すすき採り

前編・十四夜

 

 

 

どれくらい前のことだろう。

よくは覚えていない。

とにかく、俺がまだ幼い頃だ。

 

真っ暗で、何も見えなくて、

俺は体中にひどい傷を負って、独り泣いていた。

誰かがやって来て、そっとその優しい手を差し伸べてくれるまで…。

 

 

 

夜空にまあるい月が浮んでいる。

いや、正確にはまんまるではない。

左端がほんの僅かに欠けている。

明日辺りが満月だろう…。

 

犬夜叉は独り夜道を散歩しながら、「あの日」のことを思い出していた。

ふと、立ち止まり、袴の裾をめくり上げて己の右膝を見る。

そこには、痛々しい傷痕が残っていた。

 

子供の頃…まだ妖力をほとんど持たない子供の頃につけられた傷痕は、

その後、犬夜叉がどんなに強靭な体に成長しようとも、消えることは無かった。

 

やっぱり、夢じゃないよな…。

 

 

 

犬夜叉が村へ戻り、小屋の戸をガラリと開けると、皆が勢揃いして何やらいそいそと動き回っていた。

「おかえり、犬夜叉」

と声をかけたかごめは、楓と共に、石臼で粉を挽いているところだ。

弥勒と珊瑚は畑から収穫したイモや、山で拾って来たらしいクリを仕分けしている。

七宝も何やら木製の小さな台を抱え込み、その埃を布で拭っている。

 

「おめえら、何やってんだ?」

「明日の準備よ」かごめが答える。

「皆で月を愛でるのじゃ」と七宝。

「月を愛でる…?」

「明日は、中秋の名月ですよ、犬夜叉」

あ、そうだったのか…と、弥勒に言われて、犬夜叉は初めて気づく。

 

「でも、明日の晩だろ?何も今から準備するこたあねえんじゃねえか?」

「それがね…」とかごめが言う。

「肝心なすすきが、この辺りに見当たらないのよ。

 今日探して回ったんだけど、全然無くて。

 明日の昼、皆でもう一度探しに行くことにしたから、今晩のうちに準備してるわけ」

「昔は、この辺りにも少しはあったような気がするがなあ…」石臼を挽きながら感慨深げに言うのは楓。

 

すすき…。

犬夜叉の脳裏に一面のすすき野が浮かぶ。

幼かった自分の背丈より高いすすきの群れ。

薄い鳶色をした無数の穂が一斉に風に靡くその風景は、到底現のものとは思えぬほどで…。

……

 

「俺が採って来てやるよ」

突然、犬夜叉の口をついて出た意外な言葉に、一同は振り向いた。

「採って来るって…犬夜叉、あんたすすきのある場所知ってんの?」

「ああ、多分な…」

「多分?…でも、知ってるなら、皆で行こうよ、その方が……」

「俺一人で充分だ」と、犬夜叉はかごめの言葉を遮る。

「雲母に乗っていけば速いではないかっ」七宝が言う。

「るっせえなあ。…秘密の場所なんだよ、あそこは…」

 

そう言い残し、犬夜叉は衝立の向こうの暗がりへと消えてしまった。

「秘密の場所?…何なのよ?」

「さあ、何なんでしょう?」

解からないというふうに、かごめと弥勒が顔を見合わせて肩をすぼめた。

 

 

犬夜叉は床にごろんと横になって、目を閉じた。

右膝を抱え、思い出す。

あの、すすき野に行った日のことを…。

 

 

お袋がまだ、生きていた頃。

そうだ、死ぬ数ヶ月くらい前のことだったかもしれない。

何しろ、お袋は日々痩せ衰え、半妖である俺を案じて、よく悲しそうな顔をしていた。

子供心に、俺はそんなお袋を見て、居たたまれない気持ちになった。

どうにかして、お袋を喜ばせてやりたかった。

微笑みをお袋の顔に取り戻させてやりたかった。

だから、俺は空の澄み切ったあの秋の日に、すすきを採りに行ったんだ。

お袋と一緒に十五夜の月見をするために。

 

大きくて、ふさふさして、立派なすすきを採ろうと思った。

そうして川伝いに、俺は遠くまで歩いた。

どれくらい歩いたのだろう、荒地の奥へ奥へと踏み入ると、そこには一面のすすき野が広がっていた。

その余りのすごさに、俺は思わず夢中になってすすきを採ったことを覚えている。

すすきの茎は細いけど、筋が堅くて容易く折れるものではない。

半分は妖怪の血が混ざっているとは言え、小さな俺の手の平は擦り剥けて血が滲んでいた。

…それでも、俺は我を忘れてすすきを採った。

お袋の喜ぶ顔が見たくて…。

 

だけど、その時。

遠くから馬の足音が聞こえて来た。

野盗だ。

奴等は、見る見る間に俺の居る方へと近づいて来た。

俺は反射的に身を隠そうとした。

が、足元の石につまづき、その拍子に、両手一杯に抱えていたすすきがばさっと飛び散った。

それを慌ててかき集めた俺は、既に逃げる隙を失っていた。

 

「なんだあ?この小僧」

気がつけば、俺は、野盗どもに取り囲まれていた。

「お頭、こいつ、妖怪ですぜ。見て下せえ、この耳」

馬から下りた手下の者が俺の耳を引っ張った。

「ふん、そいつは面白え…。

 おい妖怪小僧。

 俺は妖怪が大っ嫌いなんだ。

 妖怪ってのはな、最低の生き物だ。

 何せ、俺様の可愛い倅を食い殺しちまったんだからなっ!!」

 

お頭と呼ばれたそいつは、馬から下りて近づいて来ると、俺の胸倉をぐっと掴んだ。

俺は何かわめきながら抵抗したけれども、野盗の腰にも満たない背丈の子供に軍配が上がるはずも無く…。

バキッ……

俺は…そうだ、左頬を殴られたのだ。

俺の体は宙を舞い、地面に叩き付けられた瞬間、そこに転がっていた石で右膝を切った。

 

切り口はかなり深くまで達していて、鮮血が止めど無く流れ出た。

しかし、そんな俺を野盗どもは容赦しなかった。

数人掛りで殴り、蹴り、俺の体は幾度と無く宙を舞った。

頭がぐらぐらした。

目が見えなくなった。

自分の血の匂いで、鼻も効かなくなった。

やがて、どさりと、まるでごみ屑のように力無く地に伏した俺を残して、野盗どもは去って行った。

 

死の恐怖を感じるには、まだ俺は幼過ぎた。

それでも、子供ならではの心細さが俺を襲った。

真っ暗で、何も見えなくて、

俺は体中にひどい傷を負って、独り泣いていた。

 

そうして、「誰か」がやって来た。

そうだ、俺は覚えている。

「誰か」の優しい手が、俺の涙を拭ってくれたのだ……。

 

 

 

 

 

月光に輝く銀色の長い髪が風に揺れた。

片膝を立て、平原に転がる岩の上に腰を掛けているその男の顔は、

平静を装っているようではあるが、僅かな苛立ちの色が金の瞳に浮んでいる。

「殺生丸さま、りんをお探しに行かれないので?」

 

殺生丸は暫く黙っていたが、やがて徐に口を開いた。

「りんは今、此処に向かっている」

風の匂いでそう判った。

 

いつも大人しく決められた場所で待っているはずのりんが、今日に限って居なかった。

自分が用事から戻ると、いつも決まってめいいっぱいの笑顔で迎えるりんが、居なかった。

そんなことを気に懸けている己が甚だ馬鹿馬鹿しかったが、殺生丸にはそれ以上に気に懸ることがあった。

りんの匂いに、微かな血の匂いが混ざっている…。

 

やがて、小さな人影が見え始め、頭を垂れたりんが殺生丸の前まで来た。

それを真っ先に叱るのは、侍従である邪見の役目。

「勝手な行動を取るなと、あれほど言っておいたではないかっ!」

「……ごめんなさい」

 

殺生丸は幼子に別段変わった様子が無いのを見て取ったが、やはり血の匂いは確かに感じた。

「これ、採りたかったの…」

と、りんは手を伸ばして、握り締めていたものを見せる。

殺生丸はそれを己の手に取った。

 

それは、すすきの花穂。

茎の部分は付いてない、首だけの惨めな花穂。

「どうしても、採りたかったの。とってもとってもきれいだったから、殺生丸さまに見せようと思って、それで…」

「りん、手を見せろ」

りんの顔を直視して殺生丸が言う。

 

りんは僅かに動揺したが、恐る恐る自分の左手を差し出した。

「そっちではない」

そう殺生丸に言われ、しぶしぶ右手をげんこつのまま前へ出す。

殺生丸は地に片膝をついてしゃがみ、その小さい手の指をひとつひとつ解いた。

そして、眉を顰める…。

幼い手の平は、擦り切れて血が滲んでいた。

 

「すすきは、お前のようなやわな手では採れない。もう二度と馬鹿な真似はするな」

そう言うと、殺生丸は己の着物の袖を口に含み、牙でツーっと引き裂いた。

そして、その切れ端を少女の手に当てる。

「お月見がしたかったの。…殺生丸さまと」

 

その言葉に、殺生丸の手が止まった。

小さな手の平に出来た痛々しい擦り傷。

『お月見がしたくて…』

殺生丸の瞳が遠いものになる。

 

黄昏時の河原。

見渡す限りのすすきの原。

そこで、私が見たもの……。

……

……

 

「殺生丸さま…殺生丸さま、どうかなさったのですか?」

邪見の声に、はっと我に返る。

「…いや、何でも無い」

殺生丸は片手で器用に、りんの手に袖の切れ端を巻き付けると、すっと立ち上がった。

 

「りん、十五夜は、明日だ…」

少女がその小さい顔を上げて見ると、夜空に浮ぶ月は確かに、まだまんまるではなかった。

と、その柔らかい黒髪に、大きな手の平がそっと置かれた。

「すすきが、欲しいのか?」

りんは、手を置かれた頭をコクンと縦に振る。

見れば、その手の主は、冷たい肌を月光に曝し、遥か彼方を見つめているようだった。

 

妖怪。

顔色ひとつ変えること無く、人を殺める妖怪。

しかし、りんは思う。

何故、このひとの手はこんなにも優しいのだろうかと……。

 

 

 

(後編へつづく)



すすき採り・後編・十五夜を読む