ミラージュとわたし

〜最終巻『千億の夜をこえて』読了後に




『炎の蜃気楼』シリーズ第1巻が出版されたのは、1990年11月のことです。
この時、わたしは高校2年生でした。
と書くと、年齢がばれてしまうのですが、正直に書きましょう。

わたしは世の女の子が傾倒する小説や漫画とは無縁の日々を送っていました。
夢中になっていたものと言えば、部活動。
地学部で星空を見ながら語り合ったり、天体写真を撮ったり、化石を掘ったり。

このマイナー志向は、今のわたしに充分引き継がれているところがあるのかもしれませんが、ともかく、当時のわたしは『炎の蜃気楼』の名も耳にしたことのない女子高生でした(なので、青春をミラージュとともに歩んだ人をとてもうらやましく思います)。

わたしと作品との出会いは、実にそこから遅れること17年、2007年のことです。
17年ですよ。
『炎の蜃気楼』シリーズが完結してすでに3年以上の月日が経っていました。

きっかけは、アニメシリーズのTOKYO-MXでの再放送。
この時のわたしはすでに腐女子として立派に覚醒していました(因みに、これも年齢的に非常に遅い覚醒でした。高校生の頃は興味が別の方向に向かっていましたし、その後しばらく外国に留学したりしていましたので、致し方ないものがあるのですが)。

この再放送を観るに当たり、特に力んで期待していたわけではなく、どうやら男×男モノで、絶大な人気を誇っているシリーズだということだけ知っていたので、まあ一応見てやるか程度のつもりでした。
何せ、タイトルを「炎のしんきろう」と言ってしまい、当時のパートナーだった腐男子に「炎のミラージュだよ」と訂正されていた始末です。

2〜3話見た頃、期待外れだったかなと感じました。
怨霊とか調伏とか、サイキックアクション炸裂だなーと、ちょっと引いて観てました。
途中で見逃した回もあったと思います。
でもその後、話が「覇者の魔境」辺りに入ってきてから展開の面白さにだんだんと目が離せなくなり、直江が芦ノ湖で高耶さんの魂と心中しようとするシーンでは思わずグッときました。

何だ、結構面白いんじゃないかと。
でも、正直、アニメシリーズでは高耶さんの魅力がほとんどわかりませんでした。
ただの直情型ヤンキーがいつの間にか頭脳明晰、冷静沈着な夜叉衆の総大将として覚醒してて、感情の起伏があまり感じられず、この主人公はどこに魅力があるのだろうという感じだったのを覚えています(もっとも、限りある枠の中ではそれも仕方ないことなのでしょう)。

ともあれ、原作を読んでみようと、その後間もなく、文庫本を手にしました。
読書ペースは元々亀並みなので、ひどくとろとろと読んでいました。
毎日の通勤電車の中や昼休みに、眠気に襲われない時だけ読み進めるといった感じです。

40巻もあるけれど、ずっとこんな調子で夜叉衆が闇戦国と戦っていく話が重ねられていくんだろうなと思っていたら、大間違い。
思わぬストーリー展開に度肝を抜かれることが多々ありました。

でも、『わだつみの楊貴妃』、『黄泉への風穴』、『火輪の王国』辺りは、読むペースが落ち、中断していた期間も長かったように思います。

個人的な生活環境のせいでなかなか読み進まなかったというのもあるのですが、考えてみれば、この辺りは高耶さんと直江の関係が最も冷え切り、最も過酷だった時ですね。
面白いけど、辛かった。
辛かったけど、登場人物に深く感情移入できるようになっていったのもこの辺だったかもしれません。

本当に、ミラージュは痛みなしには読めない作品です。
でも、この痛みがあるからこそ、ミラージュなんでしょうね。
痛みを感じるからこそ、その痛みが昇華され、救われる瞬間がある。
ミラージュを読んで心が救われた人、豊かになった人がどれだけいることでしょう。

四国編に入ってからは、ストーリーの激変ぶりに心から魅せられました。
読むペースは遅くても、これ以降はあまり中断することなく読みました。

この頃からだと思います。
本当に、高耶さんのことを好きになったのは。
生きていく理由も、生きるだけの資格すら失いながら、誰よりも「生きて」いる高耶さんに、強く強く惹かれました。

個人的な現実生活のことを少々書きますと、この時、わたしは当時の勤務先でしつこいセクハラ&パワハラを受けていて、それでも少人数の会社だったので相談相手もおらず、何の対策も取れないというジレンマを抱え、神経をすり減らしていました。

心底嫌に思っている上司の誘いや行動に、大人の笑顔を返しながら、心の中で高耶さんの名前を何かのまじないのように唱えたものです。
自分はこんな風に世の中にへつらって生きるしかないけれど、心の中は、魂は、そんな汚い世界に売り渡してなどいないんだと。
過酷な運命と真っ直ぐに向き合う高耶さんを心の中で思慕することで、自分自身も少しだけ強く、透明な気持ちでいられるような、そんな気がしました。

『怨讐の門』、『耀変黙示録』、そこから先は更にあっと言う間でした。
気づけば、イメージアルバムをエンドレスで聴き、ネットで関連動画を漁り、同人誌を手にするわたしがいました。

そして、ラスト2冊くらいの時でしょうか。
もうこれは、サイトを作って、妄想を垂れ流すしかないと思ったのは。
溢れてくる想いを少しでも何かのかたちにしたいのです(これを書いている時点ではまだ開設準備中です)。

最終巻は、なかなか読み進めることができませんでした。
読み始める前に、PCの壁紙を最終巻の表紙にして士気を高めてみましたが、これで高耶さんとはもうさよならなのだと思うと、悲しくて手に取るのが躊躇われました。

そんな中、「最終巻を読んでいる夢」まで見ました。
なぜかちゃんとストーリーがあって、夢の中でひたすら悲しい思いでそれを読んでいたのです(自分の妄想なのに)。

読み始めてからも中断して、『十字架を抱いて眠れ』と『最愛のあなたへ』を読み返してみたりしました。
サイト作成のために、イラストを描いて、小説も書きました。

それでもとうとう、今日、読み終えてしまいました。
読み始めてから数えると、大分月日が経ってしまいました。
3年弱でしょうか。

ラストの方向性は嫌でもネットなどで知れてしまうので、大まかな展開はわかってはいたものの、やっぱり悲しいです。

最終巻の表紙。
目を閉じて微笑む高耶さんと、目を開け、穏かながらも何かの決意を秘めているような表情の直江。
あれは見事にそれぞれのラストを表していますね。
そう思って改めて見るとまた泣けてきます。

でも、個人的に最も感情が高まったのは、最終巻よりも実は38巻『阿修羅の前髪』の直江の折鶴のシーンでした。
あれより、美しく悲しいシーンをわたしは他に知りません。

40巻読了に、今はただ呆然としています。
「しばらく立ち直れなかった」という人が多いようですから、わたしも悲しい気分を少し引きずるのかもしれません。

でも、それよりも素晴しいものを彼らは残してくれたと思うのです。
彼らを思う時、生きることの本当の意味と真に大切なものは何なのか、改めて考えさせられることでしょう。

作者の桑原水菜先生の心の中に高耶さんがいたように、わたしの心の中にも高耶さんがいます。

20巻『十字架を抱いて眠れ』の中で、景虎と直江の互いへの関わり方を「精神の生殖」だというように書かれてありましたが、きっと桑原先生は、作者と読者の間の関わりも一種の「精神の生殖」だと思ったのではないかという気がするのです。
何だかエロティックですね。

わたしの中に孕んだ、わたしの高耶さんを、ずっと大事に抱えて生きていこうと思います。
いつまでも。


2010年9月9日 『炎の蜃気楼』最終巻読了後に
遊丸






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