耳飾り  上

 

 

水色の空に、たなびく白い雲。

木から木へと移動する雀の愛らしい声。

水田では緑の稲穂が成長の喜びを風に歌っている。

これ以上、何を望むべきか思い出せなくなるくらいの、平和な風景。

 

遥か遠くから真っ直ぐ伸びたあぜ道。

その彼方に小さな点が見え始め、やがてそれは人の形を現していく。

自転車なる乗り物を器用に乗りこなす、その人は…弥勒。

 

弥勒は、楓の村から山を幾つか回った所に在る町の長者から悪霊祓いの依頼を受け、

例によって「人助け」を施して来た帰りだった。

この心地良い陽気に、弥勒の表情も常に増して穏やかなものになっている。

鼻歌まで漏れている。

三日振りに村に帰る弥勒。

何を胸に想っているのか、口の端がほころぶ。

 

 

ずっと、一緒に居られる。

お前となら。

きっと。

きっと、きっと、きっと。

誕生日の祝い。

あの約束。

お前が誓ってくれたから。

お前の着ていた衣の温もりが私を温めてくれたから。

すべてのものとすれ違う事しか知らなかった私。

今日のこの麗らかな空気に私を繋ぎとめているのも、お前なのかもしれないな…犬夜叉。

 

 

自分でも呆れるほど、村へ帰るのが待ち遠しかった。

早く、あいつの顔が見たい…。

弥勒は自分の袖の中でカタコトと小気味良い音を立てている物のことを考え、一人で怪しい笑いを噛み殺した。

 

「ちぇっ。どーかしちまったかな、俺。相手は男だってのに…」

冷めた言葉とは裏腹に、楽しげな笑みが満面に広がっていく。

 

その時。

「…旦那ーーっ…弥勒の旦那ーーー」

後部上方から声がした。

「ん?」

確かに、よく聞き覚えのあるハチの声だ。

ハチの方からやって来る時は、大概ろくなことが無い。

しかも、こういういい気分でいる時に限って、面倒な用事なのだ。

弥勒は振り向きもせず、そのまま自転車に猛ダッシュをかけた。

「み、弥勒の旦那ーー」

 

あちこちの里を行き来している情報通のハチ。

『どこどこの某が妖怪に取り憑かれたので、今すぐ来てくれとのことでやす』

それくらいなら、まだいい。

弥勒は法師であると同時に、場合によってはとんだお尋ね者にもなっている。

『先日お祓いを依頼したお舘さまが、聞きたいことがあると…』

『姫が身ごもったのは、旦那と何か関わりがあるのか?と…』

もっとも、そう言われる場合に限って、おたふく顔の姫で、指一本触れていないのだが。

 

「旦那ー」

濃紫の袈裟を靡かせてびゅんびゅん飛ばす弥勒。

ハチの声が、次第に遠のいていく。

「みろくの…だんなあ……」

声がひっくり返っている。

「…だ……な…ぁ…」

どことなく可哀想なそのかすれ声に、弥勒の眉がぴくりと動いた。

 

ちっ、と舌打ちをすると、弥勒は急ブレーキをかけて自転車を止めた。

振り向くと、化けたハチが大きな体を揺らして必死でこっちへ飛んで来る。

近くまで来ると、ドロンと狸姿に戻った。

両膝を地面につけ、荒い息をぜいぜい言わせている。

 

「悪かったな、ハチ。気が付かなくて…」

「…ひでえですぜ。弥勒の旦那ぁ」

「で、今日はどこのどいつが俺をとっ捕まえようとしてるんだ?」

「そんなこと言ってる場合じゃねえです。犬夜叉が、犬夜叉が―――」

 

…カクカク、シカジカ…

 

何故それを早く言わないんだと、弥勒は自転車を投げ捨て、まだハアハア息を切るハチの背中に跨った。

「飛べ!山道はお前の方が早いんだ!!」

「だ、旦那…ι」

「いいから、早くしろ!手遅れになるぞ!!」

 

 

 

山の奥深く。

高い杉の木が林立し、辺りは鬱蒼として昼なのに薄暗い。

いや、薄暗いのは木々のせいばかりではない。

そこには、冷たい怨念と情愛の入り混じった空気が流れていた。

それと……救いようの無いほど深い悲しみを纏った死の気配。

 

五十年前に死んだ巫女・桔梗がそこに立っていた。

手には弓矢が握られている。

無感情の瞳、その生気の無い視線の先には、かつてこの巫女が愛した半妖・犬夜叉。

 

「お前を愛している。犬夜叉…」

「……」

「愛しているからこそ、憎い…」

「桔梗…」

「そうだろう?犬夜叉。お前も私が憎いだろう?」

「…言ったはずだ。俺は、もうお前を憎んじゃいない…」

 

桔梗はキッと犬夜叉を睨む。

「何故憎まぬ?…もう、私のことなど、どうでも良くなったのか?

 時が、お前の心から私を消し去ったとでも言うのか?

 時が…そして、あの女が…」

 

ふっと、不敵な笑みを浮かべ、桔梗は片手で髪の元結いをするりと解いた。

束ねられていた長い黒髪が拘束を解かれ、ふわりと踊る。

一瞬、犬夜叉の目が見開かれた。

 

「お前が憎まぬというのなら、憎むようにさせてやろう」

そう言って、弓矢を構える桔梗。

「今度は封印などという生温いものではない。お前の命を、もらう…」

「……」

 

矢を犬夜叉に向けたまま、桔梗は無情な言葉を続ける。

「…思いやりなどという感情は、死人である私には何の意味も成さぬのだ。

 私を憎め、犬夜叉。

 そうすれば、私の憎しみとお前の憎しみはひとつとなり、永遠に結ばれよう。

 そして、憎しみが深ければ深いほど、その絆は強まるのだ…」

 

犬夜叉は自分に向けられた矢がいつ放たれるとも知れないのに、

その場から一歩も動くことが出来ないのを感じていた。

桔梗の霊力によってではない。

自分の心の中の…愛?

いや、本当なら愛に成長するはずであったものが曲げられた、もっと悲しい感情。

――償い。

そうだ。桔梗を信じてやれなかった、その償いだ。

 

しかし、いざ矢が放たれると、犬夜叉は反射的にぴくりと体を動かした。

桔梗の放った矢は犬夜叉の肩をかすめ、後方の木に突き刺さる。

瞬間、犬夜叉の肩からビッと血が噴き出した。

 

「ふっ、死ぬのが怖いのか?」

慈しみの表情は、少しの皮肉を含んで笑っている。

「怖れぬともよい。私と、一緒だ…」

 

二本目の矢が放たれる。

心臓を狙ったその矢は、犬夜叉が僅かに避けたため、左腕を射抜いた。

桔梗の矢は、肉体を傷つけるのみならず、犬夜叉の妖力をも奪っていく…。

苦痛に顔を歪めて見上げた桔梗の顔。

その冷たい微笑みに、犬夜叉は不思議な心の乾きを覚える。

 

桔梗のためなら、死んだって構わない。

それで桔梗を救えるのなら。

そう思っているはずなのに、何だろうこの胸の虚しさは…。

 

桔梗は嬉しいとも悲しいともつかない視線を犬夜叉に注ぎながら、

一歩、また一歩こちらへ近づいて来る。

今度こそ確実に、犬夜叉の命を手に入れるために。

 

指の先から赤い血がぽたぽたと落ち、地面には既に赤い血溜りが出来ていた。

桔梗はもう、目と鼻の先まで来ている。

至近距離で、三本目の矢を構えた。

 

その矢が当たれば、もう俺はおしまいだろう。

いや、その矢は確実に俺の心臓を貫くはずだ…。

 

多くの血を流したことも手伝って、犬夜叉の頭は朦朧としていた。

これで、終わり。

これが、半妖に生まれてきた俺の末路。

どうせ、こんなふうにしか、愛を形に出来ないんだ。

かごめにはもともと俺なんか似合わねえ。

 

……

 

待てよ。

何か、引っ掛かる。

とても、大切なもの…。

俺は死んでいいのか?

 

あ。

犬夜叉の脳裏に、弱々しく微笑む顔がひとつ。

約束…。

 

そう思った時、これで最後になるであろう矢が、桔梗の手を離れた。

 

すまねえ…。

弥勒。

 

 

耳飾り・下を読む