失くしたモノ






ぷつっと糸が切れたように、女の体が解き放たれ、草の上に転がった。

既に意識を手放してはいたが、その紅潮した顔と裸体から発する熱は、それまでの激しい行為を象徴している。

鬼女。

人ならぬ物の怪ではあるが、絶世の美女と呼ぶに相応しい美貌を纏っている。

月明かりがその白い肌を映し出し、乱れた長い黒髪と滑らかな体の曲線は、まだ誘っているかのようだ。

……艶美。

しかし、その賛辞はこの鬼女を見下ろしている男にこそ捧げられるべきだった。



女のものより更に長い、銀の髪。

細く真っ直ぐ伸びたその髪が、両膝を地に付けたまま佇む男の透き通る肌を包んでいる。

男がその長い髪を鬱陶しいと言わんばかりに、無造作に振り払うと、瞬間、宙を舞った銀髪が月光を纏って無数の輝きを放つ。

そして、男は傍らに脱ぎ捨てられた着物を手に取ると、その逞しくもしなやかな肌にするりと羽織った。



殺生丸。

その名に相応しく、冷たい横顔。

女は限界まで上気していると言うのに、その顔には表情ひとつ浮んでいない。



つまらぬ…。

心の中でそう呟き、殺生丸は転がる女の裸体に背を向けた。



体の中に渦巻く性欲。

そのもがき出ようとする衝動を癒すために、殺生丸は女を抱く。

どんな女でも良い。どうせ愛しいなどとは思わぬのだから。

しかし、殺生丸に言い寄る女は決まって見目の麗しい者ばかり。

己の容姿に自信の無い者は、自ずからこの雅男に近づくのを憚ると言うことか。



今夜の相手はまた格別の美女であったのに、殺生丸は笑みのかけらさえ見せなかった。

いつも、そう。

吐き出しても、吐き出しても、足りない。

満たされぬ何かが胸に横たわったまま、再び世を彷徨う。

そうして彷徨って、彷徨って、失くし続けていることに、殺生丸はまだ気づいてはいない…。







月明かりの下、泉の辺まで来た殺生丸は、するすると着物を脱ぎ捨て、己の身を清めるために冷たい水の中へ入って行った。

長身の殺生丸にさえ足の届かぬ深い泉に身を委ね、顔だけを水面より露わす。

寸分の狂いすら見つけられぬその端正な顔が、幻想的な月夜の泉に恥じることなく浮かび上がる。

その美しさは、己の美を意識している者にのみ与えられる美しさでもあった。

己の強さと気高さへの認識。自負。矜持。



殺生丸はふと口元を緩めた。

今宵初めて浮かべるその笑みは、誰に向けられるでもなく、中天の残月だけがそれを見下ろしている。



何が面白い?

己に問い掛ける。

強さも美しさも、己の手の内にある。

しかし、自分が求めていたものは本当にそれであったのだろうか…?



「ふん」と小さく声を出して笑う。

せめて今、邪見でも傍に居れば良かったと思う。

この夜の静けさが気に入らない。

先刻の鬼女の乱れた喘ぎ声がまだ耳に残っている。

金色の瞳が僅かに苛立ちの色を浮かべた。



パシャン!!

殺生丸の指先に集められた妖気が光の筋となって水面を叩いた。

大きな音と共に、ひっそりとしていた泉がにわかに波立つ。

  ……

でも、それも一瞬のことで、水面は流麗な波紋を描いた後、やがて再び静けさを取り戻した。

  ……

  ……

あの要らん口ばかり利く邪見も、何らかの役に立っていることもあるのだ、と改めて思い、苦笑する。







その時。

泉を取り囲む木々の枝が、ザワッと風に揺れた。

近づいて来る。何かが。

大量の、血の匂い。人間のものだ。

その後から、何か、とても不吉な…。

「!!」



殺生丸は匂いを察知し、素早く水辺に上がると、脱ぎ捨てた着物を濡れた肌に纏った。

そして、闘鬼神を握り締め、夜霧のかかった野の彼方へと目を凝らす。



その匂いと気配は、もの凄い速さで近づいて来る。

少しの迷いも無く、真っ直ぐここに向かっている。

それは間違い無く、殺生丸を狙っている。

凄まじい妖気を発して、殺生丸を「求めて」いる。



「化け物が…」

細められた瞳の先に、その影がぼうっと浮かび上がった。

妖気の主も殺生丸の姿を認めると、一瞬動きを止める。



…今宵は運が悪い。

卑猥な交わりの後で脱力している所に、今度は下らん半妖の相手か…。



しかし、そうため息ばかりついてもいられないことを殺生丸は悟らされる。

その、我が弟の、ただならぬ姿。

それは、彼が変化を繰り返すうちに、肉体と精神が確実に崩壊へと向かっていることを示していた。

髪、体、腕、顔…全身に浴びた返り血。

恐らくは夜の森を無我夢中で走り回っていたのであろう、所々引き裂かれた緋の衣は既にぼろ布と化し、裸体に辛うじて纏わりついているといった風だ。

やがて、その「化け物」は俯いたまま、ゆっくりと歩み寄って来た。



「鉄砕牙はどうした?」

殺生丸の低い声が夜の空気に響く。

「……」

「愚か者」

「……」

犬夜叉は顔を上げようともせず、俯いたまま、なおも歩み寄る。

殺生丸の言葉はもはや、変化した半妖の耳には届いていないのか。



「貴様……人間まで無差別に殺めてきたのか?」

むせ返るほどの血の匂いに顔をしかめ、殺生丸が問い掛ける。

その言葉に、ようやく反応を示す犬夜叉。

ぴくっと小さく肩を震わせ、立ち止まった。



「己を呪うか…?」

冷たさの裏に憐れみを封じ込めた兄の声。

一陣の風が、ぼろぼろの姿で肩を落としている犬夜叉を撫でて通った。



「ふっ…」

「?」

「ふふ、ふふふっ……」

「!?」

風が運んでくるその声は、初めは微かなため息のようでもあったが、次第に確かな笑い声へと変わっていった。

「……」



犬夜叉は己の両腕を胸の前で交差させると、爪を光らせ、バキッと大きな音を立てて指を鳴らす。

そして、初めて、その顔を上げた。



「犬夜叉っ!?」

殺生丸の背筋に悪寒が走った。

牙を剥いたその顔。血の色を湛えた瞳。

知っている…そんなことは分かっている。

変化した姿は前にも見た。

しかし…何だ、この笑みは…?



何故、私を見て笑う?



たとえ変化しても、犬夜叉が完全なる妖怪である兄に対してそんな笑みを向けたことは無かった。

それはまるで、この獲物は既に自分のものだと宣言しているかのようで…。



変化した気配が、表情が、以前とは明らかに異なっている。

心が、完全に失われている…?

殺生丸は或る事態を想定し、愕然となった。

いや、きっと間違い無い。

このままだと…



…犬夜叉は、もう元には戻れない…。



そう思うが早いか、犬夜叉の体が宙に飛んだ。

血に飢えた爪が空を切り裂く寸前、殺生丸の生乾きの銀髪が無数の水滴を飛び散らせた。

そして、一瞬早く背後へと回り込むと、闘鬼神を振り下ろす。


ズシャッ。


相当に凶暴化していることを念に入れ、かなり強く振り切ったのだが…

それでも奴は笑っている。体中から血を噴き出して。



「ちっ…」

殺生丸は軽く舌打ちすると、闘鬼神を鞘に戻し、夜の空気を割いて走り出した。

当然、犬夜叉は逃げる獲物を追い駆ける…。



もう以前のように闘鬼神で中途半端に気絶させるなど、不可能だ。

今の犬夜叉には既に意識などというものは無い。

あるのは血のみ。

奴の体を流れる妖の血が、全てを支配している。

殺すか、殺されるか。



本当に、戻らないのか?

全て、失ってしまったのか?



「犬夜叉」

走りながら、やや離れて斜め後ろから追って来る犬夜叉に声を掛けてみる。

「……」

犬夜叉は視界の端に殺生丸の姿を捉えたまま、ただ真っ直ぐ前を見据えて走っている。

「貴様、何故私の元へ来た?」

「……」



既に己を見失った半妖が言葉を返すわけはないと判っている。

それでも、殺生丸は弟に語り掛けた。



「故意に、私の元へ来た、違うか?」

「……」



その言葉に反応してか、犬夜叉は一瞬体を丸めると、勢いをつけて跳ね上がり、殺生丸に接近して来た。

自分と同じ匂いを発する、その化け物の顔に、思わず眉を寄せる殺生丸。

変化した半妖は乱暴に鋭い爪を振り回してくる。

闇雲な攻撃ではあるが、その力と速さは兄である殺生丸にさえ隙を与えず…

その白い頬を深紅の液が彩った。



「私を殺したいのか?」

「……」

「それとも…」



犬夜叉は再び無言で宙を舞い、バキッと指を鳴らして獲物を見下ろす。

しかし、その瞬間獲物の姿は消えていた。

……



「私に殺されたいのか?」

目に留まらぬ速さで、宙に浮ぶ犬夜叉の脇へと飛んだ殺生丸が耳元で囁く。

犬夜叉は振り向く間も無く、腹を拳で連打された。

口から鮮血を噴き出して体を仰け反らせる…。



「ちっ」

殺生丸は苛立たしげに舌打ちすると、再びどこへともなく走り出す。

滅びるまで戦い続ける宿命にある半妖は、血の匂いを撒き散らしながらどこまでも追い駆けた。



お前を殺せるのなら、とっくの昔に殺している…

自嘲の笑みを口元に浮かべ、時間稼ぎに闇の中を疾走する殺生丸。

さあ、どうする?

天に掛かった残月までが嘲笑っているかのようで、これまで抱いたことの無い焦りを覚えた…。







二つの影は青い月の光の下、幾つもの野と森を越えた。

激しく求める血が、壊れそうな半妖の体に鞭打った。

殺生丸も、それをどうすることも出来ず、ただ走る。

しかし、それも或る森を抜けた所で待っていた崖によって、無理矢理終焉を告げられた。



切り立った崖で立ち止まった殺生丸は後ろを振り返る。

変化した半妖の血塗れた口元が僅かに持ち上がったように見えた時、それは既に殺生丸目掛けて飛び上がっていた。



逃げるか?

ここから、飛んで…。



見上げる殺生丸の口元にも皮肉な笑みが浮んだ。



逃げる?

逃げられるものか。

私はいつだって、お前から逃げられなかった。

そう、逆にな…。



犬夜叉が兄の両肩を鷲掴みにすると、反射的に力んだ殺生丸と縺れ合いながら、二つの体は地の上を転がった。

左肩を掴む手が滑り、透明なまでに白い肩が露わになる。

犬夜叉は充血した瞳を剥くと、その露わになった肩口に噛み付いた。

転げ回る体は、崖の縁にて、犬夜叉が上になる体勢でぴたりと止まる。

土の上に赤黒い血の軌跡が咲いた。



「くっ…」

牙が肌に食い込み、小さな呻き声を洩らす殺生丸。

己の体から血が流れ出ていくのがはっきりと感じられる。

犬夜叉は更に力を込めて牙を立てた。

「はあぁっ!!」



苦痛に歪む兄の横顔をくすんだ冷めた目で見つめながら、犬夜叉は乱れたその着物の間から手を滑り込ませた。


トメテクレ

艶めかしい感触を、震える手の平に吸い付かせながら、兄の素肌を辿っていく。


オレヲ、トメテクレ

「犬夜叉!?」


タノムカラ、トメテクレ

胸の突起を探り当てると、犬夜叉は爪の間にそれを挟んだ。


トメテクレ トメテクレ トメテクレ・・・・・・・・・・


「んっ…く、はあぁぁ……」

痛みの上に与えられた刺激に、紡がれた喘ぎは、意思に反して甘い響きを持っていて…

犬夜叉の体に…火をつけた。



殺生丸の肩から口を離すと、血を滴らせたまま、それを滑らかな首筋へと移した。

尖った耳の裏から項へと舌先で快感を奪っていく。

手は雅な着物を無惨に引き裂いて、胸や下腹を欲しがる。



狂気の半妖が与えるものは、愛撫ですらなく…

ただの、貪りでしかない。

苦痛と血の匂いと哀しい快楽の中で、殺生丸は瞳を閉じた。





それが、お前の血の求めるものか…?

いいだろう。

くれてやる。

欲望のままに奪い尽くして、それで、お前の血がおさまるのなら…。





犬夜叉は自分に纏わりついている衣を焦れったそうに脱ぎ捨てた。

赤い瞳に狂った笑みを浮かべると、横たわる殺生丸の体に、肌を重ねる…。

目の前にある胸の飾りを不思議そうに見つめると、尖った舌で、ぺろりと舐めた。

そして、初めから張り詰めていた己自身を殺生丸の体に強く擦りつける。



閉じられた殺生丸の瞼の裏は白く、熱く、犬夜叉を受け入れた瞬間、青い炎が舞い上がって散った。

体がばらばらに崩れていく音を聞いたような気がした。

激しく打ち付けられる感覚は痛みを越えて、繋がった部分から犬夜叉の熱だけが伝わってくる。

その奪うだけの行為に、感じれば感じるほど、心が軋む。

哀れだ。…自分も、犬夜叉も…。



失くしたくない。これ以上。

何をかは己にもよく解からなかったが、白熱した脳裏で、ただそれだけを唱えていた。

……





どれくらいの間そうしていたのか。

己の下腹部に生温かいものが落ちるのを感じて目を開けた時、犬夜叉の瞳からはらはらと大粒の泪が零れ落ちていた。

犬夜叉はまだ腰を忙しく振りながら、焦点の定まらぬ目に泪を溜めている。



輝くその泪が、心を潤したような、気がした。

「犬夜叉…」

泣きながら兄のモノをキチガイ染みた子供のように扱く犬夜叉の手を振り払うと、殺生丸は上身を起こし、揺れ動く腰を掴んだ。

「犬夜叉!!」

それでも、腰の動きも、溢れる泪も止まらない。



眩しいものでも見るかのように目を細めると、殺生丸はそっと顔を近づけ、血の味がするその唇に口付けた。

そして、頬を伝う泪を手で拭ってやる。

この世で一番優しい感触で。

犬夜叉の動きが止まり、今度はガタガタと震え出すと、殺生丸はその体を強く抱き締めた。

血と心の葛藤に耐えるその体が酷く切なくて。





「犬夜叉… もう、お前を追い詰める者はいない。

 思い出せ。お前が愛されていることを。

 お前は愛されて生まれた。

 お前は独りじゃない。

 父上とお前の母が死んだ今でも…」





そう言うと、殺生丸は己の肩から流れる血を指先に取り、瞳の色を戻しつつある犬夜叉の唇に塗った。

「こんなコトをしなくとも、お前と私は繋がっている。この血でな…」

犬夜叉の瞳が殺生丸の顔を映した。

「お前、それを確かめに、私の元へ来たのだろう?」



兄は弟に優しく微笑んで見せた。

「せっしょう…まる?」

元の半妖の顔に戻った犬夜叉が呆然と呟く。

突然戻ったその顔は、まるで幼い子供のように無垢だった。

その様子を認めると、殺生丸は犬夜叉の後頭部をトンと手で打ちつける。

それは確実にツボを突き、犬夜叉の瞳は再び色を失った。



崩れ落ちるその体をふわりと抱き留めると、殺生丸は深いため息をついた。

「馬鹿だな」

誰が?

「馬鹿だな…」

たかが半妖にそこまでしてやる己に対して、もう一度そう呟く。

でも、その手はやはり優しく犬夜叉を抱き留めたまま。



「『お前は独りじゃない』か…誰に向けて言った言葉だか」



気だるい体で、殺生丸は夜明けが訪れるまで犬夜叉を抱き続けた。

安らかな顔を己の胸に埋める弟の温もりに、初めて己がそれまで失くしていた何かに気づく。

そして、ほんの少しだけ、それが戻って来たような気がした。











written by 遊丸@七変化


甘酸っぱいデザート食べる?

兄上、お疲れ様でした(笑)。
しかし…駄作、と言うより、失敗作ですな。
書いておきながらそんなこと言うべきじゃないかもしれませんが。
流血は多いわ、兄上は優しすぎるわ、コンプレックスは丸出しだわ…。
第一、雰囲気暗ぇ。
でも、遊丸の中では、犬兄弟の宿命なのです、この変態感が(笑)。
何気に兄上は「犬夜叉命!!!」。んで…
犬夜叉が死んじゃったらどうやって生きていけと言うのだーー!!な状態です。
シャイだから、普段はそんなこと口が裂けても言いませんが…。
でも、この小説、意外と健全かも?
という気がするのは、わしだけか?