いつか見た打ち上げ花火  前編







「花火観に行こうよ、お兄ちゃん」

蒸し暑い部屋で昼寝をしていると、突然美弥が入ってきて高耶を揺り起こした。

「花火?」

「そう、町内会のやつ。今日だよ?」

毎年七月の終わりに、この辺りのいくつかの町内会と企業が協賛し合って小さな花火大会を開催する。
川原の空き地で打ち上げられる花火は、数こそ大規模な花火大会には敵わぬものの、間近で見られるだけあってかなりの迫力があるし、周辺には夜店も出てお祭りのように賑わう。

…というのは、譲の言だ。

実は高耶自身、まともに花火を観に行ったことはないのだった。
諏訪湖の伝統ある湖上花火大会や千曲川河川敷で開かれる信州上田大花火大会はおろか、町内会の花火大会すら行ったことがない。

美弥は小さい頃、母親に連れられて諏訪湖の花火大会を見に行っている。
本当は家族全員で行く予定だったのだが、高耶はその日、熱を出して父親と留守番をするはめになったのだ。

それでも行くと言ってぐずった高耶は、熱を出しながら一晩中泣き喚いた。
滅多に泣かない高耶が珍しいことだった。
今となってはおぼろげにしか記憶にないが、子供だった自分は打ち上げ花火をよっぽど楽しみにしていたのだろう。

母親が家を出て行ってからは、そんな機会はもう訪れなかった。
今から思えば、母親も出て行くことを決めていたから、高耶の看病より、美弥との思い出づくりを選んだのかもしれない。

間もなく高耶は不良グループの仲間入りをして、世の中のお祭り騒ぎとはほとんど縁のない日々を送っていたし、母親の代わりに家事全般をこなすようになった美弥も、遊び回る余裕はなかったのか、町内会の花火大会にも行かなかったようだ。

たまに友人と夜出歩くくらい無理なことではなかったはずだが、それでも美弥が花火を観に行かなかったのは、母親との最後の思い出を大事にしたかったのか、それとも思い出したくなかったのか。

それを、美弥から「花火を観に行こう」などと言ってくるとは…。

時が経てば、人の心も変わる。
人は生きていく一瞬一瞬で、絶えず色々なものを忘れていく。
忘れることで、人は癒されているのだろうか。
そうでないと、やりきれないことがたくさんあるとでもいうのだろうか。

ともあれ、今夜美弥と花火大会に行くかどうかは、また別の話である。
そういうのは、いい年をした兄妹で行くものではない。

「学校の友達と行ってくればいいじゃないか」

「だってぇ…」

美弥は小さな唇を尖らせて、上目遣いに高耶を見た。

「友達はみんな彼氏と行くっていうんだよぉ」

「彼氏!?」

そうか。
もうそんな年頃だったか。

「お兄ちゃんが一緒に行ってくれないなら、美弥、一人で行って知らない男の人にナンパされちゃうんだからあ!」

「美弥!」

説教でも垂れてやろうと、高耶が眉を吊り上げた時である。
美弥の味方をするように、家の電話がリリリリンと鳴った。

「あ、高耶?」

電話の主は譲だった。

「今日さ、花火大会あるって言っただろ? 一緒に行こうよ」

ここにもいた。お祭り好きが。
野郎同士で行ってどうする…と言おうとしてやめた。

「美弥も一緒に行っていいか?」

こうして、高耶は生まれて初めて花火大会に行くことになったのである。





夕闇が降り始めた頃、譲が高耶の家に迎えに来た。
浴衣に着替えた美弥も一緒に三人で団地の入り口まで歩いて来ると、不意に見慣れた車が高耶たちの前に滑り込んで来た。

「お揃いでお出かけですか?」

セフィーロの運転席から顔を覗かせたのは、真夏でも黒スーツをさらりと着こなす男・直江である。

「きゃあ、直江さんっ!」

なぜか黄色い声を上げて、美弥が飛びつく。

「これから花火大会に行くところなんです」

「直江さんも一緒に行こうよっ」

この男ほどお祭り騒ぎが似合わない男もいないと、高耶はこっそりププッと噴き出した。

「ええ、では是非ご一緒させて下さい」

「え!? お前、怨霊調伏とかで忙しいんじゃないのかよ!?」

まさかそういう返事が返ってくると思わなかった高耶は、つい美弥がいることを忘れて口走った。

「オンリョー? チョーブク?」

「いえ。実家の寺の用事ですよ。でも、もう済んだのでいいんです。すぐに車停めて来ますから、待ってて下さい」

あのお堅い直江もたまには息抜きをするんだ…と、高耶は妙な感動を覚えて、セフィーロのテールランプを見守った。





打ち上げ場所の近くまでやってくると、町内会の小さな花火大会とは思えぬほどの大変な盛況ぶりだった。
川沿いの道は数百メートルにわたって夜店が出ている。
輪投げ、くじ引き、金魚掬い、ヨーヨー釣り、リンゴ飴、カキ氷…。
美弥と譲は子供のようにはしゃぎながら一軒一軒店を覗いて回る。

「お兄ちゃん、あれ取って!」

射的の店で、美弥が指差したのは猫のぬいぐるみだ。
最上段の目立つ位置に置かれているそれは、ほとんどディスプレイ用で、とても実際に落せるとは思えない。

「お兄ちゃんなら取れるでしょ!?」

目を輝かせて見上げられると、どうも弱い。

「仕方ないな。一回だけだぞ?」

高耶はポケットから小銭を取り出した。

「よし、じゃあ俺もやろっと。高耶、賭けようよ。落とした方が言うこと聞いてもらえるってのはどう? 俺が落としたら高耶にたこ焼おごってもらう!」

「なっ、何!? じゃあ、オレが落としたら、そうだな…」

言いながら高耶は隣に立つ、場にそぐわない出で立ちの男を仰ぎ見た。

「オレが落としたら、この後、直江に高級中華をおごってもらう!」

「わ、私ですか?」

突然指名されて、直江は目を丸くした。

「うわ、それいいな。俺、高耶応援しちゃうよ」

「お兄ちゃん頑張れ!」

声援を受けて俄然やる気が出てきた。
片目を瞑り狙いを定めていると、隣で直江も空気銃を手に取っている。

「お前もやるのかよ?」

「当然です。賭けの対象にされたんですから。私が落としたら…」

高耶にだけ聞こえる低音で直江が囁く。

「私の言うことを聞いてもらいますよ?」

ぎくりとした。
一体何を要求されるのだろう。
しかし、「高級中華」などという大仰な景品を掲げてしまったのは自分だ。
今更引っ込みなどつかない。

「力を使うのはなしですよ?」

「こっちの台詞だ」

高耶は銃を構え、慎重に狙い定めて、引き金を引く。
パン、パン…と、コルク栓が後ろの壁に当たる乾いた音が鳴り響く。

高耶が打ち、直江が打つ。
弾は五発。

パン…。

最後の一発で、「やった!」と高耶は思わずガッツポーズをしかけた。
が、左足の辺りを掠めた猫のぬいぐるみは、もう少しで壇から落ちるというところでぴたりと止まってしまう。

するとそこに、パスンと小気味よい音を立てて、コルクが命中した。
半ば壇からはみ出ていたぬいぐるみは呆気なくころんと転がり落ちる。
打ったのは直江だ。

「大当たり〜」

カランカランカランと的屋のおじさんが派手に鐘をならしながら、落ちたぬいぐるみを渡しに来る。

「なんだ〜高級中華はおあずけかよ」

残念がる譲の横で、念願の猫のぬいぐるみを手に美弥が狂喜している。

「ずりーぞ。オレが落としかけてたのに」

「ずるくても勝ちは勝ちです」

穏かな微笑みを向けてくる直江に高耶は身構えた。
この男は優しそうな顔をして平然と厳しいことを言うのだ。
一体何を言い出すことやら。
恐怖の調伏旅行か、力のスパルタ修行か…。









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