冬の陽のショコラ





古いアパートの2階。1DKの部屋には冬の遠い朝陽が差し込んでいる。

部屋にはほとんど生活感がない。家具らしい家具はテーブルと椅子だけ。テレビもない、ステレオもない。ハンガーに黒いスーツが一着かかっている。部屋の隅には鞄が置いてあり、生活道具のほとんどはその中に収まっているようだ。テーブルの上には数冊の本とノートパソコン。一体何の仕事をしている者なのか、よっぽど根無し草のような生活をしているように見える。

それでも自炊することがあるのか、狭いキッチンには必要最低限の道具が置いてある。鍋ひとつ、フライパンひとつ、いくつかの食器、箸、カップ、洗剤とスポンジ。


そんな慎ましいキッチンに、背の高い男が一人立っている。
クリーム色のタートルネックセーターを着たその男は、ミルクの入った小さな鍋を火にかけた。


ゆっくりかき回していくうちに、中に沈んだチョコレートが溶けて、液体は柔らかい茶色へと変わっていく。良質なカカオを使っているのか、たちまち甘く濃厚な香りが立ち上った。すると、うすら寒い殺風景な部屋が、一瞬の魔法にかけられたかのように、やさしく暖かな部屋へと様変わりしたように感じられた。


弱火でじっくり温めたその液体をカップに注ぎ、男は部屋の中へと運んだ。陽だまりのできたテーブルの上にそっとカップを置いて、静かな口調で語りかける。


「できましたよ、高耶さん」


目もとに彼特有の穏やかな笑みを浮かべ、男は椅子に腰を下ろした。


――何だ? 甘い匂い…。


「ショコラオレです」


――ショコラオレ?


「ミルクにフランス産のチョコレートを溶かしてあります。こういう甘いもの、実は好きでしょう?」


――知ってたのか。


「知ってますよ、もちろん。あなたのことなら何でも。…今日はバレンタインデーだから、あなたへの愛を込めて作りました」


――バレンタインデー…もうそんな時期か。時が経つのって、こんなに早かったかな…。


男は目もとの皺を深くした。包み込むような笑顔の中に、微かな疲れと痛みが滲んでいた。


「熱いのは苦手でしたね」


両手で持ち上げたカップにフーッと息を吹きかけ、少し冷ましてから、ショコラをひとくち自分の口に含む。


――あ、うまいな、これ。こんなうまい飲み物初めてだ。すごくあったまるし。


「それはよかった。ところで、高耶さんはバレンタインデーにチョコレートをもらったことはあるんですか?」


――直江、おまえ…さてはオレがチョコもらったことないと思ってるだろ?


「あるんですか?」


――その言い方が気にくわねえ。オレだってチョコもらったことくらいあるんだよ。


「ほう…」


――直接渡されたことはないけどな。下駄箱に入ってたり、机の中に入ってたり。あとは美弥が預かってきたってのもあったな。


ヤンキーだったという高耶に手渡しする勇気のある女子はいなかったのだろう。妙に納得できて、直江は思わず声を立てて笑った。


――そう言うおまえはどうせ山盛りもらってたんだろ。


「そうですね。毎年、色々もらいましたよ。手作りのチョコレートとか、手編みのマフラー付きなんてのもありましたね」


二人は時折こんな風に、昔話をした。時に共通の古い記憶を温めるように、時に互いの知らない時間を埋め合うように。


「高耶さん? 妬いてるんですか?」


――妬いちゃ悪ぃかよ。


子供じみた拗ねた言い草は、直江を甘い心地に酔いしれさせる。


「いいえ。随分素直なんだなと思って…」


――今更、嘘言っても仕方ねえだろ。


「そうですね。もう私たちはひとつなんですから…」


噛み締めるように呟き、直江はまたカップに口をつけた。芳しいカカオの香りが鼻孔を抜けると、凝り固まった筋肉が一気に弛緩していくような解放感が身体を駆け巡る。


――ありがとな。


直江は答える代わりにもうひとくち、ショコラをゆっくり飲み下した。

二人の間に本当に必要な言葉は、もうそれほど多くは残っていなかった。ただこうして、甘く温かな飲み物を共有して、たゆたう時間を分かち合うだけでよかった。言葉などなくとも、存在のすべてが既に互いのものだった。


直江が口を閉じると、部屋の中はしんと静まりかえった。朝の忙しない時間帯を過ぎて、アパートの前を通る者もいないのか、外の雑音も聞こえてこない。まるで時間が止まってしまったかのようだ。


いいや、時間などこのまま止まってしまえばいい、直江はそう思った。本当はすごく不安なのだ。この胸の中にいる高耶は本当の高耶なのか。二人があまりにひとつになり過ぎて、わからなくなりそうになる。もしかすると、今の高耶は自分自身の願望が創り出した幻なのではないだろうか。そんな風にすら思ってしまう。


ショコラの最後のひとくちは、ほろ苦さを口の中に残した。


しばらくして、高耶さん?と、口に出さずに胸の中に呼びかけてみた。高耶はどうやら眠ってしまったようだ。少し思念を紡ぐだけですぐに疲れてしまうのだ。或いは甘いショコラが眠りを誘ったのかもしれない。


愛しい存在を胸に抱きながら、直江はひとり何をするともなく、テーブルの上で組んだ自分の両手をじっと見つめていた。陽だまりがいつの間にか手もとをやさしく照らしている。冬の陽の淡い温もりに、ふと懐かしい人肌を思い出して、直江はゆっくりと目を閉じた。









●あとがき●
ほのぼの小話を書こうとしていたはずなのに…。出来上がってみたら、ぞっとするほど切ない話になっていました。でも、切ない話も好きなんですよ。あ、BGMは安全地帯の「ショコラ」です。