折り鶴のねがい  

其一 夢みた未来





もう、指の一本たりとも動かすことはできなかった。

国譲りの最終仕上げを阻止するため、礼に換生した信長と『真殿』にて対峙した高耶だった。
激しい力の応酬、八咫鏡の魔力。
そして、口移しに吹き込まれた信長の強烈な呪詛。
高耶の肉体と魂は、すでに限界を超えていた。

正に死闘だった。
倒れ込む高耶の下から這い出た信長が、布都御魂で礼の身体を貫く。
心御柱と一体化し、魔王が神と君臨しようとしたその瞬間。
高耶の呼んだ東照宮の霊獣たちが、間一髪で信長を押さえ込んだ。

一瞬にして周囲は蒼い炎に包まれ、すべてのものが沈黙した。

高耶の身体は死人のようにそこに転がっている。

信長はどうなったのか、わからない。
鏡の呪詛にやられた高耶の目はもうほとんど見えない。
気配だけで、霊獣たちがなんとか信長の力を封じていることを感じ取る。

譲は? 譲はどうなった?
四方を植物の根や蔓のようなものが無数に這っているようだ。
その中に譲の気配はあるが、彼もどうやらもう立ち上がれないらしい。

信長を…信長を、心御柱から引き剥がさなければ…。

頭の中でそう思った時、高耶の霊感がふとなにかの存在を感知した。
心御柱の上になにかが聳え立っている。
神々しい巨大な光の柱だ。

その中に、なにかがある。
なにかがオレを呼んでいる…。

行かなければ。
あそこに、行かなければ。
だけど、身体がもう動かない。

直江。
直江…。

来てくれ、直江。
オレと一緒にあそこに行ってくれ。

直江、直江…直江!










「高耶…高耶っ」

自分を呼ぶ声にハッと目を開けた。
至近距離から覗き込む二つの目に、しばらく呆然と釘付けになってから、ようやくそれが誰だか認識した。

「譲!?」

「いつまで寝てるんだよ、高耶」

少しだけ怒ったような表情で、譲が自分を見ている。

「譲、お前、無事だったのか!」

「何寝ぼけてるんだよ」

呆れたように呟く彼を見れば、どこも怪我などしていない。

「信長は! 奴はどうした!?」

鬼気迫った様子で問い詰める高耶に、譲は今度はプッと噴き出した。

「高耶…お前、昔の夢でも見てたの?」

状況が把握できずに、高耶は何度かぱちくりと瞬きをした。

「夢?」

そう言って、周りを見回して初めて気づく。
ここは『真殿』じゃない。
部屋の中だ。

生活の匂いがする。
テレビがあり、冷蔵庫があり、雑誌と飲みかけのペットボトルの乗ったテーブルがある。
自分は、ソファーの上に横になっている。

「ここ、どこだ?」

「大丈夫? 高耶。やっぱりソファーじゃ寝心地悪かった? 今日の夜は、床に布団敷こうか? あ、コーヒーが出来たみたい。今淹れてくるよ」

キッチンでコーヒーメーカーがコポコポと平和な音を立てている。
漂ってくるキリマンジャロの芳ばしくほのかに甘い香りを胸に吸い込んで、高耶はだんだんと落ち着いてきた。

そうだ。
ここは東京品川の譲のマンションだ。
自分は昨日、松本から東京に出てきた…気がする。

まだ少し重たい頭でキッチンのテーブルにつくと、譲がコーヒーと焼き立てのトーストを出してくれた。

「譲、本当に、身体大丈夫だったんだな」

そう言う自分も、至って健康体なのが何だか不思議だ。

「また、高耶ってば。よっぽど酷い夢でも見たんだね」

「なあ、闇戦国は…」

「もうとっくの昔に終わったじゃないか」

何を今更というように呆れ顔をする譲の顔をまじまじと見ながら、高耶はマグカップに口をつけた。

そう…だよな、と自分自身に再確認する。
そうなのだ。
闇戦国はもうとっくに終結したのだ。

「勉強のしすぎで、脳みそがどこかおかしくなっちゃったんじゃないの?」

「勉強のしすぎ?」

驚いて、カップから口を離した。

「そうだよ。でも、もう試験終わってから何ヶ月も経っているんだから、それも違うか」

「試験って何の?」

高耶は目を丸くする。

「何のって、家庭裁判所調査官補採用T種試験に決まってるだろ?」

「家庭裁判所? 調査官補? 採用T種試験!?」

「もう、今日の高耶なんか変だよ…」

高耶は眉根を寄せながらマグカップの中のブラックコーヒーを見つめる。

そうだ。
自分は、家庭裁判所の調査官になりたくて…。

「でもさ、よかったよな、ほんとに。昨日は久々だったからいっぱい飲んで酔っ払っちゃって、ちゃんと言えなかったけど、改めて…合格、おめでとう、高耶」

合格…おめでとう…。
胸の中で、その言葉を噛み締める。

その途端、思い出した。
昼も夜もなく机に齧りついて必死に勉強した日々を。
そうだった。
自分は、高校卒業の資格だけ取得して大学へは行かず、アルバイトをしながら独学で試験に向けて勉強してきたのだった。
あんなに辛い思いをして勉強しまくったのに、何で忘れてたんだろう。

レースのカーテン越しに午前の清々しい陽が差し込むキッチン。
その優しい空気に包まれながら、高耶は小さく微笑むと、ピーナッツバターのたっぷり塗られたトーストを齧った。

「まさか高耶に先を越されるとは思わなかったよ。調査官補の採用試験って随分狭き門なんだろ? お前、案外頭よかったんだな」

「案外って、なんだよ」

ようやく軽口が出た。
譲を軽く睨みつけてから、二人して笑い合う。

譲の進学した歯学部は六年制である。
途中で留年もしたから、卒業はまだ少し先だ。

「あ、高耶、そろそろ急がないと」

時計を見ながら促す譲に、高耶はハッと気づいた。

「やべっ、遅刻しちまう」

大口でトーストを頬張ると、少し覚めたコーヒーで喉に流し込む。

10時に直江と待ち合わせをしているのである。
そのために自分は松本からはるばる出向いてきたのだ。

そんなことも忘れていたなんて、本当にどうかしてる。
きっと昨日、珍しく酒なんか口にしたせいだろう。

高耶は急いで支度をすると、玄関まで見送りに来た譲に向かって言った。

「泊めてくれてありがとな、譲」

「何だよ、水くさいな…。今夜、帰ってくる?」

譲はどこか寂しそうな表情を浮かべている。

「え? ああ…松本に帰るには遅くなりそうだから、また泊めてくれるか?」

「もちろんだよ。っていうか、直江さんと外泊するんじゃないかって聞いてるの」

「ばっ、なっ、そんなわけ…」

ないとも言い切れない。
ついでに変なことを考えてしまい、顔を赤くした高耶に譲が疑り深い視線を向ける。

「ま、いいよ。どっちでも。直江さんによろしくね」

ポリポリとこめかみの辺りを掻きながら高耶は軽く頷いた。









其二 青空の下の再会→




●あとがき●
「小姑・成田譲の復活」の巻でした。
ああ、なんて平和なんだ。
だけど、「直江さんによろしくね」と言う譲は怖い、怖すぎです。
絶対黒成田です。