小雪舞う仙台、伊達な歩き旅

〜六つの結界点を制覇せよ!

前編



旅行日:2012年2月18日〜19日

行程:(下線はミラツアスポット)

2月18日:関東某所→東京駅→(新幹線)→仙台駅→(市営地下鉄)→北四番丁駅→(徒歩)→東北大学農学部→(徒歩)→東北大学医学部附属病院→(徒歩)→青葉山トンネル出口付近(の対岸)→(徒歩)→青葉城跡→(徒歩)→
瑞鳳殿→(徒歩)→米ヶ袋の高校→(徒歩)→新幹線高架下→(徒歩)→仙台駅前→(バス)→青葉城跡→(バス)→仙台駅前→(徒歩)→居酒屋・大黒→(徒歩)→居酒屋・源氏→(徒歩)→ホテルグリーンセレク

2月19日日:ホテルグリーンセレク→(徒歩)→広瀬通一番町付近→(徒歩)→阿部蒲鉾店→(徒歩)→仙台駅前→(バス)→秋保温泉・ホテルニュー水戸屋→(バス)→仙台駅→(新幹線)→東京駅→帰宅


同行者:パートナー





ここ数年、年末に旅行に行くのが恒例になっていたのですが、去年は諸事情により行かなかったので、ここらでどこかに行こうかという話に…。

先日、四国編以降をちらちらと読み返していた私としては、心は四国〜熊野〜伊勢神宮辺りを行ったり来たりしていたのですが、ミラツア候補地(あくまでミラツア前提)から相方が選んだのは仙台。郊外にある温泉に行きたかったようです。

復習の時間はたっぷりあったので、3巻『硝子の子守唄』&4巻『琥珀の流星群』を読み返し、虎の巻を作成し、綿密なスケジュールを立てていざ出発です。

東京駅7時12分発の新幹線に乗るため、家を出た時はまだ薄暗かったです。しかも、うっすらと雪が積もってるし。
仙台ミラツアはここが起点ですね。東京駅八重洲改札口。電話で直江が(ほぼ一方的に)指定した待ち合わせ場所です。

あさっては期末試験だと言う高耶さんに、「あなたの日常のまじめな勉強ぶりなら、試験なんて受けなくても大丈夫でしょう?」などと嫌味を言ったり、文句を言う高耶さんに畳み掛けるように要件だけ告げてブチリと電話を切ったり、この頃のある種の軽みがある直江って何かいいですよね。ミラージュがまだ平和?だった頃の話です…。

しかし、高耶さんが待ち合わせ場所に来ると、居たのは綾子ねえさんだけ。直江は収賄事件に絡んだ変死事件を追うため山形に行っていたのでした。

写真は、改札内側からです。
今回乗るのは、「Maxやまびこ123号」。

高耶さんたちが乗ったのと同じ「やまびこ」の名がついていますが、当時の車輌とはだいぶ違うかと思われます。
多少眺めがいいかと思い、座席は2階席を取りました。

それにしても、久々に3〜4巻を読み返したのですが、初々しい高耶さんが超新鮮でした。伊達政宗のことを「有名人」と言ってみたり(四国編ではその政宗を破っていたくせに!)、国領さんに悪態ついたり(深志の仰木健在!)、自分では怨霊退治できず綾子ねえさんに庇ってもらったり(弱い高耶さんもまた素敵!)、お母さんに甘えたい子供心を抱きながらも素直になれなかったり(甘えたな高耶さん最高!)。

後の高耶さんとは同一人物だと思えないくらいの初々しさですが、あの凄まじく強い「仰木高耶」の根底には間違いなく、この頃の「柔な」部分を抱えた高耶さんがいるんだなあと思うと、高耶さんという人がより一層愛しく思えてくるのです。
今回の旅は、JTBのツアーを利用しました。

往復の新幹線+ホテル素泊まりで、一人18000円くらい?でした。普通に行くと、新幹線の往復だけで2万円超かかるので、なかなかお得です。
新幹線の中で朝食。

旅行の時は、体調管理のためなるべく野菜ジュースを飲むようにしています。特に今回は、徒歩勝負のハードな旅になりそうなので…。
大宮手前では、綺麗な富士山が見られました。
うっすらと雪を被る田畑。

仙台も雪が積もってるのかなあと心配しつつ。
ついこんな駅名にも反応してしまうんですよね、宇都宮。
こちらは郡山。

仙台編の高耶さん登場シーンは新幹線がこの駅を発車した時でした(東京駅云々は回想シーン)。

半分ほど残した駅弁を綾子ねえさんに食べてもらってましたけど、もし隣にいたのが直江だったら、高耶さん、バクバク食べてたんじゃないかなあ…なんて気もします。
さてさて、仙台駅に到着しました。

ここは高耶さんたちも通ったペデストリアンデッキ。

ペデストリアンデッキって何ぞや?と私は思ってしまったのですが、駅や高層ビルの周辺に、歩行者と自動車の通行を分離するために設置される「歩行者回廊」のことだそうですね。

そして、ここ仙台駅西口のペデストリアンデッキは、日本で最大規模のものなのだとか。
仙台に着いて早々具合が悪くなった綾子ねえさんは、ペデストリアンデッキにあるベンチに座りこんだのでした。

この時、仙台には尋常ならぬ霊気が漂っていました。最上義康の手による「金輪の法」の呪詛によるものです。

ではここで、物語を振り返っておきましょう。仙台編は、呪法を用い、仙台遷都計画を目論む最上VSそれを阻止せんとする上杉&伊達の闘いでしたね。

大物代議士に憑依して政治的権力で国を動かそうとする最上義光に対し、その子の義康は霊力に秀で、呪力により市民を洗脳しようとしていました。
義康は、半径約1.5キロメートルの円上にある八つの結界点で仙台市街を結界するつもりでした。結界点は、建物を倒壊させた上で「招魂法」を行い、呪法の「壇」を据えることによって成就します。

高耶さんと綾子ねえさんが仙台にやって来たのは、そもそも、彼が引き起こした「謎の連続建物倒壊事件」のためでした。

それでは、仙台の街に置かれた結界点についておさらいしてみましょう。

(左の写真はペデストリアンデッキの上から撮った仙台駅です)



@は宮町のビジネスホテル、Aは鉄砲町のビル、Bは米ヶ袋の高校体育館、Cは青葉山トンネル出口、Dは東北大学農学部、Eは東北大学医学部(附属病院)、Fは東北新幹線高架下、Gは青葉城址。

@〜Bは高耶さんたちが仙台に入る前に倒壊。CとDは仙台に入って三日目にほぼ同時に倒壊。Eは五日目に倒壊するも、千秋&綾子らによって退けられたため、呪法は成らず。FとGは予想結界点で、実際には倒壊していません。倒壊後、招魂法が行われた結界点は、@〜Dの五つ。後編で義康の施した呪法の力を中和させるため、夜叉衆が二手に分かれてこの五つの結界点に地鎮に向かいますが、高耶さん&直江が向かったのはDとC、千秋と綾子ねえさんが向かったのは@〜Bでした。

今回の旅では、八つの結界点のうち、特定できない@Aを除く六つを巡ってみる計画を立てました。Dの東北大学農学部から反時計回りに、Fの東北新幹線高架下まで、途中瑞鳳殿も含め、ぐるりと歩いて回ります。観光地ではない場所が多いのでバスは利用できません。しかも、広瀬川が蛇行しているため、何度も橋を渡るので相当の距離を歩くことに…。一応、事前にGoogleマップなどで所要時間の目安は確認しましたが、果たしてちゃんと回れるのでしょうか。

最初に行く第五の結界点・東北大学農学部までは、仙台駅から市営地下鉄で行くことにします。

最寄り駅は北四番丁駅。

東北大学農学部は、高耶さんが狐の霊を操る女(=最上義康)と戦った場所です。≪力≫もまともに使えず窮地に陥った高耶さんは、高坂によって助けられ、伊達の屋敷へと連れて行かれたのでした。
北四番丁駅から歩いて10分程度で東北大学農学部に到着。倒壊したのは、この中の研究棟でした。

またここは、物語後半で、地鎮のために直江とともにやってきた高耶さんが、仙台編で初めて≪力≫を使い、毘沙門刀を振るった場所でもあります。高耶さんが毘沙門刀を振り回すと、「サイキックアクションなんだなー」って感じがしますね。

<「いくぜ、怨霊!」毘沙門刀を振りかざして高耶が叫ぶ。(略)高耶が「景虎」を己とし景虎が「高耶」を己とした、その瞬間だった>(『琥珀の流星群』139ページ)
次は、第六の結界点(呪法は未成就)・東北大学医学部附属病院。

ここが倒壊した時、綾子ねえさんはケガするわ、周りの人は最上の洗脳にかかって救助活動をしないわ、そうこうするうちに高耶さんのいる慈光寺は高坂に吹っ飛ばされるわで大騒ぎでした。

その翌日、ここで千秋&綾子VS義康&高坂の戦いが繰り広げられました。片倉小十郎景綱が現れたこともあり、義康らは退けられ、結界点としては成就していません。
観光地ではないですし、用もないのに立ち入るのも何ですから、写真を撮ったらサクサク進みます。

しかし地味な旅だな(笑)。相方が歩くのを厭わない人でよかったです。

そんな旅でも楽しい発見もあります。写真は道すがら見つけた老舗飴屋さん。明治十七年創業だそうです。立ち寄って飴を一袋買いました。こんな出会いは歩き旅ならではですね。
さて、第四の結界点・青葉山トンネル出口へ向かうため、川沿いの道へと降りて行きます。

とあるミラツアサイトさんに、トンネル出口付近は、近づいても樹木が邪魔をして見えない(冬だから見えたかもしれませんが)というような情報が書かれてありましたので、参考にさせて頂き、私は広瀬川を挟んで対岸から望んでみようというわけです。
この仙台西道路というのは自動車専用道路で、結界点の場所もトンネルとトンネルの間というだけあって、崖下のような場所にあり、歩いて行くには非常にアクセスしづらい場所にあるのです。

見えるかな〜と不安に思いつつ、川沿いの歩道をてくてく歩いて行きます。

写真左側の崖下辺りに広瀬川が流れています。
今回の旅では、ジョギングをしている人たちをたくさん見ました。小学生から東北大学の学生さんまで。仙台の人はスポーツ好きなのかなあ。

青葉山トンネル出口の結界点は、物語後半で、高耶さんと直江が先の東北大学農学部に続いて地鎮に向かった場所ですが、二人が互いに庇い合って、何気にラブラブなバトル展開だった(と私は感じた)のでした。

<「おまえが死ぬのは、……だめだからな」「景虎さま?」「オレは、おまえじゃないと嫌だからな。肉体換えるから平気だなんて、そんなの、絶対許さないからな。オレが許さないからな」>(『琥珀の流星群』156ページ)
うーん。辛うじて、遠くから青葉山トンネルの出口付近を望むことができました。黄色い矢印のところがトンネル出口です。

何だか様子はイマイチよくわからないけど、ま、一応写真に収めたし、いっか、と思っていたら、翌日に思いがけないことが…(それはまた後ほど)。
いよいよ次は青葉城址に向かいます。

青葉城は結界点としては裏鬼門に位置するため、最後の予想結界点でした。もっとも、ここは結界点としてよりも、最上義光とのラストバトルの地と言うべきですね。

写真は広瀬川にかかる淀橋。この橋を渡って真っ直ぐ南下(写真右方向)すると、青葉城三の丸跡に建つ仙台市博物館に辿り着きます。
ようやく仙台の観光地に突入です。

市内中心部の観光に便利な「るーぷる仙台」を何度か見かけました。600円で一日乗り放題らしいんですけど、青葉城址と瑞鳳殿以外のミラツアスポットには惜しくも未対応(笑)ですので、利用しませんでした。
物語佳境で、結界点の地鎮を終えた夜叉衆四人と、伊達成実率いる兵らは、青葉城に本陣を据えたラスボス・最上義光を倒すため、本丸跡を目指します。

大橋を渡り、敵兵をなぎ倒しながら、本丸への急な坂道を一気に駆け上ったわけですが、その本丸までのルートは大まかに二つに分かれています。大手門脇櫓を経由する道(青いルート)と仙台市博物館の奥から登って行く道(赤いルート)です。青いルートはバスも通る(2012年2月現在では東日本大震災の影響で車輌通行止めになっており、バスは別の迂回路を通っているようでした)舗装道路、赤いルートは途中未舗装箇所もある山道。

高耶さんたちは一体どちらの道から登ったのか? 判定しにくいのですが、三の丸跡の仙台市博物館付近を通っていることから、私は赤いルートの方だと仮定して、こちらから登ることにしました。
仙台市博物館手前の外堀。

凍った上に雪が降り積もり、見事に一面真っ白でした。
三の丸跡に建つ仙台市博物館。

<青葉城の三の丸跡付近は伊達成実軍と上杉の夜叉衆が、最上の兵と大乱戦を繰り広げている>(『琥珀の流星群』206ページ)

仙台市博物館はこの時、館内復旧工事のため、お休みでした。運がいいと、ここで政宗公のあの細い月形の前立で有名な甲冑が見られるそうです(常設展示ではないらしいですが)。

この博物館の辺りで、高耶さんは小さな階段に足を取られ、アスファルトに倒れこみました(そして、すかさず庇う直江…笑)。

こんな感じの浅い階段でしょうか。

因みに、帰りは青いルートの方で帰ってきましたが、特に階段らしきものは見当たらなかったような気がするので、高耶さんたちが登ったのは、やはりこの博物館のすぐ脇を通って山道を抜けていくルートだったかもしれませんね。
博物館近くで政宗公の胸像を発見。

下にある説明書きを読むと…これは、本丸跡に建つ政宗公騎馬像の最初のものなのだそうです。何でも、第二次世界大戦中軍に徴用されたものの、この部分だけは溶解されず、打ち捨てられてあったのだとか。

政宗公の像まで溶解して戦争に使おうっていう時代が、この日本にもあったんですよね…。しかし、結局この部分だけ残ったということは、やはり溶かすに忍びなかったということなのでしょうか。
さて、次々と骸骨武者をなぎ倒していく高耶さんたち。三の丸付近の敵兵は成実軍に任せ、夜叉衆四人は本丸目指して急な坂道を駆け上っていきます。

博物館の奥から、本丸へと続く細い道が伸びています。
確かになかなか急な坂道です。

春日山城を思い出しましたが、あっちの方が雪が多かったし、もっと大変だったかな…。
場所によって雪が積もってる場所とそうでない場所が両極端でした。

道がくねくねと曲がっているので、風の吹き込む方向によって違うのでしょうか?
ここで、大手門脇櫓を経由してくる道(青いルート)と合流します。
結構な積雪です。表面の雪は柔らかいんですが、下の方は踏み固められて氷状になっており、ツルツル滑ります。一回コケました。

高耶さんたちと同じ夏だったら、緑陰の下、気持ちよく登れたかもしれませんね。
でもまあ、冬は冬なりに情緒がありました。今回の旅でとにかく不思議だったのは仙台の雪。この二日間は基本的に「晴れときどき曇り」的な天気だったのですが、晴れている時もなぜかずっと細かな雪が降っているんです。写真には写っていませんが、本当に絶えず降り続けていました。降る…と言うより、舞っていると言った方がいいかもしれません。白い小さな雪粒がちらちら、ふわふわと。気温が低いから大気中の水分が凍って舞い降りてきているような、そんな感じでした。時には雪から氷になってダイヤモンドダストのようにキラキラと輝いていたり。仙台では普通のことなのか、この時だけの現象だったのかはわかりませんが。関東では見たことのない雪でした。
そんな雪に見守られながら登っていくと、本丸の石垣が見えてきました。

1997年から七年かけて修復工事を行い、積み直したものだそうです。
本丸詰門跡に建つ護国神社の鳥居。物語中にある「本丸の門跡」というのはここのことかと。

途中で千秋が盾になって残ったので、ここにたどり着いたのは高耶さんと直江と綾子ねえさんの三人。

石段の上から襲いかかる武者たちを高耶さんが薙ぎはらい、直江と綾子ねえさんは高耶さんを庇いながら調伏しまくります。
高耶さんが毘沙門刀を振り回しながら一気に駆け抜けた石段。

<門を固めた兵たちが崩れた。いっきに駆け抜けた。この先に義光はいるはずだ。他には目もくれない。本陣は本丸跡に据えたはず。大勢の武者が侵入者をはばむ。「どかんか、雑魚ォ!」高耶が毘沙門刀で思いきり薙ぐ。直江が後方の追っ手を消す>(『琥珀の流星群』208ページ)

この頃の高耶さんって、≪力≫は戻ってもノリは深志の仰木なんですよね(笑)。
綾子ねえさんも途中で「あたしにまかせなさい!」と残ったので、この見晴らし台にたどり着いたのは高耶さんと直江の二人でした。

後から千秋と綾子ねえさんも追いつき、義光が顕現させた蔵王権現には千秋の木端神から出現させた青面金剛で迎え討ち、高耶さんはやっぱり最後も毘沙門刀で義光を調伏したのでした。

本丸跡は復元された建物は特にありません。もともと天守閣もなかったようです。徳川家康に敵対心がないことを示すために造らなかったとも言われているようですね。
政宗公騎馬像までやってくると、何やら最近流行り?の武将隊らしき方々と取材のテレビカメラが!

後日ネットで調べて、武将隊は「奥州・仙台おもてなし集団 伊達武将隊」の皆さん、取材陣は台湾のテレビ局だということがわかりました。

取材を終えた後、もちろん一緒に写真を撮ってもらいましたとも!(笑)
右の派手な格好のお兄さんは、政宗公が遣欧使節としてローマまで遣わした支倉常長さんです。

政宗公は気さくにもわたくしめごときに「どこから参ったのじゃ?」とか「これからどこに参るつもりじゃ?」とか色々話しかけてくれました。「瑞鳳殿に行く予定です」と畏まって申し上げると、政宗公は「さようか。瑞鳳殿は階段が長いからのう。足腰が鍛えられるじゃろうて。はっはっは」というようなことを仰られました。

政宗公としゃべっちゃったよ!と興奮する私の横で、「俺は何で俺より年下のヤツに偉そうにタメ口きかれなきゃなんねえんだと思ったよ」などと罰当たりなことをほざく相方。まったく不粋だなあ。

伊達武将隊のHPはこちらからどうぞ(別窓)。


仙台の街を見守るように建つ政宗公騎馬像。

遅れてきた英雄は、天下は取れなくとも、戦の中で命を落とすこともなく七十歳まで生涯を全うしました。そんな政宗が晩年に詠んだ漢詩があります。

馬上少年過 (馬上少年過ぐ / 馬に乗り戦場を駆け抜けた若い日々はとうに過ぎてしまった)
世平白髪多 (世平らかにして白髪多し / 今は太平の世となり、自分の頭にも白髪が増えた)
残躯天所赦 (残躯は天の赦す所 / この身が乱世を生き延びてしまったのも天が赦したからだろうか)
不楽是如何 (楽しまずんば是れ如何 / だとしたら余生を楽しまずしてどうしようか)

いかにも趣味多き政宗公らしい歌だと言えますが、最後の一句は、「楽しまずは是れ如何」と読み、「楽しいと思えないのはどうしたことか」と取る説もあるようで、天下を取ることもなく徒に年を取る虚しさを表現しているのだとか。もしかしたら、政宗公はわざと両方に取れるよう歌ったのかもしれません。切ない胸のうちを、豪放磊落な気性に包み込んで詠んでいる…。だとしたら、正に「伊達」な心意気の光る素敵な歌だと思います。

ミラージュの中の政宗について言えば、闇戦国の怨将の中で特異な存在だったように思います。再び天下取りの夢を見んと蘇る数多の怨将の中にあって、政宗は初め自分は野望のために蘇ったのではないのだと、ただ仙台を守護したいだけなのだと言っていました。戦の中に身を投じていくうちに、仙台編の最後で、政宗は天下取りの野望を蘇らせたわけですが、それでもその禁欲的な人となりは四国編で描かれています。政宗は、憑依した肉体の一切の辛苦は己で受け止め、すべての快楽は憑坐に譲るよう命じていました。現代人に対して害意のない怨将はいても、ここまで徹底して己というもの(あくまで死者であるということ)と真摯に向き合い、強い精神力で信念を貫こうとした怨将は政宗だけだったのではないでしょうか。

この見晴らし台にやって来たのは高耶さんたちばかりではありません。あの高坂も何気にここに立ち寄っていましたね(そして例によって鴉と交信していた…)。

高坂と言えば、仙台編では随分と暗躍していました。伊達に武田との同盟を持ちかけたかと思えば義康と取引したり、高耶さんを助けたかと思えば慈光寺を爆破したり。伊達の屋敷にズカズカと上がり込んでシャワーと浴衣とコーヒーを所望したりもしていましたね。あ、あと直江弄りもしっかりやっていました(笑)。
見晴らし台から望む仙台の街並み。
こちらは瑞鳳殿のある経ヶ峯の方向。

中央の若干こんもりとしたところが経ヶ峯です。
本丸跡には、政宗公騎馬像の他に、護国神社と本丸会館があります。写真は本丸会館です。この建物の中には、青葉城資料展示館やお食事処、みやげ物屋が入っています。

折角ですから、資料展示館に入りました。青葉城は天守閣こそなくとも、本丸の建物はなかなかの贅を凝らしたものだったようです。シアターコーナーでは、そんなありし日の青葉城の様子がCG映像でリアルに再現されていて、見ごたえがありました。
こちらは、みやげ物屋さんでみつけた「まさむにゃ」。こんなキャラクターがあったとは知らなかったです。まさむにゃって…。

グッズはやはりBASARAものが多かったですね。確かにイケメンだもんなあ、BASARAの政宗さん。Let's party! とか言っちゃってるけどさ。
さて、時刻はこの時点で午後1時。本当なら、ここのお食事処で数量限定の「伊達武将隊御膳」なるものを食べたかったのですが、予約をしようと数日前に電話をかけたら既にこの日の限定数に達していて売り切れ。だったら別のところで食べようということにしたので、お昼はまだ少し先です。

そのお昼ご飯はずんだもち付のセットを食べる予定だと言うのに、相方はお腹が空いたのか、ここで売っていた「本丸だんご」を食べると言って聞きません。

「一番美味しいずんだもち」とか言って売っていましたが、まあ普通に美味しいかなーという味でした。
青葉城址を後にします。今度は、大手門脇櫓を通るルートで降りていきます。

写真は博物館の方へと降りる道(右方向)との分岐点。
大手門脇櫓。

青葉城址で唯一復元された建造物だそうです。

東日本大震災の影響があったのか、修復中のような様子でした。
大橋を渡り、瑞鳳殿へと向かいます。

写真は大橋の上から望む経ヶ峯。
大橋を渡って振り返ったところ。

青葉城に攻め入る前に、成実軍と夜叉衆の四人が様子をうかがって待機していたのが、この大橋の前でした。

<「この地形は城をたてるためにあるようなもんじゃねぇか。天然の要害とはよく言ったもんだぜ」>(『琥珀の流星群』200ページ)
↑の千秋の言葉通り、この辺りは広瀬川が蛇行しているので、瑞鳳殿へ行くには二度橋を渡らねばなりません。

写真は評定河原橋。

物語終盤、最上義光・義康父子を討った後、譲と高坂がこの橋のたもとで、南部・佐竹らの軍を迎え撃ちに行く伊達軍を見送っていました。
一方、伊達小次郎と森蘭丸も、川岸からこの武者行列を見つめていました。

写真は評定河原橋から見下ろした川岸。こんな感じの河原に立っていたのでしょうか。

<「ふん。最上もすこしは楽しませてくれるかと思うたが、愚かなやつよ。(略)国や民なるものは、たかが一人の操る糸ですべてが踊りだすほど、単純なものではないわ」>(『琥珀の流星群』220ページ)

蘭丸の台詞ですが、仙台編中最も冷静な分析だったかと(笑)。
二つの橋を渡って、瑞鳳殿の参道前までやってきました。

奥の樹が生い茂っている辺りが瑞鳳殿です。
参道途中にある「おたま茶や」で、ようやく昼食です。
「おくずかけ」という郷土料理と、ずんだもちのセットを頂きます。

昔は葛を使ってとろみをつけたことから「おくずかけ」というようです。とろりとした汁に野菜の旨味としいたけの出汁がよく出ていて非常に美味しかったです。身体が温まるので冬にぴったりだと思うのですが、この料理、もともとはお盆の時期に食べられていたそうです。

下の方には白石温麺(そうめんのようなもの)が入っています。
店内に張られていたおくずかけの説明書き。

食べログによると、ここのずんだはかなりの高評価(もちに関しては低評価)で、食べてみると確かに豆の風味が濃厚で、手作り感もあってとても美味しかったです。先刻食べた本丸だんごより断然うまい。本丸だんごのはどうしても大量生産的な味がしましたから。こうしてみると、比較の対象になるので本丸だんごも食べてよかった気がします。

お腹を満たしたら、いよいよ後半戦です。
 







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