静かな夜の香辛料  前編





珍しく静かな夜だった。

酒好きの土佐っ子のことである。
いつもなら夜半過ぎても飲めや踊れやの騒ぎでなかなか寝静まらず、自室で独り作戦のシミュレーションに細かい神経を使っている高耶は、耐え切れず怒鳴りつけに行くこともしばしばであった。

けれど、今夜は気味が悪いくらい静かだ。
作戦決行が近いせいなのだろうが、こうも静かだと逆に気持ちが落ち着かない。
慣れとは奇妙なものである。
少し前まではこの身体のせいで人を避けることしか頭になかったのに、今では静寂を物足りなく感じている自分がいる。

高耶は窓ガラスに映る自分の赤い瞳を見つめて苦笑を漏らした。
が、すぐにふっと軽いため息をつく。

(遅い・・・)

苛立ち交じりに、半ば八つ当たりするように広げていた地図を床に払った。

少し前、卯太郎が熱いコーヒーを持って来た時に、橘をここへ来させるよう言いつけた。
あれから二時間になる。

(何をやっているんだ、あいつは)

高耶はベッドに身を投げた。
自分の肩を抱くようにして身体を丸める。
部屋はストーブをつけているのに少し寒い。
なのに、吐息だけはどういうわけか熱いのだ。

この熱の正体を高耶はよく知っている。

(早く来い、馬鹿野郎)

内心そう悪態をついた時だった。
トントンと唐突にドアをノックする音が響き、高耶は念でも通じたかと思わずどきりとした。

「橘義明、入ります」

聞きなれたあの低音でそう告げられ、いつもの隙のない所作で男が入室した。

高耶はベッドから降りて椅子に腰かけ、咎めるような目つきで直江を見る。
そんな視線を軽く受け流すと、直江は眉ひとつ動かさずに口を開いた。

「遅くなり、申し訳ありません」

「なぜすぐに来なかった?」

「私の受け持つ小隊にトラブルが起きまして、対応に追われていました」

「トラブル? こんな時間にか? 明日にすればいいだろう。オレより優先させるべきことなのか?」

直江は床に落ちた地図に一瞬目線を落とすと、心持ち口を尖らせた高耶をじっと見つめた。

「お言葉ですが、仰木隊長、私の直接の上官はあなたではありません。今の私には今の私の立場というものがあります」

「何だと?」と高耶は眦を釣り上げた。

「お前の立場とはそんなつまらないものだったのか? お前の本当の立場とは何だ? お前は赤鯨衆の一隊士である前に、オレの犬だ。オレに殉じる犬だ。お前にとってオレの言葉は絶対だ。逆らうことなど許さない!」

思いがけず声を荒げてしまった。
こんなことを言うつもりではなかったのだが。
二人きりの時に「仰木隊長」などと呼ばれてついかっときてしまった。

高耶が欲しい言葉を、態度をこの男がくれないからだ。
もっとも、意地の悪いこの男はわかっててわざとやっているのかもしれない。

怒っているというより孤独感を漂わせて吠える高耶に、直江は幾分口調を和らげた。

「自分でのし上がって来いと言ったのはあなたですよ。すべて、あなたのそばにいるために私は動いているんです。あなたもわかっているでしょう?」

高耶はそっと唇を噛む。

「高耶さん?」

優しく呼びかけるその声に、高耶は弾かれたように瞳を上げた。
この声だ・・・この声を聞くだけで自分は見えない腕に抱きしめられているような錯覚を起こす。

「何でもない。悪かった。ちょっと疲れているだけなんだ」

そう言うと、高耶は椅子から再びベッドの上へと座り直した。
両手を布団の上について後ろに体重をかけ、いまだドアの前に突っ立っている直江をじっと見つめる。

「それで、私を呼び出したのは何の用事だったのですか?」

「何の用事って・・・」

途中で絶句してしまった。
直江を呼び出して、愚痴のひとつやふたつでも零して、彼の目を見ながら「疲れた」と吐けば、この男は自然と身を寄せ、黙ったまま自分をあやすようにベッドに押し倒すだろうと思っていたからだ。

疲労している身体ははけ口を欲してもやもやしていた。
静かすぎる夜が悪い。
しんと静まり返った寒い夜は、人の肌の温もりが恋しくて狂いそうになる。

高耶は目を閉じて直江の手が髪か頬に触れてくるのを待った。

「疲れているのなら、今夜は早めに休んで下さい」

突き放すような台詞に高耶は驚いて目を見開いた。
直江は意地悪そうな笑みを浮かべている。

「・・・なんて私が言うとでも思いますか?」

言いながら、後ろ手でカチャリとドアに鍵をかける。
ある意味、期待を裏切らない男だ。

高耶は思わずゴクリと唾を呑み込んだ。

「本当に素直じゃない人だ」

一歩一歩ゆっくりとこちらへ近づいて来て、直江は高耶の目を覗き込む。

「もう一秒も我慢できないという目をしている。ずっと私のことを待っていたのでしょう? 二時間も前から、あなたは私に押し倒されたくて、組み敷かれたくてうずうずしていた、そうなんでしょう?」

「んなことっ・・・」

「正直に言えばよかったんですよ。そんなに私に噛みつかなくたって。私が入ってきた途端、私の首に両手を回して『今すぐお前の×××をオレの中に突っ込んでくれ』って、発情したあなたのあのハスキーな声で、腰を揺らめかせて強請ればよかったんです」

期待を裏切らないのはいいが、どうやら余計なスイッチが入ったらしい。
高耶は真っ赤になって平然と猥褻な言葉を並べ立てる男を睨み上げた。

「死んだってそんな台詞言うもんかっ」

「あなたの口が言わなくても、その目がそう言っているんですよ。いやらしい人だ。そんな目でまさか私以外の人間を見てはいないでしょうね?」

「んなわけねえだろ」

そんなにもの欲しそうな目をしていたのだろうか。
いや、性欲を持て余していたのは事実だから、そうなのかもしれない。

直江はベッドへは来ずに、椅子の方へと腰を下ろした。

「そんなにいやらしい身体になって、私が傍にいない間、一体どうしていたんですか? どうやって性欲処理していたんですか?」

長い脚を組み、詰問してくる。
いつの間にか立場が逆転している。
淫猥な単語で煽られ、高耶は自分の身体が敏感に反応するのを感じないわけにはいかなかった。

直江と別れた後のあの狂気じみた自慰行為・・・とてもじゃないが、言葉にできたものじゃない。

「自分で処理していたんでしょう? どんなふうにしていたのか見せて?」

「なっ、馬鹿なこと・・・」

「馬鹿なことじゃない。あなたのことは私が一番よく知っている。どこをどうすればどんな反応をするか・・・。あなた以上にあなたのことを知っている。だから、私が知らないあなたがいるのが許せないんです」

熱い囁きに、高耶の中心が疼き出す。

「あなたの痴態なら何度も見ている私です。今更恥ずかしいことなんてないでしょう? さあ、あなたを見せて。私がいない間に、一人でどんなふうにしていたか…」

高耶は上目遣いに直江を睨みつけた。
自分でやって見せるまで、触れてくるつもりはないらしい。
触れられたくてうずうずしているのに、このままではたまらない。

「私を想ってアソコを激しく扱いていたんでしょう? 快楽に貪欲なあなたのことだ、後ろの穴まで自分で弄っていたんではないですか? ほら、図星だと言わんばかりにあなたの股間はもう外から見てもわかるほど膨らんできている」

「っ…」

潤んだ瞳を向けるが、直江は椅子に座ったまま余裕の笑みを返すばかりだ。

「だめですよ、そんな目をしたって。今夜は自分でして見せて下さい。そうして私をその気にさせることができたら、ちゃんとご褒美をあげますから」

選択の余地はなかった。
高耶はベッドの上に両脚を投げ出すと、ジッパーに手をかけた。
ジジジという音がやけに大きく響く。

覚悟を決めて、自分の半ば勃ちあがりかけた一物を外へと取り出して見せた。
直江は目を細めて見つめている。

そのねっとりとした視線を感じると、まるでその男の手で嬲られた感触を思い出したかのように高耶のものはビクンと勢いを増した。
たまらず自分の手で握り込み、上下に扱き始めた時だ。

「そうじゃないでしょう?」

穏かな、しかしはっきりとした否定の声が高耶の手を制止した。

「ちゃんと脱いで下さい。下だけ、全部」

図に乗った要求をはねつけるだけの余裕は高耶にはもうない。
クソッと悪態をつきながらもズボンを勢いよく剥ぎ取った。

「ああ、いいですね。ちゃんと脚をもっと広げて? そう・・・恥部をすべて曝け出して斜に構えるあなたがたまらない。その燃えるような瞳で挑発するあなたをねじ伏せてやりたい・・・。ほら、もう我慢できなくなってきたでしょう? いいんですよ、好きなように乱れて。どんなにいやらしくても、あなたなら許してあげます。ああ、腰が浮いてきましたね。何とか言ってみたらどうです?」

「うる・・せぇ、この変態野郎!」

男の前で股を開き、腰を揺らめかしながら、口だけはまだ抗おうとしていた。

「威勢がいいですね。でも、その変態野郎に挿れて欲しくてたまらなくて、こんな格好までしているあなたはもっと倒錯した変態だ」

悔しいけど言い返せない。
どころか、そんな風に辱められてどこか感じてしまっている屈折した自分がいるのを高耶は感じた。

「内腿が引き攣ってきましたね。まだまだイッてはだめですよ。あなたの手はもう先走りの液でビシャビシャだ。ほら、クチュクチュといやらしい音までしてきた。その濡れた指で後ろを弄りたくてうずうずしているんじゃないですか?」

高耶は血色の良くなった唇を噛み締めた。

「どうしたんです、後ろも弄っていいんですよ?」

「お、お前が・・・いい」

「そんなに欲しいなら、あなたが自分でほぐして見せて? 私が居ない時は、私のアレを想いながら自分の指をアソコに出し入れしていたんでしょう? 私にそれを見せて下さい」

「ばっ・・か、やろう」

もはや自分でも止められなかった。
高耶は棹を扱いていた右手を腰の下へと回す。
べっとりと濡れた指先で窄んだ穴の入り口を何度か撫でると、何かの幼虫のように指をくねらせながら中へと突き入れた。

「アアッ!」

既に熟知してしまった自分のいいところを擦りあげると、自然と嬌声が漏れた。
しなるほど張り詰めた性器の先端から粘液が糸を引いて腹の上に落ちる。

「アッ、アアッ・・・な、直江、直江ッ!」

もううわ言のように男の名を口にのせながら、狂いそうなほど男のものを欲し続けるしかない。
両足はつま先立ちになり、腿は引き攣って震える。

「直江、直江ぇ!!」

顎を仰け反らせ、何度もその名を叫ぶ。
愛しい者の代わりに自分の指で自分を満たしていると、快楽の一方でどこかやるせない気持ちがふと心に甦った。

身を引き裂くような想いで別れを告げ、孤独と絶望の淵で彷徨ったあの日々。
幾つの夜をこうして独りで慰め、やり過ごしてきただろう。
どれほどの苦汁を吐き出してきただろう。

誰とも分かち合えないこの想い。
もう誰もともに担ってくれはしない己の業。
この男のいない世界があんなに耐え難いものだとは思わなかった。

だけど、愛しているなら愛しているほど、それに耐えねばならなかった・・・。

「直江――」

「高耶さん?」

不意に耳元で囁かれ、高耶はうっすらと涙の滲んだ瞳を開けた。

「どうしたんですか? 私はここにいますよ」

「なお・・・」

津波のような口づけが落ちてきた。
深く唇を重ねて、薄い粘膜と唾液をしきりに貪り合う。

すでにこの男の色に染められてしまった細胞のひとつひとつが、この男の到来を歓喜して迎え入れるのがわかる。
この世にたったひとつしかない鍵で開かれる秘密の箱のように。

もっと…もっと染め上げて欲しい。
色褪せることも叶わぬほど鮮烈な血と炎の色に。
お前の存在している証を俺の中に刻み込んでくれ・・・。

「あなたが、欲しがっていたものを、あげますよ」

唇を触れ合わせながら直江は囁くと、今にも暴発しそうなくらい猛った自身を高耶の蕾に宛がった。

「ハァッ、ア・・・アアッ!!」

圧倒的な質量のものが身体の中に侵入してきて、高耶は全身を刀剣にでも貫かれたように硬直させた。

「ああ、あなたの中はすごくいい。こんなに淫らに蠢く肉は他に知らない。ほら、わかりますか? あなたと私の最もいやらしいところが擦れ合っているのが・・・」

直江がゆっくり腰を動かし始めると、痛みの奥に潜んでいた暗い感覚が頭をもたげてくる。

「アッ・・・直江、イ、イイッ!」

「前も弄ってあげましょうね。ほら、あなたのここは触って欲しくてさっきからたくさん涙を流してる」

指先で高耶の先端を摘むと、割れ目の部分を人差し指で執拗になぞる。

「アッ、も・・・ダメッ、直江・・・そんなに、したら・・・」

高耶が最初の射精の兆候を訴えたその時だった。
思いもしないことが起きた。

トントンと、誰かが部屋のドアをノックしたのだ。

秘めごとを聞かれたかと二人は思わず顔を見合わせたまま固まった。

「仰木隊長」

その声を聞いて、直江の表情が見る見る間に剣呑なものになっていく。
扉の外にいるのは直江とは犬猿の仲の兵頭だ。


(後編へつづく)