儚きものたちの賛歌







風のない大暑の夜だった。
窓を開けているのにカーテンはそよとも動かない。
高耶はタイマーの切れた扇風機のスイッチを入れ直し、再び布団の上にごろりと横になった。

疲れているはずなのに眠れない。
蒸し暑い空気がじっとりと肌を包んでいるようで、不快さがかえって頭を冴えさせる。
昼間の興奮がまだ冷めていないからだろうか。

そう、今日はとんでもなくハードな一日だったのだ。

先ず、朝っぱらから綾子の襲撃に遭った。
「誕生日だから何か買ってあげる」と言われ、無理やりパルコに引っ張り出された。
自分では買わないような少しだけ派手めのブランドもののTシャツを買ってくれたのはまあいいとして、その後散々彼女の買い物に付き合わされた。
馴れ馴れしく腕を組んで街中を闊歩するものだから、同じ学校の奴らと会いやしないかと冷や冷やしたものだ。

午後になって綾子と二人で家に戻ると、譲と千秋が来ていた。
仰木高耶誕生日杯ということでボーリング大会をやろうなどと言う。
美弥も連れて全員で、最近ではあまり流行っていないボーリング場へ行った。
一体誰の誕生日だと思っているのか、優勝したのは千秋の野郎。
最後まで結構いい勝負だったのだが、あの野郎、《力》を使ったに違いない。
いつか必ず「負けた!」と言わせてやる。
悔しさを思い出し、高耶は布団の上で拳を握り締めた。

連れ立って再び仰木家へ帰ってきてからは焼肉パーティーと相成った。
綾子と千秋は早々にへべれけになる一方で、高耶は性分からか焼肉奉行に忙しくて酔うどころではない。
夜10時を回ってから、ようやく譲と綾子と千秋を帰らせ、後片付けをし、シャワーを浴びてほっと一息ついた時にはもう11時になっていた。

今日って、オレの誕生日…だよな?

思わず、高耶は自分で再確認してしまう。
何だか周囲に引っ張り回されて、自分ばかり損な役回りだったような気もする。
高耶はため息を吐いて、寝返りを打った。

元々、こんな予定ではなかったのだ。
直江に仕事さえ入らなければ…。

本当なら、直江と二人で山奥の温泉旅館に行くはずだった。
誕生日プレゼントは何がいいかと聞いてきた直江に高耶がリクエストしたのだ。
誰にも邪魔されず、家事に追われることもなく、鄙びた宿で涼やかな風に当たってのんびりと過ごすはずだったのに。

それが、昨日、直江からの電話で突然キャンセルとなった。
例の不動産屋の仕事で、急遽大きな契約が決まったのだそうだ。
仕事なら、高耶も文句が言えない。
「また明日電話します」そう言って、直江は忙しそうに電話を切った。

だけど、今に至っても電話は来ない。
出かけている間に留守電にメッセージでも入ってるかと思って、帰宅後に確認したけれども、残されていたのは父親からの「遅くなる」という一言だけだった。

そうだ。高耶はふと思い出した。
東京のマンションの電話番号なら以前聞いていたのだ。
そこにかけてみればいい。
そう思ってから、いやいや、とすぐさま考え直す。

もしかしたら、直江の長兄も一緒かもしれないし、こんなに遅くなってから電話するのはどうか。
というより、そもそも一体何の用で電話するというのだ。
別に用なんか何もない。
ただ、直江が電話すると言っておきながらかけて来ないから…。
あいつの都合で予定が変わったんだから、何か一言くらいあったっていいだろう。
いや、予定のことはもういい。
ただ、一言、オレに何か言ってくれたって…。

「ああーっ」

奇声を上げて、高耶はごろんと再び寝返りを打った。
オレは一体何を期待しているんだ。
バカみたいだ。
何で直江のことでこんなに頭を悩ませなきゃならないんだ。

そう思って、もしや…という考えが心に湧いてきた。
綾子や千秋たちは、こんなオレを気遣ってわざとオレを振り回していた…とか?
考えすぎか。
あいつらにそんな繊細な神経が備わっているとは思えない。

その時、風もないはずなのに、ふと部屋のカーテンがふわりと大きく翻った。
すると開けっ放しの窓から一瞬夜空が覗き、中天に明るい星がいくつか見えた。

星…。
いつか直江から教えてもらった北十字が見えるだろうか。

眠れぬまま、誘われるように身体を起こし、窓枠に手をかけた高耶は、そのままハッと息を呑んだ。
その目は上空の星ではなく、階下にぽつんとつっ立ってこちらを見上げているスーツ姿の男を見ている。

「なおっ…」

深夜ということも忘れてついその名を叫びそうになってしまった高耶に、直江はシーッと人差し指を口に当てて見せた。

嘘だろ…。
暑い夜の見せた幻惑かと思って、目を擦ってみたが、階下の直江は確かに高耶に向けて手招きしている。
幻じゃない。そうわかった途端、高耶は物凄い勢いでTシャツとジーパンに着替え、部屋を飛び出した。

「直江っ」

何でこんな時間に…と問いただそうとする高耶を軽く手で制して、直江は腕時計を見ながら言う。

「11時59分30秒。よかった。間に合ったようですね」

「間に合う?」

「ええ。高耶さん、お誕生日おめでとうございます」

団地の古びた外灯に照らされた直江の顔は、まるで幼子の誕生日を祝う父親のように嬉しそうだ。
けれど、よく見れば、仕立てのよいスーツは仕事の多忙さを証明するように些かくたびれている。
常に外見に細心の注意を払う直江にしては珍しいことだ。
それだけなりふり構わずに駆けつけたということなのだろう。

「おまえ、仕事は?」

「契約は無事、成立しました。その後の接待に付き合わされて…それでも途中で退席してきたんです。でも、最終のあずさを逃してしまって、高速バスに飛び乗って来ました。酒が入ってしまったので車を運転するわけにはいきませんから」

それで、こんなに遅い時間になったというわけだ。

「どうしても、あなたに直接『おめでとう』と言いたくて」

たったそれだけのために。
不覚にも込み上げるものがあり、高耶はぷいと顔を背けた。

「高耶さん? …ごめんなさい。プレゼントを買う余裕はなかったんです。本当なら花束と一緒に何か気の利いたものでも…」

「要らねえよ」

横を向いたまま、高耶はぼそりと答えた。

「そんなもの、要らねえって。おまえだけで、いい…」

「高耶さん…」

沈黙すると、眠りについた団地の中は静かだった。
それでも真夏の夜は完全な静寂になることはない。
どこかの草むらで鳴く虫たちのジージーという音が、遠くから響いてくる。
儚い夏の夜に命をかけた求愛の声だ。

そんな虫たちのさえずりにしばし耳を傾けていた高耶は、ふと直江がコンビニの袋を手にしていることに気づいた。

「プレゼントも何もないですが、たまにはこういうのもいいかと思いまして」

高耶は差し出された袋を覗き込んだ。

「線香花火?」

「ええ。よかったら、今からやりませんか? 音もほとんどないので近所迷惑にはなりませんし」





風はなくとも、外の方が、家の中よりもまだいくらか涼しい。
花火のできる公園へ向かって、外灯もまばらな夜道をぽつぽつ歩いていく。
ふと、直江が斜め後ろから声をかけてきた。

「ボーリング大会は楽しかったですか?」

高耶は驚いて直江を振り返る。

「耳ざといな。なんで知ってんだよ?」

「なんでもなにも、私が長秀に頼んだんですよ」

「なにっ!? じゃあ、もしかして、今日の一連のあれはおまえの差し金ってわけか!?」

「予定をキャンセルしたお詫びです」

「お詫びになってねえよ」

げっそりして答える高耶を横目に見ながら、直江はくすりと笑う。

「でも、寂しい思いをしなくて済んだでしょう?」

自分がいないと寂しい思いをさせるのだと思っている傲慢な男をぎろりとひと睨みしてから、高耶は諦めたように小さくため息をついた。
確かに、周囲があれだけ騒ぎ立ててくれなかったら、高耶は今日一日、直江からの電話を無意識のうちに待ち続けていたかもしれない。

「それにしても、線香花火なんて久しぶりだな」

それ以上心中を追究されたくなくて、高耶は話題を逸らした。

「男の子なら普通、線香花火よりもロケット花火とか賑やかな花火を好むものですからね」

「ああ。でも、そういや一度だけ、線香花火ばっかりやった時があったな」

高耶は道端の石をコツンと蹴っ飛ばして、語り出した。

「小学校低学年の頃だった。夏休みに親父の実家に遊びに行った時のことだ。夜、美弥や従兄弟たちと一緒に花火をしたんだけど、祖母さんが『線香花火を最後までうまく咲かせることができる子は長生きする』とか何とか変なこと言い出してさ。ついムキになってやりまくったっけ」

遠い昔話を、高耶は自嘲気味に笑って話す。

「どういうわけか、オレは線香花火が下手だった。火をつけてもすぐに玉が落っこっちまう。美弥や従兄弟たちはみんな綺麗な火花を咲かせて楽しんでいるのに、オレだけ何度やってもダメだった」

そう言った後、口を噤んでしまった高耶を、直江は急かせることなく、黙って話の続きを待った。

「その祖母さんってのが実はちょっと不思議な人で、時々予言めいたことを言ってのける人だったんだ。だから、オレも余計意地になってさ。早死にするって言われているようで胸糞悪いだろ?」

他の子供たちの興味が線香花火から打ち上げ花火に移ってしまっても、高耶だけはひとり、線香花火に火をつけ続けた。

「その日は風が強かったんじゃないですか? 今夜はきっと大丈夫ですよ」

「ああ」

特に意識していたわけではないのだが、あの日以来、線香花火をしていない。

「見てろよ、リベンジしてやっから」

Tシャツの短い袖を肩までまくり上げながら、高耶は勇んで人気のない公園に入っていった。
直江も上着を脱いで、公園の隅のベンチに置いた。

外灯から離れた暗がりにしゃがみ込むと、直江は袋から細い花火を一本取り出して、高耶に手渡す。
手に持つと、ほんのちょっとの風にも飛ばされそうなほど軽い。
ティッシュを一枚手にしているようだ。

直江愛用の高そうな内燃式ライターがカチッと小さい音を立てて、透明な炎を吹き出した。
こよりの先の火薬部分へと直江が炎を近づける。

ちりちりと先端部分が明るく光り出し、火が点いた。
炎は一瞬にして火薬部分を包み込み、赤く光る火種は周囲に小さな炎を噴き出しながら、表面張力で丸い玉になっていく。
そうして、じくじくと熟れた果実のように実って、数瞬の沈黙の後、カサカサッと微かな音を立てながら可愛らしい火花を放ち始めた。
しかし、正にこれから威勢よく火花を散らそうというその時。

ボトリ、とその実が地に落ちた。

「あ…」

土の上に落ちた火薬はすぐに冷えて光を失った。

「もう一本」

高耶は即座に手の平を差し出した。
直江は二本目を高耶に手渡すと、先端に火を点けた。

火種はさっきと同じように丸い玉を生み出し、カサッと乾いた音を立てて小さな火花を弾けさせる。
が、次の瞬間。
また、ボトリと地に落ちた。

「くっそう。直江、もう一本」

「もう少し火薬に近いところを持った方がいいですよ」

直江の言う通りに持ってみたが、今度は火種が玉になった直後に呆気なく落ちてしまった。

「おかしい。風もないのに。なんでだ? この花火不良品じゃないのか?」

「これ、一応国産品なんですよ。もっと長く持つはずなんですが…」

おまえもやってみろと直江を促し、二人同時にライターの火に花火の先を近づけた。
シュボッと炎がそれぞれの先端に乗り移り、火薬を光の玉に変える。

高耶の花火は、玉になって間もなく、やっぱり落ちた。
直江のは…まだついている。
小さな火花を四五回噴き出したかと思うと、唐突に勢いを増した。
カサカサカサッという音とともに明るい火花が立て続けに咲き乱れる。
しばらく大きな火花を弾けさせた後、火薬を燃やし尽くした玉はぽてっと地面に落ちた。

「……」

どうやら不良品ではないようである。
高耶は軽く肩を上下させた。

「やっぱオレって短命なのかな」

運命なんてものは信じない。
そんなのは、弱い人間の卑怯な言い訳だと思っている。
だけど、線香花火の玉が虚しく落ちるさまはなんとも儚げで、高耶をふとそんな切ない気持ちにさせた。

「そんなことはないですよ」

優しい、しかしどこか力強い直江の声に、高耶は顔を上げた。

「七本入りだから、最後の二本。一緒にやりましょう」

渡された花火を持ち、高耶は直江とともにそれぞれ最後の一本に火を点けた。
シューッと小さなロケットのような音を立てて、火薬が炎を上げる。
今度のは火薬の量が若干多かったのか、炎の勢いがいい。
だが、慎重に支える高耶の手の先で、火のついた火薬は丸くなる前に下半分ほどが重さに耐えかねたようにちぎれてボトッと落ちてしまった。

「あっ」

と高耶が小さな声を上げた、その刹那。
直江が思いもかけぬことをした。
すっと高耶の方へ身を寄せたかと思うと、なんと、高耶のこよりの先でまだ燻り続ける火種へと、自分の火の玉をくっつけてきたのだ。

なにをするのかと驚く高耶に、直江は「動かさないで」と真剣な眼差しで言う。
二人の手の先でひとつに溶ける火種を、高耶も息を殺して見守った。

二つの別々の火種が合わさった光の雫は、まるで成長する生きもののようにじわじわと形を変えていく。
互いを溶かし合ううちに、いびつな形が、やがて安定した球状の玉へと変わった。

「ほら」と、直江が完全にひとつになった光の玉を見つめながら言う。

「あなたの命は短くなんかない」

「……」

高耶は思わず呆気に取られて直江の顔を見つめてしまったが、カサカサッという小さな音に気づいて手もとの花火に視線を戻した。

幾分大きめの赤い玉から、Y字形の火花が小さな稲妻のように連なって走る。
それは、一瞬で弾けては消え、消えてはまた弾け出す。
近いところで弾けたかと思うと、突然少し離れたところで弾ける。
やがてそれらはいくつも続けざまに弾けて、ひとつの大きな華となって二人の手もとを明るく照らし出した。
二つの火薬を合わせたせいか、さっき直江が咲かせてみせた花火よりも数段明るい。

けれど、盛大に咲き誇ったのも束の間、火花は次第に勢いを弱めた。
光の筋は菊の花びらのようなたおやかな形になって、静かに散り落ちていく。

いのちの最後の華を散らすように。
寿命を全うしたかのように。

そうして、燃え尽きた光の玉がぽてりと満足げに地に落ちると、後には、暗がりの中に先端を密着させた二本のこよりと、それを支え持つ二つの手だけが残された。

高耶はすぐに言葉を発することができなかった。
ほんの短い間のことだったのに、余韻に胸が震えている。
目を閉じると、瞼の裏にまだ琥珀色の光が焼きついていた。

また、夏虫の声が聞こえてくる。
草むらが近いせいか、団地の中で聞いたのよりも随分大きな合唱だ。
それは大地の鳴動のように、時に弱く時に力強く、夜の闇に鳴り響く。

そんな虫たちの求愛の声に交じって、男の低い声が高耶の耳元で囁いた。

「今夜…」

目を開けた途端、まだこよりを掴んでいる高耶の手を、大きな手の平がそっと包み込んだ。

「泊めてくれますか、あなたの部屋に…」

「っ…」

その手の問いに対して返し方を知らない高耶は、眉間に皺を寄せ、唇をへの字に曲げて、しばらく奇妙な顔をしていたが、やがて疑り深い目で直江を見上げるとぼそっと小さな声を発した。

「変なこと、すんなよ?」

精一杯の答えだったのに、直江はプッと噴き出した。

「変なことって、どんなことですか?」

逆に問いただされ、高耶は自分が墓穴を掘ったことを知る。

「なっ、なんでもねえよっ! ほら、さっさと帰るぞっ」

外灯の灯りが遠くて、紅潮した顔を見られないことがせめてもの救いだと高耶は思った。



短い夏の夜を謳歌する虫たちの声が、家路を急ぐ二人の背中をいつまでも追いかけていった。











●あとがき●
高耶さんと直江の関係がどこまでいっているのか、いまいちよくわからない謎設定(笑)でお送り致しました。一応、高耶さんに捧げるバースデー記念小話でございます。帰宅した後の二人の模様はご想像にお任せするということで。
高耶さんの誕生日というとバブル男でアニバーサリー男な直江氏があれこれ趣向を凝らして高耶さんを満足させるという筋が浮かんできますけれども、今回はそれを裏切る形にしてみました。それでも花火が国産なところはさすがは直江氏。腐っても直江ですね(笑)。
しかし、コンビニで国産花火は売ってないだろうな(苦笑)。私は国産の線香花火というものをやったことがないんですが、どうなんでしょう。結構違うものなんでしょうか。
原作のラストを知っている方には、線香花火のくだりでしんみりしてもらえたら嬉しいです。