アウディ・ノスツアー

〜長崎の街に二十四歳の直江を探して

前 編




◆旅行日:2013年3月3日〜3月4日

◆行程:
※下線はミラージュスポット
※グレー文字は後編にて

◇3月3日:
羽田空港→(スカイマーク)→長崎空港→(長崎県営バス)→長崎新地→(徒歩)→江山楼(ランチ)→(徒歩)→唐人屋敷跡→(徒歩)→十人町〜オランダ坂→(徒歩)→大浦天主堂→(徒歩)→石橋電停→(路面電車)→松山町電停→(徒歩)→浦上天主堂→(徒歩)→原爆公園→(徒歩)→松山町電停→(路面電車)→公会堂前電停→(徒歩)→松翁軒→(徒歩)→眼鏡橋→(徒歩)→西坂公園
→(徒歩)→長崎ロープウェイ淵神社駅→(ロープウェイ)→長崎ロープウェイ稲佐岳駅→(徒歩)→稲佐山山頂展望台→(徒歩)→長崎ロープウェイ稲佐岳駅→(ロープウェイ)→長崎ロープウェイ淵神社駅→(徒歩)→宝町電停→(路面電車)→思案橋電停→(徒歩)→多ら福(夕食)→(徒歩)→ドーミーイン長崎

◇3月4日:ドーミーイン長崎→(徒歩)→築町電停→(路面電車)→長崎駅前電停→(徒歩)→長崎駅→(JR)→諫早駅→(島原鉄道)→島鉄本社前駅→(徒歩)→鯉の泳ぐまち→(徒歩)→島原城→(徒歩)→島原駅バス停→(島原鉄道バス)→雲仙バス停→(徒歩)→雲仙地獄→(徒歩)→雲仙スカイホテル(立ち寄り湯)→(徒歩)→富貴屋(ランチ)→(徒歩)→雲仙バス停→(島原鉄道バス)→諫早駅バス停→(島原鉄道バス)→長崎空港→(スカイマーク)→羽田空港


◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




どこかサクッと気軽に行けるところに行きたいと思い、行き先を決めた今回の長崎ミラージュツアー。実際のきっかけは、とあるクーポンサイトで「るるぶトラベル」の2,500円分のポイントを500円で購入したことでした。毎度のことながら、涙ぐましいまでに節約してるよ、オレら(笑)。

で、るるぶトラベルでホテルを予約して、実質2,000円引き。長崎ならスカイマークで一人片道10,000円で行けるので、関東の人間にとって遠いわりには、意外とお手軽でしょう?

料金的にはお手軽ですが、スケジュールはいつもながらタイトです。写真は最寄駅駅前のバス停にて。まだ暗い中、早朝5時20分発のバスに乗り、羽田へ。
スカイマークに乗るのは今回が初めて。九州って、スカイマークあり、ソラシドエアあり、ジェットスターありで、関東圏からも意外と行きやすいんですね。ありがたい。

そう言えば、今回は、ミラツア九州初上陸でもあります。火輪ツアーもしたいのですが、忘れてる内容が多くて、復習するのに手間取りそう。今回、「サクッと」行きたいというのは、実はそういう意味合いもありまして。長崎って、ミラージュスポットがある程度集中しているし、短編部分だし、復習しやすいんですよね。
羽田から3時間ほど、10時30分に長崎空港に到着。

長崎と言えば、もちろん『アウディ・ノス』。二十四歳の直江は、謎のマリア観音を抱き、この長崎空港へと降り立ったのでした。

この空港もそうですが、長崎の建築物は教会建築を彷彿とさせるデザインが多いですね。

今回の旅は一泊二日。一日目は長崎独特の風景や歴史に触れながら、若き日の直江の足跡を辿り、二日目はミラツアとは少し離れ、島原半島を旅したいと思います。


一日目は、長崎市内に集中しているので比較的楽ですね。二日目は諫早から島原鉄道に乗り、島原周辺の観光と、雲仙温泉で立ち寄り湯の予定です。


こちらは、長崎市中心部。


主なミラージュスポットは五つ(赤字部分)。私たちは直江が訪れたのと同様、館内町→大浦天主堂→浦上天主堂→西坂公園の順で回ります(原爆公園には直江は訪れていませんが、原作の中で触れられているので、浦上天主堂の後に行きます)。


ツアーの合間に、中華街や眼鏡橋、夜景が有名な稲佐山展望台などの観光地にも立ち寄る予定。

さて、私たちは長崎空港からバスで1時間ほど、「長崎新地」までやってきました。


ここから、直江が最初に向かった館内町は、ほど近くです。


が、時刻はすでに11時半過ぎ。先ずは腹ごしらえ。
バスを長崎新地で降りたのは館内町の近くだからですが、ここには中華街があるので好都合。お昼はもちろん中華街で。


おっと、路面電車を見かけました。長崎も路面電車の街です。
バス停のすぐそばに、中華街の西門があります。


長崎新地中華街は日本の三大中華街のひとつです(あと二つは横浜と神戸)。そう言えば、神戸の中華街も昔行きましたが、美味しくなくて残念な思いをしたことがあります。たまたま入ったお店が悪かったのかもしれませんけどね。
ちゃんぽんが美味しいというお店にやってきました。


「江山楼」さん。60年以上の歴史があるそうです。新館もありますが、こちらは本店。お昼時は混雑するそうですが、私たちは10分程度待っただけで入れました。
席に着くと、謎の調味料が。

この「ソー酢」、どうやら江山楼オリジナルの調味料のようです。「酢」と付くからにはもちろんお酢なのですが、普通のお酢よりだいぶマイルドな感じで、ちょっとコクのある甘酢…みたいなものでしょうか。

私はむせるくらい効くお酢が好きだったりするので、特にハマりませんでしたけど、長崎では結構有名なのだとか。
相方が注文した上皿うどん、1,050円。


とろとろの餡とたっぷりのお野菜の下には、パリパリの揚げ麺が。
私が注文した上ちゃんぽん。こちらも1,050円。さすがはちゃんぽんの本場・長崎。この濃厚な魚介スープは感動ものでした。ものすごく美味しかったです。

しかし、人があまりの旨さに感嘆している傍らで、相方はリンガーハットの方が好きだとか抜かしやがりました(笑)。まあ確かに、リンガーハットも旨いけどさ。

因みに、上ちゃんぽんの他に、普通のちゃんぽんと特上ちゃんぽんがありました。

そう言えば直江、照弘兄に「のんびりちゃんぽんでも食ってこい」なんて言われてましたけど、食べたんでしょうかね?



それでは、ここで一旦地図を確認しておきましょう。黄色は今回歩いたルート。


さて、直江が最初に訪れた「柳瀬家」について、原作では次のように説明されています。

<唐人屋敷跡のある館内町の山手側、坂を少しのぼったところに柳瀬家はあった>(『アウディ・ノス』71ページ ※ページ数は単行本の方を基準としています)

唐人屋敷跡は、今回私が歩いたルートよりもっと広い範囲に渡っています。「山手側」というのはどちらを指すのか定かではありません(唐人屋敷通りは南下するに従って上り坂、また通りの東側も西側も緩く山になっています。ちょうどこの通り周辺が谷になっているような地形)。この辺りのどこか小高い場所にあったのだろうと、雰囲気だけ感じられればよしとしましょう。

 
「福建通り」を歩いていきます。


前方が小高くなっているのがわかります。
大きな十字路の角に「唐人屋敷跡」の碑がありました。


「福建通り」はここから「唐人屋敷通り」となります。
右手に「土神堂」が見えてきました。この辺りから中国式建築が多く見られるようになります。


長崎の唐人屋敷は、唐人を隔絶収容するため、1689年に完成。密貿易や密通の抑制、及びキリスト教禁制の徹底のために、2000〜3000人の中国人がこの地域に収容されたそうです。
土神堂の社。


「土神」とは、中国の民間で信仰された、土地や家を守る神様です。異国の地にやってきた当時の中国人たちにとって、心のよりどころだったのでしょう。
土神堂を過ぎて、さらに唐人屋敷通りを進んでいきます。


道は緩い上り坂。直江も柳瀬家を探しながら、この道を上ったのでしょうか。いや、タクシーでシャーッと通り過ぎただけかな(笑)。
途中で、こんな立派な蔵を発見。


マリア観音が発見されたという柳瀬家の土蔵もこんな感じだったのかなあと思いを巡らせながら歩いていきます。
柳瀬家は、「塀をめぐらせた、庭のこんもりとした緑に埋もれるよう」な屋敷だと書かれています。


それっぽいお家は見当たりませんでしたが、或いはこういう路地を入って行った先の小高い場所にあったのかなあと思いました。


写真は、唐人屋敷通りから東を向いて。
変わった自販機を見かけました。


瓶ビールに混じって日本酒や焼酎の瓶まで。以前、ボトルワインを売っている自販機を有楽町で見ましたが(ノリで買って、皆で回し飲みしました。しかもラッパ飲み…笑)、日本酒や焼酎の瓶を売ってる自販機は初めて見ました。
唐人屋敷通りの一本西の道を通ってUターン。


細い道で、生活感溢れていて、どことなくノスタルジックな雰囲気です。
その小道の途中に、銭湯がありました。


唐人屋敷跡にあるためか、中国語の標語が掲げられたりしていて、中華風レトロな感じ。残念ながら既に廃業しているそうです。
土神堂の入り口前まで戻ってきました。唐人屋敷跡の散策はこれにておしまい。

柳瀬の爺さんから、マリア観音はトラバスという棄教した元宣教師が作らせたものだという話を聞いた直江は、あてもなく歩き出したのでした。

<柳瀬邸を後にして、直江は坂を下りて街のほうへと歩いた>(『アウディ・ノス』81ページ)

と書いてあるので、直江は唐人屋敷通りを海の方へ向かって下って行ったんでしょうね、恐らく。
<マリア観音を腕のなかに抱えて、直江は、そこからあまり遠くない場所にある、大浦天主堂を訪れた>(『アウディ・ノス』81ページ)

柳瀬邸から大浦店主堂まで、直江がどのように歩いたのか、見事に省略されてしまっているので、明らかではありません。「あまり遠くない」なんて書かれていますが、私たちはゆっくり歩いて1時間くらいかかりましたよ。ほぼ最短距離をとって約1時間なので、街の方へ一旦下りた直江はもっと遠回りだったはず…。路面電車でも使ったか? いやいや、直江に路面電車は似合わないでしょう(笑)。やっぱり街でタクシーでも拾ったか。うーん、でも、夜叉衆の脚力は侮れないし…意外と、ちゃんと歩いたのかもね。景虎様のことを想いながらなら、平気で1時間でも2時間でも歩きそうだしな(笑)。

私たちは最初に唐人屋敷跡の碑があった十字路を南東に少し下り、写真のおすし屋さんの脇から伸びる小道を行きます。ここから長崎坂道物語のはじまり。
起伏の激しい十人町の住宅の間を縫うように石段を登っていきます。
こういう住宅街の中の坂道が、妙に郷愁を誘のはなぜでしょう。こういう場所に住んでいたわけでもないんですが。
階段が続きます。


景色がころころ変わって、その都度新鮮なので、大して苦になりません。
何でもない道のようでも、歩いていると度々こういう石碑を目にします。大抵は外国人とゆかりのある場所で、長崎の歴史を感じます。


ピエル・ロチは、フランスの軍人で、小説も書いていた方だそうです。
振り返ってパチリ。


結構登ってきました。


それにしても、縦長の写真が続きますね…。
観光名所というわけではなくても、こういう地元の人々の生活に密着した道を歩くのは楽しいです。仙台でのミラツアでもそうでしたけど、普通の観光なら絶対に通らないような道を歩くというのも、ミラツアの面白さのひとつなんでしょうね。


直江はこの道を歩いてはいないでしょうけれども、思わぬところで、長崎らしい情緒を味わうことができました。
こちらの写真も振り返って撮影したもの。


昭和の香り漂うアパートが。いつまでこういう景色を見ることができるんでしょうね。昭和生まれとしては、こういう古いものを見ると、胸が締め付けられるような思いがします。
坂を登り切ると、右手に活水女子大の建物が見えてきました。


長崎らしい歴史ある建物のように見えますが、1981年に創設されたとのことらしいので、古い建築物ではないようですね。ミッション系の大学らしいので、それらしい雰囲気はあります。
活水女子大の辺りから、緩い下り坂になります。

写真は、右手が東山手十二番館、左手が活水女子大(そのすぐ先が海星学園)という辺り。海星学園は1892年に創立されたミッションスクールです。

ここらで前出の地図範囲から出てしまったので、改めて地図を載せておきます(ミラツアと関係ない建物名を記載していますが、写真で紹介しているので一応載せておきました)。黄色い線が大浦天主堂に行くまでに通った道、オレンジ色の線が大浦天主堂を出てから通った道です。



オランダ坂と合流する辺りは、昭和会病院の裏手になっています。この建物も西洋風というか、教会建築的な雰囲気です。


こちらの写真は振り返って撮影したものです。
<シンボルマークの緑色の八角尖塔が、遠くからもよく見えた>(『アウディ・ノス』81ページ)


直江はどの辺りから、八角尖塔を見たんでしょうね。

オランダ坂を下りていく途中、私も大浦天主堂の八角尖塔を見つけました。写真中央よりやや右に見える、尖がった屋根がそれです。手前には孔子廟の黄色い瓦屋根も見えます。
この坂を下りきると、オランダ坂は終わり。


この部分は結構急な坂道です。


長崎の多種多様な坂道を味わいつくした坂道散歩もひとまず終了。
振り返ると、オランダ坂の石碑が。

どっちがオランダ坂だかよくわからない感じですが、画面右の道(今私たちが下ってきた道)がオランダ坂です。


坂道好きなタモリさんに、ブラタモリとかで長崎を歩いて欲しいですね。『いいとも』が終了したらスケジュールも自由が利くようになるでしょうし。
教会を見つけました。「日本キリスト教団長崎教会」だそうです。


実はこの時は気づかなかったんですが、この教会、正面だけはコンクリート壁?のようになっていますが、この壁の後ろにある建物は木造なんだそうです。少し角度を変えて撮影すると、風変わりな様子がよくわかったんでしょうけれども…、道路を隔てた斜向かいの孔子廟の方に気をとられていたようで…。
こちらがその孔子廟。今回は時間的余裕がないので、中には入っていません。


キリスト教の教会のすぐそばに孔子廟があったり、またこの付近には仏教のお寺もあるという、なんとも不思議な土地柄です。中国南方とか東南アジアの港町的な雰囲気と共通するものがあるような気がします。
そして、孔子廟の向かい(長崎教会隣)には、またもやこんなレトロな銭湯が。

日栄湯というこちらの銭湯、100年以上の歴史があるそうです。


日・中・洋、なんでもありの長崎は、言ってみれば「ちゃんぽん文化」なんでしょうね。色んなものが共存しています。そもそも、あのちゃんぽんもそういう長崎特有の風土の中で生まれた、長崎の文化を象徴するような食べ物だと言えるかもしれません。
「大浦天主堂下」電停のそばで、大浦川を渡ります。
「大浦天主堂下」電停から程近くにある、こちらの中国チックなビルは、「四海樓(しかいろう)」という中華料理店の本社ビルです。四海樓は、ちゃんぽんと皿うどん発祥の店なのだとか。よくテレビにも出てますね。

飲食店とも思えぬ規模のビルですが、中にはちゃんぽんミュージアムなるものも併設されているそうです。

次に長崎に来た時は、こちらのちゃんぽんも味わってみたいです。
グラバー通りにやってきました。

ここは修学旅行生で賑やかな通りです。私も高校の修学旅行で来たはず(グラバー園も大浦天主堂も)なんですが、あまり記憶にないんですよね。もっと言うと、その高校の修学旅行で、阿蘇にも行っているんですが、ほとんど覚えていない…。原っぱみたいなところに馬が放牧されていたことだけ微かに記憶が…。小学校の修学旅行なら、華厳の滝の観瀑台に向かうエスカレーターの中でどんな話をしていたかまでよく覚えている(笑)のに。記憶っておかしなものですね。
グラバー通りで売っていた「びわソフト」を購入。


なんか、旅に出ると必ずご当地ソフトを食べてんな、俺ら。


味は、まあまあかな。ほんのりびわの風味がします。
グラバー通りの突き当たりに、大浦天主堂が見えてきました。
大浦天主堂、正式名は「日本二十六聖殉教者堂」。

豊臣秀吉によって長崎で処刑された26人のカトリック信者のために、1865年に建設された、現存する日本最古のキリスト教建築物です。

二十六聖人が処刑された西坂の丘を向いて建っている…というのは、作中にも書いてありましたね。
当時の日本はまだ禁教令下であり、この大浦天主堂はフランス人のために作られたものでしたが、見物人に紛れて浦上の隠れキリシタンたちが訪れ、自分たちが代々信仰を守り続けてきたことをプチジャン神父に告白したという逸話は「信徒発見」として有名だそうです。


二百年もの間、厳しい弾圧に耐え忍んだ信徒たちと、彼らが思い続けたマリア像が出会った奇跡の場所。その教会へと、直江はこの階段を踏みしめて登って行ったんですね。


<石段を登っていって、古びた天主堂のなかに足を踏み入れた。ステンドグラスの光が、静かに差し込む。堂内は不思議に静まり返っていた>(『アウディ・ノス』81ページ)
<正面の祭壇を、直江は見上げた。十字架にかけられたキリスト像のステンドグラスから差し込む七色の光がとても荘厳だ。その右手にあるマリア像。キリスト教史上有名な「長崎の信徒復活」の逸話に出てくる、あのマリア像だ。(略)直江はそのマリア像を見ながら、自分の腕のなかのマリア観音を、ひそかに力をこめて抱きしめた>(『アウディ・ノス』81〜82ページ)

天主堂内は撮影禁止ですので、写真はありません(ネット上で探すことはできますので興味のある方はどうぞ。ウィキペディアにも載っていました)。作中にある通り、正面奥にステンドグラスのキリスト像があり、少し手前の右手にマリア像があります。確かに荘厳な感じがしますが、観光地として有名な場所ですので、「信徒発見」を説明するテープがかかっていたりして、私が行った時は「静まり返って」はいませんでした。
<殉教者になれなかった自分の信仰は、信仰ではなく……自分に都合のいいだけの、ただの妄想だったのではないか、と。トラバスは、考えたのだろうか。(あなたは自分を敗北者だと――……)そう、思ったのか>(『アウディ・ノス』85ページ)

どんなに想像してみても、トラバス司祭の胸の内などもう知りようもないというのに、その気持ちに思いを巡らせてしまうのは、直江の中にどこか共鳴するものがあったからなんでしょうね。そんな直江は最期に「殉教者」になれたんでしょうか。長い旅路の果てに救いはあったんでしょうか…。

こちらのマリア像は、正面入り口の前に立つマリア像です。
<これ以上、ここにいるのはつらかった。歩き出し、天主堂をあとにしようとした。そこへ、「橘さん……!」不意に名前を呼ばれて、直江は驚いて顔をあげた。階段の下から若い女性が息せききってこちらに向かって駆けてくる>(『アウディ・ノス』86ページ)

マリア観音のことが気になり、直江を追ってきた柳瀬家の孫娘・里穂。彼女が駆け上ってきたと思われる階段を上から見下ろして。

直江は里穂に誘われて、彼女の知り合いの神父がいるという浦上天主堂へと向かうのでした。
私たちは折角なので、キリシタン資料室を見学させてもらいます。


敷地内に建つ「旧羅典神学校」の中が資料室になっています。


そして、この資料室で思わぬ出会いがありました。
マリア観音です。「マリアさま(マリア観音)」というタイトルで、次のような説明書きがありました。

「迫害中の7世代250年、キリシタンたちはこのような慈母観音像をマリアさまとして聖母マリアに祈り続けた。それが1865年大浦天主堂における神父との出会いを実現させる原動力となったのである」

よくよく見ると、ロザリオにも見える飾りを首からさげています。トラバス司祭のマリア観音も、これよりもっとシンプルかも知れませんが、似たような感じのものだったのでしょう。

それにしても、マリア観音を抱きながら歩いた直江の足跡を辿って、マリア観音の実物に巡り合えるとは。この像はどれだけ深い人々の思いを背負ってきたんでしょう…。逆境を生きる人々の希望を一身に担ってきたんでしょうね。

※資料館の方に撮影の許可を頂いて撮影しました。
こちらは踏絵です(東京国立博物館収蔵品からの模製)。


マリア観音も踏絵も、学校の授業で習った記憶がありますが、この長崎の地でこういうものを目にすると、本当に、そういう歴史があったのだという現実味が感じられます。
横から望む大浦天主堂の八角尖塔。


大浦天主堂を見学し終えた後は、私たちも直江を追って浦上天主堂へ向かいます。
と、その前に、「モヤモヤさまぁ〜ず2」でさまぁ〜ずと大江アナが歩いていた道(グラバー園の前辺り)をちょっと見てみようと(私も相方もモヤさまファン)。


そんで、さまぁ〜ずがビードロを買っていたお店で、私たちもビードロを購入。
再度、大浦天主堂の前を通り、今度は賑やかなグラバー通りを通らずに、裏道を通って「石橋」電停へと向かいます。直江はシャーッとタクシーで浦上天主堂に向かいましたが、私たちはもちろん公共交通機関を駆使して行きますよ。


大浦天主堂から程近い、このエリアには「南無阿弥陀仏」と彫られたお墓が。長崎って本当に面白い土地ですね。
またもや坂道。


長崎の裏道的路地は、大体こんな感じなんでしょうかね。どこ行っても、ちょっとした絶景に出会います。
石橋電停に到着。


長崎の路面電車は、大正4年に開業、原爆投下によって、広島の路面電車と同様、甚大な被害を受けたようです。


路面電車が走ってる街っていいですよね。人体に例えると、血管に血が流れているような感じで、どこか生き生きとした雰囲気があります。
浦上天主堂の最寄の電停「松山町」へ行くには、「築町」電停で乗り換え。この路面電車は全区間一律120円なんですが、築町で下りる際、「のりつぎ券」をもらっておけば、乗り換え後、新たに運賃を払わなくていいというシステムになっています。


一日乗車券もあるんですけどね。5回以上乗らないと元が取れないようなので、買いませんでした。
石橋電停から30分余りで、松山町電停に到着。


車両の形は古いのから最新型まで様々のようですね。
松山町電停の前から、大通りを東へ向けて道なりに進んだ突き当たりに浦上天主堂はあります。


単純なので、この付近の詳地図は省略。最初の方に載せた地図を見て下さい。


電停を出て少し進んだ辺りで、小さな川を渡ります。この川の先、右手に見える木々のところが原爆公園です(後ほど寄ります)。
この付近には、平和公園と長崎原爆資料館もありますが、今回の旅では割愛。私は高校の修学旅行で一度行っています。


さて、突き当たりの小高い丘にレンガ色の建物が見えてきました。
先ほどの大浦天主堂での「信徒発見」に出てきた浦上の信徒たちによって建てられたのが浦上天主堂です。彼らは、「発見」された後も、各地に流罪となり弾圧を受けましたが、明治6年に禁制が解かれ、この地に帰ってくると、東洋一の聖堂を目指して建設を始めました。

その聖堂が完成したのは、1914年(大正3年)のこと。しかし、信徒たちの血と汗の結晶であった初代の浦上天主堂は、原爆によって破壊されたのでした。

<天主堂の歴史は、そのまま浦上の信者たちの受難と苦しみを物語るものだった>(『アウディ・ノス』89ページ)
現在の天主堂は、1959年(昭和34年)に再建されたものです(昭和55年に改修)。浦上は、キリスト教を信仰する人々にとって特別な意味をもった土地なのだろうと想像します。

<タクシーで着いた直江は、スクーターの里穂が到着するのを待ち、彼女に案内されて天主堂の建つ小さな丘の急な坂道を登りはじめた>(『アウディ・ノス』87ページ)

直江が里穂に案内されて登った坂道。確かにちょっと急です。
<その坂にはたくさんの焼けただれた天使の石像が並んでいる。「これ全部、原爆で焼かれたものです」 里穂は直江にそう語った。「爆心地の近くなんです。すぐそこが平和公園なんですけど、原爆落下中心地にはこの浦上天主堂の倒壊した壁の一部が立っているんです」>(『アウディ・ノス』88ページ)


坂を登りきった辺りに、焼けただれた天使の像はあります。ところどころ欠けていたり、首から上がなかったり。とても痛々しいものです。あ、こちらは天使像ではなく、聖人像でしょうか。
天使像は、天主堂に向かって右手の方にあります。遠目に見るとお地蔵さんのようですが、よく見ると肩の辺りに羽が生えています。


長崎というのは、多様な文化が流入して賑わったハイカラな貿易港というイメージがありますが、一方ではキリシタン弾圧や被爆という凄惨な体験をした受難の地なんですよね…。
<坂の上に赤煉瓦色のタイル壁の立派な天主堂が建っている。夏の青空に、屋根部分の三つの十字架の白が映える。焼けただれた天使を見つめていた直江は、里穂に言われてまぶしげに大きな天主堂を見上げた>(『アウディ・ノス』89ページ)


雲が出ていてよく見えませんが、両側の塔の上と中央の屋根の上に、確かに三つ、白い十字架があります。夏の青空を背景にしたら、さぞ美しいでしょうね。
<天主堂のなかは人もまばらだ。つい最近できただけあって、なかは新しくてさすがにきれいだ。大浦天主堂よりも広い。左右に長椅子が並び、一番奥の壁には大きなキリスト像、その上にはステンドグラスのマリア像がある。両壁にもたくさんステンドグラスがあって、なかを美しく荘厳に彩っている>(『アウディ・ノス』89ページ)

こちらも堂内は撮影禁止ですので画像はありません。グーグルマップで中の様子が見られますので、興味のある方はこちらからどうぞ(別窓展開)。
大浦天主堂は観光地化しているため歴史的建造物という印象が強かったのですが、こちらの天主堂内部は、現在もミサが行われているだけあって、祈りの場としての教会の本来の姿そのままという感じを受けました。


両壁のステンドグラスから差し込む神々しい光、正面奥にある真っ白いキリスト像、両側に整然と並ぶ長椅子。それらを見ていると、わけもなく泣きたくなるような感じがしてきます。
<教会や寺や神社といったところではよく感じる清浄さだが、ここのは特に濃くかつ澄んでいる。(祈念……だ) 天主堂を中心にして、この土地の土には、昔から、多くの祈りが、しみついて、なおあふれている。あたかも降り積もった純白の雪のように>(『アウディ・ノス』90ページ)


私は何の信仰も持っていない人間ですが、天主堂内部の厳かな空気に包まれると、作中で直江が表現した「祈念」という言葉が何となく理解できるような気がしました。
直江が堂内でマリア観音を取り出すと、凝り固まったトラバス司祭の残留思念は、人々の祈りの念によって、ゆっくり溶かされ、昇華したわけですが、そんな奇跡も信じられてしまうような、不思議な雰囲気が、この天主堂にはあります。

そして、そこに現れた、事情を何も知らない松永神父に、「美しい……マリア像ですね」と声をかけられた時、トラバス司祭の残した負の念は、完全に許され、祝福とともに神の世界へと迎え入れられたのでしょう。松永神父のこの一言が、この短編のクライマックスなのではないかという気がします。私はこのシーン、とても好きです。
長崎にミラージュツアーに行かれるのであれば、この浦上天主堂は是非訪れて頂きたいです。たぶん、その場に立ってみないと、この雰囲気は伝わりません。


なお、こちらは普通の教会ですので、自由に見学はできますが、月曜はお休みとのことですのでご注意下さい。見学は無料ですが、建築物等の維持のためにも献金箱に気持ちばかり寄付をするといいかもしれません。因みに大浦天主堂の方は、年中無休で見学料は300円かかります。
浦上天主堂を後にし、里穂ちゃんが触れていた「原爆落下中心地」に立つ、倒壊した以前の天主堂の壁の一部というのを見に来ました。

原爆落下中心地は、「原爆公園(爆心地公園)」として整備されています。左の黒い御影石の碑は「原爆落下中心碑」、右手奥に見える煉瓦の柱のようなものが、旧浦上天主堂の遺壁です。

しかし、この角度で撮ると、背後に立つラブホテルの建物がばっちり写ってしまうんですよね…。不謹慎な気もしますけど、よく解釈すれば、これも平和な世の中になった証拠、ってことなのかな…。
こちらが、移築された旧浦上天主堂の遺壁。


かつては東洋一の壮大さを誇った天主堂だったそうです。銘板には、原爆でほぼ跡形もなく破壊された旧浦上天主堂の無残な写真が載っています。浦上天主堂の位置は、爆心地から500メートルの距離だそうですが、原子爆弾の脅威を改めて思い知らされるような写真です。


さて、この時点で時刻は16時ちょっと過ぎ。この辺りで小休止を挟みます。松山町電停から再び路面電車に乗り、「公会堂前」までやって来ました。有名なカステラ屋さんに立ち寄り、ミラツアとは関係ない観光地・眼鏡橋を見に行きます。まあ、眼鏡橋は見たいと思っていましたが、実を言えば、西坂公園で夕暮れを迎えるための時間調整(笑)。

こちらがそのカステラ屋さん、松翁軒.。

広島のもみじまんじゅうと同様、長崎のカステラもどこのお店が美味しいか、好みによっても違うようですね。ネットで事前に調べて、ここのならいいかなと。あと、ちょうど眼鏡橋の近くに本店があったので立ち寄りやすいということで。

しかし、買う気がなければ入りにくい店構えですね。
ショーケースを見ていると、何も言わなくても、すぐにお茶とカステラの試食が! これはますます買わないと出にくい(笑)。まあ、もともと買うつもりだったのでいいんですけど…。

ここのチョコレート味のカステラが美味しいという評判だったので、食べてみたかったんですが…、試食では都合よく出ませんでした。でも、プレーンのも、抹茶風味のも、しっとりしていて美味しかったです。

お土産を買って、ちょっとした休憩もできて、一石二鳥。
中島川沿いに出ると、菜の花が満開でした。

古い石橋と黄色い菜の花の共演がなかなか素晴らしい。

この中島川には眼鏡橋だけでなく、雰囲気のある石橋が多いようですね。写真に写っているのは、眼鏡橋より二つくらい上流に架かっている橋かと。
川の水は濁っていますが、大きな鯉がたくさん泳いでいます。
アオサギの姿も。
こちらが有名な眼鏡橋。こうして見ると、水面に反射して、確かに眼鏡のよう。


眼鏡橋は、1634年に架けられた、日本初の石造りアーチ橋だそうです。度々水害によって損壊するも、流失することなく現在に至っているんだとか。
川には飛び石があって渡れるようになっています。眼鏡橋撮影のベストスポットもこの飛び石の上…でしょうか。


そう言えば、モヤさまでも、ここを渡っていました。
付近の堤防には、ハートストーンと言われるハート型の石がいくつか埋め込まれていて、観光客を楽しませているんだそうです。


写真の中にも、これがそうかな〜という石が写っていますが、どれかわかりますか?
古い石橋の架かる風景を楽しんだ後、西坂公園へと向かいます。路面電車に乗ってもいいかもしれませんが、電停までも歩くし、どうせ二区間しかないし、ということで、いっそ歩くことに。


眼鏡橋から徒歩でおよそ20分くらい。途中の景色は至って普通の街中の景色なので省略です。
17時15分、西坂公園に到着(階段を登ったところが公園)。

陽がだいぶ傾いてきて、もしかしたら着く前に日没になってしまうかもと少々焦りましたが、何とか間に合ったようです。

ストーリーとしてのクライマックスは、マリア観音の残留思念が昇華したところでしょうけれども、直江の感情が最高潮に達するのは、この西坂公園のシーンでしょう。
<長崎の街は暮れようとしていた。どこかで蜩が鳴いている。直江は里穂たちと別れて、西坂公園にやってきた。二十六聖人の殉教地だ。ここには秀吉の禁教令によって捕らえられ処刑された二十六人の外国人宣教師および信徒たちの、等身大のブロンズ記念碑が建っている>(『アウディ・ノス』94ページ)

この地が処刑場となったのは、キリストが十字架に架けられたゴルゴタの丘に似ていることから、信者たちがこの地でと自ら願い出たのだそうです。二十六聖人以降もこの地で多くの人々がむごい手段で処刑されたそうです。

写真右手奥に見えるレリーフが「等身大のブロンズ記念碑」なんですが……
あれ? 「記念碑の長い影」ができていない…。


作中の描写によると、「オレンジ色に染まる公園に記念碑の長い影ができた」と書かれている(97ページ)のですが、この記念碑は南西方向を向いており、夕暮れ時の影は公園側ではなく、すぐ背後にある「日本二十六聖人記念館」側に伸びています。むむむ…。
しかし、木々の影が長く伸びていて、雰囲気を味わうことはできます。

写真は公園の南西角付近。この端っこに立つと、ようやく海が見えます。建物に邪魔されて、思ったほど眺望はよくありません。

海のほうを見つめていた直江は、きっとこの辺りに佇んで、景虎様のことを想っていたのでしょう。
<夕方の風が西坂の丘に吹いている。直江はそこに立って、海のほうをじっと見つめていた>(『アウディ・ノス』95ページ)

直江が見つめていた海(長崎港)。

直江は、どこか物哀しい印象を受ける夕暮れの長崎に身を置き、この地で散った殉教者を思い、殉教者になれなかった者のことを思うのでした。そして、イエスに重ねてしまう景虎という存在へと思いを馳せ…。
<赤い夕陽が稲佐山の向こうにおちていく。もしかしたら今、景虎も、生きてどこかで同じ夕陽を見ているかもしれない>(『アウディ・ノス』96ページ)

生死不明の景虎のことを絶えず想い、ふとした瞬間にもこういうことを思ってしまう直江がいじらしく、切なくなってしまいます。何気に、あの「東大寺二月堂」にも匹敵するくらいの名シーンかもしれませんね。

左の写真は、西坂公園を降りて、稲佐山に向かう途中、浦上川の近くから稲佐山を撮ったものです(西坂公園からだと木や建物に遮られてよく撮れないため)。頂上には展望台やテレビ局の電波塔が見えます。


<彼を、愛している。肉体の拷問で信仰を試されたように、時間が自分を試すというなら、いくらでも試されてみる。苦悩が試すというならどの瞬間も。死ぬまで。死がないというのなら、永劫。永劫を背負える、愛を>
(『アウディ・ノス』97ページ)

「永劫を背負える愛」というのは、この『アウディ・ノス』のサブタイトルにもなっている言葉ですね。この短編が最初に発表されたのは1994年8月号のコバルト。本編の流れで言うと、第2期が始まったばかりの頃(『黄泉への風穴』の頃)でしょうか。なので、まだまだこの長いストーリーの終焉なんて、桑原先生ご自身も見えていなかったんじゃないかと推測しますが、その割には、まるでこの物語の結末を予告するような言葉で、それを思うと、何というか…ちょっと背筋がぞっとするような気持ちがします。「時間が自分を試すというなら、いくらでも試されてみる」、その言葉が、最終巻の直江に圧し掛かってくる重さを考えると…。最終巻を読んだ後に改めて読むと、このシーンの台詞ひとつひとつが深みを増してくるように思えます。

<名を呼んだ。四百年間、誰のものよりも多くその唇で呼んできた名前を。オレンジ色に染まる公園に記念碑の長い影ができた。聖人たちは、今も沈黙して、この長崎の街を見下ろしている。主と同じ十字架にかけられて彼らもその名を呼んだだろう。そして棄教者たちも。その足に愛する者の御影を踏みながら、心のなかで名を呼んだだろう。祈るように。(愛している……) 今同じ時間もどこかで呼吸しているはずの景虎に向けて、直江は語りかけた。あの日の殉教者のように。(――あなたのそばにいく……)>(『アウディ・ノス』97〜98ページ)。

この短編は、謎のマリア観音を軸に、直江が長崎の街を訪ね歩きながら、トラバス司祭という棄教者に自らの思いを重ねていくというお話でした。その残留思念に直江を共鳴させたのは、直江の中の罪の意識に他ならないでしょう。もちろん、美奈子の件があります。自分を信じてくれていた景虎を裏切った過去。それに、そもそも、景虎へ寄せる想いそのものが後ろ暗いものであったはずです。崇敬と裏腹の嫉妬、威圧されることへの恐怖、敗北感、またそこから生じる憎悪。更にはそんな景虎を屈服させたいという支配欲と歪んだ肉欲。何だか書いてみると、本当にひどいな(笑)。「愛している」なんてとてもその口から言えないだろうと思ってしまうくらい。昔の殉教者たちとは違い、直江は第三者に迫害されているわけではありませんが、己自身の心に起因する分、問題はより複雑なのかもしれません。それでも、どうすればこの愛を証明できるのか、殉教者になれるのか、景虎の魂に寄り添うことができるのか…、そう模索することを止めなかった直江は、それだけで実はすでに敗北者ではなかったのだと言えるかもしれません。いや、そう言ってあげたい。高耶さんをまだ知らずに苦しんでいる二十四歳の直江を見ていると、そんなふうに思えてきます。

上の写真、中央奥の方が公園の南西角で、直江が立って海を見ていたと思われるところです。記念碑は画面より右の方に、海を向くように建っています。そして、ちょうど鉄塔の向こうに見える山が稲佐山。


アウディ・ノスツアー、前編はここまで。後編もありますが、ミラージュツアーとしては、前編でほぼ終了です。後編は、1日目の続きでこの後、稲佐山からの夜景を見に行きます。2日目は島原半島を巡り、島原で美しい湧水や島原城を見学した後、雲仙温泉へ。長崎ミラツアの総括も最後に載せてあります。興味のある方はどうぞ。


2014.02.03 up








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