すすき採り

後編・十五夜

 

 

 

夜が明け、陰暦の八月十五日がやって来た。

その、昼下がり。

 

犬夜叉は独り、森の中をうろついている。

鼻をひくひく言わせて。

(確か、この辺だったはずだ……)

遠い記憶を辿るように木々の間を往復する犬夜叉。

やがて、地面に体を這わせ、土に鼻を寄せてくんくんと匂いを嗅ぎ当てようとする。

 

(間違いねえ。ここだ)

と、或る大木の根元を両手で掘り始めた。

土を掻き分け、掻き分け、そうして、出て来たものは漆塗りの木箱。

犬夜叉はそれを大事そうに拾い上げる。

そして、少しどきどきしながら、その蓋を開けた。

 

中には、絹の布が入っていた。

端は切り裂かれていて、紫色に染め抜かれた紋様が付いている。

それを手に取ると、犬夜叉の胸にあの時の記憶が蘇ってきた。

「これは、あの人のだ……」

 

 

 

 

 

日が西に傾き始めた頃、風が吹き始め、一面に広がるすすきの海原を撫でて通った。

殺生丸のすぐ脇に生えているすすきも風に靡いて、ふわふわの花穂がその袖に優しく触れた。

ぷつん…、ぷつん…と、しなやかな長い指先がすすきを採っていく。

そうしてすすきを採りながら、殺生丸はもう何十年も前に、

己がこの同じ場所で、今と同じようにすすきを採ったことを思い出していた。

 

 

完全には成長し切れていない、どこかにまだ幼さを残した細長い指が、すすきを採っている。

「すすき…、もしかして、おれのために採ってくれているの?」

背後から弱々しい声が掛かった。

振り向くと、負傷して身動きの取れなくなった幼子が、仰向けになったまま自分に問いかけている。

恐らく、すすきを採るぷつん、ぷつんという音で、そうだと判ったのであろう。

少年だった殺生丸はその問いには答えず、ただ静かにすすきを採り続けた…。

……

 

 

その遠いある日のこと。

殺生丸が偶々、日暮れ時にすすきの原を通りかかると、一縷の血の匂いが漂って来た。

血の匂い…それは妖のものでも、人のものでもなかった。

何かに手繰り寄せられるかのようにして、その匂いの元へと進む殺生丸。

すると、群生するすすきの中に、まるで遊び古された人形のように、ぼろぼろの姿で倒れている幼子を見つけた。

 

「誰?」

驚くべきことに、幼子は全身血だらけになりながら、まだ意識があった。

 

しかし、そんなことは殺生丸にはどうでも良かった。

その幼子の姿。

それが、若き日の殺生丸の目を釘付けにした。

 

着ている緋の衣はずたずたに引き裂かれ、自分の膝を抱えるように草の上に転がっているその子。

髪が、銀だ。

耳が、人間のものではない。

そして、虚空に向けて大きく開かれた、揺れるその瞳は…自分と同じ…琥珀色。

……この血の匂い……

 

「お前、名は…名は何と申す?」

泣きじゃくって、どもりながら、幼子の口から告げられたその名は―――

 

――存在は知れども、未だその姿を見たことの無かった、己の異母弟の名。

 

まだ幼い自分と自分の母親から父を奪った、人間の女が産み落とした子。

貴い妖の血を屈辱で汚した、憎き半妖。

殺生丸の爪が夕闇にぎらりと鋭く光った。

 

殺してしまえばいい、そう思った。

そして、その爪を死にぞこないの半妖の喉へと伸ばした、その時―――

 

「兄様」

 

その声に、殺生丸の目が見開かれる。

気づかれたのか?

見れば、半妖の琥珀の瞳は先刻と同様、宙を彷徨っている。

目が見えなくなっているはずだ。

よもや、気配で?

いや、幼子の表情には何のそれらしき色は見て取れない。

第一、この小さな半妖が異母兄の存在を知っているかどうかさえ、疑わしいのに…。

 

「兄、だと?」

「おれより、少し年上の、兄様、でしょう?」

声で年齢を察し、ただの呼称としてそう呼んだらしい。

「……」

「おれ…恐い。何も見えない。体が動かない。…助けて、兄様」

そう言うと、焦点の合わない瞳から、つうっと涙が伝い落ちた。

 

殺生丸の顔が苦渋に歪む。

暫く呆然として、その半妖を見下ろしていた。

幼い半妖は、曲げた体を小さく震わせている。

流れ出た涙は、止まることを知らなかった。

 

殺生丸はもう一度、己の手を幼子へ伸ばした。

…と、その柔らかい指先で、その子の温かい涙を拭ってやる。

視力を無くした幼子は、その「兄様」の優しい手の感触に、ほっと安心したように泣き止んだ。

 

それから、殺生丸は己の着物を引き裂き、深い傷を負っている幼子の右膝に巻いてやる。

乱れた装束も直してやると、ふとその手に握られたものに目が止まった。

ぐたぐたに踏みにじられたすすきの束を、その幼子は小さな手で握り続けていた。

 

「すすきを採りに来たのか?」

「うん…」

殺生丸は、今も強張るその手の緊張を解きほぐすように、指を広げてやる。

見れば、その手の平は皮が剥け、血が滲んでいた。

 

「…お月見がしたくて、母上と…」

 

母上と…その言葉に、まだ少年の面影を残した殺生丸の顔が辛いものになる。

でもその表情には、不思議なほど、憎々しさは浮んでいなかった。

 

……

そうして、

ぷつん、ぷつん…と殺生丸はすすきを採った。

初めて出会った、一瞬は殺そうかと思った、弟のために。

 

「ありがとう、兄様」

幼子は、そう言った。

その相手が、血を分けた本当の兄であることなど、知る由も無かっただろうが…。

 

 

 

 

 

その頃。

川伝いに、石の上をタン、タンと飛び行くひとつの影があった。

手には、昼間、土の中から掘り出した布切れ。

それを握り締めると、不思議とあのすすき野のあった場所が思い出されて来る。

まるで足が勝手に跳ねるかのように、犬夜叉はあの場所へと向かう。

会えるはずは無いと思いながらも…。

 

 

深手を負い、一時的に失明した犬夜叉は、

その場を通りかかった「誰か」に背負われ、人里へ送られた。

その温かい背中にしがみ付きながら、犬夜叉は訊ねた。

 

「また、兄様に会えるかな?」

「…何故、そんなことを聞く?」

「これ…」

と、幼い犬夜叉は、自分の小さな右膝に巻かれた布を触った。

「ちゃんと、返さないと…」

 

「そんなもの、もう要らぬ」

自分の膝に巻かれた布が、着物を引き裂いたものだということは、

視力を失っていたその時には判らなかった。

「返して、お礼言わないと、母上に叱られちゃう…。

 おれと約束して。

 またいつか、会うって。そうだ、十五夜の晩にしよう。

 あのすすきがきれいな、おれと、兄様の秘密の場所で…」

「……」

 

「兄様の名前は何て言うの?」

「……」

「顔、見えないから。名前、教えて?」

「…情けをかけぬ…それが、私の名だ」

「なさけをかけぬ?…変な名前。ぜんぜん似合ってないね」

「…或いは、そうかもしれないな…。皮肉な名だ…」

 

その後、既に体力を消耗し切った幼い犬夜叉は、「誰か」の背中で眠りに落ちた。

次に目覚めた時は、既に母の屋敷の中だった。

布団の中に寝かされていて、目も見えるようになっていた。

その日、犬夜叉の遅い帰りを案じて庭先へ出た母が、植木に凭れて眠っている犬夜叉を見つけたのだと言う。

その傍らには、大きくて、ふさふさして、立派なすすきが一束置かれていて…。

…犬夜叉と母は、一日遅れの月見を楽しんだ。

 

 

犬夜叉は荒地を踏み分けて進む。

……

『おれと約束して。

 またいつか、会うって。そうだ、十五夜の晩にしよう。

 あのすすきがきれいな、おれと、兄様の秘密の場所で…』

でも、俺は、二度とあの場所へ行く事はなかった。

お袋が死に、俺は独りで生きて行くのに、精一杯だった。

誰かの優しさなんて、今まで、すっかり忘れていた。

 

空は既に赤く色づき、風が夜の気配を運んで来た。

風…。

ぴくっと、犬夜叉の鼻が反応した。

目を凝らすと、遠くにあのすすき野が見える。

その遥かな景色と、犬夜叉の記憶が頭の中で重なった。

 

この匂いは…

そうだ、間違い無い。

あの時、俺は鼻をやられていたけれど、ほんの微かに覚えている。

これは…「あの人」の匂いだ。

 

だけど、待てよ…。

犬夜叉の眉がぴくりと吊り上る。

これは…この匂いは…俺の知っている……

 

犬夜叉はその大きな瞳に困惑の色を浮かべながら、草の中を突き進んだ。

やがて、一面のすすき野に踏み入って…

…そこに、居たのは…

 

「殺生丸…」

 

己の名が呼ばれるのを耳にすると、殺生丸は僅かに屈めていた体をすっと伸ばした。

二人の間は、幾つかのすすきの群れに阻まれていて、夕日を背にした殺生丸の表情は覗えない。

 

風が吹き、殺生丸の着物の袖をふわりと躍らせた。

その紫色に染められた袖を見て、犬夜叉は更に愕然とする。

 

自分の手に握られた、絹の布切れ…。

その色、その紋様…。

 

「殺生丸、なのか…?」

「……」

「俺がまだ幼い頃、ここで傷を負って、動けなくなって…

 その俺を助けてくれたのは…もしかして…」

 

「知らないな」

風が、冷たく澄んだ声を運んで来た。

「…でも……」

殺生丸は、何か言いたげな犬夜叉を無視して、ぷつんと、最後のすすきを採ると、

草の上に積まれた大きなすすきの束を片腕に抱え上げた。

 

「私が、そのような情けをかけるわけ無かろう」

 

犬夜叉は自分の手の内にある絹布を見つめる。

…だよな。

そうだよな。

何かの間違いだよな。

殺生丸がそんな情けをかけるはずが―――

 

!!!

 

『…情けをかけぬ…それが、私の名だ』

情けをかけぬ……「殺生」。

『変な名前。ぜんぜん似合ってないね』

『…或いは、そうかもしれないな…。皮肉な名だ…』

やっぱり、俺を助けてくれたのは…!?

 

犬夜叉が顔を上げると、そこに殺生丸の姿は既に無かった。

ただ、夕日に染まった無数のすすきが風に優しく靡いていた……。

 

 

 

 

 

「犬夜叉、おっそーい!」

「どこまで行っとったんじゃ、お前は!」

夕闇の中から浮かび上がる緋の衣を見つけて、かごめと七宝が迎えに出て来た。

 

「ほれ」と犬夜叉は採って来たすすきをかごめに見せる。

「うわっ、すごーい。あんた、よくこんな立派なすすき見つけたわね」

「だから、言ったろ。俺の秘密の場所だって…」

「ずるいのー。秘密なんて…」顔を見合わせるかごめと七宝。

 

そう、俺と、あいつの、秘密の場所だ……。

 

 

 

 

 

明るい満月が、夜の野に幻想的な光の粒子を落としている。

殺生丸の抱えているすすきの穂にも、その粒子は優しく舞い降り、きらきらと無数の輝きを放った。

 

「せっしょーまるさま〜」

いつものあの無垢な笑顔を向けて、りんが駆け寄って来る。

「うわー、きれいなすすき」

 

大きな瞳で見上げるりんに、殺生丸は手に提げていた紙包みを渡す。

りんはそれを不思議そうな顔で受け取り、そっと包みを開いてみた。

驚いたのは邪見だ。

「殺生丸さま、一体どこでこんな物を…?」

包みの中にあったものは、人間の食べ物――団子だった。

 

「りっぱなお月見ができるね」

そう言ってはしゃぐりんの傍らに、腰を下ろす殺生丸。

まあるい月を見上げる、常と同じ無表情な顔。

でも、その顔が、りんには何故か笑っているように見えた……。

 

 

   




written by 遊丸@七変化


すすき採り・前編・十四夜に戻る

 


いやぁ…恥ずかしいくらいに健全ですι。
殺生丸さま一体どこで団子なんて手に入れたんでしょうか?
もっとも、殺生丸さまって見た目はあんまり妖怪っぽくないですから、
邪見さえ居なければ人里に現れても、
「正体不明の雅男」くらいでそれほど怪しまれないでしょう。
それにしても、殺生丸さま、やっぱりブラコン且つロリコン?
着物が何枚あっても足りないですな…。