(27巻『怨讐の門 黄壌編』54ページ)
海はちょっと遠い気がしますが、清正はここから港の方を見ていたのでしょう。

海上に、ぽてっとした形の島が見えますが、これは津久見島です。

<臼杵湾の海上には、数隻の霊船の姿があった。津久見島の陰に錨泊する霊船団は、赤鯨衆の室戸水軍のものである>(27巻『怨讐の門 黄壌編』77ページ)

交渉が成功した際の≪国崩し≫輸送のためと、万一の際に嶺次郎らを救出するために、兵頭らが臼杵湾に待機していたのでした。


嶺次郎は最初に清正に連れられてこの場所に来ていますが、印象に残るシーンと言えば、やはり、二回目の会談を控えた日の早朝、中川とともにここで朝焼けを見たシーンですね。

<嶺次郎は本丸の崖の先端に立った。東側を望むと、埋め立て地の向こうに海が望める。臼杵湾だった。(あっ) と中川は息を呑んだ。東の空が思いがけず、見事な朝焼けに染まっていたのである。西へと流れる雲が赤の強い桃色に染まり、思わず立ち止まって見とれてしまうほど美しい。東側は海だから、開けていて果てがなくて、余計に美しかった。中川が、空に見とれながら思わず近づいていくと、嶺次郎のほうから振り返りもせずに話しかけてきた。「ええ朝焼けじゃのう。世界はこがいに美しかったがかのう」>(27巻『怨讐の門 黄壌編』110〜111ページ)

この日は見事なまでの曇天、といった具合で残念ですが、ここでそんなに美しい朝焼けが見られたなら、きっと心が洗われるような気分でしょうね。

<「なあ、中川。わしら、どんな気持ちで戦い続けてきたがやろ。生きたいと思うのはどがいな時だった?」 中川は羽織の袖に腕を入れながら、柵に腰掛ける嶺次郎を見て少し驚いた。顔つきが昨日と違う。(嘉田さん……?) 「それはのう、何が何でも訂正したいちゅう一念が燃える時じゃ。生前を、なんて大雑把なもんではない。昨日の自分を、じゃ。昨日おのれが表現したものを、あれは違う、と訂正したいからだ。これがいま一番ええ思うちょるもんじゃ、と何が何でも表現したいき戦うてきた」>(27巻『怨讐の門 黄壌編』111〜112ページ)

崇高な理想とか大きな目標とかのためではなく、常に目の前にあるものと戦ってきたというのが、やはり彼ららしいですね。でも、何だか、私にはこの文章、桑原先生自身のことのように思えてならないんですよね。そんな風に、次から次へと湧き上がってくるものと格闘しながら表現しているのではないかなと。深読みでしょうか。


鐙坂を下りていくシーンというのもありましたね。

<「昼餉の支度が整っている頃だ。ぼちぼち戻るとしようか」 鐙坂をおりていく二人の間には、もう会話はなかった。嶺次郎はどこか塞いでいる。自分の知らない高耶の姿が嶺次郎の心に影を落としている。清正はそんな嶺次郎の半歩後ろを歩いている>(27巻『怨讐の門 黄壌編』60ージ)

時刻は6時47分。宿では朝餉の支度をしている頃でしょう。私もぼちぼち戻るとします。

前編部分のミラツアはここで一旦終了です。無関係なところは飛ばしたいという方は後編へどうぞ。
五嶋旅館に戻ってきました。

写真は、玄関を内側から。

普通のお宅といった感じでしょ? 家族経営のようですし、旅館というより民宿といった趣きですが、必要以上に干渉されないので、全然窮屈な感じはしません。むしろとても快適。このレトロ感も非常に心地いい。
その五嶋旅館の中を、少し紹介します。

こちらは一階のお座敷。

緑の庭を眺められるのがいいですね。でも、特に何かに使われているということは無さそうです。食堂があまり広くなかったので、人数が多いときは、こちらで食事したりするのかもしれないですね。
二階の廊下。


客室はほとんどは二階にあるようでした。


こちらも普通のおうちのようではありますが、建物は増築などもしているのか、かなり広く、廊下を曲がったところにもまだ部屋があったりします。
こちらは共有スペース。

臼杵のマップとかパンフレットとか置いてあって、旅の計画を立てるのに便利そうです。

また、各お部屋には冷蔵庫はありませんが、こういった共有スペースに冷蔵庫があるので、自由に使っていいそうです。
食堂。

暖簾の向こう側のキッチンから出来たてのものを持って来てくれます。

炊飯器は、食堂の中に置いてありますので、ご自由にどうぞという意味なのでしょう(良いタイミングで勧めて下さるので自分たちでよそう機会はありませんでしたが)。
そして、朝ごはん。シンプルながらも、一品一品丁寧に作って下さっているのがよくわかります。

魚(たぶんブリ)の照り焼き、しらすおろし、切干し大根の煮付け、白菜の浅漬け、サラダ…。梅干がまた変わっていて、青梅なんですよ。青梅って梅酒の梅というイメージですが、これは甘くなく、梅干でした。初めてです。赤い梅干より、爽やかな感じでしょうか。季節感があっていいですね。サラダは、サラダ菜?的な菜っ葉とキウイに胡麻ドレッシングがかかったもの。干からびたキュウリとトマトと味のしないキャベツの千切りとかいう、取り合えずサラダ出しゃあいいんだろ的なサラダは決して出てこないのです、ここでは。それから、何とも美味いのが味噌汁ですよ。さすが老舗味噌屋さんのある臼杵。甘めで味噌の風味が活きています。具はお豆腐と地元の「くろめ」という昆布に似た海藻だそうです。粘りがあって、なかなか美味しい。ご飯自体もうまいし、最高の朝ごはんです。
食後には、温かいコーヒーも出して下さいました。

何だろう、この心地よさ。

恐らく、こちらのお母さんも息子さんも、本当に好きで旅館経営をしているんだろうなと思います。臼杵の美味しいものを食べて喜んで欲しい、古い建物でも快適に気持ちよく過ごして欲しい、臼杵に来たことが良い思い出になって欲しい、そんな風に思っているからこそ、こういったおもてなしができるのではないかなと。

五嶋旅館は、臼杵の宝だと思いますよ。五嶋旅館に泊まるために、また臼杵に行きたいとさえ思ってしまいます。臼杵へミラツアに行かれることがありましたら、是非泊まってみて下さい。

朝食の間、iPadから軽く音楽が流れていたのですが、そのiPadが置かれている台が、実は、古い足踏みミシンなんですよね(写真奥)。くそう、小洒落ておる。

続きは、後編にて。


2016.06.24 up



臼杵&国東ツアー 後編 →







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