(七)記憶の底に







襲い来る妖怪を全部吸い込んだ直後、弥勒は後ろに控えていた木の幹に思い切り背中を打ちつけ、そのまま意識を失っていた。



「・・・・・ん」

随分と体が重たい。だけど、どこか、心地良いような感覚が弥勒の体を満たしていた・・・

半覚醒状態のままうっすらと感覚を取り戻しかけながら、弥勒は何か柔らかく優しいものの感触を受けていた。


何だろう・・・


ふわふわと、気持ちの良いものにあやされているような気がする。


何だろう、この優しいものは・・・


と意識の底で思ってから、ハッと覚醒し、驚いたように目を開けた。


「!!」



弥勒は、すぐ目の前で、伏せられた金の瞳に長い睫毛が影を落としているのを見た。

その少し潤みながら輝く瞳の中心がふいにすっと上に持ち上がり、ほんの一瞬、弥勒の目を捉えると、それまで弥勒の体によじ登っていた犬夜叉は、慌ててばっと身を引き離した。そうして、またぶちっぶちっと足元の草をむしり出した。


弥勒は唇に残るふんわりした感触を辿るように、手でそっと、そこをなぞってみた。目を開けた時・・・まるで薄っすらと積もった雪のように儚げで、悲しいくらいに柔らかい犬夜叉の小さな唇が、自分の唇に押し付けられていた。はっきりと意識が戻る前には、その唇が優しく何度も何度も離れては触れ、離れては触れ・・を繰り返していたような気がする。


「なおった?」


小さく問いかけるその声に弥勒は気づかぬまま、まだ夢見心地で唇を撫でていた。


「ねえ、なおった?」


「え・・・?」


今度は少し怒ったような声で俯いたままそう問いかける犬夜叉に、弥勒はハッと我に返る。


「なおったの?おじちゃん」


怒った素振りの割には目に薄っすらと涙を浮かべていた犬夜叉を見て、先刻「ちゅっと唇をくっつければ傷がすぐに治る」と自分が言ったことを思い出した。


「治りましたよ、もちろん」


弥勒はできるだけ体を動かさないように気をつけながら笑顔を向ける。少しでも体を動かしたら打ちつけた痛みが全身を駆け巡って悲痛な呻きを漏らしてしまいそうだった。


「ん・・・よかったぁ」


「ありがとう、犬夜叉」


そう言うと、犬夜叉は少し驚いたように目を円くして、そうして照れくさそうに手の甲で鼻の下をガシガシッと擦った。


「おれさ、あんなふうにやさしくしてもらったの、はじめてだ」

「あんな、ふうって?」

「おじちゃん、おれにおにぎりくれた、おれをまもってくれた、おれにわらってくれた・・・おれ、ははうえいがいのひとに、そんなふうにされたの、はじめて」

「犬夜叉?」

「みんなさ、にんげんでも、ようかいでも、おれのこと、しねばいいっておもってるんだ・・・」

「犬夜叉・・・」

駆け寄って、今すぐ懐の中へ強く抱き締めたい衝動に駆られる。だけど、幼い犬夜叉はまるでそんなの慣れっこの何でもないことのように淡々と続けた。

「さっきもさ、ようかいにおわれてたんだ。にんげんのやしきではおれ、あそんじゃいけないって言われるから、すぐにどっか行けって言われるから、森のなかであそんでたんだけど、こんどはようかいにおわれて。いっつもそうなんだ、いっつもひとりでさ」

そうだ。犬夜叉は「半妖」ということで、こんなに幼い時分から自分の居場所がなくて淋しく辛い思いをしていたのだ。

「なんでおじちゃんがそんなによくしてくれるのかわからないけど・・・」

「最初に助けてくれたのは、お前ですよ?」

「え・・・?」

優しく言い聞かせるように答える弥勒に、犬夜叉は益々戸惑ったような瞳を向けた。

「井戸から這い上がろうとしていた私に、力をかしてくれたでしょう?」

「あ・・・うん」

幼い犬夜叉はまるで人の優しさにすら怯えているように儚げだった。

「犬夜叉・・・」

たまらない息苦しさと溢れ出る愛しさで胸がいっぱいになる。喉が詰まりそうになるのも構わずに弥勒は続けた。

「・・・お前は、優しくて良い子なんだ。解かるか?犬夜叉。お前は良い子だよ?とっても。だから今は辛くても、どんなに苦しくても、きっと、きっと、皆から愛されるようになるから。信じろ、犬夜叉。お前はちゃんと愛される、愛されるから・・・」

「おじちゃん?なんで、そんなこと―――?」



幼い瞳が揺れて、弥勒を見上げたその時だった。


「犬夜叉ー」

どこかからその名を呼ぶ声がする。犬夜叉の両耳がピクンと真っ直ぐに立ち上がった。


「ははうえだ」

「え?」

「ははうえが、おれをさがしに来てくれたんだ。ははうえーー」


犬夜叉は声のする方へ咄嗟に駆け出そうとして、ふっと足を止め振り向いた。何か言いたげに佇んでいる犬夜叉に、弥勒は微かに笑って言う。


「行きなさい犬夜叉」

「・・・・・」


高貴な身分であるはずの犬夜叉の母がこんな人気のない森の中まで自ら探しに来るとは、少なくても犬夜叉は母にだけは愛されているのだろう。いや、逆に言うなら母が自ら探しに来るのでなければ誰も犬夜叉を構うものはいないということか?


「犬夜叉ーー」


優しそうな女の声が焦りの色を帯びて近づいて来る。


「母上が心配してますよ?行きなさい」


犬夜叉は少しの間もじもじしていたが、母の声が近づいて来るにつれて早く戻りたいという意志が勝ったのか、くるりと踵を返すともう何もかも忘れたように一目散に駆けて行ってしまった。


「お前は必ず、愛されるから・・・」


小さな犬夜叉の姿が見えなくなってから、弥勒は口の中でそう小さく繰り返し、傷む体に鞭打って立ち上がった。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・







「ん、う・・・・・」

頬にピシャピシャと冷たい感触を覚えて、弥勒は目を開けた。

「おお、気づいたか弥勒」

「犬、夜叉?お前・・・大きくなったなぁ?」

顔を覗き込んでくる、いつもの大きさの犬夜叉に向かってしみじみと呟く弥勒。

「は?何言ってんだおめぇ???俺は五十年前からこの大きさだ。井戸に落ちて頭でも打ったか?」

そうだ。弥勒はハッと思い出して上を見上げた。ずっとずっと上の方で四角く区切られた空は既に群青色で。

「そうか、戻ろうとして井戸に入って・・・手が滑ってまた・・・あたたたた」

「やっぱお前落ちたのか?まったくしょうがねえな。俺が怒ってかごめんトコに行ったと思ったんだろ?」

「いやそうではなくて・・・いえ、そうなんですけど、そうではなくて・・・」

「何ワケわかんねーコトいってんだよ。何かお前、相当怪我してんな。どうしたんだ?ま、とにかく帰るぞ?みんな心配してるだろうしな」

そう言うと犬夜叉はぐにゃりと横になっている弥勒を背中に担ぎ上げ、井戸をぴょんぴょん上がっていく。

「歩けねえか?」

井戸を出たところで、犬夜叉が心配そうに聞いてきた。珍しく優しい。変な話だが、まるであの小さい頃の犬夜叉のようだ。

「・・・・・」

「なあ、傷むのか?弥勒?」

「・・・犬夜叉」

弥勒はじーっと犬夜叉の顔を覗き込む。

「ど、どうした?」

「犬夜叉、お前がちゅっと口づけのひとつでもしてくれれば治るんですが・・・」

ゴン、と犬夜叉の拳が頭に飛んできた。やっぱりいつもの犬夜叉だ。

「くだらねぇコト言ってねぇでさっさと帰るぞ」

しかしそうは言うものの、犬夜叉は黙って弥勒を背負うと静かに歩き出した。


夢、でも見ていたのだろうか?もしかして、すべてはこの井戸の底で見た夢だったのだろうか?あの小さい犬夜叉に出会ったことも、小さい犬夜叉を守ったことも、小さい犬夜叉が口づけてくれたことも?犬夜叉の背に乗りながら、狐に摘まれたような気分で弥勒が指先で自分の唇を撫でていると、犬夜叉がふいに言い出した。


「なあ弥勒・・・お前、言ってただろ?」

「何ですか?」

「ほら、そのぉ・・・」

「?」

「だから、よ・・・は、はじめての・・・その、何だ?く、くちづけ・・・は誰だ、とか・・・お前ぬかしてたじゃんかよ?」

背中に乗っているので見えないが、真っ赤になっている犬夜叉の顔が目に浮ぶようだ。

「俺、桔梗だ、つっただろ?だけど、あの後、ちょっと考えて思い出したんだ」

「え・・・?」

ドキッとした。もしかして、もしかして。

「弥勒、お前、何も嫉妬することなんかなかったんだ」

やっぱり、夢なんかじゃなかったのだ。犬夜叉、そうか、やっぱりそういう運命だったんだな。弥勒はひとりでうんうんと頷く。

「俺さ、はじめて、その、ちゅってしたのってさ・・・」

「ちゅってしたのって・・・?」

「・・・したのって・・・・・おふくろなんだ」

「は、はいぃ〜???」

「だから、うーんと小さい頃から俺、おふくろにちゅってされてたんだよ。良い子になれるおまじないだよって言われてさ」

「なにぃぃ!!!」

「な、何だよ!?別にそんなおかしなコトでもねぇだろ?おふくろなんだから。って、み、弥勒?」

弥勒は肩をぷるぷる震わせながら無理やり犬夜叉の背から這いずり降りた。


おのれ母めー!
小さな犬夜叉が不審がることもなく俺にちゅっとしてくれたと思ったら道理で!
あの母が、清らかな犬夜叉にそういうコトを教え込んでいたのだな!(違)


「おい、どこ行く気だよ弥勒!」

地を這って元来た方向へ戻ろうとする弥勒の首根っこを犬夜叉がぐいっと掴まえた。

「どこって、決まってるでしょう?もう一度戻って、今度こそお前のはじめてをもらいに行くんですよ!!」

「あーもう、おめぇはさっきから何わかんねぇコト言ってんだよ!」

犬夜叉は弥勒の襟を掴む手に力を入れて、ずりずりと弥勒を引きずって歩き出す。

「あー犬夜叉ぁーー俺の犬夜叉ぁーーー」

暮れゆく空に、弥勒の無念そうな声が吸い込まれてゆく。

「ったく、もういいだろ、はじめてだのそうじゃねえのだの・・・」

犬夜叉は振り返らずに言う。

「・・・俺はずっと、お前のもんだっつってんのによ?」

だけど、そう小さく付け足した言葉は、喚き続ける弥勒の耳に届いたのかどうか・・・・・






おしまい







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2003/02/11 up





◆キャスト◆
弥勒
犬夜叉
珊瑚

犬夜叉(幼少の頃)
雑魚妖怪劇団の皆さん

◆友情出演◆
犬夜叉の母(声だけ)