―夏祭り―




「始まりの予感」










夏休みも半ば過ぎた頃。


猛鋒学園のある閑静な都内某住宅地からほど遠くない下町で、毎年ささやかな行事が行われる。



夏祭り。



全寮制の学園の生徒たちの大半は実家に帰るなり、家族とリゾート地で優雅に過ごすなりしているはずだったが、この祭りのために学校に戻ってくる者も多かった。




夏を彩る日本の伝統的な祭りは、若い恋人達にとって大切なイベントでもあった。





出会いの春、葛藤の梅雨、告白の梅雨明け、そして、暑い熱い夏休み。


学校も休みになって久しい真夏の宵に手を携えて祭りに出掛けることは、それだけで互いの「恋人」であるという地位を再確認する儀式みたいなものなのかも知れない。




もっとも、休みに入って週六日と半日ほど先生のマンションに入り浸っている弥勒にはあまり関係なかったかも知れないが。










「先生ッ、早く早く!」


「だ・か・らっ、そんなに引っ張るなっつってんだろうが!」


「早くしないと、花火見る場所がなくなっちゃうんだって!」




夏の宵、両側に屋台の並ぶ賑やかな通りを、人を掻き分けながら進む弥勒と犬君先生。
さり気なく男同士で手を取り合っていても、こんな場所ならさほど目立たない。
何と言っても、25歳の成人男性がドラえもんのお面を頭に乗せて、片手に綿飴、口にはべっ甲飴を咥えていても許されちゃう(?)お祭りなのだ。




「おい・・弥勒っ、痛ぇんだって・・・」


犬君先生は今度は少し小さな声で恥らうように弥勒を制した。

弥勒は先生を振り返ると、意味深ににやりと笑う。


「ジジイだなぁ・・2回ヤッただけで?」


「うるさいッ!!」


愉快気に笑う弥勒に犬君先生は真っ赤になって叫んだ。


「ジジイで悪かったな!大体お前のせいなんだから、ジジイの老後はお前が責任持って見てくれるんだろうな!?」


「えっ!?何それ先生・・・それって・・もしかして・・・・・・」


急に立ち止まった弥勒に、犬君先生は思わずドスン体当たりしてしまう。





「もしかして・・・プ、プロポーズですか?」




「はああああ???」




思いっきり呆れたという顔をしている割にはますます顔を赤らめた先生が愛くるしくて。

でも、ここで図々しくのろけるほどにはまだ近くない恋人同士の距離が歯痒い。



「・・・冗談ですよ」

弥勒は、つまづいてバランスを崩す先生を優しく支えた。


「本気でたまるかっ」




悪態を吐きつつも、一瞬の沈黙の間に交わった視線が想いを饒舌に語っていた。


想いは言葉で伝える方が難しいのかも知れない。



弥勒は、つい先程までの情事を思い出していた・・・・・










その日は午前中車で買出しに出て、その後先生が作ったご飯を二人で食べて・・・午後は、先生は自室にこもって教材の整理、弥勒は受験勉強に励んでいた。


先生のマンションに入り浸っているとは言え、勉強に関してはやるなら一人で静かにやることが多かった。
先生に教えてもらうと、別のことに集中してしまいそうだから。


でもその日はどうしても質問があって、自分の部屋にこもっていた先生を呼んだ。
と言うのはやはり言い訳だろうか?
結局は勉強に嫌気が差して、先生に触れたかっただけなのかも知れない。



すぐ隣で味気ない表情で淡々と化学式を講釈する先生に、弥勒はいきなり口付けた。


「・・・・・・」


一際ゆっくりと、柔らかい唇をいたぶる。

情感たっぷりに官能的な接吻をお見舞いしてやったのに。先生ときたら・・・・・



「・・・つまりだ、一般に平衡の状態に対して何らかの変化を与えると、その影響を打ち消す方向に平衡が移動すると考えれば良いわけだ。となると例えば、この化学平衡の状態に酸素を取り除くという条件を加えると・・・・・」



唇を離したら、しゃあしゃあと講義の続き。


へえ。そうきたか。

平衡だか何だか知らないけど、気持ちも身体も、弥勒の関心は化学式より先生へと急激に傾きつつあった。

だけどちょっと気に食わないから。

弥勒はわざと知らん振りをした。



「・・・酸素を取り除くという条件を加えると・・・・・・」



そう繰り返しながら、犬君先生はちらりと弥勒の顔を覗き見る。

変だな、押し倒してこないのかな、そう思っているんだろう。自分ではぐらかしたくせに。弥勒は内心意地悪くほくそえみながら先生の言葉を次いで正解を答える。


「その影響を打ち消す方向に平衡が移動する、つまり酸素の濃度が増加するように、2CO2が2CO+O2へと反応する方向に平衡が移動する、でしょ?」


「あ、ああ。そうだ。そういうこと」

面食らったみたいに、先生が答える。



「・・・もう、今日は止めだ、止め」そう言って犬君先生はパタンと教科書を閉じた。



その様子に弥勒はにやにやと笑みを浮かべた。



「さて。祭りに出掛けるか?いや、でもまだちょっと早いよな・・・?」先生は時計を見た後、横目でちらりと弥勒を見遣る。


弥勒は終にくすくすと笑い出した。


「先生?」教科書を持つ手に手を重ねた。「つまり・・・人間も、自然の摂理には逆らえないってことですか?」



上気して薄く色づいた唇から零れた限界なほど切ないため息が、降参の合図だった。

弥勒は優しく唇で唇に応えていき―――――30分ほど後、一緒にシャワーから出てきた二人は髪もろくに乾かさないままにベッドに縺れ込んだのだった・・・・・










弥勒は、ドラえもんのお面を頭に乗せながらちょっと恥ずかしそうに歩いていく犬君先生を横からじっと見つめていた。


「な、なんだよ?」


その視線に堪え切れなくなったように、犬君先生は前を見ながら弥勒に問い掛ける。


「・・・別に」


「なんかお前、やらしーコト考えてるだろ?」


弥勒は意地悪なくらい意味深なにやけ笑いを返してやった。


「お前、サイテー」


だけど、そう言いながら先生の頬に浮ぶ苦笑いはどこか甘みを帯びている。





でも本当は、弥勒は「やらしいこと」よりむしろ、やらしいことをしていた時に一瞬、先生の顔に浮んだ悲しい表情を思い出していた。




先生は、自分を見て、少しだけだけど・・・悲しそうな顔をしていた。

今まで先生がふとした時に淋しそうな表情や悲しそうな表情をしていたのはよく知っている。

だけどそれはみんな、遠い過去を見ながら浮かべていた表情で・・・。

それなのに、あの時先生は確かに、自分を見ていた。自分を見て、少し悲しそうな顔をしていたのだ。




弥勒は思っていた。

もう、先生に辛い思いはさせたくない。
少しでも悲しい顔はさせたくない。
俺は、先生を大切にする、辛い思いはさせない、絶対に。





すぐ隣で肩を並べて歩く先生の頭へと手を伸ばすと、弥勒はドラえもんのお面をサッと引き下ろして先生の顔に被せた。


「わ!?おいコラ弥勒、前が見えねえじゃんか!」


子供のように慌てる先生を見て、弥勒も子供のように無邪気に笑う。
お面を元に戻そうとする先生の手を遮って掴まえた。


「へーきへーき。俺が引っ張ってあげるから。ほら、鬼・さ・ん・コ・チ・ラ・っと」


ふらふらと頼りなさ気に歩く先生にさり気なく密着しては、はははっと楽しげに笑う弥勒。ついでに先生が口に咥えているべっ甲飴を奪い、自分の口に放り込んだ。

既に角が取れて口当たりが滑らかになったべっ甲飴が甘いのは、きっと味覚のせいだけではないのだろう。



「おい弥勒、恥ずかしいだろ、誰かに見られたら・・・」


人ごみの中、ふざけて抱き合うようにしながら歩いて行く教師と生徒。
狭い町内のささやかな祭りだ。同じ猛鋒の生徒に出くわさない方が不自然なくらいだった。


「良いじゃん?別に。てゆうかさ、俺たちの仲って、もう結構バレバレだと思うけど?」


「あのなぁ・・俺は一応教師なんだぞ、キョ・ウ・シ!!教師がそんな・・教え子と・・そんな・・・?・・・ンーゥ!!!」


いつもの勢いで説教が始まりそうだったので、弥勒はお面の下からその煩い口に、自分が舐めていたべっ甲飴を突っ込んで黙らせた。


「どう?甘い?センセ・・・?」


「ンゥ・・・・・バカ」


お面の下で真っ赤になっているであろう先生の顔を想像して、弥勒はくくくっと肩を揺らして笑い・・かけた、その時―――――





不意に、ずっと向こうからじっとこちらを見ている二つの瞳と目が合った。





その瞬間、弥勒の体は金縛りにあったように動けなくなった。


公園から響いてくる太鼓の音、祭りの中を行き交う雑踏、喧掻・・・すべての音が遠ざかっていく。


射るように・・・遠くから見つめられているだけなのに、その瞳はまるで全身を射るように動けなくする。


やがて弥勒は体の中にぞくりと蠢く、覚えのある嫌な熱を感じ始めた。



・・・いけない。
・・・思い出してはいけない。



今すぐにでもその苛むような、自分の全てを侵略するような硬い視線から逃れたいのに、弥勒にはその場を動くことは愚か、目をそらすことさえできない。





「どうした?弥勒?」

ふと気づくと、先生がお面を外して心配そうに顔を覗いていた。


「な、何でもないよ?」



微かな笑みを返しながらそう答えた途端、夜空にバババババッと爆音が轟いた。鮮やかな色の光芒が行く筋も夜空を彩っては流れ落ちる。


それはまるで何かの始まりを告げるが如く。急を知らせる警鐘の如く。



「あ、始まっちゃったな、花火・・・」


そう言って見上げた先生の視線を追うように、弥勒も夜空を見上げた。が、その目はすぐに磁力に吸い寄せられるように再び先刻の瞳の方へと流れていく。


激しくなる弥勒の動悸とは裏腹に、遠くから見つめてくるその瞳は、やがてゆったりと余裕を含んで満足そうに笑った。


「・・・・・」


そうして、その瞳の主は連れのもう一人の男の肩に優しく手をかけ、人ごみの中へと消えていった。





「弥勒?」


「ああ、行こ。早く行かないと・・・花火終わっちゃう」


弥勒も先生の体に優しく手を回し、歩き始めた。



だけど、胸の中に疼く何かが違和感を告げていた。

まるで見せつけるかのように誰かの体を引き寄せ、こちらを見てゆるやかに笑って見せたあの瞳。群衆の中へと消えていったあの姿。



体の中で何かが蠢いている・・・・・



弥勒は先生の腰に回した手に少し力を入れた。

でもその手が、まるで助けを求めるかのように微かに震えていたことを、弥勒自身、気づいてはいなかった。










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