左手の温度
ゴーンという梵鐘の重厚な音色が、静かな住宅街に冴え冴えと響き渡っている。
一定間隔で繰り返される鐘の音は、家を出た時よりもだいぶ近くに聞こえるようになった。
大晦日とあって、深夜でもまだ明かりの灯っている家が多いが、どの家庭も静かな年の瀬を送っているようで、鐘の音が止むとあたりはしんと静まり返る。
高耶は冷えた両手に温もりを与えるため、はーっと息を吹きかけた。
「手袋してこなかったんですか?」
隣を歩く直江が目ざとく高耶の行動を見とめて言った。
「あ、ああ。バイク乗るわけじゃねえし、ポケットに手ぇ突っ込んどけばいいと思ってさ」
けれど、寒波のせいで一層冷え込んだ夜に、革ジャンのポケットは大して役に立たない。
一頻り白い息を吹きかけて再びポケットに手を突っ込もうとする高耶へ、直江が自分の手にはめていた手袋を外して、差し出してきた。
「これを使って下さい」
何でもないことのようにさらりと言ってくるが、それを易々と受け取れるほど高耶も無神経ではない。
「お前がするのがなくなるだろ。いいよ、お前がしてろよ」
「いいんです。あなたが使って下さい」
「いいって。お前のなんだから、お前が使えよ。オレは平気だから」
「平気じゃないでしょう? あなたが寒い思いをするのは私が許せないんです。使って下さい」
「だから、いいって言ってんだろ。お前もしつこいぞ!」
「あなたも意固地にならないで、人の好意を素直に受け入れたらどうなんです!?」
何だと…と、高耶が眦を釣り上げようとした時、ゴーンという鐘の音に出鼻を挫かれた。
見つめあったまま、数秒その場に立ち尽くす。
辺りが再び静寂に包まれた頃、二人はどちらからともなく、ふっと笑みを零した。
馬鹿なことで言い合いをしそうになった自分たちがおかしかった。
この寒さのせいで脳みそまでかじかんでしまったのかもしれない。
「じゃあ、これでおあいこということにしましょう」
そう言って直江は手袋を片方だけ高耶に差し出した。
高耶は受け取った手袋を左手にはめ、両手をポケットに突っ込むと、再び歩き出した。
柔らかいラム革の手袋には直江の体温が微かに残っている。
「お前、自分とこの寺の手伝いしなくて大丈夫だったのか?」
「帰ったらきっと怒られるでしょうね」
綾子と千秋が大晦日に仰木家に集合すると聞き、直江も急遽駆けつけてきたのたが、綾子と千秋のように騒ぎたいからではなく、相手をする高耶の苦労を気遣ってわざわざ来てくれたらしいことは大体察しがつく。
案じた通り、宵の口から呑めや食えやの宴会騒ぎとなり、久しぶりの賑やかな年越しに美弥も子供のように喜んでいたと思ったら、紅白が終わりかける頃にはめいめい酔い潰れたりはしゃぎ疲れたりで三人とも居間で寝入ってしまった。
酒の入った騒ぎは苦手な高耶だ。
うんざりしながら散らかったテーブルを片付けていると、直江が「初詣に行きませんか」と誘ってきた。
アルコール臭い部屋から抜け出したかった高耶はすぐさま快諾したのだった。
「何だか悪かったな。色々気ぃ遣わせちまったみたいで」
「いいえ。私も、実家でこき使われるより、あなたと二人でこうして静かな年越しを迎えられる方が嬉しいですから」
たまにこういう聞く方が恥ずかしくなるようなことを言う男だとは前々からわかってはいたが、やはりこの手の台詞は何度聞いてもむず痒くなる。
それと同時に、直江の手袋を妙に意識してしまって、急に左手がぽかぽかしてきた。
手袋をはめていない右手だけがまだ冷えている。
「鳴り止んだようですね」
ふと直江が呟いた。
「え?」
「除夜の鐘。どうやら年が明けたようです」
高耶の目を真っ直ぐに見つめながら直江が言う。
「今年もよろしくお願いします、高耶さん」
「あ、ああ…よろしく、な」
高耶と直江が訪れたのは地元の小さな寺である。
しんみりとした雰囲気かと思いきや、意外と参拝客で溢れていた。
本堂の賽銭箱の前まで長蛇の列ができている
「しかし、坊さんが他の寺に初詣ってのも具合悪いんじゃないのか?」
列の最後尾に並んでから、高耶がからかうように言った。
「いいんですよ。うちの寺に願掛けても成就しそうにないですからね」
しゃあしゃあと答える直江に、高耶は呆れながら「罰当たり坊主め」と呟いた。
「願掛けって…何願うんだ?」
他意なく、ただ無邪気に聞いてみたのだが、直江は少し複雑そうな表情を見せてからどこか困ったように笑い、「内緒です」と囁いた。
行列は少しずつ進み、三十分ほどかけて賽銭箱の前まで辿りつくと、高耶も賽銭を投じ、手を合わせた。
目を閉じる前に、ふと隣の直江を見上げてみた。
神妙に祈りを捧げるその端正な横顔を、高耶は思わず吸い込まれるように見つめてしまう。
が、すぐに後ろから進んでくる人たちに押され、自分も慌てて目を閉じ、月並みながら家内安全を祈願する。
祈り終え、目を開けた途端、高耶は賽銭箱の前へ進もうとする人と退こうとする人の間に挟まれ、もみくちゃにされそうになった。
「こっちです、高耶さん」
その時、群集の中で直江がごく自然に高耶の右手を取った。
直江に導かれ、人ごみを縫うようにして本堂の脇へと抜けていく。
直江の左手は高耶の手より随分と温かい。
何事かを真剣な様子で祈念し、合掌していたさっきの直江を思い出す。
この左手の温度は、そのままこの男の祈念の強さであり、情熱の温度ではないだろうか。
何を願っていたのかはわからないが、一見人当たり良く、温厚なように見えるこの男の、烈火のごとく激しい本性に触れたような気がした。
家を出てからずっと冷えきっていた高耶の右手に、直江の手の温度がじわじわと染み込んでいく。
人だかりを抜けても直江は手を離そうとしなかった。
手の温もりは心地よかったが、高耶はすれ違う人の視線が気になって仕方ない。
あまりに意識し過ぎて、高耶の手が直江の手の中で不意にピクリと小さく震えた。
その拍子に離れるかと思った直江の手は、なんと予想に反して、握り直すようにきゅっと力を込めてきた。
高耶は裸の心臓を握られたかのように驚いて、その瞬間ぱっと手を振り解いてしまう。
「……」
振り向いた直江の顔が少しだけ寂しそうだった。
「あ…て、手袋、はめようと思って…」
ごまかすように言って、参拝の前に外してポケットにしまっていた直江の手袋をまた左手にはめた。
直江も片方だけの手袋を右手にはめる。
高耶はそのまま来た時のように両手をポケットに突っ込んだ。
「寒くないですか?」
寒いと言ったら、この男は自分の右手をまた握ってくるのだろうか。
ポケットから手を出したら、またあの自然な動作でこの右手を取るのだろうか。
手を取られるのも、取られないのも、どちらも少し怖い…。
そんな自分をおかしいと思いながらも、しばし逡巡した後、高耶は白いため息を吐き、ポケットに手を入れたまま答えた。
「大丈夫。寒くない」
一体何のせいなのか、いつの間にか身体は耳元まで暑いくらいに温まっている。
「いい年になるといいな」
直江は「そうですね」と微笑みながら相槌を打つと、手持ち無沙汰になった手を高耶と同様、コートのポケットに収めた。
それきり、もう肌を合わせることはなかったが、まるで直江の中で燃え盛る炎が高耶に乗り移ったかのように、何やら胸の奥がぽうっと温かい。
除夜の鐘の音も止み、一層静まりかえった道を、二人は少しだけ歩を緩めて歩いた。
●あとがき●
原作本編の流れの中ではあり得ない初期の頃のお正月小話でした。
高耶さんと直江が再会してから初めてお正月を迎えたのは…「みなぎわ〜」と「わだつみ〜」の中間辺りでしょうか。
二人の間の緊張は最大限に高まり、泥沼愛憎劇の深みにはまっていた頃ですものね。
除夜の鐘の音くらいで二人の男(主に直江)の煩悩は消えそうにありません。
今回は、そんな原作では叶わなかった、高耶さんが無意識に直江に温もりを求めてしまっている初期の頃(いや、関係がどんなに最悪であろうと、高耶さんは本当は常に直江に温もりを求めているとは思うんですが…)のお正月を書きたくて、初詣のお話にしました。
二人の微妙な距離感、いかがでしたでしょうか。小学生かっちゅうほどの初々しさです(笑)。
ぐちゃぐちゃにえろい直高もいいけど、こういうもどかしい直高も好きなんです。
それにしても気になるのは直江の願い事。何かとんでもないことを願ってそうだな、この男は。