雨と風と君と   其二・雨








たっぷりとした銀髪は豪雨に芯まで濡らされ、重たそうな灰色に変わっていた。
緋の衣はバタバタと強風に煽られ、煩いくらいの音を立てる。
それでも、そんなことには無頓着に、素の足は夜道を辿る。
ピシャピシャと泥水を跳ねさせながら、焦りを募らせるように。
……





「・・・・・・弥勒・・・・・・・・・・・・弥勒・・・・・・・・・ミロク・・・・・・みろく・・・・・」
自分の寝言で目が覚めた。
ハッとして衝立の向こうを確認すれば、かごめと珊瑚は安らかな顔をして眠っている。
犬夜叉はホッと胸を撫で下ろした。



固く閉ざされた雨戸を打つ、激しい雨の音。
戸外では木々が風にしなっているらしい。
待て。
何だ?
この胸騒ぎは。
大切なものが遠くに去ってしまったような、心許無さは。
まさかと思って隣を見ると、弥勒が居なかった。





……
吹き荒れる風雨のせいで、匂いは犬夜叉の鼻でも辿れないくらいに掻き消されていた。
一体何周しただろう、この町を。
自分達が泊まっていた宿の辺りには、まだ気配はあった。
それが町の中へと消えたのは判っている。
でも、それから何処へ行ったのか、細い路地の入り組むこの城下町では探し当てることは到底不可能だろう。
まして、嵐は刻一刻とその猛威を増しつつある…










野分の風は、町はずれにある小さな茶屋にも激しく吹きつけた。
深い闇を纏う、その一番奥の部屋
畳の上に置かれた白い陶製の徳利と、一組の蒲団だけが闇にぼうっと浮かび上がっている。
どこからか入ってくる僅かな隙間風が部屋にまだ残る酒の香を掻き回すと、
蒲団の稜線が音もなく動き、その端から女の白い脚が覗いた。










嫌な予感がする。
夕べの弥勒の姿。
判ってたんだ。
あいつが何かを耐えているみたいだということは。
なのに…俺は…俺は、見て見ない振りをした。



大きな雨粒が犬夜叉の顔を容赦無く叩きつけた。
俯いて噛みしめた唇から流れる赤いものが、頬を伝う雨と一緒になって顎から止めど無く滴り落ちている。
弥勒…










茶屋の軒から落ちる滴も、より一層忙しくなっていく。
行灯さえ燈されない、その部屋で。
床の中から、風雨に負けないくらい激しく喘ぐ声が上がった。



「…んっ…はぁ…ん……イ…イ………ほう、し…さま…」
女の体の上を這う男は、紅の差されたその唇を舐め取るように深く口づけ、悶える声を封じた。
その瞬間、雨がより一層大きな音を立てる。
男は唇を女の首筋へと移しながら、右手を腰の辺りに伸ばした。
「はあぁぁ…」
その喘ぎに、男は女の首筋に顔を埋めながら小さいため息を洩らした。
「出来れば、余り声を上げないで頂きたい…」



「ふ…んんんっ…」
声を出すなと言われても、男の愛撫する手が腰のくびれから太ももの内側へとなぞってゆけば、
女は嫌が上にも体をくねらせ、甘ったるい呻きを上げることになる。
……










「…ミロク…」
声に出してそう言ってみると、その響きが先刻自分の口をついて出た寝言と重なった。
『あながち嘘でもないんじゃないですかな?』
弥勒の言葉を思い出し、犬夜叉は苦笑する。
自分が見ていた夢…





柔らかい唇。濡れた舌。微かに震える指先…
もっと。
もっと、欲しい。
もっと、もっと、重ねて、欲しい。





……
何で、あんな夢を見たんだ…
犬夜叉が頭を左右に激しく振ると、雨を多く含んだ髪が踊り、毛先から無数の飛沫が舞い散った。



弥勒が居なくなったのは、奈落のことで何かあったのではないことは判っている。
だったら、あいつのことだ。別に俺が出て行くまでもない。
あいつは好き勝手に何でも上手くやる奴なんだ。
何で、俺がわざわざ探さなくちゃならないんだ。
そうだ。
何で俺がわざわざこんなにびしょ濡れになってまで、嵐の夜にうろうろとあいつを探しているんだ。



畜生…
あんな夢、見させやがって。
とにかく、あの野郎を探し出してやる…
唇を噛みしめる牙に力を入れ、決意を固めた。
あいつの行きそうな場所。
それに全く心当りが無いわけではない。
だけど、そこには行きたくなかった。そんな所、出来れば探したくなかった。
一番居て欲しくない場所。
でも、これ以上冷たい雨の中を当ても無く歩き回っていても仕方ない。
犬夜叉は重たい衣を引きずるように寂れた裏通りへと姿を消した。










風が外でヒュウウと大きな音を立てると、男の肩がぴくりと跳ねた。
そして、右手が震え出し、言うことを聞かなくなる。
顔を上げると、男は興の覚めたような瞳で闇を見据えた。
「……」
「法師さま…?」
女が腰を掴んで続きを急くと、男は徳利に手を伸ばし、そのまま口をつける。
口元から酒が溢れ出し、喉を伝い落ちるのも気に止めず、一気に腹の中へと流し込むと再び娼妓の体に身を埋めた。



誰でもいい。
俺を繋ぎとめてさえいてくれれば、誰でもいいんだ…。
風にさらわれないように、繋ぎとめてさえいてくれれば。
そう心に言い聞かせながら腰を振り続けた…










嵐に備え、どの家々も皆厳重に戸締りがしてある。
目の前の茶屋もまた、雨戸が固く閉ざされていた。
分厚い木戸が雨に濡れたとこだけ、暗い色をしている。
それを、まるで泣いているみたいだと、犬夜叉は思う。



最低だ。やっぱりだ。
弥勒が、この中に居る。
昼間通った時、店の中を覗く弥勒の視線が気になってはいたが。
この奥の部屋で女の体を求める弥勒の姿を思い浮かべると、冷え切ったはずの自分の体が急に熱を帯びてくるのを感じた。
胸が苦しくて、居たたまれなくなり…



バキッ。
無意識のうちに、木戸を叩き割っていた。
そして、
どうしてなのかも…
どうするつもりなのかも…
こんなことをして何のためになるのかも自分でも解からないまま、足は勝手に敷居を跨ぎ、暗い廊下を進んで行く。










「んぁっ、あぁっ、はっ…あっ……ン…も…んんっ」
……
頭の中は真っ白で、何も見えない。
この体も、この命も、いつ切れるかも知れない細い糸で辛うじて繋がれている。
こんなに怖くて、こんなに淋しいなら、いっそ自分で断ち切ってしまえばいいのに。
そうすれば、一番楽なはずなのに…。



自分とは何の縁も無いただの行きずりの女が目の前で乱れ喘ぐのを見下ろすと、そんな名状し難い空虚感が弥勒の胸を掠めた。
臆病だな。
自分に苦笑する。
だから、手に入らないんだ。
本当に欲しいものも…



脳裏に見慣れた顔が浮かび上がろうとするのを慌てて掻き消した。
そして、最後の高みへと導くために大きく腰を引いたその時。
スタッ―――と、突然、襖が勢い良く開けられる音がした。










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