雨と風と君と   其一・序








「…で、その妖怪かと思って私が殴りつけていたモノは…」



秋の夕。
俺たちは空をもの凄い速さで飛んでいく雲に嵐の予兆を感じ取り、その日は野宿を取り止め、宿屋の門をくぐった。



「…実はその城の若殿で…」



目の前にはごくありふれた宿の食事が並んでいる。
時折箸を伸ばしたり、椀に口をつけたりしながら、皆は弥勒の体験談に聞き入っている。



「…許しを乞う声で、私はそれに気づいたのですが…
 …思わず無視して殴り続けてしまいました…」



アハッ、アハハハハ〜と笑う弥勒に、女子二人も思わずクスッと笑いを洩らす。
「弥勒様って悪いの〜」
「極悪法師じゃな…」
「でも…その城の侍女たちを夜な夜な襲っていた物の怪の正体がそいつなら、いくら若殿だからって容赦することないよぉ」
「それもそうかも…」



何の因果か共に旅をするようになった仲間たち。
いつものことだが、食事を囲んでのささやかな団欒は、弥勒を中心に回っていた。
一人旅を長く続けていた弥勒には、人を喜ばせる奇談が尽きることが無かった。
また、大して面白くない話でも、その独特の語り口と天然な解釈で、あっという間に和やかな雰囲気を作り出してしまうのだ。



「美しい女子を泣かせる男は、この私が許しません」
「…って言いながら、一番泣かせてるのは法師様じゃないの?」
アハハ〜痛いところをつかれましたなぁ〜と、困りながらも楽しげに笑う弥勒。





…俺にはよく解からない。
そんな話の何が楽しいのか、そんな些細なことでどうして皆が打ち解けていくのか。
でも、俺自身、少しばかり戸惑うことがある。
饒舌に語る弥勒の口元や、穏やかなその笑顔を見ていると、自分でも気づかないうちに俺の顔は綻んでいる。
ああ、そうだ。
俺もこの男に引き込まれているんだ。
知らず知らずのうちに、同じ輪の中に入っていたかもしれない。





「…だろ?犬夜叉」
不意に弥勒に同意を求められ、何の話か聞いていなかった俺は少し動揺して生返事をする。
「あ、ああ…」
弥勒はそんな俺に眩しい笑顔を向けてくる。
何が、『人と深く関わり合うのは苦手…』だよ。
こいつほど、人馴れした奴を俺は見たことが無い。



その時、襖がすっと開き、宿の女主人が風呂が沸いたことを告げに来た。
弥勒の勧めによって、女二人が先に風呂へ立つ。
それから下女がやって来て、食べ終えた鉢や椀を片付け始めた。
「おい、犬夜叉…」
小さな声で耳打ちしてくるのは七宝。
「ここの宿の風呂は狭いからな。とても大の男が二人は同時に入れんぞ」
「だから…何だよ?」
「おらは弥勒と入るから。お前は一人で入れ」
「……」
「何じゃ?」
「七宝…お前、やっぱり弥勒のことが好きなのか?」
ぎょっとした七宝が俺からバッと離れ、声を荒げて言う。
「う、うるさいわい!!」
小さな指で俺を指差し、睨みつけながら叫ぶ。
「大体なあ、弥勒はまだお前のモノだとは決まっとらんのだからなっ!いい気になるんじゃないぞっ!!」
そのでかい声に逆に冷や汗をかいた俺は慌てて周りを見回した。
小間使いは丁度出て行ったところで…弥勒はと言うと…
「おい七宝、弥勒はどこに行ったんだ?」
「さっき部屋を出て行ったぞ」





なんだ、聞いていなかったのか…。
え?何で、俺、ちょっとがっかりしてるんだ?
妙なことを思いながら、廊下を伝って行くと、その一番先の方で縁側に腰掛けている弥勒を見つけた。
「みろ……」
声をかけようとした時、俺は思わず立ち止まり、息を呑んだ。
弥勒?
そこにいたのは、さっきまでの弥勒とはまるで別人の弥勒だった。
俺は無意識に柱の陰に身を潜めた。
弥勒は、まだ雲の合間にぼうっと微かな明るさを残す宵の空を眺めている。
遠くから見ていても、その目が深い悲しみを湛えているのがよく判った。
その背中は支えを無くしたように、もの淋しげで。
弥勒…



秋の風がひゅうっと音を立てて、荒れ気味の庭を撫でて通る。
と、向こうの角からやって来た下女が、弥勒に何か話し掛けた。
雨戸を閉めるため、邪魔になったらしく、弥勒は無表情のまま立ち上がった。
そして、こっちに向かって歩き出そうとした時…
じっとその様子を見ていた俺と、目が合った。
俺を見る弥勒の瞳の奥が揺れたようで…
俺は…何故か、見てはいけないものを見てしまったような気になり…
思わず目を背けた。



弥勒の足が廊下を歩いて来る。
俺の気のせいだろうか?
弥勒は俺と目が合った次の瞬間、すがるような瞳をした。
何で、そんな瞳をしたのだろう?
俺はどうしてやればいいのだろう?
俯きながら戸惑う俺に、弥勒はどんどん近づいて来る。
……



「みろくぅ〜」
そんな俺の横を、突然七宝が飛び跳ねて行った。
「かごめと珊瑚が風呂から上がったぞ〜」
七宝は弥勒の胸へ、ぴょーんと飛び込んだ。
「一緒に入ろう、な?弥勒っ」
「いいですよ…」
唖然とする俺の横には、もういつもと何ら変わりない笑顔を浮かべている弥勒がいた。



やっぱり、気のせいだったのだろうか…?
酷く弱々しいあいつの顔は。
俺の気のせい…。
そうだ、さっきまであいつはあんなにペラペラ喋りまくって、ヘラヘラ笑っていたじゃないか。
俺は、肩に七宝を乗せた弥勒が風呂の方へと消えていくのを見守ると、気を取り直して部屋へと戻った。





嵐を待つ宵は妙に静かで、俺はその時、まだ知らずにいた。
弥勒の心を。
俺自身の心を。
そして、その晩、訪れる熱い嵐のことを。










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