四国三県ミラツア第二弾

〜白地城に寝て、浦戸アジトで昼食を

前 編




◆旅行日:2013年12月20日〜12月22日

◆行程:
※下線はミラージュスポット(一部推定含む)
※グレー文字は中編&後編にて

◇12月20日:
成田空港→(ジェットスターGK411便)→高松空港→(琴参・空港リムジンバス)→坂出駅前→(徒歩)→坂出港→(徒歩)→坂出駅・亀城庵(ランチ)→(JR予讃線)→善通寺駅→(徒歩)→善通寺→(徒歩)→善通寺駅→(JR特急南風)→阿波池田駅→(徒歩)→ビジネスホテル阿波池田→(徒歩)→あわの抄(白地城跡)

◇12月21日:
あわの抄(白地城跡)→(徒歩)→三縄駅→(徒歩)→三縄郵便局→(徒歩)→三縄駅→(JR土讃線)→大杉駅→(JR特急しまんと)→高知駅→(MY遊バス)→五台山展望台バス停→(徒歩)→展望台駐車場→(徒歩)→竹林寺→(徒歩)→竹林寺前バス停→(MY遊バス)→竜馬記念館前バス停→(徒歩)→桂浜荘→(徒歩)→龍王岬&桂浜→(徒歩)→桂浜裏側(浦戸大橋側)の海岸→(徒歩)→桂浜バス停→(高知県交通バス)→長浜出張所バス停→(徒歩)→雪蹊寺→(徒歩)→長浜出張所バス停→(高知県交通バス)→南はりまや橋バス停→(徒歩)→はりまや橋電停→(路面電車)→高知橋電停→(徒歩)→高知グリーンホテル はりまや橋→(徒歩)→一本釣り(居酒屋)→(徒歩)→ひろめ市場→(徒歩)→高知グリーンホテル はりまや橋

◇12月22日:
高知グリーンホテル はりまや橋→(徒歩)→追手筋通り(日曜朝市)&ひろめ市場(ランチ)→(徒歩)→はりまや橋バス停→(四国高速バス)→高松駅前バス停→(徒歩)→がいな奴(うどん)→(徒歩)→高松駅前バス停→(ことでん・空港リムジンバス)→高松空港→(ジェットスターGK412便)→成田空港


◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。表示されるまで時間がかかる場合があります。また、不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




2013年12月10日、成田-高松間で、ジェットスターが新規就航することになりました。以前からLCCには興味がありましたが、とうとう東京−四国間にやってきた!(成田-松山間はこれに先駆けて就航)ということで、(ミラツア的に)これを利用しない手はありませんよね。

前年12月にも四国ツアーに行っていますが、讃岐うどんや祖谷の温泉、高知のゆずサワーなど、相方も大満足だったようなので、二度目の四国旅がすんなり決定と相成りました。今回は祖谷へは行かないですけどね。前年のツアーで取りこぼした部分を主に攻める予定です。

写真は早朝の成田空港。
私も相方もLCCに乗るのは初めて(スカイマークは利用したことありますが、LCCには入らないようで)。

手荷物制限が厳格ということで、超過料金など取られないよう持ち物に気をつけましたが(荷物の大きさ、重さに制限があり、手荷物は大きいものと小さいものの2個まで)、実際にはチェックされませんでした。3個以上の手荷物を持っている乗客もいたりして…。

安い分、座席が狭い、飲み物がすべて有料などの欠点がありますが、飲み物くらいどうでもいいですし、座席も思ったよりは悪くなく、これで格安なら断然いいです。

この時はアナウンスされなかったように思いましたが、本当は機体の外であっても、空港の建物の外では電子機器を使ってはいけなかったようです(特に注意もされなかったんですが)。念のため。
因みにジェットスターは空港の使用料を安くするためか、飛行機がゲートから離れて待機しているため、成田ではほとんどバス移動です(地方空港ではそんなことないですが)。

今回の往復交通費は一人当たり12,780円(手数料等込)。前年の四国旅は往復(行きは夜行バス、帰りは高知空港からJAL)で一人25,000円でしたので、約半分で済みました。しかも今回は往復飛行機なので時間もその分長く取れ、2泊します。ジェットスターさまさまですね。

7時25分に成田を発ち、9時に高松空港に到着。ほぼ定刻通り。

高松の天気は…なんと、雪です。この写真ではよくわからないかもしれませんが、結構降ってます。
発車したリムジンバスの車窓から。

空港敷地内の道路はうっすら雪が積もっています。

坂出駅行きリムジンバス(一部丸亀行きも有)も、ジェットスター就航に合わせて、12月10日に運行開始したばかりだそうです。しかし、大きなリムジンバスに乗客は私たち2名のみ。大丈夫なんでしょうか…。せっかくLCCが就航したんですから、観光的にももっと盛り上がって欲しいと思いますが…。まあ、平日(金曜日)ですし、季節的なこともあるかもしれませんけど。



先ずは全体図を。

ミラージュスポット(推定含む)は赤字、参考までに載せた今回訪れていないスポットは( )付の赤字、それ以外の乗降駅&空港は緑字です(大歩危駅は今回は降りていません)。

今回の旅のルートは、前年の四国旅とほぼ同じ。香川から徳島を経由し、高知へ入るルートです。ただし、前年は高知空港から帰りましたが、今年は安いジェットスターを利用するため、帰りも高松空港から帰ります。

一日目は、高松空港からリムジンバスで坂出駅へ。坂出港、善通寺を見てから土讃線で阿波池田に入り、白地城跡の「ホテルあわの抄」に宿泊。

二日目は、やはり土讃線で高知入り。竹林寺、桂浜、雪渓寺をバスで巡り、夜はお楽しみの「ひろめ市場」へ。そのまま高知泊。

ミラツアは二日目で終了。三日目は、高知に来たら外せない日曜朝市へ。午前中いっぱい朝市を見て回った後、高速バスで高松に戻ります。うどんを食べてから高松空港へ。

原作の対象箇所としては、『拝啓、足摺岬にて』と本編22巻がメインになります。一部、23巻や『赤い鯨とびいどろ童子』も。

二度目にして、二泊三日の旅ですが、この近辺でまだ取りこぼしているスポットもあるんですよね…。左の地図に載せた根香寺や白峯寺、雲辺寺など。でも、ジェットスターがあるので、また気軽に行けそうです。
前述の通り、バスの乗客は私たちだけで、最前列に座っていたので、気さくな運転手さんと少しお話をすることができました。

うどんの美味しいお店とか、坂出から阿波池田に行くと言ったら、阿波池田は羊羹が有名だとか。

白峰山近辺を通った際は、怨霊伝説のある崇徳天皇のお墓があるんですよ〜なんて教えてくれまして。去年の大河(平清盛)に出てましたね、とちょっと盛り上がり…。私的には大河というより、ミラージュに出てたと言いたいところでしたが(笑)。

写真はその時に撮ったもの。白峰山は…たぶんこの山の向こう側。
就航したばかりの路線ということで、この運転手さん、この路線で運転するのはこの日が初めてとのことでした。時間配分がよくわからないので少し遅れるかもしれないと言われましたが、数分遅れ程度で無事、坂出駅前に到着。

写真はバス停から坂出駅方向を向いて。

坂出港へは、この通りを駅と反対方向にひたすら真っ直ぐ行くだけなので、詳細地図は省略します。
15分ほど歩くと、工場や倉庫などが見え始め、海が近い雰囲気が出てきました。
ようやく岸壁に到着。思ったより遠く感じました。坂出駅からは徒歩で20分ほどでしょうか。

ここは、『赤い鯨とびいどろ童子』に収録されている番外編『拝啓、足摺岬にて』の冒頭で、霊となった民谷美久が最初に四国の地を踏んだ場所でした。

<「……三途の川じゃないよ、あれ」 起き抜けのようにぼんやりしていた頭が一気に醒めた。飛び上がるほど驚いて、声のしたほうを振り返った。港の岸壁だった。車止めの縁石に見知らぬ青年が腰掛けて橋のほうを見つめている>(『拝啓、足摺岬にて』206〜207ページ)
縁石、確かにありますね。分身の高耶さんが座っていたのって、ここでしょうか(ドキドキ)。

<「ここは香川県の坂出。あんたが見てるのは本物の瀬戸大橋で対岸は倉敷。渡ってきたのは三途の川じゃなくて瀬戸内海」>(『拝啓、足摺岬にて』207ページ)

自分が死んだとは信じられないミクでしたが、高耶さんの分身に説得され、お遍路を始めるのでした。
ここからは、小さくですが、一応瀬戸大橋は見えます(画面中央より左、奥の方)。


しかし、小さな湾のようになっているので、対岸の岡山県の方は見えないんですよね…。
ミクがいたのは、ここよりもっと東の方だったかもしれません。湾状になっている部分を抜ければ、本州の対岸が見えるかもしれませんので。

行ってみたいところですが、そこまで時間的余裕がないので、坂出駅の方へ、とんぼ返り。

写真はズームで撮った瀬戸大橋。
瀬戸大橋の竣工は1988年。初めて本州・四国間を陸路で結んだ橋です。上下二層の構造で、上部は自動車道、下部は鉄道になっています。鉄道道路併用橋としては、世界最長だそうです。


高松空港では雪が降っていましたが、空は次第に明るくなってきました。
「瀬戸大橋のまち」というのが、坂出市のウリなんですね。


そう言えば、坂出駅の発車メロディーは「瀬戸の花嫁」でした。
11時過ぎに、坂出駅に戻ってきました。


駅周辺を散策していた相方と合流。
坂出周辺で評判のいいうどん屋を検索したら、駅中の「亀城庵」さんがヒットしまして。徒歩0分だし、ちょうどいいのでこちらで昼食を頂くことに。


そう言えば、私、こちらのうどんを通販で購入したことがありました。家で食べたのもとても美味しかったので期待できます。
私が注文したのは、「まて貝天ぶっかけ」(冷)。貝類大好きなんですよ。まて貝の天ぷらなんて、あまり見かけないので。瀬戸内ではポピュラーなんでしょうか。

そして、580円という驚異的な安さ(駅中のお店だから、香川のうどん屋としてはこれでも高い方なのかも…)。

野菜や薬味も入ってるし、すだちもちゃんと付いています。
見て下さい、麺のこのツヤ。


すすればツルツル、噛めばモチモチ。やっぱり讃岐うどんは最強です。
お腹を満たした後、善通寺へと向かいます。


写真は坂出駅のホームから見た讃岐富士(飯野山)。
坂出駅から約40分、善通寺駅に到着。


高松空港で雪を見た時はどうなることかと思いましたが、いい天気になってきました。
<香川県というところは、なんだかとてものんびりしてる土地で、あちこちに讃岐うどんの看板が目につく。基本的にどこも平らだけど、ポコポコと円錐形のかわいい小山がたくさんあって、面白い眺めだ>(『拝啓、足摺岬にて』218ページ)

↑の飯野山もそうですが、善通寺駅と向き合うように聳えるこの山もそんなポコポコ山のひとつ。

「我拝師山(がはいしやま)」という名のこの山は、7歳の空海が人々を救いたいという願いを込めて身を投げたという逸話の残る山です。
空海の幼少の頃の逸話があるのも、出身地の善通寺ならではでしょう。

駅前を真っ直ぐ歩いて行くと、小さな教会がありましたが…名前が面白いことに…「善通寺キリスト教会」。

「善通寺」って地名でもあるから、こうなってしまうんでしょうけど、一瞬、???ってなってしまいます。
五重塔が見えてきました。


さすが空海誕生の地に建つだけあって、遠目に見ても立派です。こんな田舎(と言っては申し訳ないですが…)にあるとは思えぬほど立派なお寺のようで。
善通寺駅から20分ほど、東の赤門の前まで来ました。


画面右側の建物は、旅館のようです。「お遍路さんのお宿」という看板が出ています。こういうの見ると、改めて四国だなぁと実感しますね。
東の赤門と五重塔。

<今まで見てきたどのお寺よりも広い。建物もデカイ。境内は学校ひとつ分くらいはあって、小さな札所のお堂が幾つも入りそうだ。立派な五重塔まで建っていて、大師堂も修学旅行で見た京都のお寺ぐらいあり、人もいっぱいいて賑やかだ>(『拝啓、足摺岬にて』220ページ)

ミクの感想通り、境内は広そうですが、人はあまりいません。
第七十五番札所・善通寺は、唐から帰朝した空海が、807年に、父・佐伯田公(さえきのたぎみ)の寄進した土地に創建したお寺です。寺号は父の法名・善通(よしみち)から取ったものだとか。


空海は豪族の御曹司だったんですね。


善通寺の境内案内図。『拝啓、足摺岬にて』に名前が出てきた場所は赤字にしてあります。

<ここは弘法大師が生まれたところなんだ。今入って来たところが東の赤門。伽藍のあるこちらが東院。西の中門から参道抜けて向こうにあるのが誕生院こと西院。ここは中国で弘法大師に密教を伝授した恵果阿闍梨の青龍寺を模して……>(『拝啓、足摺岬にて』220ページ)

高耶さんの説明の通り、境内は東院と西院に分かれています。東院は創建当初の寺域で、西院は空海が生まれた佐伯家の邸宅跡だった部分です。

東院の五重塔。


幾度かの倒壊や焼失を経て、現在のものは1902年に完成したものだそうです。
こちらは金堂。

現在の建物は1699年に再建されたもの。

本尊の薬師如来坐像を安置しています。
先ず金堂にお参りして、西院の方へ向かいます。


雨上がりの境内にできた水溜りで、鳩ちゃんが喉を潤していました。人気もあまりなく、静かな境内です。
西院へ向かう途中、お遍路さんとすれ違いました。振り返ってパチリ。


定年後のご夫婦でしょうか。仲良くお遍路する姿に、思わず和んでしまいました。
東院の西端にある中門。

<薀蓄にも耳を貸さず、あたしは西の中門を出たとこに並んでいる露店めがけて一目散に走った。うひょー、讃岐うどんに焼きそばにお好み焼きにたこ焼き……目移りするぅ!>(『拝啓、足摺岬にて』220ページ)

ミクが大興奮した露店、私も楽しみにしていたのですが…
なーんと、一軒も開いていませんでした(涙)。


土日祝日くらいしか開いてないんでしょうか? それとも以前は毎日開いていたんでしょうか?
軽く落胆して、西院手前のお堀?を渡ります。

縮小した画面ではわかりませんが、中央奥に、「かたパン」という看板のある「熊岡菓子店」さんが写っています。後日調べたところによると、かたパンとは、その名の通り、堅〜いパンだそうです。軍事食糧として考案されたもので、明治の創業当時は「兵隊パン」と呼ばれていたそうですよ。

老舗っぽい佇まいに興味を持って、相方が見に行ったのですが、その時はパウンドケーキっぽいものしか置いてなかったらしく…。後に『モヤモヤさまぁ〜ず2』のこんぴらさんの回で出てきて、「あそこじゃん!」とびっくり。
こちらは、西院の入り口にある仁王門。
仁王門から御影堂の前まで、屋根つきの回廊が続いています。


高耶さんと高耶さんに首根っこを掴まれたミクもここを通ったのでしょうか。
回廊の左手の方に、小さな池があります。


ここは「御影池」と言い、かつては佐伯家の庭の池でした。お大師様は唐へ赴く前、この池に姿を映して自画像を描き、母君に贈ったという逸話があるそうです。当時、海を渡って外国へ行くなんて、生きて帰れるかどうかわからない賭けのようなものだったんでしょうね。
可愛らしいお地蔵様の絵馬を発見。
こちらが御影堂。例の「戒壇巡り」がある場所です。

<「ちゃんと戒壇巡りもやってこいよ」 と送り出された私は、言われた通り、御影堂の地下にある戒壇巡りにも挑戦した。真っ暗な通路を壁伝いに「南無大師遍照金剛」と唱えながら進む。中間地点あたりの真上が、弘法大師が生まれた場所なのだそうだ>(『拝啓、足摺岬にて』221ページ)

もちろん、私も挑戦しますよ、戒壇巡り。
御影堂の中で500円を納めると、地下への入り口を案内してくれます。真っ暗で灯りが何もないので、左手で左の壁に触れながら進むよう説明を受け、いざ戒壇巡りスタート。

壁伝いに歩くと、道はカーブしているようで、すぐに何も見えなくなります。まったくの闇です。そう言えば、私、ほんの数ヶ月前も、沖縄の小浜島でほぼ完全な闇を経験していたのでした。あれは、大自然の中の闇で孤独感がありましたが、この戒壇巡りの闇は、同じ闇でもだいぶ質が違う感じがします。もちろん建物の中だし、安全ということがわかっているし、左手が常に壁に触れているし、当然と言えば当然なのですが、どこか親密ささえ感じられるような闇でした。例えば、「胎内」を彷彿とさせるような…。
チケットには次のような説明があります。

<御影堂地下の「戒壇めぐり」は暗闇のなかで自己を見つめなおし、お大師さまと結縁できる道場です。奥殿真下にある≪御誕生の聖地.≫では、お大師さまのお声がわたしたちをお諭しくださいます>

説明の通り、しばらく歩いて行くと、ほの明るい小部屋のようなところに出て、お大師さまの声(モンタージュボイス)がかかります。この場所の真上が、お大師さまが生まれたとされる地点、ということらしいです。
<祭壇にお参りして巡ってくると、出口で仰木高耶が待っていた。「ちゃんと出てこれたな。ここは身に悪行がある奴は出てこれないんだ」 「マジ!」 「おまえのは大した悪行じゃないみたいだから、安心だな」>(『拝啓、足摺岬にて』221ページ)

あ、闇についてあれこれ考えていたら、「南無大師遍照金剛」を唱えるの忘れてた…。まあ、それでも無事戻れたってことは、私の悪行も大したことないってことかな(笑)。

写真は、地下から戻って、御影堂の裏に出たところ。高耶さんが待っていた出口というのはこの辺りのことでしょうか…。御影堂裏から宝物館へと通路が続いています。
チケットは、戒壇巡りと宝物館共通のものですので、折角ですから、宝物館の方も拝観させて頂きます。


左の写真は、御影堂の裏にある「産湯井」。弘法大師が産まれた時に産湯として使われた井戸が中にあるそうです。
露店の開いていない参道を通って、東院の方へ戻ります。
東院には樹齢1000年を超える大楠が2本あります。

善通寺創建時からあったものでしょうか? もしかしたら、空海もこの楠を見たんでしょうか?



作中で、無事、戒壇巡りから出てきたミクは、死遍路への接待で出るご馳走を食べまくった末、動けなくなり、結局この善通寺に泊まることになったのでした。


<お堂の庇の下に座り込み、仰木高耶はぼんやりと月も星もない空を見上げていた。「寝ないの……?」 と問うと、ああ、と答える。仰木高耶は眠ることはないらしい。こうして遍路をいつも護っている。(略) 「ねえ、あんたは誰なの? なんであんたと同じ姿してる人がいっぱいいるの?」 「……。それは」 仰木高耶は五重塔の先端を見上げて、片膝を抱いた。「それはオレが四国をこんな風にした張本人だから」 (略) 「待って。じゃあんたは実在してる人なの? どこかに本体がいるの?」 「本体は剣山にいる。オレは仰木高耶であって、仰木高耶の分身。姿も性格も仰木高耶そのものを反映してるが、霊魂は本体にしかない。オレはおまえを導くためだけにある存在」 「あたしを……導くためだけの」 「おまえが成仏できれば、役目も終わる。だから早く成仏してくれよな」 笑った仰木高耶の目は優しかった>
(『拝啓、足摺岬にて』222〜224ページ)

高耶さんが庇の下に座っていたというお堂は、恐らく金堂のことかと思われます。五重塔を見上げる位置に建つお堂だとすると、金堂くらいしかないかと。で、金堂の庇と、五重塔の先端が入る角度で撮影してみました。

ミクの質問に答える高耶さんは、分身らしくすごく淡々としていますが、剣山にいる本体の高耶さんの苦悩が少しだけ滲み出ているようなくだりです。高耶さんって、一体何なんでしょうね…。聖人や超人のような行いをするかと思えば、ひどく泥臭い感情を持て余して傷ついたり、他人を傷つけたりもするし。もちろん、どちらも高耶さんなんですが、普通に喜んだり悲しんだり、人を愛したり憎んだりして七転八倒する高耶さんを知っている側からすると、高耶さんが崇めたてられればられるほど、切ない気持ちになるんですよね…。何だか、高耶さんが自分の幸せまで他人に分け与えてしまっているような感じがして。実際そういう要素はあったでしょうけど。そういう風にしか生きられない人だったんでしょうね、高耶さんって…。

善通寺の拝観を終え、南大門から外に出ます。

写真はその南大門。

これで、『拝啓、足摺岬にて』の部分は終了です。もっと回れれば良かったんですが、今回は時間が足りず、坂出港と善通寺の二箇所だけ。

『拝啓、足摺岬にて』には、他にも根香寺、雲辺寺、石手寺、岩屋寺、金剛福寺、足摺岬などのスポットが出てきますので、また機会を作ってミクちゃんツアーをしたいです。
そう言えば、前年に四国回った時には、この短編、まだ読めないでいたんですよね…。これで「未知の」高耶さんは最後なんだと思うと、読めなくて。でも、死遍路ひとりひとりに専属の高耶さんがいるように、読者の心の中にも各々の高耶さんがいつも寄り添っているってことなのかな…と思えば、少し寂しくないような気もします。


写真は南大門から出て、振り返ったところをパチリ。
ミクちゃんも言っていたように、香川県を歩いていると、至る所にうどん屋さんがあるんですが、善通寺駅までの間に、随分ひっそりとしたうどん屋さんを見かけました。

「大川製麺所」と書いてあります。香川県では「製麺所」と名が付いていても、その場で食べられるお店も多いんですよね。後で調べてみたら、ちゃんとこのお店の中で食べられるらしい…。いわゆる「ディープな」うどん屋さんってわけですね。ぶっかけの小で180円らしいですよ。おそるべし、讃岐うどん。
14時半頃、善通寺駅に到着。


まだだいぶ早い時間帯ではありますが、この日は宿で夕食が出るため、早めに宿に向かいます。最寄駅から結構歩きますし、それに明るいうちに宿の周辺を見ておきたいですしね。

そう、今夜の宿は、白地城です。
善通寺から阿波池田まで、8駅の距離ですが、なるべく早く着きたいので特急を利用します。


14時53分発の特急南風に乗車。
阿波池田駅着は、15時22分。

前年の四国ツアーでは、高耶さん探しに躍起になっている直江が来た街だ〜と思いながら素通りした駅。直江は車でしょうから、駅自体は縁がなかったかもしれませんが。
白地城へ向かう前に、一箇所寄り道を。

空港リムジンバスの運転手さんに、阿波池田に行くと言ったら、阿波池田は羊羹が有名だよと言って、駅前のこのお店を教えてくれました。

駅前アーケード街にある「安宅屋(あたぎや)」さんがそのお店。小さい羊羹を買いましたが、甘すぎず、なかなか美味しかったです。


<白地城(徳島県池田町)は土佐から山越えをして、伊予・讃岐・阿波の三方へぬける一大分岐点で、もっとも大事な交通の要衝だ。(現在はJRの分岐駅にもなっている) ここを押さえたものが南四国を制するといって過言ではない。織田の進出をくいとめるためにも、早めにとらねばならぬ場所だった
>(21巻『裂命の星』177ページ)

星谷寺から裂命星を奪った後、赤鯨衆がターゲットにしたのが、白地城でした。作中の言葉通り、白地城のある阿波池田は、吉野川が東へと大きく曲がるポイントであり、讃岐、阿波、土佐の三方へと鉄道が通じる交通の要衝です(上の地図にはその分岐点が入っていませんが…)。ミラージュ的にも、例の白地城があったり、高耶さん(&高耶さんの例のヌード写真)の足跡と彼を追う直江の足跡が交錯する場所だったりして、何気に重要な場所となっています。前年は土讃線の車窓の中から必死にミラージュスポットを探しましたが、今回はここで一泊。宿はもちろん、白地城跡に建つ「ホテル あわの抄」ですよ(※ミラージュ刊行時はかんぽの宿)。それでは、いざ白地攻め!と参りましょう。

先ずは、阿波池田の住宅街を通り、吉野川沿いを走る国道32号の方へと向かいます。


←の写真、突き当たりの高台に建つ白い建物は、甲子園で有名な池田高校です。
高台の上に登って来ました。


阿波池田の街並みが見下ろせます。この山のずっと向こうに、祖谷があります。
国道32号を歩きます。この右側が吉野川。


曇り空になってきました。おまけに陽も傾いてきたので、早足で宿に向かいます。
吉野川を見下ろして。


阿波池田駅の北で、吉野川にはダムが設置されているため、この辺りは見た目は普通の川ですが、一応「ダム湖」ということになっているようです。桑原先生も「池田湖」という表記をしていました。
32号を少し行くと、見えてきましたよ、直江スポットが。

<高耶が高知に入ったその頃、直江はすでに市内にはいなかった。直江はその頃、白地城に近い阿波池田にいた。小さなビジネスホテルの一室で明かりもつけずパソコンの液晶画面を睨んでいた>(23巻『怨讐の門 青海編』50〜51ページ)

高知市街の小さなギャラリーで高耶さんの写真を見つけた直江が、祖谷を捜索する拠点としたのがここ阿波池田の小さなビジネスホテルでした。
こちらは、「ビジネスホテル阿波池田」。名前からしてまんまですね。直江が泊まったホテルは本当にここなのか、少し検証してみましょう。

<窓のほうに視線を移した。外には池田湖が見える。対岸の高台が白地城だ。高耶のいた祖谷の山々も黒い壁のように左手に立ちはだかる。高い警笛を残して、貨物列車が下の線路を過ぎていった>(23巻『怨讐の門 青海編』66〜67ページ)

直江が泊まったホテルについての描写は、上記2箇所のみだったかと思います。↑の方に載せた阿波池田近辺の地図も見ながら考えてみますと…
@小さなビジネスホテルである→◎。そのまんま。
A窓から池田湖が見える→○。未確認ですが、この場所なら部屋から見えるはず。
B対岸が白地城→△。対岸と言うには離れすぎているような…。
C祖谷の山々が左手に見える→△。左手と言うより、ほぼ後方かと。部屋の窓が池田湖に向いているのであれば、逆方向のはず。
D下に線路がある→△。このホテル付近には線路はない(少し離れているし、トンネルになっている)。
と言うわけで、位置的にはどうも微妙です。桑原先生は、もっと池田大橋に近い辺りを想定して書かれたのでは…という気がします。であれば、上記の5項目ほぼ当てはまるんですよね(Cはやはり微妙な気がしますけれども)。しかし、その辺りにビジネスホテルらしきものはないんです。そもそも、阿波池田のビジネスホテルと言ったら、ここしかないようでして。もしかして過去にはあったのではないか?とも思いましたが、検索してみますと、だいぶ前にミラツアされた方もここを直江宿泊地ととらえているようですので、やはりここ以外ないんでしょうね。作中でもはっきりホテル名が書かれているわけではありませんし、あくまでイメージってことですかね。
しかし、ホテルの方には申し訳ないですが、あの直江が、こういうビジネスホテルに泊まるとは…。昔の面影もないですね。

でも…(度々書いている気がしますが)、なりふり構わず高耶さんを追う直江って、何か好きなんですよねぇ。ベンツ乗り回して女の子にキャーキャー言われていた頃の直江より、髪も整えず、くたくたのシャツで、必死に高耶さんを探し回ってる直江に、なぜか色気すら感じてしまうのです。そう、男の本当の色気ってこういうものなんですよね。そうだ、これも私が四国編を好きな理由のひとつなのかもしれません。飢えた直江…。
ひとつ上の写真に写っている橋は、吉野川がちょうど東へ折れるところに架かっている「池田へそっ湖大橋」。池田町が地理的に四国の「へそ」であることから名づけられたそうです。決して「真ん中」ではないんですが、四国四県に続く交通の要衝という意味なんでしょう、恐らく。


こちらの写真は、「池田大橋」です。手前に写っているのは土讃線の線路。そして、白地城址に建つホテル「あわの抄」とその背後には天神山が見えます。


前年は、土讃線の車窓の中から 白地城址を見て興奮したのでした。
<作戦では上流の三好橋側から嘉田が、池田大橋側には斐川がつく。斐川隊には敵の砦から応援部隊が駆けつけたとき、これを防ぐ役目があった>(22巻『魁の蟲』114ページ)

斐川左馬助がついたこの池田大橋、敵の応援部隊を防ぐ役目があったというのは、南の土佐、南東の祖谷地方は既に赤鯨衆の支配下であったため、敵が駆けつけるとしたら、こちらの池田大橋側だということなのでしょう。

因みに、白地城の戦があったのが11月23日(23巻77ページ)、三好橋の少し南にある三縄郵便局から潮が例の高耶さんの写真を発送したのが11月半ば(23巻52ページ)との記述がありますので、当時この白地周辺は勢力が拮抗する前線であったことが伺えます。
池田大橋の上から見た白地城跡。「あわの抄」とその背後に天神山が見えます。あわの抄の下には民家や学校があります。

<白地城は吉野川と馬路川の合流点に作られた高さ約四十メートルの河岸段丘上にある。それぞれの川の対岸には花駒城、中西城といういくつかの小城郭があった>(22巻『魁の蟲』100ページ)

ひとつ上の写真、天神山の北側(画像では右側)の山裾に馬路川が流れているのですが、見通しが悪く川は見えませんでした。
おっと。橋の上でやたらとでっかいトラックが来たと思ったら、巨木をたくさん積んでいました。


林業が盛んなんでしょうね。
橋の上から上流(南方向)を向いて。


先の方に、小さく、三好橋が見えます。白地戦で嘉田隊がついたという橋です。翌日この橋を渡るので、写真はまたその際に。
橋を渡り終えた辺りから、対岸を望んで。このどこかに中西城があったようですが、詳しい場所は不明です。

白地攻めより先に、赤鯨衆は中西城を奪取しており、ここ拠点として城攻めをしたのでした。そして、岩田隊が天神山山頂の天神山神社を占拠した後は、中西城と天神山山頂に「屏風」と名づけられた巨大なパラボラアンテナを組み立て、白地城の霊鉄塔のパワーを両方から吸い上げ、力が弱まったところで一気に襲撃するという作戦でした。
池田大橋を渡り終えると、あわの抄の方へと上る分岐点まで、国道32号を南下します。

<高台にある白地城。いまは保養センターのきれいな建物と霊波塔が見える。川側のすぐ下には国道が通り、民家も多い。丘を登り、まずは城の結界を破ることだ>(22巻『魁の蟲』114ページ)

記述通りですね。 写真は、白地城の東側の国道から。高台に建つあわの抄を見上げて。あわの抄は、今は経営が変わっていますが、以前はかんぽの宿だったようです。


さて、白地城周辺の地形についてなのですが、桑原先生、22巻のあとがきで次のように書かれていらっしゃいます。

<作中でてきた白地城ですが、実際の周辺の現況は文中でてきたものとはだいぶ異なっております。地形等は、当時の白地城を頭に置いて書いていますが、空堀等は残っておりません。実際の現況との違いはご了承くださいです>

実は、私、このあとがきを…もちろん読んでいたはずですが、失念しておりまして、ミラツア前の下調べの段階から、現地での調査?、このレポート作成時におけるまで(実は気づかないまま白地城部分は一度書いてしまいました。今書き直します)、ず〜と実際の地形と白地戦の記述が整合せず、頭の中が???状態でした。私の理解が足りないか、地形については桑原先生の創作が加わっているかのどちらかだとは思っていたのですが、ちゃんとあとがきに書いて下さっていたんですね。気づかずにバカな頭をフル稼働してしまいました。

まあ、折角書いたので、その部分を活かしつつ、小説と実際の地形の違いなどを少し見てみたいと思います(そこまで興味ないという方は適当に飛ばして下さい)。

先ずは、白地攻めに関わり、周辺の地形について触れてある部分を抜粋してみたいと思います(すべて22巻『魁の蟲』114ページより)。

<「空堀から城の斜面にかけて地雷がばらまいてあるそうです」>
<空堀は山裾を南北に、ちょうど包丁で割ったように横たわっていて、小さな谷になっている>
<天神山の山裾は、なるほど小さな谷になっている。昔はもっとまともな空堀だったろうが、いまは道路となっていた>


以上の記述をまとめると、天神山と城の間に南北に(「包丁に割ったように」ということから、恐らくは真っ直ぐに)空堀があり、そこは現在道路になっている、ということのようですね。そして、作中では、この後、遊撃隊の高耶さんの案により斜面の地雷を爆発させて除去し、吉村一派の裏切りによる延焼事故(木が燃え広がったことから、この斜面には木が生えていたことが想像できます)などもありつつ、隊士らは城に向かって斜面を攻め上ったのでした。

では、実際、現在の地形はどうなっているかと言いますと…





ざっくりした地図ですみません(天神山山頂の矢印、真西を向いていますが、もっと南よりだったかも)。白地城跡と周辺を描いてみました。ひとつ前に載せた地図も併せて参考にして頂ければと思います。

●真ん中辺り、赤い線で囲ってある凸レンズ形の部分が白地城跡になります。その内側、灰色に塗ってある辺りにあわの抄の建物があります。その他駐車場などがあり、ホテルが占めている部分は、この凸レンズ形の土地の北側半分ほどでしょうか。南側には、他の施設(既に廃寮になった中学校の寮とデイサービスセンター)の建物、小さな公園、大西神社(青い丸部分、ここに白地城址の石碑があります)などがあります。

●青い斜線部分は木が生い茂っている箇所です。天神山の山裾が終わる辺りに民家や畑があります。そこから道路を挟んで白地城跡、白地城跡の東側は木が生い茂っている斜面というか崖のようになっています。

●国道32号からあわの抄へと続く道は、坂道になっていてるのですが、実はここが空堀の跡なんじゃないかなと私は思っています。桑原先生は、空堀は残っていないと書かれていらっしゃいますが、ネットで調べてみますと、残っているという記述も複数見られました。この道路は途中、谷のような地形になっていますので、空堀の跡らしき雰囲気があります。

あわの抄へ続く坂道が本当に空堀だったのかどうかは置いておいて、作中の記述にあるような、南北に割ったような空堀というのは、実際には見受けられません。それと、地雷が埋められ、木々に延焼したという斜面も見当たりません。城跡西側(南よりの部分のみ)には斜面はありますが、民家などが建っていて、林のような部分は見当たりませんでした。昔はもしかしたら、そういう斜面もあったのかもしれませんね。

城跡東側は、木の生えた斜面、と言うか崖のようになっているのですが、斐川隊と嘉田隊はもしかしたら、この崖から攻め入ったのかな、という気はしました(池田大橋についていた斐川隊は城跡北東側から、三好橋についていた嘉田隊は南東側から)。

それと、高耶さんがインカムで永吉に「山裾の八幡神社で合流しよう」と告げるシーン(22巻117ページ)があるのですが、八幡神社というのはいくら調べてもわかりませんでした。昔はあったのか、桑原先生の創作か、もしくは…、あわの抄のすぐ北(山裾と言える辺り)に「八幡寺」というお寺(今回は見に行っていません)があるようなので、もしかしたらこの八幡寺のことかな?とも思ったりしました。

と言うわけで、詳細は小説の記述とは異なりますが、雰囲気だけ感じ取れればよし。白地城に攻め入りましょう。

こちらが、国道32号からあわの抄の方へと上る分岐点。


あわの抄の看板が出ています。
この道を上って行きます。


この時点で左側(西側)は既に崖ですが、道が城跡の南側から西側に回りこむ辺りでは、両側が崖のようになり、道路付近がちょうど谷のような地形になります。
ちょっと進んだ辺り。


城跡の南東辺りでしょうか。
まだまだ城跡の南側付近。
ちょっとずつ進みます。
画面右端に写っている高台のような部分が、凸レンズ形の城跡の南端付近(小さな公園になっています)です。
途中、西へ折れる分岐点があります。画面右側の道が、あわの抄の入口へと続く道路です。
少しずつ進みます。


この辺りは、城跡のちょうど西側辺り。城跡との境は斜面になっていますが、作中に書かれているような木々が生えた斜面ではなく、民家が建っています(この民家の向こう側があわの抄の敷地)。
また少し進んで。


画面左の方に天神山の山裾が見えます。


この少し先、道路が途切れるところに、あわの抄の入口があります。
ここで道路が道路が途切れ、あわの抄の入口が現れます。写真奥に見える白っぽい建物があわの抄。


道路はずっと坂道でしたが、あわの抄の入口に着くと、地面は平坦になっています。
あわの抄入口少し手前辺りから、西側の天神山を望んで。


作中に書かれていた「天神山神社」までは行っていませんが、天神山の位置関係については記述通りです。
あわの抄入口。


この時は、22巻のあとがきが念頭になかったため、腑に落ちず、モヤモヤしたままの状態でした(笑)。


時刻は17時少し前。阿波池田駅からはゆっくり歩いて約1時間半。


因みにホテルの方で送迎はしていないらしいです。バスもあるにはありますが、本数が極端に少ない。徒歩で来る客なんてほとんどいないでしょうね。
あわの抄の敷地内に、「白地大西城址」という案内板がありました。

この地が阿波の最西地を意味する「大西」と呼ばれていたこと、八代にわたって城を治めていた大西氏が1577年に長曽我部元親によって城を追われたこと、元親はその後、この白地城を根拠として四国統一を成したこと、最近に至るまで旧城の最高地の削平地、空堀、武者走り等が残在していたこと、等が書かれています。
あわの抄の玄関。入ってすぐ左手にフロント、正面奥に階段があります。

<玄関口では念の応酬となっている。土嚢を積んでバリケードにしてある。業を煮やした永吉が中川の作ったダイナマイト束を取り出した。導火線に火をつける。玄関口へと放り投げる。「伏せろ!」 爆発とともに保養センターの玄関が吹っ飛んだ>(22巻『魁の蟲』132ページ)

宿泊施設の玄関を吹っ飛ばしたくらいでは今更驚きませんけど、中川先生も優しい顔して随分物騒なモノを作ってるんですね…。
建物の中に入りました。先にチェックインして部屋に向かってしまったため、玄関付近の写真は、ほとんどは翌朝に撮影したものですが、一連の流れということで先にご紹介します。

玄関を吹っ飛ばした後、この辺りで壮絶な白兵戦が繰り広げられたのでした。後から駆けつけた高耶さんと遊撃隊がこの場を引き受け、永吉らは指令所探しに奔走。

<「地下じゃ、指令所は地下にあるがぞ!」ついに探り当てたらしい。永吉たちが階段を駆け下りた。高耶たちは階段口で敵を寄せつけまいと決死の防戦を繰り広げる>(22巻『魁の蟲』133ページ)
玄関入って正面奥に確かに階段はありますが、地下へは続いていません(ひとつ上の写真参照)。昔はあったのかどうかまでは不明ですが。


こちらの写真は、玄関入って左手にあるフロント(玄関は画面左の方)。
こちらは、玄関入って右手の方(玄関は画面右手前の方)。右側にロビーと、左側に食堂・風呂へと続く廊下があります。

<「全員、階下の物陰に!」言うや否や、廊下に飛び出した高耶に敵の群れが雲霞のごとく襲いかかった。同時に鎧玉のエネルギーを解き放った。≪調伏≫!>(22巻『魁の蟲』133ページ)

廊下は、フロントの奥の方から階段の前を通って逆側の食堂・風呂がある方へと続いています。高耶さんは、階下にいる仲間たちに影響がないよう、階段から少し離れた廊下に敵を引き寄せたということでしょうか。
<ガラスの割れる音を聞いて、反射的に振り向いた高耶の目に外の様子が飛び込んできた。敵兵が、潮の引くように掛け戻ってくるのが見えた。(略)堰き止められていた川の水が一気に流れ出すように、嘉田隊が怒声とともに城内になだれ込む。ほぼ同時に斐川隊も突入してきた>(22巻『魁の蟲』134ページ)

「ガラス」というのは、玄関を入って右にある、このロビーのガラスのことかと思われます。

敵兵が引いたのは、蟲焼きの火を発動するためでした。ガラスを割ったのは、急いで撤退してきた敵兵でしょうか。
その後すぐに嘉田隊と斐川隊が城内に突入したとありますが、両隊が城の東側から攻めていたのだとすれば、建物の玄関やロビーのガラスがある方向とは逆側です。城の東側から城内に侵入し、玄関側に回ってきたのかもしれません(蟲焼きの火を一身に引き受けた高耶さんを、ほぼ全員が見たということから。建物の反対側からは高耶さんの姿は見えないため)。

<外では嘉田隊と斐川隊が鉄塔に押し寄せる。潮の姿もある。たまらず高耶は窓から外へ飛び出した>(22巻『魁の蟲』135ページ)

窓はこの付近ではこのロビーの窓くらいしかないので、高耶さんが外へ飛び出して行ったのもここからかと思われます。恐らく割れたところから飛び出したのでしょう。そして、外に出た直後、蟲焼きが発動され、その火を一身に受け止めたのでした。
上の記述から、鉄塔(霊波塔)というのも、上の写真のロビーの外(駐車場になっています)にあったのではないかと想像できます。


宿泊施設内の記述に関しては、地下のこと以外はほぼ現況通りかと思いましたが、偶然合っていただけなのかどうか…。


こちらは、3階の廊下の窓から見た天神山方面。岩田隊が真っ先に占拠した場所ですね。
部屋は豪華とはいきませんが、そこそこ広く小奇麗です。

今回の予約は、クーポンサイトの「グルーポン」経由で入れました。価格は一泊二食付で、一人5,980円。50%オフとか書かれていましたけど、実際には楽天トラベルなんかでも、大差ない価格で予約できるようです。

クーポンサイトに載せたり、色々経営努力をしている様子が見て取れます。確かに、特別景観が良いわけでもないですし、食べ物もこれがウリ!というものもないですし、有名観光地のすぐ傍ということでもないので、ほっとけば客が来るという環境ではないようです。ミラージュファンにとっては、白地城跡というだけで価値がありますけどね。
夕食は、高級旅館のように凝ったものが出るわけではないですが、そこそこ美味しかったです。

品数も多いですし、アメゴの塩焼き(写真中央)が出ました。高耶さんも祖谷で食べたアメゴ…。

写真には写っていませんが、八寸には手長エビものっていました(手前のお皿に載っていたんですが、先に食べちゃったので、ここには写ってない…)。

茶碗蒸しもいい出汁が出ていましたし、価格を考えれば満足のいく内容です。
お酒は、「すだち酒」というのを注文。徳島と言えば、すだちですから。

味は…、日本酒を薄めたような甘い水にすだちの風味がついているような感じ? う〜ん、私はあんまり好みではなかった。飲みやすいですけどね。

でも後で、ネットで調べてみたら、楽天の通販などでは、かなり評価が高いようでした。女性に人気らしいですよ(女性に人気という商品とは大抵縁のないオレって一体…)。
こちらのあわの抄では、毎週金、土、日の19時半から、阿波踊りが見られるということで、実はそれも楽しみにしていました。


食堂の隣の広間で開催されるとのことなので、早めに夕食を食べた後、広間へ。

随分広いですが、この日の宿泊客は私たち含め3組6名のみだったようなので、寂しくなりそうな…。
結局、見に来たのは、私たちと、他にご夫婦で来られていたカップルの奥さんの方だけ、合計3名のみでした。


しかし、踊りの方は賑やかでしたよ。3人だけで見ているのが申し訳ないくらい。通常は踊り手は2名〜7名と書いてありましたが、この日は特別だったのか、子供も含めると総勢10名以上でした。


こちらは威勢のいい男踊り。
女踊りを子供たちが盛り上げます。


阿波踊りは、女踊りが取り分け格好いいですね。じっくり見たのは初めてだったんですが、爪先立ちで、左右交互に身体を捻って踊る仕草は優美で、後ろの方がスッと高く持ち上がった笠も身体をより一層スラリと見せていて、実に見栄えがします。


そうして、ひと通り踊りが終わった後…、実は嫌な予感(笑)がしていたんですが、お決まり?の「では皆さんもご一緒に!」のコーナーが始まってしまいました…。
観客3人しかいないから、こりゃやばいぞ、と思いながら、一応断ったのですが、さすがに断り切れず…。

一人で見に来ていた奥さんは踊らないし、もう私たちが踊らないと場が白けてしまう、という事態に。

ええい、知るか、と半ば自棄になって踊り出しましたとも。こうなりゃ、「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら 踊らな損々」ですよ。

阿波踊りの基本は、右手右足を同時に出し、同時に引っ込める、次に左手左足を同時に出し、同時に引っ込める…という動きをお囃子のリズムに合わせて繰り返すというもの(本当はもっと複雑でしょうけど)。
やってみると、なかなか難しいんですが、リズムに乗って動いていれば、それなりに踊れているような気になってきます。しかし、相方をふと見たら、ほぼタコ踊りになっていましたが(笑)。

踊りながらステージ上へと誘導され、全員で華やかにフィナーレ?を飾った後、よく踊れましたとのことで、表彰してもらいました(ひとつ上の写真)。

こちらの写真はその時もらった表彰状。紙ではなく、薄く削った木でできています。杉でしょうか、いい香りがします。さすが林業の町。
最後にステージ上で、全員で記念写真を撮って頂いたんですが、後日、その写真と徳島県の観光パンフレットを数冊送って下さいました。

送り主は、東みよし町の観光担当の方(「にし阿波〜剣山・吉野川観光圏」が管轄らしい)になっていたので、どうやら、役場が関わって観光促進のためにこういうイベントを行っていたようですね(ホテルが大金出してやっていたら採算が合わないかも)。

旅行者にとって、こういうサービスはとても嬉しいものです。徳島県はまだまだミラージュスポットもありますし、パンフレットも今後の参考にさせて頂こうと思います。
なぜミラージュツアーで阿波踊りを踊る羽目に!?と焦りましたが、踊ってしまえば楽しく、いい思い出です。


その後入ったあわの抄の温泉も、祖谷ほどではなかったですが、とろみのあるいいお湯でした。


氷結の冬ゆずを飲んで、この日は終了。例によって長い一日でした。ページも長くなってしまい、すみません。この続きは中編にて(今回は前・中・後の3ページ構成です)。

2014.08.05 up

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