火輪ツアー 其弐

〜マイナースポット編

前 編




◆旅行日:2016年1月25日〜1月27日

◆行程:
※下線はミラージュスポット
※グレー文字は後編にて

◇1月25日:
成田空港→(ジェットスターGK611)→熊本空港→(空港リムジンバス)→熊本駅前バス停→(徒歩)→中華麺処らん蘭(ランチ)→(徒歩)→熊本駅前電停→(熊本市電)→辛島町電停→(熊本市電)→本妙寺入口電停→(徒歩)→本妙寺→(徒歩)→花岡山公園→(徒歩)→スーパーホテルLOHAS熊本天然温泉(宿泊)

◇1月26日:
スーパーホテルLOHAS熊本天然温泉→(徒歩)→熊本交通センター→(路線バス)→熊本港
→(路線バス)→熊本交通センター→(路線バス)→動物園入口→(徒歩)→下江津湖〜上江津湖→(徒歩)→水前寺公園→(徒歩)→水前寺公園電停→(熊本市電)→慶徳校前電停→(徒歩)→ホテル法華クラブ熊本(宿泊)

◇1月27日:ホテル法華クラブ熊本→(徒歩)→慶徳校前電停→(熊本市電)→新水前寺駅前電停→(徒歩)→JR新水前寺駅→(JR九州横断特急)→宮地駅→(徒歩)→阿蘇神社→(徒歩)→一の宮町インフォメーションセンター→(レンタサイクル)→国造神社→(徒歩)→上御倉古墳→(徒歩)→国造神社→(レンタサイクル)→一の宮温泉→(レンタサイクル)→JA阿蘇直売所四季彩いちのみや→(レンタサイクル)→一の宮町インフォメーションセンター→(徒歩)→宮地駅→(JR豊肥本線)→阿蘇駅→(徒歩)→道の駅阿蘇→(徒歩)→阿蘇駅→(JR豊肥本線)→肥後大津駅→(空港ライナー)→熊本空港→(ジェットスターGK618)→成田空港


◆同行者:なし


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。表示されるまで時間がかかる場合があります。また、不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




火輪ツアー第一弾に引き続き、第二弾をお届けします。第一弾同様、こちらも2016年4月の熊本地震が起こる前に行ったものです。熊本地震や火輪ツアーについては、第一弾の冒頭でちょこっと触れていますので、そちらもご参考になさって下さい。熊本地震で受けた被害については、わかる範囲で書いておきます。

相方と行った第一弾(2015年10月)は、有名観光スポット編ということで、火輪の王国シリーズの舞台となった場所の中から、比較的有名な観光スポットをピックアップして回りましたが、今回は一人旅ということでマイナースポット編ということになります。それほど有名でもないマイナーな観光地を地味に回ります。しかし、もちろんミラージュツアーとしては外せないスポットばかりです。
前回のツアーでは窓際の座席ではなく、窓際に座っていた人が阿蘇山の上空を通る時興奮しながら写真を撮っていたのを、ものすごく羨ましく思いながら横目でちらちら見ていたオレでした。

なので、今回はわざわざ数百円を支払い、ウェブチェックイン時に窓際の座席を指定したのですが…、阿蘇の上空だというのはわかるものの、若干雲があり、どの山かまではわかりませんでした。少なくとも中岳…ではなさそうですね。

天気によりますけど、熊本空港へ飛ぶ時は阿蘇を上空から見ることができるかもしれませんので、窓際の席をお勧めします。
阿蘇山はよくわかりませんでしたが、ブロッケン現象を見ることができました。


よく知られてるのは、山中で、人の影の周りに虹色の輪ができるというものですが、飛行機でも似たような現象がよく見られるそうです。


今回の飛行機代は、往復で5,600円(空港使用料、支払手数料込)。もちろんセール価格ではありますが、毎回ジェットスターには助けられています。
熊本空港は、阿蘇と熊本市街地の間に位置しているのですが、この飛行機は、一度熊本市の上空まで来て旋回して空港へと向かうようです。


気づけば、有明海まで来ていました。写真右端の方に見えるのは、フェリーターミナルのある、熊本新港じゃないですか。色部さんとジュリアが行っていた…。今回のツアーでは二日目に行きますよ。
江津湖も見ることができました。奥が下江津湖、手前が上江津湖。江津湖は、高耶さんが冥界上杉軍を発動させる開扉法を行って失敗し、謙信から見捨てられたのだと思い知った場所でしたね。ここも二日目に行きます。湖面が虹色に見えるのは、飛行機の窓ガラスのせいです。

熊本は、実はこの前日に記録的な大雪となっていまして、吹雪に包まれる熊本城の様子をニュースで見ました。この日上空から見ると、やはり一面真っ白ではありますが、幸い雪は降っていないようなので一安心。珍しい熊本の雪景色というのもそれはそれで良かったかもしれませんが。
飛行機は10時20分に熊本空港に着きまして、そこからリムジンバスで熊本駅前までやってきました。時刻は11時32分。


熊本空港もミラージュスポットですが、火輪ツアー第一弾の方で触れましたので、今回は省略。


写真手前は市電の乗り場、その向こうの建物がJR熊本駅です。
先ずは腹ごしらえということで、熊本駅の中にある「中華麺処らん蘭」というお店にやってきました。


お目当ては、熊本名物タイピーエン。
こちらが、らん蘭のタイピーエン、780円。

前回の火輪ツアーでは、熊本ホテルキャッスルの系列店「肥後めしや 夢あかり」で美味しいタイピーエンを頂きましたが、こちらのお店のタイピーエンは更に上。ものすごく好みでした。季節的なことも関係あると思いますが、たっぷり入っている黄色い白菜が途方もなくあまくて、柔らかく、スープを吸ってて最高にうまい。

冬に熊本行くんなら、またここで食べたいなと思える逸品です。
12時過ぎ、体も温まったところで、熊本駅前の電停から市電に乗ります。


一日目は、熊本市街地に近いところを回ります。スケジュールの説明も兼ねて、先ずは地図を確認してみましょう。


前回のツアーで出した地図のほぼ使い回しなんですが、熊本&阿蘇の広域図です。前回は、熊本では、熊本城とその周辺、阿蘇では阿蘇神社、霜神社、西巌殿寺、大観峰、白川水源などの有名スポットと立野に立ち寄りました。こう見ると、前回は随分色々回りましたね。例によって2泊3日なのに。草千里や中岳などの阿蘇山上は、立ち入り規制が解かれてから改めて行きたいと考えていますので、阿蘇山のご機嫌次第といったところでしょうか。

今回は、前回取りこぼした熊本周辺のいくつかのスポットと、阿蘇で取りこぼした国造神社に行く計画です。


熊本の広域図です。前回は熊本城の周辺を徒歩で回りましたが、今回は少し範囲が広がるので、バスや市電を駆使して回ります。一日目は本妙寺と花岡山公園、二日目は熊本港フェリーターミナル、江津湖、水前寺公園。三日目は阿蘇に移動して国造神社へ。立ち寄るスポットの数としては少なくて、割と単純なツアーになりそうです。

というわけで、熊本駅前から辛島町電停までやってきました。

熊本市電にはA系統とB系統という二つの路線があり、この辛島町で乗り換えることができます。乗り換え時には乗換券というのを運転手さんがくれるので、それを持って乗り換えればいい(全線均一料金で、1回分の運賃で乗れる)というルールらしい…のですが、この時乗換券が品切れだったのか、降車時に料金を支払わず、乗換券ももらわず、そのまま乗り換えて、と言われました(乗り換えた電車で降車時に払えばいいということ)。

何というか…信用で成り立ついい街なんだろうな、熊本も。
市電B系統の本妙寺入口電停で下車し、本妙寺へ向かいます。


時刻は12時42分。


本妙寺周辺の地図です。本妙寺入口電停で降りると、北西にひたすら真っ直ぐ伸びる参道がありますので、その道を行けば、本妙寺です。

本妙寺へと真っ直ぐ続く道。


大きな門が見えますね。手前は参道という風情でもないですが、商店街のようです。
川を渡る橋の上から南の方角を見ると、小高い山の上に白い仏塔のようなものが見えます。

あの山がどうやら花岡山のようですね。

火輪の熊本市街戦では、古城高校に陣取った大友に対し、島津はあの花岡山に本陣を置いたのでした。後ほどあそこまで行きますので、またその時に。
大友VS島津の戦に突如乱入したのが織田信長でした。その信長が彼らの市街戦をしばらく見守っていた場所が、この本妙寺ということになります。

というより、加藤清正公の御廟所があるお寺です、と紹介しないと失礼になりますかね。でも、ミラージュでは信長公の印象が強い…。あと、綾子ねえさんがここで拉致されたことですね。

写真は、本妙寺入口に建つ仁王門。路面電車の電停からここまでは、ゆっくり歩いて10分ほどです。
とても大きく立派な門です。新しそうだなと思ったのですが、建てられたのは大正九年とのことですので、意外に古いよう。


でも鉄筋コンクリートなのだそうです。関東大震災以前の鉄筋コンクリートの建造物で現存しているものは希少なんだそうですよ。
仁王門を潜ると、これまた長い参道が。


参道の両側にはたくさんの小院が並んでいます。


冬の時期で、平日なので、参拝する方はほとんどいらっしゃいませんでしたが、ものすごく規模の大きいお寺です。
桜の枯れ枝が寒々しさを倍増させていますが、花の時期はさぞかし圧巻の光景が見られることでしょう。
やがて、参道の突き当たりに石段が見えてきました。


ほほう、あれが胸突雁木(むなつきがんぎ)という石段ですな。


確かに、ものすごく長そうです。ミラージュってなんでこう石段の登場回数が多いんだろう…。
その石段の手前、右側に本妙寺の本堂があります。


ちょっと不思議な配置だなあと思ったのですが、そもそも清正公の墓所である浄池廟の方が先に(清正公の遺言により)この場所に建てられていたのだそうです。その数年後、熊本城内にあった本妙寺が火災による消失のためここへ移転してきたという経緯のようで。
こちらが、本妙寺の本堂。


先ずは、清正公に、熊本再訪のご挨拶でもしましょうか。
お参りしてから、胸突雁木に挑みます。


中央には石灯籠が連なり、その左右に石段があります。どっち側通行とか…そういう注意書きは無いようですね。
何気なく左側の階段を登り始めました。

本妙寺&浄池廟が出てきたのは、17巻(一部18巻)のことです。

綾子ねえさんが、開崎の指示に従って熊本の結界を守るために、ここにやって来たのでした。そして、ここで彼女は織田の手に落ちたのでしたね…。長い監禁生活の末、ねえさんが次に本編に登場するのは、第四部29巻に入ってからのことですから、遺恨を残す場所となったことでしょう。折角、直江が生きていたのだとわかって、それを高耶さんに知らせたいと思っていたのに。

しかし、織田の監禁下から逃れて復活したら、高耶さんは怨霊の味方になっちゃってるし、いつの間にやら直江と夫婦に(?)なっちゃってるし、誰が不憫と言って、綾子ねえさんほど不憫なキャラクターもいないかもしれませんね。彼女には幸せになって欲しかったのですが。いいや、転生して幸せになっているのかもしれない。その可能性を願えることがせめてもの救いかな。
無数に並ぶ石灯籠が壮観です。


石段は長いのですが、坂が緩やかなので、それほど疲れません。


途中から右側の石段に移動。
ところどころ雪が溶け残っているのが、良い感じ。


熊本って感じではないですけどね。
階段の上に、浄池廟の門が見えてきました。


<本妙寺は熊本城の北東・花園という場所にある。境内には「胸つきガンギ」と呼ばれる長い長い石段があり、登ったところに浄池廟――加藤清正の廟所がある>(17巻『火輪の王国 後編』162ページ)
ゆっくり登って6分ほどで、浄池廟の門に到着。門の向こうに見えるのは、拝殿。

<綾子の六感が異変を鋭く察知した。罠が弾け飛んだのだ。何ヵ所かの地雷が同時に力を失った。何が起きたかと思って慌てて門へ走った。途端に、ぎくり、と足を止めた。石段の下から数人の男があがってくる>(17巻『火輪の王国 後編』164ページ)

「門」というのは、この浄池廟の門のことのようですね。綾子ねえさんはこの門の内側にいたところ異変を察知し、門の辺りで石段をあがってきた島津家久らと対峙したようです。
門の前辺りから石段を見下ろして。


<そこは熊本城の天守閣とちょうど同じ高さになるといい、熊本の町も一望だ>(17巻『火輪の王国 後編』162ページ)


確かに結構な高さがあります。ただ、この周辺では、街を一望するには石段越しに見るしかないようですね。この裏山の方まで行けば町がよく見えます。それはまた後ほど。
<霊笛から鱗粉のごとく風天の種字“バー(※梵字)”が飛び、家久たちが弧を描いて宙に吹っ飛ぶ。ひとりは石段をごろごろ転げ落ちた。ひとりは梵鐘に激しく体を打ちつけて崩れ落ちた>(17巻『火輪の王国 後編』166ページ)


家久の部下が、綾子ねえさんの霊笛の力で吹っ飛んだ際に体を打ちつけたらしい鐘は、門を入ってすぐ左手にありました。
こちらは門を入ってすぐ正面にある浄池廟の拝殿。


浄池廟はこの向こう側にあります。
こちらがその浄池廟の本殿。この地下に清正公が今も眠っているんですね。

<家久は浄池廟の前まで歩いた。結界を支えている清正の遺骸は、この廟の地下に埋められている。霊視してみると廟からは陽炎のように金色の光が燃え立っていた。遺骸が未だに力をもっている証だ>(17巻『火輪の王国 後編』167ページ)

電撃で綾子ねえさんを昏倒させた家久は、この浄池廟を破壊しようとしますが、それを阻んだのが、その浄池廟に祀られている本人…という展開でした。
<門の前に学ラン姿の高校生が立っていた。頭や胸に包帯をつけた高校生は、腕を組んでこちらを見ている。「わしの遺骸に手を出すなど、一万年早いわ」 (略) 高校生の背後からもうひとり、背の高い男が現れた。彫のくっきりした顔立ちに眩しいくらいの日焼けした肌。男は高校生の前にすっくと立って不敵に嗤った>(17巻『火輪の王国 後編』168ページ)


写真は、浄池廟前の門を内側から。
<男は片手に缶コーラをもって時おりぐびぐびと飲んでいる。(略) 「熊本入りしてちょうどウォーミングアップが欲しかったところよ。ようやく力を振るえるかと思うと楽しゅうてならん。その獲物、わしに譲れよ」 いいながら右腕を振り回し、本当に準備体操じみたことをし始めた。そしてコーラをもうひと飲みすると、腕で乱暴に口を拭い、男は唇に残忍な笑みを刻んだ>(17巻『火輪の王国 後編』169ページ)

その信長公が飲んでいたコーラ。私も途中のコンビニで買ってここで飲んでみました(笑)。缶ではないですけどね。久々に飲みましたが、長い石段を登ってきた後なので、真冬でも意外と爽快でした。
そして再び、浄池廟本殿です。こちらは↑とは反対のアングルから。

18巻の大友VS島津の市街戦では、信長がこの屋根に登り、成田譲を操っていたのでした。

<「わしはここじゃ、ここにおるぞ阿蘭!」 頭上から大音声を聞いて振り仰ぐと、信長の姿はなんと清正の廟の屋根にあった。大胆にも屋根にどっかと腰掛けて、お気に入りのコカコーラをあおっている>(18巻『火輪の王国 烈風編』82ページ)
順序はは前後しますが、家久の襲撃を受ける前、綾子ねえさんが行方知れずの高耶さんに向けて語りかけるシーンも印象的でした。

<綾子の焦りは限界に達していた。直江のこと、早く伝えたい。開崎になった理由はよくわからないが、間違いでないなら、江の島での高耶の動揺は正しかったのだ。高耶は見知らぬ男に直江を重ねた自分に後ろめたさを覚えているかもしれないが、それは逆だ。無意識に本物を見抜いただけのことだ。(直江はまだいるのよ、景虎) 綾子は阿蘇へ向かって訴える。(あんたは現実に戻ってももう絶望しなくて済むのよ!)>(17巻『火輪の王国 後編』163〜164ページ)

写真は、阿蘇の方角の空を…。見晴らしは良くないので、阿蘇の山々がここから見えるわけではありません。
さて、浄池廟の右脇を通り抜け、裏山の方へと進んで行きます。


それにしても、人っ子ひとり見当たりません。熊本にしては珍しい大雪の翌日ですから当然と言えば当然でしょうか。
少し行くと、またしても長い石段が現れます。


この上に清正公の銅像があり、そこからだと、熊本市街が一望できるようです。
石段の果てで、清正公が待ってくれています。


頑張って登りましょうか。


さっきの胸突雁木より、こっちの方がキツイです。
三百段の階段を登り切ると、凍てついた広場に、凛としたお姿の銅像が迎えてくれました。


ああ、これが清正公なんですね。例の片鎌槍を手にしていらっしゃいます。熊本の街を守っているかのようですね。


2016年4月の熊本地震では、この清正公像の槍が折れ、胸突雁木の灯籠が崩れるなどの被害があった模様です。
そして、清正公が向いている方へ目線を向けると、熊本城と熊本の市街地が一望の下です。

<「間もなく戦闘が始まるな」 市内の有り様を本妙寺裏の高台から見おろしているのは、織田信長と清正だ>(17巻『火輪の王国 後編』210ページ)

先ほど触れた18巻の成田譲を操っているシーンでは、浄池廟の屋根に登っていた信長ですが、戦いが始まったばかりの時点ではこの高台から市内の様子を眺めていたということですね。
熊本城付近を望遠で。


写真中央に熊本城天守、古城高校は…こちらの写真には写っていないですね。画面より右側にあるはずです。他の写真で確認しましたが、木々の陰になって、ちょっと見えにくいようです。
右の方(南)に目を向けると、島津が本陣を据えた花岡山(画面右半分のこんもりした山)が見えます。


この後、歩いて花岡山まで行きます。
胸突雁木の石段の脇は墓地になっているのですが、墓石と雪の寒々しい光景の中で、添えられた造花の鮮やかさがひと際目を引きました。


普段、造花はあまり好まないのですが、こういうところで見ると、そう悪いもんでもないなと。不自然なくらいどぎつい色味の中にも温もりを感じます。


というか、今回のレポート写真は本当に色彩が地味過ぎて、たまにこういうのを挿入しておかないとやってられません…。
軒先には、小さなツララが。


前回(2015年10月)の熊本ツアーでは、熊本空港から乗ったリムジンバスに冷房が入っていて、さすが火の国というだけあって暑いわけだと思ったんですけどねえ。一月ともなれば、やはり寒いんですね。
本妙寺の参拝にかけた時間は1時間余りでした。

この時点で時刻は、14時10分。

先刻、本妙寺入口電停から来た際に渡った「井芹川」沿いに、南へ歩いて行きます。目指す花岡山は、川の下流方向に見えています。

路面電車に乗ろうかとも思ったのですが、真っ直ぐ歩いて行った方が手っ取り早そうでしたので、歩くことに。


「真っ直ぐ歩いて行った方が…」と言っても、川沿いを離れた辺りから、住宅街の中を歩いたり、随分とわかりにくい道を通ってしまいました。


元々、全部歩くつもりはなかったので、その場しのぎで適当に歩いてしまったからというのもあるんですが…。


本妙寺の仁王門から、花岡山公園まで、徒歩で1時間15分ほどかかっています。
井芹川を覗くと、大きな鯉がたくさん。


寒空の下、少し気分がなごみますね。
川沿いから外れ、線路の近くまで来ました。


左の高架は九州新幹線のようですね。


熊本駅の方へ向かって南下していきます。
途中、住宅街の細い路地を通ったりして…。
しばらく行くと、花岡山がだいぶ近くに見えてきました(写真奥の小高い山)。


花岡山付近の地図。北岡自然公園の裏側を通って、花岡山の方へと登って行きます。

この辺り、道路の左側が北岡自然公園になります。


公園の北端で、一応門がありますが、閉ざされていて、ここからは入れないようですね。


ミラージュでは名前だけちらりと登場していました。
<そのころ、敵の大将・島津歳久の本隊は古城の南西にある北岡自然公園に入った。細川家の廟所のあるところだ。そのうえの花岡山に本陣を据えた>(17巻『火輪の王国 後編』239ページ)


「公園」とは言いますが、作中に書かれている通り、実質は細川家の廟所ということのようです。今回は立ち寄りませんが、自然豊かで、静かで、なかなかいいところだそうですよ。
その北岡自然公園の北側をぐるりと回るように歩いていきます。


前方に見える小山が花岡山です。
先刻、本妙寺に居た時も、雪がちらちら舞っていた時があったのですが、再び降ってきました。


今度は少し激しく降っています。幸いすぐ止んだのでよかったですが。
北岡自然公園の東側は結構な行程差があり、一番高いところを頂点に、北側の坂が「地獄坂」、南側の坂が「極楽坂」と呼ばれているようです。


こちらは「地獄坂」。階段の左側が北岡自然公園です。


それにしてもこの日は階段ばっかりだな。
地獄坂を登り切ったところ(画面左の方が地獄坂、右へ行くと極楽坂)。

案内板があり、次のように書かれていました。

「地獄坂は、加藤清正が熊本城築城の際、ここ花岡山から切り出した石を運ぶ作業に使った道です。今でこそ石段が組んであるものの、当時の地獄坂は、赤土が剥き出した幅わずか1.5mの急坂、覆いかぶさる木々で真暗でした。人足たちは石の重みに押しつぶされそうになりながらも滑る足を踏張り、この坂を「まっで地獄、地獄」と恐れ嘆いて昇り降りしたといわれています」
四百年以上前のことではありますが、今でも地獄坂はその雰囲気を残しているように思えます。古い言い伝えのある町っていいですね。


写真は、地獄坂と極楽坂の分岐点付近から西の方(花岡山の方)を向いて。


花岡山へはまだ緩やかな坂と石段が続いています。
この石段を登って行くと…
石段が一旦途切れたところに、小さな広場があり、ちょっとした台座の上に石碑と案内書きがありました。ここが「阿蘇殿松」の跡地のようです。

<惟光の自刃した花岡山には後の人が供養の松を植え、「阿蘇殿松」と呼ばれて今も残っている>(17巻『火輪の王国 後編』200ページ)

作中では「今も残っている」と書かれていますが、2016年1月のこの時点では松はもうなく、記念碑だけです。松がいつまであったのか、案内文に触れられていないので定かではありません。
しかし、十二歳で自刃って…本当に過酷な時代だったんですね。ミラージュの中の惟光は、やはり少年らしさが残っていて、どこか直江に懐いていたというか憧れのようなまなざしを向けていたのが印象的でした。


阿蘇殿松跡のすぐ先にある招魂社の鳥居を潜り、右の方の道へと進んで行きます(左の方の道からも行けますが、自動車道ですので若干遠回りになります)。


この鳥居、この時点ですでに一部欠けていますが、2016年4月の熊本地震で更に欠けてしまったようです。
まだ雪の残る坂道を登って行きます。


坂が一旦途切れたところは、小さい平地になっていて…
「薩軍砲座の址」という石碑が建っています。西南戦争の際、薩摩軍がここから熊本城に向けて大砲を撃ったのだそうです(弾は城までは届かなかったとか)。草木で視界が悪いですが、この向こうは熊本城の方角になります。

作中にも、色部さんと高橋紹運の会話で、西南戦争に少しだけ触れた部分がありました。

<「島津は花岡山に陣を置いて、側面から主力を送り込んできた模様です」 「花岡山か。そうだろう。あそこは城攻めの本陣を置くにちょうどいい場所だ」 西南戦争のときも、薩摩軍は花岡山に陣を据えて熊本城を攻めた>(『火輪の王国 烈風編』87ページ)
余談になりますが、2018年の大河は西郷さんをやるそうですね。個人的には、この熊本ミラツアの後、2016年9月に鹿児島を旅して、西郷さんが西南戦争で逃げ落ち、最後に辿り着いた郷土の城山を見てきた(死の前に数日間籠っていた洞窟などが残っていた)ので、とても興味深いです。


花岡山の頂上までは、まだ長い道のりです。
途中、自動車道のカーブ部分と合流し、その先にまだ階段があります。


しかし、あの階段を登れば、どうやら頂上のようですね。
15時15分、頂上に到着。


ここはちょっとした広場になっていて、なぜか仏舎利塔が建っています。本妙寺の方からもよく見えたあれですね。


案内文によると、インドの元首相から世界平和を祈願して贈られた仏舎利が納められているそうです。
広場の一角は展望台のようになっていて、熊本の市街地を見下ろすことができます。


確かに、陣を置くには最適ですね。
熊本城の方を望遠で。


<島津歳久が本陣を置いた花岡山には、古城高校同様、戦況報告が逐次入ってきていた。ここからは島津軍が着々と市街を攻略していく様子が手に取るようにわかる>(『火輪の王国 烈風編』87ページ)


写真中央よりやや左上に熊本城天守、中央より右下辺りに古城高校の敷地がありますが、校舎自体は、ここからはマンションの陰になって残念ながら見えません。
本妙寺山、花岡山と、ふたつの小山を登ったところで、本日のミッションは終了。熊本市街戦で織田と島津が陣取った場所を巡る旅でした。


花岡山を降りていきます。写真は、阿蘇殿松跡を見おろして。
来る時は、北岡自然公園の裏側の地獄坂を登ってきましたが、帰りは逆方向、緩い極楽坂を降りていきます。
住宅街の中の坂道を降りていくと、九州新幹線と鹿児島本線の高架に突き当たります。


予約してあるホテルの方へ歩いていきます。ミラージュとは関係ないので、地図は省略。


写真前方左側は北岡自然公園の敷地です。
その北岡自然公園の正門?前を通りかかると、車止めの上に、溶けかけの雪だるまが…。


この珍しい大雪を、熊本の人たちは意外と楽しんでいたようです。このほかにも実はいろんなところで雪だるまをみかけました。なんだか微笑ましいですね。
今回は一人旅なので、夕食は適当な総菜を買ってホテルで食べることにしました。


本当は居酒屋さんで熊本の夜を堪能したいところではありますが、一人で外で夕食というのもなんだかな、という感じなので仕方なく。


「you me(ゆめ)マート」という熊本県内で展開しているスーパーに立ち寄り、お買い物。
16時28分、予約してある「スーパーホテルLOHAS熊本天然温泉」に到着。

スーパーホテルは全国展開しているホテルチェーンで、温泉大浴場を有する店舗が多いようです。ドーミーインみたいな感じですが、価格帯はドーミーインより低め、でしょうかね。私は今回が初めての利用です。

因みに今回の宿泊料金は、1泊朝食付きで5,050円。ふるさと割を使わせて頂いて実際は2,550円でした。
室内は狭くてもきれいで快適です。一人でのんびり過ごすには充分。テレビも見やすい位置に大きい液晶のが付いているし。苦しゅうない。


いつものミラツアからは考えられないほど早めの時間のチェックインですが、温泉もありますしね。寒い中歩いてきた後の湯は最高。泉質はあまり温泉らしくない感じでさらりとした無味無臭のお湯でしたが、入った後はぽかぽかして気持ちよかったです。
スーパーで買ってきたものをつまむだけの夕食。


柚子いなりと、天草の燻製蒲鉾と、ささみチーズフライと、熊本県産のチューハイ二種。なんだか茶色いものばっかりだな。


意外と熊本とは何の関係もないささみチーズフライがうまかったりして。
こちらは、私がミラツアの時にいつも作成して持ち歩く“しおり”的な資料です。一枚目はスケジュールとチェックすべきスポットについてのメモ。二枚目以降は、プリントアウトした地図とか交通機関の時刻表とか何かの予約画面とか色々。

その都度スマホとかで調べるより、やはりこういうものがあった方が便利です。

ミラージュツアーもそこそこ回数を重ねてきたので、ミラージュツアーについてのよもやま話的なものでもそのうち書きたいなあと思っています。時間ができたらね。
二日目。7時過ぎに朝食を取りました。一応ビュッフェスタイルですが、それほど品数が多いという感じでもなく。と言っても、この宿泊料で朝食を頂けるだけありがたいというものですね。

ごはんと、高菜の漬物と、味噌汁と、豆腐と、たまご(ゆで&生)と、キャベツの炒め物と、ひじき煮と、サラダと、シーチキンを挟んだロールパン。

熊本らしさはあまりなかったかな。
さて、8時前にチェックアウトしまして、ミラツア開始です。この日も引き続き熊本市街地近辺のマイナースポットを回ります。

写真は、熊本交通センター。多くの路線バスが発着する一大バスターミナルです。この時は工事中のようでした。

ここから、路線バスに乗って、熊本港まで行きます。
実は前日に、熊本駅でちゃっかり「わくわく1dayパス」なるフリー切符を購入済みなのでした。バスのフリー切符は何種類かあるようですが、こちらは熊本港まで範囲に含まれるタイプのもので、一日乗り放題(市電も利用可能)で900円です。


交通センターから熊本港まで片道550円ですので、往復するだけで元が取れますね。


8時24分発のバスに乗車。
河口付近の白川を渡ります。


あの白川水源から湧きだした水がここを通って海へと入るんですね。
9時ちょうどに、熊本港フェリーのりば前に到着。交通センターからは30分ちょっとです。

ここは、16巻で色部さんと御厨樹里が訪れていた場所です。

<フェリー乗り場は最近できたばかりのもので、待合所の建物は大小の三角屋根がなかなかかわいらしい>(『火輪の王国 中編』143ページ)

緑色の屋根の建物が待合所、写真左の方に、フェリーが停泊しています。
フェリーへは、待合所から続く回廊を伝って乗り込むようになっています。

<ここから対岸の島原港へは船で約一時間。直線距離なら二十キロ程度だから、阿蘇よりも近いことになる>(『火輪の王国 中編』143ページ)

島原や雲仙に行くなら、熊本経由というのもありですね。
さて、色部さんと御厨樹里は、ここから対岸の島原半島を見つめながら話をしていたわけですけれども、この桟橋が面している海の向こうに見える山が島原半島の山かと思いきや…実はそうではないんですね。


このフェリーターミナルは南側に面していて、南側というのは、すなわち宇土半島になります。地図で確認してみましょう。


熊本港は島のようになっていて、熊本港大橋で陸続きになっています(路線バスはちゃんとフェリーターミナルの前まで来ます)。フェリーターミナルが面しているのは南側、なんですね。


そして広範囲の地図で見ますと、真っ直ぐ南を見ると、宇土半島であることがわかります。では、色部さんと御厨樹里はどこから島原半島の普賢岳を見ていたのだろう…という疑問はひとまず置いておいて、折角地図を出しましたので、ジュリアが語っていた大友の対島津作戦について振り返ってみることにします。

<「島津は閉め出します」 御厨は自信をもってそう告げた。「島原湾に入って来れないよう、天草五橋を利用して、海峡を封鎖します」 天草五橋とは、九州本土と天草列島を結ぶ大きな橋だ。パールラインと呼ばれ、これによって天草は陸続きになったという、天草のシンボル的な橋だ。「さらに本土瀬戸は天草瀬戸大橋で。最後に、島原・天草間の早崎瀬戸には壁をうちたてて封鎖し、島原湾から島津の船を一切出します」>(『火輪の王国 中編』149ページ)

天草瀬戸大橋は、天草の上島と下島の間にかかる橋。この地図ではわかりにくいのですが、上島と下島は川のような狭い海峡で隔てられています。
そして、ジュリアが言っていた早崎瀬戸に打ち立てる「壁」ですが、天草島原の乱で死んだ原城の霊たちをよみがえらせて壁となすつもりだったようですね。この御厨樹里という人物も、独善的ではあるんですけれども、迷える殉教者たちを今度こそ天国へ導きたいという願いや、彼女自身の中に秘めた悔恨などを思うと、彼女には彼女の正義があったんだろうなと考えさせられます。火輪シリーズは、色んな勢力が複雑に絡み合ってきますけれども、それぞれに背景があって本当に読み応えがありますね。

さて、その色部さんと御厨樹里が立っていた場所ですが…、前述のように、海岸から真っ直ぐ海を隔てたところは宇土半島の山々なわけです(←写真)。


では、この位置から西を向いたら…ということになりますが、新港の西側は工事中だったりして、あまりよく見えません。
フェリー乗船口に繋がる回廊に登って、西の方を見てみましたが、それでも様子がよくわかりません。


というか、この時、西の空はだいぶ雲が多かったので、天気のせいということもあるかもしれませんが。
遮るものがなく、海の向こうに普賢岳が見えるところ…というと、一ヵ所行けそうな場所がありました。

フェリーターミナルの東側に、コの字に囲まれた船着き場のような場所があって、そっちの方まで行けば、真っ直ぐに西の対岸が見えそうです(↑フェリーターミナル周辺地図の★マークの位置)。

←の写真は、船着き場をコの字に囲む道路から。道路の左隣の橋は、熊本港大橋。
上図★マークの辺りにやってきました。


ここから西(写真右の方)を向けば、島原半島の普賢岳が見えるはずですが…。
ああ、これはやはり、天気がいけません…。


写真右の方に見えるグリーンの屋根がフェリーターミナルの建物です。あそこからだと、島原半島側の景色は見にくいということはおわかり頂けましたでしょうか。
ただ、目を凝らしてよく見てみると、高い山の裾辺りの土地がうっすらと見えるんですよね。あれは、間違いなく島原です。アウディノスツアーの時、島原からバスで雲仙まで行きましたが、あの辺りを通ったんだろうなと思わず記憶が重なります。

ジュリアは対岸の島原半島を見て、キリシタン弾圧に思いを馳せていましたが、私も、島原城で見たマリア観音や、雲仙地獄で見た慰霊碑を思い出しました。

水がすばらしく清らかだった島原。もう一度行ってみたいです。
しかし、色部さんたちが立っていた場所は、恐らくはフェリーターミナルの建物の近くだろうと思われます。乗客が桟橋を駆けていくのを色部さんが見送るという描写がありますので(143ページ)。新港周辺はまだまだ工事中の箇所があるようですので、以前は、ターミナル周辺からも島原半島が見えやすい場所があったのかもしれません。


再び、熊本港フェリーのりば前のバス停から、市街地に戻ります。熊本港では1時間ちょっとを費やして、10時17分発のバスに乗車。
10時56分、熊本交通センターに戻ってきました。


次のミッションは江津湖と水前寺公園。交通センターから、水前寺方面行きのバスに乗ります。11時06分発。熊本市街地は移動がしやすくていいですね。


この道路の先の方に、熊本城天守が小さく見えています。
11時半過ぎ、動植物園入口バス停に到着。


写真は、路面電車の「動植物園入口」電停。


道路を渡った向こう側に動植物園があり、その更に向こう側に下江津湖があります。


江津湖周辺の地図です。


オレンジ色のラインが今回歩いた大まかなルートになります。


江津湖は、大観峰で千秋と決別した高耶さんが虎の背に乗って辿り着いた場所です。


自分は本当に謙信公から見捨てられたのか。本当に上杉軍の総大将を降ろされたのか。高耶さんはそれを確かめるため、ここで冥界上杉軍の開扉法を行ったのでした。


でも、作中には「江津湖」としか表記されていないため、その具体的な場所は特定できません。結構な距離があるのですが、時間もあることですし、散策のつもりで下江津湖と上江津湖の両方をぐるりと回り、水前寺公園へと向かうことにします。
動植物園の入口。


閑散としているなあと思ったら、この日は休園日だったようで。動植物園には入らないので関係ありません。
動物園の脇を通って、下江津湖の方へ出ます。


休園日と言っても、動物はちゃんといるんですよね。当たり前ですが。水路の向こうの檻の中にはキリンさんがいました。
下江津湖が見えてきました。


歩いて一周するには、そこそこ大きい湖です。
上江津湖の方を向いて。


写真右の方は動植物園の敷地になります。動植物園の脇を湖沿いに上江津湖の方へと歩いて行けば近いんですが、高耶さんが開扉法を行ったのはどこかなと想いを馳せながら歩きたいので、反対側から下江津湖をぐるりと回ってみることに。
こちらが上江津湖の方とは逆の方(下江津湖の南側)。


ううむ。やっぱり結構な距離です。まあのんびりと歩くことにしましょう。
高耶さんが開扉法を行ったのはどこなのか。前述の通り、場所は特定できないのですが、涙が湖に落ちるシーン(18巻70ページ)や、土を握りしめるシーン(18巻69ページ)があることから考えると、水際がコンクリートではなく土になっている場所であろうと推測できます。


写真は下江津湖の北東部周辺。手前の辺りはどうやら土なんですが、湖岸には水草やゴミが浮いていて、どうも開扉法を行うような雰囲気ではありませんね。
こんな感じで、湖の縁は水草に覆われている部分が多く…。


高耶さんが来た時は、こんなに水草が無かった…のかもしれませんが…。
下江津湖の北東の縁には、遊歩道のようなものがあったので、そこを歩いて、湖の南側へと向かいます。


結論を言ってしまうと、高耶さんが開扉法を行うのにふさわしいと思われる場所はいまいち…見つかりませんでした。ただ、湖の雰囲気から言うと、上江津湖ではなく、こちらの下江津湖の方だろうと思われます。下江津湖の方が広々として静かな環境ですので。


下江津湖の北東部から上江津湖の方(北)を向いて。湖岸の遊歩道はコンクリートですが、縁に少し土が露出ているところもありますね。あくまでイメージですが、ここで、あの名シーンを振り返ってみることにします。

<湖は黒く、静まりかえっている。ときおりさざ波がたつのは風のせいか。高耶は鉛を呑んだように重い胸を抱えて、湖面を見つめた。眼を閉じると、さざ波の音がなぜか越後の海を呼び起こした。(略) ――このわしに、ついてくるか。景虎、と。名を呼ぶときのまなざしの深さを、高耶は忘れていない。はい。と答えた。どこまでもついていきます。謙信は微笑した。その微笑を、高耶は、湖面に映る自分の影に、重ねていた。(略) 「謙信公……!」 闇に向けて高耶は叫んだ。「真実を聴かせてください。私を、捨てるなら捨てると! 終わったというなら終わったのだと! 必要なくなったというなら必要ないのだと! 失意を私は恐れません。ただ真実が聴きたいのです! あなたの口から私は聴きたい!」>(『火輪の王国 烈風編』63〜65ページ)

<「あなたが必要としてくださるなら、私はどこまでもついていくつもりだったのです、義父うえ……! 千年でも。たとえあなたが悪魔だったとしても!」 涙で湖面の月がぶれた。(略) 湖は沈黙している。不開の扉は虚空に消え、あとには小さな月がひとつ、残るだけだった>(『火輪の王国 烈風編』70ページ)

謙信公に命じられたから。景虎様が四百年もの間、換生しながら生きながらえてきたのは、それが理由であることに他ならないのでしょう。他の夜叉衆のように、自由だとか愛情だとか執着だとか、人生に何らかの意義を見出すことは、究極の意味では、きっと彼はしていなかったのだろうと思います(四国編までは)。一見、強くて正義感があり、統率力もある完璧なリーダーではあるのですが、その中身は実は果てしなく空虚…というのが、景虎様の人物像という気がします。
謙信公にしても…本当に悪魔のようだな、なんて思ってしまいましたが、景虎様を総大将から降ろしたのは、魂の限界という理由だけでなく、獅子は我が子を千尋の谷に落とす…的に、一度自分から断ち切ってやらないとだめだと思ったのかもしれませんね。高耶さんは、謙信公や謙信公の命から切り離されて初めて、自分というものを見つめなおし、直江のことも見つめなおすことができたのだとも言えるのではないでしょうか。
この後も、鬼八の毒を吸い込み、直江とも別れ、災難は続きますが、この最悪の絶望は、確かに一つの大きな転換点だったのだろうと思います。

下江津湖の南側から。


水草と岸との境目もよくわからない状態でした。
下江津湖南端の橋を渡って、西岸へと移動します。
橋の上から下江津湖を望んで。


右下の方に、水草の上に青い物体が浮いているのが見えますが、あれは生け簀で、釣り人が釣った指定外来魚を入れるためのものなのだそうです。最近はどこでも外来生物や外来植物の問題がありますね。
下江津湖の西岸を北に向けて歩いていきます。
動物園の対岸辺りまでやってきました。


この時点で時刻は12時45分。1時間以上かけて、下江津湖ほぼ一周分歩いてきました。


朝食はホテルでしっかり食べたため、それほどお腹が空いた感じもしません。コンビニで買っていたバームクーヘンをひとつ、途中で食べました。
下江津湖の北端辺りまでやって来ました。


冬枯れ、曇天の景色に、若干滅入りそうです。
下江津湖の北端で再び橋を渡り、東岸へと移動します。


穏やかな水面が鏡のよう。
上江津湖と下江津湖は加勢川という川で繋がっています。その加勢川沿いを歩いていきます。


因みに、水の流れは、上江津湖→下江津湖の方向へ流れています。上江津湖には多くの湧水ポイントがあるようでしたし、更にその上流を辿ると水前寺公園に行きつくわけですが、水前寺公園の池も、熊本地震の影響で一時枯渇してしまって話題になりましたが、あそこも池の底から湧いている湧水なんですよね。今はもとに戻っているようでほっとしました。
国道の下をくぐってすぐのところが上江津湖です。

後から気づきましたが、この国道、例の57号なんですね。火輪シリーズでは、登場人物が熊本と阿蘇を行き来するのに何度となく利用していた、あの57号です。

この道路を写真右方向へずーっと進んで行くと、阿蘇に着きます。

続きは後編にて。


2017.03.11 up



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