折り鶴のねがい
其四 スウィートホーム
「あーすっげえ満足!」
もんじゃの店から戻ってきて、マンションの駐車場に停めてあったウィンダムに乗り込むなり、高耶はどかっと助手席のシートに背中を預け、幸せそうな声を上げた。
高耶はもちと明太子とチーズの入ったもんじゃがいたく気に入った。
他にもお好み焼きに焼きそば、野菜ときのこの鉄板焼きも平らげて満腹である。
「喜んで頂けたようでなによりです。あそこはもんじゃの店がたくさん集まってますから、今度はまた違う店にも行ってみましょう」
「ここ、面白そうな町だな。商店街なんかもあったし。住むのが楽しみになってきた」
楽しそうに言う高耶を見て、直江も目尻を下げて微笑むと、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
「有明に日本最大のインテリアショールームがあるんです。そこへ向かいます」
「有明?」
「すぐ近くですよ。お台場の手前です」
日本最大というだけあって、外観からして巨大でモダンなビルだった。
車を停め、中に入ると、直江は予め考えてあったのか、真っ先にプランニングコーナーへと立ち寄った。
「いらっしゃいませ」
ダークグレーのスーツを理知的に着こなすインテリアアドバイザーの女性が二人を迎える。
「新居用に家具をひと揃え、なるべく早く届けて欲しいんです。今日購入を予定しているのは、ベッド、ソファー、テーブル、ダイニング用のテーブルセット、それに書斎用のデスク周り一式、それから…」
直江は間取り図面を取り出して、アドバイザーに細かく要望を伝えていく。
ふと、彼女が後ろに立つ高耶を見て、不思議そうな表情を滲ませた。
高耶はぎくり、と顔を強張らせる。
男二人でこんな買い物をしに来るなんて、考えてみれば変だ、変すぎる。
男同士で新居もくそもあるか。
彼女の視線に気づいた直江が「ああ…」と声を上げた。
何とかうまく言い訳してくれ、と高耶が全力で念を飛ばしていると…
「新婚なんですよ」
と、直江は平然とのたまった。
ズコーッと高耶が心の中で盛大にずっこけていると、「入籍は無理ですけどね」と、この色ボケ男は要りもしない補足までつけ加えやがった。
「あ、あの…新婚っていうのは、オレの姉とこの人のことで…姉が急病で来られなくなったから、その代わりにオレが…」
しどろもどろに言い訳する高耶に、アドバイザーのお姉さんは「心得ています」というような目で頷いて見せた。
分別のある人で助かった、とホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
「では、売り場をご案内致します。どうぞこちらへ、奥様」
「お、おく…奥様ー!?」
「あ、失礼しました。旦那様とお呼びした方がよろしかったのでしょうか」
もうどこをどう突っ込んでよいのやらわからず、高耶はただヒクヒクと引き攣った笑みを浮かべる。
「でも、主人という意味では、確かに彼の方が旦那役なんですよ」
「さようでございましたか…」
ハハハハ、ホホホホ…と爽やかに笑い合う、どこかネジの外れた二人の後ろ姿を眺めながら、「日本の常識は闇戦国を経て大きく歪んでしまったのかもしれない…」と、高耶は密かにこの国の行く末を案じた。
「なあ、でもこんなに高そうな家具を一気に買っちゃって大丈夫なのか?」
東京ドームのグラウンドの約二倍という面積を持つこのショールームを所狭しと歩き回りながら、直江は手際よく次々と注文する品物を決めていった。
もちろん、いちいち高耶の意見を聞いてくるのだが、インテリアなどにあまり興味のない高耶はほとんど直江にお任せだった。
と言うより、聞いたこともない外国の家具メーカーの名前をずらりと並べられても、高耶には何が何だかわからない。
それに、何だかもったいない気がしてならないのである。
もっと安価な家具でも充分だし、何なら中古だって構わない。
大体、橘不動産には東京事務所兼住居として使っていたマンションがあったはずだ。
あのお下がりだっていいではないか。
「あそこは、兄が出張時に使うつもりなんですよ。事務所は別に、もっとちゃんとしたところを借りる予定なんですが」
直江は注文書にスラスラと万年筆を走らせながら答える。
「なら、もっと安いのだっていいんだぞ、オレは」
「平気ですよ。橘不動産の金で買いますから」
「おっ前…そんなことしていいのかよ!? お兄さんに怒られるぞ」
「いいんですよ」と、直江はふとペン先を止めて、隣に座る高耶を見た。
「兄は結婚祝いのつもりなんです」
高耶は目を丸くした。
「結婚式をするわけでもない、お披露目の席を設けるわけでもない。ただひっそりと寄り添って暮らしていこうとしている私たちへ、兄なりの配慮なのでしょう」
神妙な顔つきになって、高耶は直江に問う。
「お前、家族にオレのこと…」
「話しましたよ。全部。かけがえのない何よりも大切な人なのだと。あなたと私の正体のことも、もう彼らは知っています。それでも、何年も行方不明だった末、突然帰って来た私を…本当は彼らの家族だとは言えないはずのこの私を、彼らはまた温かく迎えてくれたんです。私を家族だと言ってくれたんです。そして、今生で大切な人と幸せになりなさいと…」
直江は淡々と語るが、橘家にも、直江自身にも数々の葛藤があったに違いない。
それでもなお、肉親の情を寄せてくれる人たちの想いに、自分たちは応えていかなくてはならないのだろう。
「お前のお兄さんに、会ってお礼言わないとな。ご両親にも…」
「喜びますよ」
その一言と、その言葉の向こうにいる優しい人たちの存在に、高耶の胸はじわりと熱くなった。
「次の買い物は有楽町です」
「え、まだ何か買うのかよ?」
家具をひと通り注文して、再び車に戻ってきた二人である。
「当然ですよ。家具だけ買っても、家電がなければ生活できないでしょう?」
「ああ、そっか。冷蔵庫とか洗濯機とかないとな」
「電子レンジとかポットとかアイロンとか。テレビやエアコンも」
少なくとも、高耶にとっては高級家具なんかより、こっちの方がよっぽど関心がある。
父子家庭で、妹の美弥が頑張っていたとは言え、高耶も一人前に家事全般をこなしてきた。
最新型に詳しいわけではないが、生活家電には物申したいクチである。
高耶は店員の話を聞いたり、カタログの記載をチェックしたりしながら、真剣に商品を選んだ。
炊飯器は二人暮らしだから小さめのでいいだろうかとか、それとも譲や美弥たちが遊びに来た時のことを考えて少し大きいものにしておこうかとか。
共働きになるのだから洗濯機は夜でも洗える静音設計のものにするべきだとか、乾燥機付のものがよさそうだとか…。
本当に、これから直江と二人で生活していくんだ…。
あれこれ考えながら家電を選んでいくうちに、高耶はそのことを現実的な未来として実感できるようになっていった。
「暖かい陽射しの下で洗濯物を干すあなたを早く見たい…」
人が真面目に品定めしている横から、おのろけバカがそんなことを耳元に囁いてきた。
「言っとくけどな、オレは専業主夫になるわけじゃないんだ。家事は分担制だからな」
ぎろりと睨むと、直江は「えっ」という顔をした。
そう言えばこの三男坊、仕事は出来ても家事能力は低そうだ。
直江が包丁を持つところとか、直江がトイレ掃除するところとか、直江がアイロンがけするところとか、考えただけで噴き出してしまいそうだ。
ククク、とひとりで笑いを堪えている高耶に、「なんですか、なにがそんなに可笑しいんですか」と直江が執拗に聞いてくる。
高耶はそうだ、と思い立った。
「あのさ、夕飯はなんか予定あんの?」
「いえ。時間が読めなかったので、どこも予約は入れてないんです。どこか希望がありましたら今から電話しますよ?」
「いや、いいんだ。家で食べないか?」
「家で、ですか?」
「そ。二人で飯作って、家で食べよう」
生活道具ひとつないあの部屋で、今から夕飯を作るのは多少無謀かもしれないが、簡単なものなら作れなくはない。
久しぶりに直江に高級料理を驕らせるのも悪くはないけれど、今宵は外食ではなく、家で二人きりで食べたい気分だった。
高価なものじゃなくていい、ただ、ありふれた温かい料理を囲んで、二人の新しい日々の始まりを密かに祝いたい。
そんな高耶の気持ちを汲んでくれたのか、直江は「素敵ですね」と頷いた。
高耶は直江を引き連れて大型スーパーで必要最低限のものを買い込んだ。
折りたたみテーブルに座布団、食器、フライパンや鍋などの調理器具、それから食材に各種調味料…。
夕飯を食べるだけなのに、いざ一から物を揃えようとすると、あれもこれもと結構な買い物になった。
荷物を運ぶのに直江はマンションの駐車場と部屋の間を何往復もし、その間、高耶は早速買ってきたばかりの炊飯器に米をしかけた。
オール電化は初めちょっと戸惑ったが、対面式の広いキッチンはとても使いやすい。
荷物を運び終えた直江に、高耶はすかさず大根を渡した。
「大根おろしくらいできるだろ?」
「御意」と答えると、直江はシャコシャコといい音を立てて大根を擦り出した。
その意外に器用な手つきに、高耶は少し口を尖らせて目を瞠る。
何とまあ、サマになっているではないか。
そうだ、この男はこういう男だった。
家事など不慣れに見えても、いざやらせると何でもこなしてしまうのである。
優雅さすら感じられるその無駄のない手つきに、高耶は思わず白い板前着姿の直江を想像してしまう。
老舗旅館の厨房を切り盛りする腕の良い板前というのも似合いそうで悪くない。
実は女将とできていたりなんかして…。
この男ならありえそうだ。
とそこまで思って、だめだ、と高耶はブンブン首を振った。
そんなのは絶対に許さない。
高耶がひとりで百面相をやっている間に、大根を擦り終えた直江が「他に手伝うことはありますか?」と聞いてくる。
「もういい」
そう答えてから、高耶は唐突にぽつりと「浮気は許さないからな」と呟いた。
独りよがりの妄想の果てに何だか急に心配になってきた高耶である。
この男は自分とこういう関係になる前は散々女遊びをしていた放蕩者なのだ。
どんなシチュエーションでも、この男の隣には美しく華やかな女が似合う。
「高耶さん?」
直江は俯いて野菜を切る高耶の顔を覗き込み、ふっと軽くため息をついた。
「あなたは私が浮気をすると思っているんですか?」
しないだろうとは思うけれど、元来高耶は自信家では決してない。
女にもてまくるだろう直江を前にして、自分がどれだけ魅力的でいられるか不安だ。
「あなたはいまだに自分のことをわかっちゃいないんですね。私はあなたが浮気しないか心配でなりませんよ」
「オレが?」
まさかこっちに矛先が向けられるとは思わなかった高耶は手を止め、顔を上げた。
「そうです。あなたはこれから、組織の中で確実にその実力を発揮していくでしょう。あなたのことだから、時折周囲と衝突を起こすかもしれない。それでも、あなたは荒波に揉まれながらも、必ず頭角を現すはずです。誰もがあなたの指導力と判断力、意思の強さに…あなたの存在感そのものに陶酔せずにはいられない。男でも女でも、どれだけの人間が、これからあなたにひれ伏していくかわからない…」
直江は高耶の目を真っ直ぐに見つめながら対面式のキッチンをゆっくり回り込んでくる。
「叶うことなら、あなたをこの部屋に一日中監禁しておきたいくらいですよ。私以外の人間があなたの虜になって、あなたから情けのひとかけらでも得ようものなら、私の身は嫉妬に燃え朽ちるでしょうね」
包丁を持つ高耶の右手に、左手を添えて直江は低く囁く。
「もし浮気なんてしようものなら、きっとあなたを殺してしまう」
切ない殺意は、暴力的なほど甘やかに高耶の全身の細胞ひとつひとつを犯していく。
直江の自分に対するこの執着が、唯一自分の生きる意味なのかもしれないと、高耶は思う。
生かされてきたのは、自分の方かもしれない
直江が自分を追いかけてくるから、自分は前に進むことができた。
「本気ですよ」と耳元に吹きかけられる。
高耶は戦慄と快感のない交ぜになった奇妙な感覚に身を焼かれ、ゆっくり目を閉じた。
「直江…」
唇が近づいてくる…。
神経を研ぎ澄ましてその気配を待っていると、突然シュワッと鍋が吹き零れる音がした。
「やべっ」
高耶は慌てて鍋の蓋を開け、火力を調整する。
「食後におあずけですね」
案外あっさり引きあげる男を些か小憎らしく思いながら、高耶は網の上のなすびをひっくり返した。