わだつみの山口ツアー

〜1泊4日、山口県縦断の旅

前 編




◆旅行日:2014年3月27日〜3月30日

◆行程:
※下線はミラージュスポット(一部推定含む)
※グレー文字は後編にて

◇3月27〜28日:
東京駅八重洲口→(夜行バス・萩エクスプレス)→萩バスセンター→(タクシー)→東光寺→(徒歩)→松陰神社→(徒歩)→天樹院→(徒歩)→萩城址→(徒歩)→西浜→(徒歩)→玉江駅→(JR山陰本線)
→長門市駅→(路線バス・サンデンブルーライン)→長門湯本駅駅→(徒歩)→山村別館・別棟しぇふず(宿泊)

◇3月29〜30日:
山村別館・別棟しぇふず→(宿送迎車)→長門湯本駅→(JR美祢線)→長門市駅→(JR山陰本線)→東萩駅→(防長バス)→大正洞バス停→(徒歩)→大正洞→(徒歩)→大正洞清風苑(ランチ)→(徒歩)→大正洞バス停→(防長バス)→秋吉台バス停→(徒歩)→秋吉台展望台→(徒歩)→秋吉洞黒谷口秋芳洞〜秋芳洞入口→(徒歩)→バス・タクシーターミナル→(防長バス)→新山口駅→(徒歩)→酒処 輪(居酒屋)→(徒歩)→ニパチ(居酒屋)→(徒歩)→新山口駅北口→(夜行バス・OTBライナー)→JR新宿駅西口

◆同行者:パートナー


※このページの画像は、別サーバーに保存したものへ直リンクを貼って表示しています。表示されるまで時間がかかる場合があります。また、不具合を見つけた場合、管理人までご一報頂けますと、大変助かります。




2012年10月、わだつみの広島ツアーを決行して以来、萩へ行きたい行きたいと思いつつ、その機会を逃していたのですが、2014年1月、山口県は長門湯本の宿から宿泊券当選のお知らせが舞い込んできまして。長門湯本…ってどこだ?と調べてみれば(旅行関連の懸賞にやたらめったら応募しているので、いちいち覚えていない…)、萩からは1時間ちょっとの距離ではないですか。思わず叫んでしまいましたよ、ビンゴ!と(笑)。

1泊2食付の宿泊券で、なかなか良さげなお宿。これは相方も拒否すまい、萩行き決定だな、むふふ…とにやけたのも束の間、思わぬ苦労が待っていました。
たぶん、今までのミラツアの中で、最もスケジューリングに苦戦したのが今回の山口です。

先ず、関東圏から萩へのアクセスが極めて悪い。空港から遠いし、鉄道も不便。行けないことはないですが、飛行機も電車も当然のごとく高い。無料宿泊券が当選した甲斐もなくなるくらい高い(笑)。

それと、萩へ行くとなると、もちろん秋吉台もカバーしたいところですが、秋吉台エリアへ行くバスの本数が極端に少ない。更に、大正洞と秋芳洞の両方へ立ち寄るとなると、必然的にひとつのパターンでしかスケジュールが組めない。
色々考えあぐねた結果、長門湯本に宿泊し、萩と大正洞と秋芳洞の3箇所をカバーし、しかも、ある程度安く費用を抑えるには、往復夜行バスの1泊4日(!)で行くしかないという結論に達しました。しかも、行きは萩までで、帰りは新山口からという山口県を縦断する形です。






萩も秋吉台もそこそこの観光地なのに、何でこんなにスケジューリングに苦労するんだ…と、行く前から疑問に思っていたのですが、この旅の途中でひとつの答えに辿り着き、至極納得してしまった次第です。それはまた後ほど。






上の写真は、出発当日、自宅のベランダから撮影したもの。桜は咲きそうでまだ咲いていません。萩はどうかなと気にかけつつ…。
さて、東京駅八重洲口から「萩エクスプレス」に乗車します。リニューアルしてから初めて八重洲口に来ましたが、随分きれいになりましたね。


東京から萩まで、かなりの距離がありますので、19時30分発、萩には翌朝10時4分到着予定と、長時間の闘い(笑)となります。さすが、京都やそこいらへ行くのとはわけが違いますね。
しかし、今回はだいぶゆったりとした3列シートで、しかも、こんな風に前の座席の中に脚を伸ばせるようになっているので、割とラクでした。今まで乗った夜行バスの中で一番ダメージ少なかったかも。

ただ、値段もそれなりです。片道1名、11,000円。LCCで沖縄や北海道へ行く方がよっぽど安い。でも、他に手段がないから、この値段になっちゃうんでしょうね。

実際、利用客は多いようで、席数限定の早割があったんですが、かなり早めに予約したのにそれは取れませんでした。しかも私たちが予約した数日後にはもう満席状態。
朝6時過ぎ、宮島サービスエリアが何たらという車内放送が流れたので、外を見てみると、見覚えのある形の山が。


宮島、じゃないですか。弥山ですよ。わだつみツアーに向かう途中で、宮島をもう一度見ることができるとは、幸先がいい。


宮島も印象的なシーンがたくさんありましたね。ミラツアも最高でした。
そして、その後もぼけーっと窓の外を見ていたら…、岩国港…、あの岩国港ですよ!

まさかバスで通るとは思っておらず、とっさに手元のコンパクトカメラでパチリ(一眼レフは棚の上)。何気なく外を見ていたオレ、グッジョブと言うべきか、事前に予想していなかったのがアホと言うべきか(笑)。

一瞬のチャンスだったので、このヘボ写真で精一杯でした。何が何やらよくわかりませんが、真ん中の建物が岩国港のターミナルビルです。

岩国港は、瀬戸内海のとある小島で身柄を拘束された高耶さんと直江が連れてこられた場所です。

<頼竜らの用意したクルーザーに乗せられて島を離れ、ついたところは岩国港だった。未明の港には、数台の車が待っていた>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』95ページ)
高耶さんは目隠しされて、直江とは別々の車に乗せられ、萩へと連行されたのでした。

幸先のいいスタートを切りましたが、実は不安要素も。朝一の車内アナウンスで、昨夜の東京都内の渋滞により、30分ほど遅れているとのこと。

萩のスケジュールは実は少々タイトに設定しているため、大幅に遅れるとかなり痛い…。

しかも、山口県内に入ってから、田舎道の割には妙に車が多くて渋滞気味。
結局、予定より1時間ほど遅れ、11時過ぎに萩バスセンターに到着。


バスの中でシミュレーションを立て直してみましたが、どう考えても時間が足りなさそう。できれば萩のミラツアは手を抜きたくないし…。
苦肉の策として、最初の目的地・東光寺まではタクシーを使うことに。歩けば30分はかかるので、多少短縮できます。それと、元々ランチの後に別行動の予定でしたが、ランチも別々にし、私はランチ抜きにすれば、1時間は何とか取り戻せます。

しかし、考えてみれば、ミラツア初タクシーですよ(笑)。まあ、アクセスが悪い場所が多いミラツアで、これまでタクシーを一度も利用したことがなかったというのが驚異的かもしれませんが。

運よくバスセンターにタクシーが停まっていたので、すぐさま乗車。



<市街地は、阿武川と橋本川にはさまれた、河口のデルタ地帯にある。何本かの大きな橋がかかっているその町は、川が天然の外堀になっていて、しかも海に面しているところから、城を作るには絶好の立地条件だ。三角州の大きさも城下町とするにはちょうどいい。毛利の居城は、三角州のもっとも西の先端にある。湾の先に指月山という標高百五十メートルほどの円錐形の小山がある、その麓だ。指月山は萩市内からはどこからでも見えるシンボルのような山だ。その一帯はさらに三角州からも川一本で仕切られ、これがもうひとつの堀の役目をしている。ここが萩城のあった場所だ>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』112〜113ページ)

地図を見ると、萩が三角州であることがよくわかりますね。西を流れるのが橋本川、東は阿武川(松本川)。地図の左上に指月山(しづきやま)、その麓に萩城址があります。印象深いシ^ンが多々ある萩ですが、舞台になった場所としては、東光寺、萩城址、菊が浜、西浜くらいでしょうか。その他、立ち寄った場所は緑字で記してあります。

さて、タクシーに乗り、ものの8分で東光寺前に到着。やっぱ車ってすげぇ(笑)。

こちらの写真は、東光寺の総門を背にして撮影。桜はちょうど咲き始め、といったところ。

この桜のすぐ向こう側に「萩焼の東光」というお店があり、東光寺を拝観した後、こちらのお店に寄って小物を買いました。


東光寺と周辺の地図。細長い境内です。総門をくぐり、受付で拝観料を払い、更に三門を過ぎて真っ直ぐ行くと、本堂に当たる「大雄宝殿」があります。方丈はその斜め後方、毛利家藩主の墓所は更にその後方にあります。

東光寺総門。

東光寺は、萩藩3代藩主毛利吉就が、1691年に建立した黄檗宗(おうばくしゅう)のお寺です。

黄檗宗は、伽藍が中国式なのが特徴のようです。こちらの総門も確かに中国っぽい。
総門から中を見ると、こちらの桜はだいぶ咲き進んでいるよう。
総門をくぐり、右手の受付で、拝観料300円を払って境内へ。


正面に見える建物は、三門。
その三門の向こうにもまだ道が続いています。


日当たりが良いからでしょうか。外の桜よりよく咲いていますね。


他に人もいないし、何だかまるで別天地にでも来たみたいです。
『わだつみ〜』の記述(10巻82ページ)によると、城北高校の生徒たちが修学旅行に出発したのが4月20日、高耶さんと直江が瀬戸内海の小島に辿り着いたのが4月21日、この東光寺に連れてこられたのは4月22日のことかと推定できます。


今回のツアーより1ヶ月弱後のことですね。桜はもう散っていて、新緑が美しい頃でしょうか。もっとも、直江は失明していましたし、高耶さんも絶体絶命の窮地でしたから、境内の景色など目には入っていなかったでしょうけれど…。
三門を振り返って。


1812年に竣工したものだそうです。


静寂な境内と立派な建築物のギャップがまたすごい。これだけのお寺が京都にあったなら、もっと人がうじゃうじゃいることでしょう。
萩という土地にあるからこその、この雰囲気なんでしょうね。


桜の花の向こうに、大雄宝殿が見えてきました。
苦悩の東光寺に咲く桜は、陽の光をたくさん浴びて輝いて見えました。
大きな松の木に守られるようにして建つ大雄宝殿。

<境内は明るく、正面の大きな建物がどうやら本堂のようだ。しかし変わった本堂だ、仏殿というべきか。柱が丸くない方柱で、色使いや雰囲気が中国風だ。唐様式とでも言うのか。堂内は土間叩き仕上げになっていて、大屋根の中央に火焔つきの二重宝珠がある。案内には大雄宝殿とある>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』114ページ
岩国港から黒のベンツで連れて来られたのが、この場所でした。


総門からは歩くとかなり距離があります。大雄宝殿の南西に小さな駐車スペースがあるようですので、車はそちらに停められたのかもしれませんね。
屋根の中央には、確かに「二重宝珠」が。
そして、柱は丸くない、四角い柱。
堂内は入れませんが、外から覗き見ますと、記述通り、土間のようなたたき仕上げになっています。
それと、大雄宝殿の前には、頼竜が壊したという石灯籠があります。

<東光寺の本堂の前で、呟いたのは下間頼竜だった。寺に残された高耶を監視するために待機している。頼竜は親指の爪を子どものように噛みながら、高耶のいる方丈のほうをしきりににらんでいた。(略) 「仏敵め。早く正体みせるがいい」 じれにじれて溜まりきった念を手のひらに集めた頼竜は、辛抱できずにそばにあった石灯籠へ念を投げつけた。音を立てて崩れた灯籠の向こうから風魔小太郎が現れた>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』178〜179ページ)

石灯籠の向こう側が方丈のある方角です。
先ずは、大雄宝殿と方丈の間を抜けて、墓所の方へ行ってみましょう。


写真左手の建物が大雄宝殿、右奥に見えるのが方丈。
裏手に回ると、ちょっとした物販コーナーがあり、そこのおばさんが鬼瓦(大雄宝殿南角)について教えてくれました。


二つの鬼瓦のうち、奥の方の鬼瓦は、創建当時のもので、NHKの大河ドラマ『太閤記』のタイトルバックとして使われたものなのだそうです。取り外して撮影したのだとか。


そして、この鬼瓦とは似てない可愛らしい鬼瓦のストラップが売っていたので記念に購入。
大雄宝殿の裏へ回ると、真っ直ぐ墓所へと伸びる道が。
濃い陰を落とす木々の間を通って行くと、整然と並んだ石灯籠と鳥居が見えてきました。

<東光寺の伽藍の後ろは、奇数代の毛利家歴代藩主の墓所となっている。(略) 鬱蒼とした森のなかに開けた空間、そこには五百基もの石灯籠が左右均等に整然と並んでいる>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』190ページ)

方丈の広間で、吉川元春から、謙信公が新たな総大将を立てようとしていることを聞かされ、更に、味方につかなければ直江の命はないと脅され、高耶さんは眠れぬまま、翌朝この墓所へと足を踏み入れたのでした。
一番奥に、奇数代藩主の墓碑、その手前に「亀趺(きふ)」と呼ばれる墓前碑、その手前に五基の鳥居があります。

五基の鳥居へ向かって道が五筋伸びています。この五筋の道、一見、放射状に広がっているように見えますけれども、実は、平行に走っているんです(前出の地図でおわかり頂けるかと)。

遠近法によって(灯籠の高さや間隔、坂の傾斜などが微妙に関係しているのかと)、このように見えるよう演出されているそうです。実に荘厳な感じがします。
<あたりには、朝霧が、漂っている。濡れた敷石を踏んで、高耶は奥へと歩いた。(略) 訪れた墓所はひどく神韻縹渺としていて、霊気が体の奥までしみ通るほどだ。霧のかかる森をみあげて、高耶は深呼吸した。聖域だけあって、かなり強いパワーがここにはある。(略) 高耶は正面の道を進んだ。奥には藩主とその夫人の墓である、亀趺と呼ばれる大きな石碑が並んでいる。高耶はそのまえの鳥居のもとに座った>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』190〜191ページ)


写真は、高耶さんが歩いたとされる「正面の道」。この奥の鳥居のもとに高耶さんが座ったんですね。
作中のように霧が漂っていたり、雨が降っていたりする日も、なかなか趣がありそうですね。

実は、東光寺は作中と同じ雨の時に見たいなと思っていたのですが…。でも、この時は桜や萩城址付近の海などが美しかったので、やはり晴れで正解だったかもしれません。

こちらの写真が前述の「亀趺」。亀の形をした石碑の台石のことです。


<「直江に……会わせてくれ」 彼に会って彼の声が聞けたら、こんな動揺は消えるかもしれない。「……いますぐ会いたい……!」「三郎殿」 ≪力≫なんかなくていい、目が見えなくてもいい。強がるように、奥歯を噛み砕くほど食いしばりながら、高耶はすり切れかけた意識の中で男の名前を呼び続ける。声が聴きたい、と>
(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』188ページ)

少し戻りまして、高耶さんが東光寺へ連れて来られた日、直江と引き離された後、方丈での一幕です。新しい総大将の噂にショックを受け、あまつさえ直江を人質にされて絶対絶命の死地に陥った高耶さん。精神的におかしくなりそうなぎりぎりの状況で、小太郎に要求したのは「直江に会いたい」の一言。そして、その「直江に会う」というのも、直江の力を借りたいとか、相談したいとかいうことではなく、ただ単に「声が聴きたい」と…。結局、究極のところで、高耶さんは直江の存在そのものを必要としているということなんでしょう。「最上のあり方」だの何だの言う前に、答えなんてすでに出ているはずなんですよね…。

<丸くうずくまる背中に、ポツポツと水滴が落ち始める。やがて降りだした雨の中で、高耶は自分の体を寒そうに抱き、苦しさをこらえるように顔をしかめて、静かに首をのばし天を仰いだ。(直江……っ) 体がしびれるほど熱くなる。心臓が大きな音をたてて鼓動する。雨の矢を顔に受けとめて、くちびるを薄く開き、高耶は小さなうめきをもらした。――私を、殺しにきなさい。――あなたに殺されるなら、本望だ。ふたりともわかっている。≪力≫を失った直江には、もう、次に換生する力もない。今度死んだら二度と換生できないだろう>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』194ページ)

<絶叫したい思いで、高耶は虚空に吠える。(もっとオレを欲しがれ!) 欲しいと言いつづけて欲しい。もっと言って欲しい。いつまでも言って欲しい。何度も言って欲しい。飽くほど言って欲しい。抱きたい、手に入れたい、キツく独占したい、と。もっと所有して欲しい。もっと抱いて欲しい。心も肉体もすべて俺のものだ、と。叫んでほしい。宣言して欲しい。誰にも触れさせない。いつまでもあなたは俺だけのものだ、と>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』200ページ)

↑の写真は、このシーンで高耶さんがうずくまっていたと思われる真ん中の鳥居。高耶さんの直江に対する独占欲はこれ以前も時折垣間見えていましたが、ここまでストレートに高耶さん自身が認めているのは、たぶん…これが初めて、じゃないでしょうか。直江を失うという危機感がそうさせているんでしょうけれども…、得てしてそういうものですよね、人間て。失うとわかった途端に惜しくなる。それに、(この時の)高耶さんは直江に求めるばかりで、自分が直江に何か働きかけようというスタンスではない(直江の苦悩は彼自身の問題だと高耶さんは思っているようですが、そう思うこと自体、問題を一方的に直江に擦り付けているのだとも取れます)。過去のトラウマがある、見返りを求める愛なんて信じられない、プライドが許さない、その割りに自信もない、主従や勝者敗者という枠を超えてしまったら直江を縛り続けることができないと恐れている…。こう並べてみると、直江に応えることができない理由はもっともではありますが、それでも、高耶さんが傲慢であることに変わりはないでしょう。もちろん、そんなところも高耶さんの魅力のひとつなんですが。と言うより、こんな人だからこそ、皆が愛してやまないキャラクターなのではないかと。愛や正義だけじゃない、憎悪も狡猾さも欲も迷いもある。そうして七転八倒しながら生きていく様に、思わず胸が熱くなるんですよね…。そんな高耶さんが、この鳥居のもとで、苦悩にまみれつつ初めて直江への想いを認めたこの一幕は、忘れられない名シーンです。

高耶さんが座っていた鳥居を背後から。

<雨の中に、ふと気配を感じた。反射的に身構えて、視線を鋭く正面に向ける。「…………!」 雨に濡れた敷石のうえに、一頭の、獣がいる。虎……だ。金色の虎が、雨の中に立っている>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』200〜201.ページ)
虎が現れたのは、この辺り…でしょうか。その虎は、小太郎の放った霊獣でした。

<「……おまえ、オレの味方になるか」 金色の虎は、しきりに高耶に身をすり寄せる。なついたのか心地いいのか、離れようとしない。「そうか……」 呟いて高耶は目をあけ、雨に煙る墓所を見渡した。発散されている霊気を丹念に査て、口端を結ぶ。(この墓所……) 整然と並ぶ灯籠群が、ただの石灯籠でないことが高耶にはわかった>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』202〜203ページ)

石灯籠の下にはこの世に留まることを望んでいない家臣らの霊魂が埋まっており、高耶さんはそれらを「使える」と判断したのでした。。
<高耶はそして、今度は森の向こう……北の空のほうに視線を投げた。あの方角には笠山という死火山がある。世界で一番小さいと言われる火山だそうだ>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』203ページ)

写真は、高耶さんが見ていた北の方角を見上げて。

この時に高耶さんは、あの火竜計画を思いついたようですね。敵に回すととことん恐ろしい人だ…。

因みに、現在は火山の分類が見直され、笠山は一応「活火山」に分類されているそうです。世界最小と言うのも、火山の定義によってとらえ方は様々だそうですよ。この笠山の写真は後ほど登場します。
高耶さんがうずくまっていたと思われる鳥居のもとに、私も座ってみましたよ。


ここで、直江のことを想っていたのか…。感無量。
ところで、五基ある鳥居の、(本堂を背にして)一番右の鳥居のもとには、とても珍しい椿が植わっているんですよ。


写真の鳥居が一番右の鳥居。その右側に、鳥居の上に枝を広げるようにして生えているのがその椿なんですが…
こんな風変わりな花の形をしています。


初めて見ました。紅唐子(べにからこ)という品種らしいです。三月中旬から四月中旬が見頃らしいので、この季節に行かれる方は、是非チェックしてみて下さい。
さて、墓所から方丈の方に戻ってきました。

写真は、高耶さんが入っていった方丈の玄関。

<高耶が続けてなにか訊こうとするのをさえぎって、小太郎は左手の石畳のほうの玄関に入っていった。「松関」と書かれた額が掛かっている。こちらは主君用の玄関だ。高耶を、捕虜ではなく来賓として扱うつもりらしい>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』115ページ)
「松関」という額が、確かに掛かっています。


「関」とは読みづらいですが、たぶん「門」が横棒一本で略されているのでしょう。
玄関までのアプローチは、記述の通り、石畳。


ここを高耶さんが歩いたんですね。


写真は、大雄宝殿の脇から伸びる渡り廊下の手前から撮影。
ところで、東光寺のHPには、「方丈の玄関は二ヶ所あり、向かって左手は殿様用、右手は家臣用の玄関と言われています」と書かれています。


右の方を見てみると、確かにもうひとつ玄関があります。


写真は、主君用の玄関の前から右の方を向いて。
こちらが、家臣用の玄関。


書かれてはいませんが、臣下の直江はこちら側から方丈に入ったのかもしれませんね。


方丈の中は、残念ながら公開していないので見ることができません。
渡り廊下に、「開●(かいぱん、●は「木」編に「邦」)」という木魚の原型と言われるものが下がっていました。


なるほど、元はちゃんと魚の形をしていたんですね、木魚って。
この日は平日(金曜)だったせいもあると思いますが、参拝客はほとんどなく、静かなお寺の雰囲気を堪能できました。最初は興味無さそうだった相方も、気に入ったようです。


東光寺の拝観はこれにて終了。


話は変わりますが、萩に来たら、やはり萩焼きを買いたいですよね。以前は、「高耶」とか「直江」とか書かれた湯のみを売っている店もあったらしいですが…。
何か手ごろなもので記念になるものをと思い、先刻東光寺の門前で見かけた「萩焼の東光」なるお店に入店。他にお客さんもいない店内でちょっと気まずい思いをしながらもお猪口を見ていたら、お店のおばさんが萩焼のことを色々教えてくれました。

一時期は、大量生産の偽物の萩焼が出回り、バスツアーの会社がそういう粗悪品を売る土産店と結託して観光客を連れていくものだから、粗悪な偽物が萩焼だと思われていた…こともあったんだそうです。

偽物と本物では何が違うのか、何をもって萩焼とするのか。おばさんによると、土が違うらしいんですが…、素人の私にはあまりピンと来ず。でもまあ、こちらの品物はちゃんとした萩焼の作家さんの手作りとのことですし、意外と安かったので、お猪口をひとつ買ってみました。最後にご紹介します。
時刻は12時18分。


元の予定では、バスセンターから歩いてくる途中で松陰神社に立ち寄ってから東光寺を拝観、拝観終了が12時のはずでした。松陰神社を拝観する時間分、まるまる押していますが、折角だから観ていくことにします。


それに、ここから松陰神社までは散歩に打ってつけの道があるようでして。
こんな感じの長閑な川沿いの遊歩道です。


桜並木が見事ですが、こちらの桜は東光寺境内より開花が遅いようですね。
たわわに付いた、今にも開きそうな桜の蕾を眺めながら歩いていきます。


こうもうららかな陽気だと、スケジュールの遅れも、どうにかなるさ…と思えてくるのが不思議。
そうそう、本当は、東光寺の近くに吉田松陰の誕生地があり、指月山と萩の街を一望できるということなので、立ち寄る予定でしたが、今回は諦めました。萩に行かれる予定の方は東光寺のついでに寄られると良いかもしれません。


写真は川中で群生するクレソン。水がきれいです。
12時半過ぎ、松陰神社に到着。


松陰神社は、その名の通り、幕末の思想家・吉田松陰を祀る神社です。
あまり時間もないので、さっとお参りするだけにしようと思いましたが、思いのほか境内が広い…。


「NHK大河ドラマ『花燃ゆ』決定!」の幟が立っています。2015年放送予定の『花燃ゆ』は、松陰の末妹を主人公とし、その家族や松下村塾門弟たちの人間模様を織り交ぜながら激動の時代を描くドラマだそうで。放送開始したら、萩も脚光を浴びることになるんでしょうね。
松陰神社は、松陰の実家・杉家の邸宅内に建てられたもので、境内には松陰が開いた松下村塾が現存しています。


修復工事はしているんでしょうけれども、恐らくは当時の形そのままなのだろうと思われます(移築ではなく、当時からここに建っていたそうです)。有名な割には意外と小さくて驚きました。この粗末な小屋で、松陰が実際に鞭を取ったのは二年余り。そして、その二年余りの間に、伊藤博文、木戸孝允、山縣有朋などの大人物が巣立っていったというのですから、更に驚きです。
萩って、関東からは非常にアクセスしづらい僻地って感じがしてしまいますが、何気にすごい土地なんだなあと改めて実感してしまいました。


お参りして、萩の市街地へと向かいます。
とその前に。


入口付近の売店で見過ごせないものを発見。
夏みかんソフトと夏みかんジュース。ご当地ソフトって、つい買ってしまうんですよね。


ソフトはほんのり夏みかん風味。もっと夏みかん味が濃くてもよかったかな。
松陰神社前の交差点辺りから、指月山が見えました。


あの麓に萩城址があるわけですが…、結構遠そうだな。


一応、歩いた道程を記しておきます。萩のミラージュスポットは、東光寺と萩城のみで、ミラ的には途中に何もないのですが、景色も良く、城下町の風情が残っている一帯もあるので、歩いていて楽しいです。オレンジの線からは、相方と別れて単独行動。

松陰神社前を出て、4分ほどで、山陰本線の線路を通過。


単線…。結構な観光地ですし、それほど田舎ではないですが、単線…。


写真は南側(萩駅の方)を向いて。
線路を渡った後、続けて松本川を渡ります。
川が青い。水がとてもきれいなんですね。


河口付近でこんなに川の水が透明というのは、なかなかないんじゃないでしょうか。


中央奥に移っているのは指月山。遠い…。
「萩循環まぁーるバス」と遭遇。


30分間隔で運行していて、どこまで行っても1回100円だそうです。利用しても良かったんでしょうけれども、行きたいところに直行するわけでなく遠回りだったりしますし、30分間隔だったら、いっそ散策がてら歩いた方がいいというわけで、利用しませんでした。地方観光地のバスって、イマイチ利用に至らないケースが多いんですよね。仙台とかもそうでしたが。長く歩きたくない人には便利かと。
田町アーケード街(ジョイフルたまち)の入口付近に到着。


松陰神社前からここまで、約17分。時刻は13時10分。


ここからは、相方と別行動に。相方は、萩城址には行かなくていいとのことですので、元々予定していたうどん屋さん「どんどん」へ。私は昼食抜きで萩城址に向かいます。
一見、どこにでもあるアーケード街ですが、八百屋さんの店先には萩産の柑橘類が山のように盛られていて、萩を感じることができます。


また、左右の柱には方言が書かれたた黄色い旗?が掲げられており、裏側を見るとその意味がわかるようになっています。例えば「おおくじをくる」は「ひどく怒られる」、「はんどかるい」は「高い所が苦手なこと」など。想像もつかない方言がずらりと並んでいます。
アーケードを抜けてすぐのところに、風月堂という和菓子屋さんがあり、店先に並べてあるお菓子が美味しそうだったので思わず購入。


「風月堂」という名のお菓子屋さんは全国にたくさんあるようですが、よく見れば、暖簾にある扇のマーク、これってあのゴーフルで有名な風月堂と同じマークのような…。でも接点無さそうなんですけどね、どういうことか不明です。


こちらの風月堂さんは、明治初期創業の老舗の和菓子屋さん。買ったのは、「長門鍔(ながとつば)」というお店一押しの求肥のお菓子。これも最後にご紹介します。


風月堂から先の行程。ひたすら真っ直ぐ西へ進みます。

風月堂を過ぎて少し行くと、城下町らしい街並みになってきました。


所々で桜も咲いています。
萩焼とか古美術とかのお店がやたらと多い。
脇道を覗いてみると、立派ななまこ壁が。


こういう何気ない路地とか、迷い込んでみたくなる衝動に駆られますね。今回は時間がないので萩城址に直行しますが、もしまた機会があるのなら、萩の城下町をゆっくり散策してみたいです。随所に誰かの旧宅とか何かの記念碑とかあるようですから、歴史好きの人にはたまらないでしょうね。
萩博物館前の交差点までやって来ました。


ここを真っ直ぐ行くと、三叉路になっていますので、北側の道に回り、再び萩城を目指して西へ進みます。


写真右端に写っているのは指月山。大分近づいてきたようですね。
こちらの道も、城下町の風情たっぷり。


萩焼のお店があったり、一般のお宅があったり。


どこのお宅も立派な白壁や石垣があります。
お仕事中の郵便屋さんも、萩の街の中では、どこか風情が感じられます。
夏みかん畑越しの指月山。萩の街を象徴するような一枚です。

萩の名産と言えば、萩焼に夏みかん、でしょうか。実際、あちこちで夏みかん畑を見かけました。

日本で最初に夏みかんを経済栽培したのが、ここ萩なのだそうです。花は5月に開花し、晩秋には実が黄色く色づきますが、酸味が強くすぐには食べられないのだとか。酸味が和らぐ初夏まで待ってから収穫して食べるので、「夏みかん」というのだそうです。なので、今成っている実は酸味が強くてまだ食べられないということですね。まるで採ってくれと言わんばかりに無防備にあちこちで大きな実がなっているので、誰か勝手にもいでいってしまわないのかな…と思っていたのですが、道理で(笑)。もっとも平和な土地でしょうから、食べられても誰も盗んだりはしないんでしょうね。
因みに、夏みかんの花が咲く頃の萩は、街中が甘い匂いに包まれるそうですよ。しかし、実は年を越して初夏に収穫するのであれば、実がなったまま花が咲くということなんでしょうか…。何か不思議な感じ。


萩の街は、本当に歩いていて飽きることがないです。きれいな枝垂桜が咲いているお家もあったりして。城下町に枝垂桜ってよく似合いますね。
三角州とお城を隔てる水路の少し手前に、ひとつチェックしておきたいポイントが。


萩藩(長州藩)の藩祖・毛利輝元の墓所である「天樹院」です。


ここは、輝元公の隠居所があったところで、亡くなった後、天樹院というお寺が建てられたものの、維新後に廃寺となり、お墓だけが残っているのだそうです。
おっと。見過ごしてしまいそうな、料金入れが入口に。


維持管理のため、大人二十円を入れて下さいとのこと。
東光寺のように立派な感じはしませんが、こちらも石灯籠の並ぶ道があり、その奥に鳥居、更にその向こうにお墓があります。


少々鄙びた感のある、静かな墓所です。
一番奥正面に、輝元公輝元公と夫人のお墓、脇に殉死した家臣のお墓があります。


毛利輝元と言えば、ミラージュでは亀さんと遊んでばかりいる知的障碍者のように書かれていましたが、豊臣政権下では五大老に列せられ幅を利かせていた時代もあったようですね(当時広島城を築城したのも輝元公)。


しかし、関ヶ原で敗軍の総大将であったことから、あわや改易というところを、周防・長門への減封となり、輝元は萩へ移り隠居という形になったようです(なので萩藩初代は輝元の子・秀就、輝元はあくまで「萩藩祖」)ということらしい)。
更に、ミラージュでは、輝元は直江を撃ち殺した張本人。「わだつみの広島ツアー」の中でも書きましたが、直江殺害の犯人に憎しみが集まらないよう、桑原先生はわざと輝元をああいうキャラクターに仕上げたような気もします。


輝元公の墓前でそっと手を合わせた後、再び萩城址を目指します。


写真は、萩城手前の水路。背後に見えるのは指月山です。やっと近くまで来ました。
ここから、「萩八景遊覧船」が出ています。写真は、遊覧船が海の方へ向かうところ。


時間があれば乗ってみたかったですけどね…。
水路に架かる指月橋を渡ると、「花乃江」という大きなお土産屋さんと「萩史料館」が見えてきます。


写真手前が花乃江、奥に小さく見えるのが萩史料館。


萩城址周辺の地図です。毛利邸や元春邸は存在しませんので、チェックできるポイントは、西浜と菊が浜、それから高耶さんのベンツが乗りつけた堀の前、萩城が炎上した際、毛利家家臣らが逃げ場をなくして集まったという「萩湾に面した堤防」くらいでしょうか。。

花乃江と萩史料館の間を進むと、萩城への入口になります。


時刻は14時7分。途中寄り道もしましたが、田町アーケードの前で相方と別れてから実に1時間弱。


ここをまっすぐ進むと、突き当たりに輝元公像があり、この辺りが萩城の二の丸南門跡になります。ここがいわゆる「大手門」に当たるそうなのですが…。
作中には二箇所、「大手門」が登場しています。

一つ目は、高耶さんが毛利に従うことを告げに城内の毛利邸を訪れるシーン。

<萩城跡の大手門前には、すでに迎えの家臣たちがずらりと並んでいた。堀の前に止まった黒いベンツ600から、降り立ったのは仰木高耶だった>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』212ページ)

二つ目は、萩城址が猛火に包まれ、毛利家家臣らが逃げ惑うシーン。

<大手門から堀の外に出ようとした家臣たちが、おもわず悲鳴をあげた。いつのまにか出口に見えない壁――結界ができている。堀が境になっている。これでは逃げ場がない>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』231ページ)
どちらも、堀のすぐ傍に「大手門」があるイメージで描かれていますが、本来はこの場所が大手門らしいのです(前出の地図参照)。しかし、前後から考えるに、作中で高耶さんが車を降りた場所は堀のすぐ外、、家臣たちが逃げ惑っていた場所は、堀のすぐ内側、ということになるようですね。


写真は二の丸南門跡に建つ輝元公像。桜の木に囲まれて気持ちよさそう。
輝元公像の前から右を向いて。


石垣が入り組んでいて、攻めづらい造りになっています。
細かく折れ曲がる道を抜けて行くと…。
ああ、ここか! という景色が現れます。『ミラージュフォト紀行』にも載っていますし、色々見覚えがあるような…。指月山、石垣、そして、まるで墓標のようにも見える萩城址碑…。この風景はミラージュファンにとっては思い入れが深いかと。


石碑の向こうは堀を渡る橋になっていて、橋を渡り終えたところに料金所があります。


前述の、高耶さんがベンツから降り立ったのも、この場所かと思われます。


現存する萩城址の遺構は石垣や堀のみ。また、作中で舞台となった毛利屋敷などは架空の建物であるため、萩城址を代表するこのアングルで、いくつかの名シーンを振り返ってみたいと思います。

<「あいつを生かすも殺すも、資格はオレにだけある。オレにしかない。あいつ自身にすらない。オレの許可なしに、あいつが死ぬことはできない」「……景虎……っ」「あいつはオレにしか興味を持たない。オレしか見ない。オレだけの飼い犬だ。全部がオレのものだ。あいつの眼も、声も、言葉も肉体も、涙も汗も体液も、幸福も痛みも誇りも思考も知識も、記憶も……歴史も! 誰にも触れることはできない、オレ以外の人間が、あの存在に関わることは許さない!」 高耶の右手が誓紙をグシャリと押しつぶす。掌のまわりから紙がくすぶりだし、みるみるうちに焦げて燃えだした>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』225ページ)

萩城址内にある毛利邸の奥座敷・志都岐の間にて、直江が自分の側近になりたいと言っていると告げた吉川元春に、高耶さんが激昂する一幕です。しかし、すごい台詞ですね。崇高とも幼稚とも呼べるような、このどろどろした想いが、高耶さんの愛の根源なのでしょう。プライドの高い高耶さんによると、彼が直江を100%支配しているような言い方ですが、それは彼自身も同じだけ直江に依存し、支配されていることの裏返しなんですよね。元春は、それを理解していなかった(もっとも普通は理解できないでしょうけれども)。それにしても、穏やかでいかにも人望ありそうな元春を「自分が人格者だと思いこんだ、馬鹿な男」と一刀両断するなんて。高耶さんってほんと、毒を吐かせたら天下一ですね。

<「……大丈夫。怖くない……」 耳元に低いささやきを受けて、高耶の躯からすっと固さが抜けた。「怖くない……」 硝煙のにおいの中に、なつかしい彼のにおいを感じて、高耶は眼を閉じた。変わらないあのぬくもりだ。いつも自分を包んでいた、あの優しいぬくもりだ。高耶は空いた左腕をゆっくりと持ちあげた。そして、はじめて自分のほうから、直江の広い背中を静かに抱いた。ずっと自分を護ってきた背中だ。傷だらけの背中だ。彼が受けてきた深い傷の数々を、感じとろうとするように……癒そうとするように、高耶はゆっくりとその背中を撫でた。まるで切ない愛撫のように>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』249〜250ページ)

火焔に包まれた元春邸へ、直江を探しにやってきた高耶さん。直江に本心を問いただしていたところ、錯乱した輝元に攻撃をしかけられ、咄嗟に拳銃で撃ってしまった直後のシーンです。思えば、高耶さんと直江が穏やかな関係でいられたのって、最初のわずか数ヶ月の間だけだったんですよね…。優しいだけの愛で愛し愛されたなら、傷つくこともなかったのでしょうけれど…。

<「おまえは絶望していたが、あきらめてはいなかった。あさましくても見苦しくても、明日の自分に希望をつないだ! なにかが見えてくることに賭けた、可能性を選んだ! あの答えが証拠だ! おまえはいつだって掴みとろうとしてた、探りとろうとしていた! おまえの――いや、オレたちの『最上』のあり方を!」>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』253ページ、「掴」は原文では手偏に「國」)

拳銃を自分の胸に当て、高耶さんの手で終わりにして欲しいと哀願する直江を、そんな卑怯な終わり方を、高耶さんは決して許そうとはしませんでした。芦ノ湖で幸福な死を選べなかったのは、直江らしいなと思います。直江の執着心の強さは、よく言えば、希望を捨てないということでもあるんですよね。高耶さん、やっぱり直江のことよくわかっていますね。それでももし、本当に直江が望むなら、湖に沈んでも構わないという思いで、選択を直江に委ねたのでしょうけれど。と言うよりむしろ、それを望んでいたのは、本当は高耶さんの方だったのでしょう。そして、模索し続けることを選んだ直江を尊重するからこそ、直江に「生きろ」と命じたのでしょう。「オレの許可なしに、あいつが死ぬことはできない」なんて言ってましたが、その真意はこういうことなんですね。自分は本当は終わりにしたいけれど、おまえが生きることを選んだから生きる、だからお前が途中で舞台から降りるのは許さない、と。言わば、究極の愛のかたち、なのかもしれません。

城内は、ミラージュを思い起こさせるようなものはあまりないのですが、折角来たのですから、もちろん入ります。


石垣しか残っていませんが、かつての天守は、この写真の左端に写っている一段高い石垣の上に建っていたそうです。
橋の上から東側を向いて。


こちら側も堀に面した石垣が残っています。
橋を渡るとすぐ左側に料金所があります(仮設っぽいので本来の場所ではないようです)。「旧厚狭毛利家萩屋敷長屋」の入場券と共通で210円。


この長屋は、萩城址のすぐ南にあるようですが、今回は時間がないので行きません。
堀の内側が本丸エリアになります。

写真は、橋の西側部分の石垣を内側(本丸側)から見て。

内側は広い階段になっているんですね。戦時に多くの兵士が同時に石垣に登れるようにするためだそうです。

火竜に襲われた直後、毛利家家臣たちは堀を境にした結界に気づき、この辺りで右往左往していたのかもしれません。
道なりに進むと、志都岐山(しづきやま)神社まで真っ直ぐ続く道が伸びています。「指月公園」と名が付いている通り、城内はほぼ公園といった感じです。


桜はそこそこ咲き始めており、お花見する人たちもいて、市民の憩いの場という雰囲気。
上の写真の鳥居を潜ると、道の両側に大きな狛犬が見えてきます。その奥のこんもりした所が志都岐山神社。


この右の狛犬の傍に白い桜があって、とても珍しいものなのだそうですが…、そちらはまた後ほど。
時刻は14時25分。昼食抜きとは言え、お腹が空いたので、参道の東側の芝生にあったベンチで休憩。


実は、朝ごはんにと思って、夜行バスに乗る前におにぎりを買っていたんですよね。それを食べていなかったので、ここで食べることに。
指月公園内には、あちこちにこういった芝生の空間がありますので、この辺りに毛利邸や元春の私邸があったのかなあ…などと思いを巡らせます。


もしかしたら、直江が「死んだ」のもこの辺かなあ、とか。


萩城址、つわものどもが、夢の跡。なんつって。
おにぎりを食べてから、「萩湾に面した堤防」というのを確認するため、志都岐山神社の東側へ回る道を行きます。
志都岐山神社の東にはちょっとした池があります。


この辺りはかつて「東園」と呼ばれる回遊式の庭園だったのだそうです。
池のすぐ先には、もう一つの料金所(写真左の小屋)があります。

ここを出て左へ行くと、北矢倉跡まで道が続いていて、右へ行くと堀の外側を通って、先刻渡ってきた水路の方へと出るようです(前出の地図参照)。

そして、萩湾に面したこのこの道沿いには、確かに「堤防」のようなものが築かれているのが見えますね。

チケットを見せれば再入場もできますので、ここから外に出てみることに。
<毛利の家臣らは逃げ場をなくして、萩湾に面した堤防に集まった。ここも結界の壁があって外には逃げられない。(略) 「助けてくれぇ!」 悲痛な叫びが堤防の上に響く>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』238〜239ページ)


階段があって、上れるようになっていますので、上ってみますと…。
向こう側に「菊が浜」を望むことができました。白い砂浜の辺りがそうです。

<「あれはなんだ……っ!」 石垣上にいた家臣が海のほうを見て、叫んだ。噴煙と霧に覆われた海の、はるか沖のほうから、大きな黒い影がこちらに向かってくる。(略)「助かるぞ、『大和』だ! 『大和』が迎えに来たぞーっ!」>
(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』240ページ)

しかし、この辺りは、指月山の南東部に入り込んでいる部分で、沖を見渡すことができないので、彼らがいたのは、もう少し先の方だったかもしれませんね。

作中には「石垣」という表現がありますが、この堤防、内側から見ると盛り土をしてあるだけのように見えますが、海側はちゃんと石垣になっているんですよ。
沖からやって来た「大和」は、やがて念砲撃を始め、結界に穴を開けたのでした。

<「やったぞ!」 わあっと歓声があがった。家臣らは我先に外へ出ようと堤防に登った。「あわてるな! 萩城はもういくらももたない、菊が浜から船を出せ、『大和』のもとまで行くのだ! 皆、『大和』に乗り込め!」>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』241ページ)

写真は、菊が浜の辺りを望遠で。夏場は海水浴場として賑わうらしいですよ。それにしてもきれいな砂浜ですね。
時間があれば、あっちも行ってみたかったな〜と思っていたら、相方がバッチリ立ち寄っていました。

写真は相方が菊が浜から撮ったもの。左の山が指月山。

<「なにっ!」 萩城の方角からいきなりあがった、さらなる轟音に、菊が浜にいた吉川元春は驚いて振り返った。(略) 萩城跡一帯の地面が得体の知れない恐るべき力を擁して、ひとつの山のように盛り上がり、亀裂が走り、砕けて宙に浮き上がりはじめたのである。(略) 元春には聞こえる。いや全身で感じる。肉体を引き裂くような、魂を押しつぶすような、凄惨な叫びが元春の精神に容赦なく押し寄せる。(略) ――あのひとの力には限界がない。(まさか) (略)「貴様……なのか、景虎……」>(12巻『わだつみの楊貴妃 後編』14〜17ページ)
直江の死に直面し、高耶さんが世界を崩壊させそうなほどの絶叫を迸らせた、あの時。元春はこの菊が浜からその異様な光景を目の当たりにしていたんですね。どんどん人間離れしていく高耶さんが哀しい…。


こちらの写真は、菊が浜から笠山を望んで(相方、しっかり笠山まで撮っていた…)。


力を封じられた高耶さんが霊獣の虎を使って、九州の火山帯から火竜とともにマグマを引き寄せ、噴火させた山がこの笠山です。。
それにしても驚くべきは、この海の美しさ。


この日は天気が良かったせいもあるとは思いますが、沖縄の海かと見紛うほどの青さです。


こちらの写真は、さっきの堤防からすぐ下を撮ったもの。
相方が笠山を撮っていましたが、私も見たいので、もう少し北の方まで行ってみます。


途中、こんな古い塀が残っている場所も。いつ頃のものかわかりませんが、これも遺構のひとつなんでしょうか。それにしても風化するに任せている感が…。
更に少し進むと、視界が開けてきました。


海側には、相変わらず堤防があります。


そして、この小道の左側には、これまた塀の残骸ような、遺構らしきものが存在しています。
この辺りの堤防に登ってみることに。
堤防の上から南側を向いて。


恐らくは萩城築城の頃にでも築かれた堤防なのかなと想像しますが、ほとんど手入れはされていないようですね。
北東の方角に眼を向ければ、見えました、笠山が。


笠山は、椿の群生林で有名だそうで、開花の時期には、椿まつりが開催されるそうです。


この辺りからなら、沖から「大和」が入ってくるのが見えますので、毛利の家臣らが集まっていたのは、もしかしたらこの辺りだったかもしれません。
更に先に進むと、やがて行き止まりに。
その行き止まりの部分は、「北矢倉跡」だそうです。


石垣の間から、ちょうど笠山山頂部分を望むことができました。


ちょっとした絶景かもしれませんね。
さて、志都岐山神社の前まで戻ってきました。


前述した、狛犬の傍に咲く白い桜ですが、これは「ミドリヨシノ」という品種だそうで、日本では萩市でしか見られない貴重な品種なのだそうです。


ソメイヨシノに似ていますが、ガクが緑色であることから「ミドリヨシノ」と名づけられたのだとか。純白の桜もいいものですね。
ミドリヨシノと、その奥に鎮座する志都岐山神社。
祭神は、毛利元就・毛利隆元・毛利輝元・毛利敬親・毛利元徳の五柱。


こちらは拝殿。その向こう側に幣殿、更にその奥に本殿と続きます。
参拝したら、萩城址の見学はこれにて終了。


写真は、拝殿の前から、上ってきた階段を見下ろして。志都岐山神社は少し高い位置に建てられています。


因みに、標高143メートルの指月山山頂には、詰丸跡という遺構があるそうなので、興味のある方は行かれるといいかもしれません。
志都岐山神社へ続く参道の西側に、ちゃんとした?「萩城址碑」が建っていました。


こちらの石碑は大正8年に建てられたものだそうです。碑文が漢文なので、脇に別の案内板があるのですが、それによると、萩城は1608年に完成し、以後260年間、藩主の居城及び藩政の中枢機関として威容を誇った、とあります。しかしその後、幕末の頃(1863年)に、多端な国事の処理に不便なため、藩府を山口に移した、と。


そっか。もし幕末に藩府が山口へ移動していなかったら、山口県の県庁所在地はそのまま萩になっていたかもしれないんですね。そもそも「山口県」ですらなく、「萩県」なんてことになっていたのかも…?
もし、そうなっていたら、萩へのアクセスはもう少しマシなものになっていたでしょうね。ただ、その一方で、開発のメスが入ることを免れないでしょうから、今のように城下町の風情が残ることもなかったかもしれません。


歴史にイフなんて無意味かもしれませんが、こう考えてみると、今の世界のあり方なんて、案外過去のちょっとした出来事に大きく左右されていたりするんだろうなあと、改めて思ってしまいました。


桜の向こうに、もう一度指月山を振り返って、萩城址を後にします。
萩史料館の前まで戻ってきました。


願わくば、萩はもう一度訪れてみたいです。やはり、萩で一泊するべきですね。
飛行機雲と傾いてきた太陽。


西の空には薄い雲が出始めてきました。


実は、翌日の天気予報は雨。でも、萩でたくさん美しい風景を見ることができましたので、これ以上は望みません。まあ翌日はどうせ洞窟探検だしね。
それでは、本日最後のミラージュスポットがまだ残っています。

萩城址の西に位置する「西浜」に向かいます(ミラージュでは「西浜」とありましたが、「西の浜」という呼び方が一般的のようです)。

浄化センターの北にある、松林の間の小道を抜けて行きます。

なお、私は萩史料館前まで一旦戻ってしまいましたが、本来、堀の外側を西に行くべきだったかと。
<その日、直江は吉川元春につれられて、指月公園の西側にある浜辺に来ていた。その海岸は、西浜と呼ばれている。砂浜だが、公園からの道をたどってくると、広い緑の芝生の丘があって、海はその向こうに見える形になる>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』204ページ)


確かに、広い芝生の向こうに海が見えますね。


この辺りは「石彫公園」という名の公園になっています。
元春は、ここの夕焼けがいいと言っていました。まだ少し時間的に早かったですね。


ここは、「死」の前日、直江が元春に自分の身の上話をした場所です。そういう気分になるのも、なんとなくわかるような、静かな浜辺ですね(直江は失明していましたが、穏やかな海の気配は感じ取っていたのでしょう)。それに、彼はこの時、死を覚悟していたでしょうから、そのせいもあって、口を開く気になったのかもしれません。
<大毛利がこんな山陰の奥地に追いやられてしまったのも輝元のときだった。しかもたった三十六万石に減らされてな。(略) しかし、そうなったから、二百数十年後に幕府を倒す力ともなれた。幕府から遠いところにあったから、我が藩はあれだけの力を蓄えることもできた。なにが幸いしなにが災いになるかは、長い眼でみないとわからんものじゃ。負けたはずの者たちが、のちに時代を大きく動かすこともある」>(11巻『わだつみの楊貴妃 中編』208ページ)


この西浜で、海を見ながら元春が語った言葉です。萩という地を訪れ、実際に歴史の遺物を目の当たりにしてみると、この元春の言葉は実に心に沁みてきます。
石彫公園から指月山を眺めて。


この辺りはかなり広い芝生になっています。
しかし、萩って、本当に面白い土地ですね。


日本の歴史において一大転換点だったと言うべき、あの維新の原動力が、正にこの「山陰の奥地」から生まれたというのですから。


でも、その偉人たちの熱気も今は歴史の彼方に忘れ去られたかのように、萩の地はひっそりとしたまま…。何だかとても不思議な感じ。


写真は石彫公園に咲くタンポポ。


この日のミッションを無事終え、相方とはJR山陰本線の玉名駅で待ち合わせ。


萩観光の窓口となる駅は、東萩駅ですが、萩城址辺りからだと、玉名駅の方が近いので…。
どことなく、郷愁を誘うような細い道を、玉名駅の方角へ。
偶然通りかかった道に、こんな場所が…。

「萩キリシタン殉教者記念公園」と書かれてあります。

案内板によると…「明治元年に続いて明治三年、政府はキリスト教弾圧政策をとり、長崎の浦上村全信徒三千八百人を全国各地に流刑した」、「このうち約三百人が萩の地に流された」とのことだそうです。

この地に流された信徒たちは、改宗を迫られ、四十余名が殉教、うち二十名がここに埋葬されていたのだとか。

萩にもキリシタン迫害の歴史が刻まれていたんですね…知らなかった。
明治二十四年になって、萩カトリック教会初代司祭ビリヨン神父が、ここに記念碑を造ったのが、この小さな記念公園の始まりだそうで。


ちょうど一年ほど前、「アウディ・ノスツアー」で、浦上天主堂を拝観したり、雲仙で殉教碑を見たりしていたので、少しだけ身近なことのようにも感じられ…そっと手を合わせてきました。
常盤大橋の上から、橋本川を見下ろすと、川を遡って行く遊覧船の姿が。


右側のこんもりした陸地は中洲です。川幅はもっと広いです。
常盤橋から、玉名駅の方角を望んで。


萩城下町に入る時と出る時、それぞれ大きな橋を渡り、この町が大きな三角州なのだということを実感。
西浜から歩いて25分ほど、玉名駅に到着。時刻は、16時10分。


ちゃんとした駅舎が建っていますが、無人駅です。
四国の山の中じゃあるまいし。人家もそこそこあるんですけどね…。
後から着いた相方の話によると、途中で迷って、地元の方らしきおばあちゃんに道を聞いたそうなのですが、玉名駅へ行くと告げたら、非常に驚いた様子で「あんた、どっから来て、どこに行きなさる〜?」と聞かれたそうです。まるで玉名駅へ行きたいなんていう人は初めて見た、みたいな感じで(笑)。


観光地に近いとは言え、こちらの駅を利用する人はほとんどいないんでしょうけれども、それにしても、鉄道を利用する人が少なすぎる気がします。
駅のホームには、一応、名所案内の看板もあるんですが…。この錆びれよう。
16時32分発の電車に乗車。

山陰本線は致命的なほど本数が少なく、宿の夕食に間に合うようにするには、この列車が最後。しかも、6駅先(乗換1回)の長門湯本駅に行くのに乗り継ぎが悪く、何と1時間48分もかかるという有様。

なので、私たちは乗換駅の長門市駅からはバスを利用します。


続きは後編へ。

2014.12.08 up

わだつみの山口ツアー 後編 →







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