―夏祭り―




「暗い川に架かる橋」










どこかの民家の庭で鳴いているのだろう。花火の爆音が残る耳に、微かな虫の音がどこか遠い世界から響いてくるように聞こえる。

川沿いの道を二人して歩いていく。

暗いし、人気もない。お祭り帰りの人々はもう既に散り散りになっていた。



犬君先生は、何とはなしに繋がれた手をちょっとだけ意識した。

いつから繋いでいたのか思い出せなかったが、いつの間にか手を繋いでいたようだ。でも、違和感はまったく感じない。大して恥ずかしくもなく、何故か弥勒と手を取り合って歩いていることが、ごくごく自然なことのようにすら思える。



静かだ。

微かに聞こえてくる虫の音や、川の水の流れる音がかえって静けさを深めているような気すらする。町中を流れる特に何の風情もない、コンクリートに固められた、浅く小さな川だけれども、水辺の夜風は気持ち良く、二人はそのまま無言でぽつぽつと歩いていった。



一緒の帰り道、帰り着く先も一緒、帰ってからもずっと一緒。

一緒に靴を脱いで上がって、一緒にソファーに座って、一緒に何か飲んで、それから、一緒に着替えて、一緒にベッドに上がって・・・明日の朝もまたそうして一緒に目覚めて・・・・・


ほんの数ヶ月前の自分なら、誰かとこんなふうに生活を共にするなんて考えられもしなかったはずなのに。

それはほとんど弥勒が強引にそうさせたことだったけれど、今ではそんな生活がずっと続いて欲しい、このままずっと、そっと、穏やかな生活を送り続けていたい・・・と、犬君先生は思う。


不思議なことだけれども、実際につきあってみると、この高校三年生の弥勒にはどこかしら、人を穏やかにさせたり、気持ちを楽にさせたりする力があった。

もしかしたら、最初から弥勒のそんなところを直感的に感じ取っていて、それで本当はずっと弥勒に惹かれていたのかもしれないが、それは、弥勒が普段学校では絶対に見せることの無い顔だった。優等生としても、不良生徒としても。

もちろん、その優しさの影には何かが潜んでいるのであろうことは承知の上で・・・その優しさも、その下にあるであろう傷痕も、今はもうすべて―――本当は、すべて愛しくてならない。

例えば、もしも・・・もしも、今、弥勒を失ったなら・・・気が狂ってしまうかも知れない。そう思えるくらい。


だけど、こんなに弥勒を想っていることは、本人には知られたくない、自分の心の奥にだけそっとしまっておきたい秘密だった。もちろん、弥勒は知れば嬉しいだろうし、無理矢理つき合わされているみたいな体裁を取りながら、きっとこんなのはずるいだろう。でも、やはりそこまでは素直になれない。まだ。時間が必要なのかも知れなかった。


だから、今は、弥勒と一緒に過ごすうちに湧き出てくるこの穏やかな気持ちを、穏やかなままに、そっと真っ直ぐ育みたいと思う。今のこの時にしてもそうだ。こんなに穏やかで優しい時間を、ずっと弥勒と持ち続けていたい。いつまでも弥勒に隣で一緒に歩んでいて欲しい。そっとそっと、もう何も、誰も、傷つけずに・・・



そう、願ってはいるけれど・・・


けれど・・・



言うなら今だと思った。


ずっと前から気になっていたあのことを聞くなら今だ、と思った。



暗い川に架かる橋を渡りかけた時、犬君先生は口を開いた。



「なぁ、弥勒・・・」


「?」


弥勒は立ち止まるでも沈黙を破るでもなく、ただ軽く首を傾けて先を促した。が、「あのさ・・・」と言い淀んでいると、弥勒も何かの気配を感じ取って身構えたのか、二人の周りの空気が少しだけ張り詰めるようにひんやりとニ三度温度が下がったかのように感じた。


しかし、弥勒はそんな気まずさを払拭するように、軽く繋いだ手を解くと先生の肩に手を回し、橋の欄干へと誘った。

「なになに?俺を口説こうっての?」

だけど、悪戯っぽく言ったその言葉は、橋の下を流れる暗い川の流れに吸い込まれるようにして掻き消えた。

「何?」

弥勒は欄干に手をかけ、闇に向かって今度は静かに促した。



「お前のさ、お前の・・・親御さんて、どうしたんだ?」



弥勒の顔が一瞬闇の中で強張ったように見えたが、すぐに口元に微かな笑みを浮かべ、何でもなさそうな口調で答える。


「気になってたんだ?」


「そりゃあ、当然だろ?」





保護者名簿にある弥勒の保護者名は、本人の姓と違っていた。保護者と言えば普通は父親、稀に父親が既に他界している場合や離婚して母親の保護下にある場合のみ、母親の名前が記載される。どちらにしろ、本人と同じ姓だ。

母親の名前が載っているのは、それでも珍しくはない。クラスに必ず一人か二人はいる。殊更に事情など聞くほどのこともないだろう。だけど、弥勒の場合は、誰なのか検討もつかない別の姓の名前がそこにあった。

それに、夏休みだというのに一度だって実家に戻った気配は無い・・・


本当なら、担任教師としてもっと早くにそれとなく聞くべきだった。生徒と年齢もそれほど離れてない、いつも皆から慕われている犬君先生だったら、そんなこと、とうの昔に聞き出していてもおかしくはない。そうして、個人の自我を尊重し適切な距離を保ちながらも尚且つ温かく見守っていてあげられたはずだ。まして・・・それが弥勒なら、なお更。


だけど、正直なところ、弥勒だからこそ今まで聞けなかった。


男子高校生にしては珍しく反抗することもなく慕ってくれるB組の生徒たちの中でも、弥勒はこんな関係になる前から取り分け人懐っこく、級長という特権を掲げていつもちょこまかとしつこいくらい人の後ばかりつけ、その態度は些か腹立たしいほど馴れ馴れしかった。が、しかし、その割には不思議と、どこか徹底的に人を寄せ付けないようなところもあったのだ。


今も、そこに触れるのは何となく恐ろしい気がしていた。そこから目を逸らし、穏やかな空気だけを吸っていればそれで何も災いは降りかかることなく安らかな気持ちのままでいられたのかも知れない。でも・・・でも、その薄暗い場所に触れないまま逃げて、見えない所にいつの間にか深い溝ができていたなんて、シャレにならない。弥勒を想えば想うほど、そんな心の矛盾は強まってきていた。

でも、もういい加減、弥勒が自分で言わないのならこっちから聞き出すしかない。だから、犬君先生は言い出す決意をした。





「死んじゃったよ?」


弥勒は暗い水面に視線を漂わせながら、一際ゆっくりそう呟いた。


「そうか」


返したのはたった一言。そうかも知れないとは思っていたし、だとしたところで今他に言うべき言葉もない。後は、弥勒が話す気があるなら、話してくれればいい。


それから少しの沈黙の間、やや張り詰めた気持ちでいた犬君先生に対し、一方の弥勒は橋の欄干に肘をつき、更にその上で頬杖をついて、むしろその沈黙を味わうような空気さえ漂わせていた。


「お袋は俺が中三の時に死んだんだ。体弱かったから、病気で」


「そうか」


再び沈黙があった。でも今度はさっきより些か重たい沈黙だった。


「親父は、俺が小さい時に死んだんだって」


「・・・覚えてないのか?」


「まあね」


「・・・・・・」


何か聞くべきなのだろうかと躊躇し始めた頃、弥勒が口を開いた。


「自殺したんだよ、親父」


相も変わらず穏やかな調子の声に、犬君先生は思わず三たび「そうか」と相槌を打ちそうになり、ハッとした。予期せぬ言葉に思わず息を呑み、弥勒の顔をじっと見つめる。


「・・・・・・」


弥勒はしばらくの間、闇の中をゆっくりと流れる川を見下ろしていた。それから、不意に振り向くと、うっとりと・・・そう、うっとりと、まるで夢の中から湧き出たような笑みを浮かべた。


「なんで自殺したか、知りたい?」


「・・・教えて、くれるなら・・・」


フフン、と弥勒は今度は声を漏らして笑った。そして、いたずらっぽい顔で「ダーメ」と言う。
突然のふざけた態度に肩透かしをくらい、犬君先生はただ目を円くしてきょとんと呆けてしまう。こうして振り回されるのはいつものことではあったが・・・


「あんまりいっぺんに色んな話すると、先生、ショックで腰が抜けちゃうよ?」


冗談なのか半分本気なのかよく判らない調子で言う弥勒。答えあぐねていると・・・


「先生の腰が使い物にならなくなったら、困るの俺だし」


などと言う。完全に茶化された。





弥勒のすぐ隣に居ながら、犬君先生は無性に切なく遣る瀬ない気持ちに襲われた。
きっと誰が悪いわけでもない。誰が悪いわけでもないけれども、自分と弥勒の間にはこの・・今、すぐ足元を流れているような黒い川が隔てている、そう思えて・・・


弥勒が心に抱えている過去。その内容如何が問題なのではなかった。大切なのは、もっと心を許し、甘えてくれることなのだ。


生温い夏の夜風が、少し伸びすぎた弥勒の前髪を撫で上げ、やや俯き加減のその表情を覗かせた。その頬には冗談を言った名残の笑みが貼り付いたままだったが、その瞳は底知れぬ不敵さを潜め、ガラスのような硬い光を湛えて物騒な輝きを放っている。

それは・・・それは、とても十八の高校生ができる表情ではなかった。



ズキンと、胸が疼いた。










「先生さ、弥勒のことどれだけ知ってんの?」



「アイツだって弱いんだよ」



「自分でもコントロール出来ないくらい、気持ちは真っ直ぐな奴なんだよ…」



「それでもカッコ良く見えるのは、それだけの努力をしているから」



「先生は、そんなアイツの努力に何を返した?」










いつぞや誰かに言われた言葉が胸をかすめる。

弥勒・・・・・・







「!?」

物思いに耽っていると、不意に、またしても何気なく、手を取られた。

「帰ろ?センセ」

「あ、ああ・・・」

歩き出した弥勒の顔を見れば、いつもの穏やかな表情に戻っている。



「あのさ―――――」
「俺―――――」


同時に口を開いて言葉がぶつかった。


「―――――」
「・・・・・・」


「な、何だ?弥勒」

「いいよ、先生こそ何?」

「いいから、お前言えよ・・・」

「んん・・俺さ、そう言えばこんな風に誰かと手を繋いで歩くなんて、生まれて初めてかも知れない、なんて・・・」

「え?」

意外だった。こんなに自然に人の手を取ったくせに。

「多分、先生だから・・かな。先生だから、こんなに自然で素直な気持ちになれるのかも知れない」

「・・・・・・」

呆気に取られて言葉も出ない。それは自分が弥勒に対して感じていたことだから。

「アハハ、ちょっと恥ずかしいこと言っちゃったかな、俺。やっぱダメだな、変に意識しちゃうと・・・」


弥勒が明るく笑って手を振り解こうとした瞬間、先生がその手をぐいっと引き戻した。


「!?」

「お前さ、気を遣いすぎなんだよ、高校生のくせに」

「え?」

「お前が全部話してくれなかったことを俺が気にしてると思って慰めてるんだろ?」

「・・・・・・」

「無理、すんなよ」

「・・・でも、嘘じゃないんだけどな」

「もういい、もういいよ・・・お前がいつか、話す気になったらで・・・・・・」


その後は黙って静かに二人で帰り道を辿った。随分ぎこちなくなってしまったけれど、さっきよりもしっかりと強く手を握り合いながら。





その間、犬君先生は心の中でだけ、弥勒に語りかけていた。


お前が恥ずかしいこと言うから俺は何も言えなくなっちまったじゃないか、と。

お前はもっと甘えていいんだ。
もっと辛い気持ちをぶつけていいんだ。
優しいお前も、優しくなろうと努力しているお前も、大好きだから、と。



だけど俺は・・・俺はいつ、お前にこの気持ちを伝えてあげられるのだろう。

愛してるという、この気持ちを―――







(次の物語へとつづく)





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