折り鶴のねがい
其五 最終電車のシンデレラ
二十畳ほどのだだっ広いリビングに、簡素な折りたたみテーブルと座布団という何ともバランスの悪い奇妙な食卓が出来上がったのは、夜も九時を回った頃である。
それでも料理を並べれば、ささやかながらも世間並みの立派な食卓だ。
暖かい色合いのライトの下で、高耶と直江は向かい合って座り、「頂きます」と手を合わせた。
テーブルに並んだのは、炊き立てのご飯と秋らしい具の入ったとん汁、しょうがを添えた焼きなす、脂の乗った秋刀魚の塩焼き、それにしめじとアスパラのオイスターソース炒めである。
「このとん汁、さつまいもが入ってるんですね。甘みがあってすごく美味しい」
「だろ? 秋味って感じだろ? やっぱ味噌汁はさ、季節感がないとな」
「秋刀魚の焼き加減も塩加減も絶妙です」
「まだ慣れない台所だから、ちょっと苦労したんだよ。でも、思ったよりは悪くないな、オール電化も。掃除が楽そうだ」
直江は高耶の砕心のポイントを的確に褒めてくれる。自然と会話も弾む。
「あ、そうだ。ビールだったよな。冷蔵庫ないから冷えてないけど…」
立ち上がりかけた高耶を直江が制した。
「実は次兄からメールが入って…明日の朝の法事を手伝うことになってしまったので、今夜宇都宮まで車で帰らないといけないんです」
「あ、そうなんだ。じゃあ、酒はだめだな」
「すみません。でも、あなたは飲んで下さい。もう未成年だと言って止められないのが少し悔しいですが」
そう言って弱々しく笑う直江に、「ざまあみろ」と堂々と飲んでやろうかとも思ったが止めた。
「飲まなくていいんですか?」
「うん、何かこういうのも悪くないな、と思って。酒飲むのがちょっともったいない気がするんだ。お前と二人でこうやって向かい合って、自分たちで作った夕飯を食べる…それだけで、充分だから」
何もない部屋。
テレビの音も音楽もない。
ただ静かに、小さな食卓を二人で囲んでいるこの瞬間を、大事に味わいたいと思った。
「まあ、この部屋の良さはちっとも活かされてないけどな。殺風景な部屋に折りたたみテーブルっていうこの雰囲気は、四畳半のアパートの方が似合いそうだよな。昔の貧しい同棲生活みたいじゃねぇ? 『神田川』とか。あなたは〜もう〜忘れたかしら〜」
高耶はお馴染みのフレーズをふざけて口ずさんだが、すぐに真顔に戻った。
「直江?」
直江の頬を涙が伝っているのだ。
「どうした? 何かオレ変なこと言ったか?」
「いいえ」と、直江は俯き加減に首を横に振る。
「本当は、どんな部屋でも、どんな食卓でも構わないんです。あなたが目の前にいるなら。私たちの家で、あなたとこうして向かい合って食事ができるということだけで、私はこれ以上ないくらい幸福なんです」
噛み締めるように言う口もとに、透明な涙が滑り落ちる。
「どうしたんでしょう。今日はあなたも私も泣いてばかりだ。…本当は、今日はあなたに幸せな気分を味あわせてあげたいと思っていたのに、気づけば私の方がこんなに幸せな気分に浸っていて…どうしようもないですね」
「それはひとつ間違えてる」
高耶は手を伸ばし、直江の涙を指先で拭いながら言う。
「お前が幸せだと感じていることが、オレの一番の幸せなんだ。だから、今日はオレの方が幸せだ」
「高耶さん…」
「あんまり泣いてると、秋刀魚がしょっぱくなるぞ?」
その言葉に、直江の顔に笑みが戻った。
「さんま苦いかしょっぱいか…」
直江が口にした台詞を、「何だそれ」と高耶が聞き返す。
「佐藤春夫の有名な詩ですよ」
――秋風よ いとせめて 証せよ
――かの一ときの団欒(まどい) ゆめに非ずと
直江は低く穏やかな声でその一節を口誦した。
そして、この詩が、夫婦ではない男女とその女の子どもという世の常ならぬ密かな団欒を詠ったものであることを高耶に説明した。
切ない詩は、不思議なくらいすうっと自然に高耶の胸に沁み入った。
直江とのことを思う。
二人がこうして向き合ってささやかな食卓を囲めることがどんなに得がたいことなのか、改めて感じる。
敬虔な信徒のように、高耶は心の中で跪き、頭を垂れて念じた。
かの一ときの団欒、ゆめに非ずと…。
火照った頬に、冷たい夜風が気持ちいい。
午前零時を過ぎて、終電目指してT駅へと二人並んで歩いていく。
直江は譲のマンションまで車で送っていくと言ったが、高耶は歩きたいからと断った。
それなら駅まで送っていくと言い出した直江と二人で、寝静まった通りを歩く。
「あの部屋、たまに美弥も呼んでいいか?」
食後にベランダに出たら、都心方面の夜景がすごかった。
キラキラと光る星屑を散りばめたような街を眼下に見下ろしながら、熱い口づけを交わし、その先もまたしっかり遂行してしまったのだが、美しい夜景はふと年頃の妹を思い起こさせた。
「ああいう夜景とか、喜ぶと思うんだ」
「もちろん、いつでも大歓迎ですよ」
今まで散々心配かけて寂しい思いをさせた分、これからは美弥にたくさん楽しい思いをさせてやりたい。
「今度、あなたのお父さんにも、会わせてもらえますか?」
高耶は驚いて隣を歩く直江を見上げた。
直江は前方の夜闇をじっと見据えている。
「会って、どうすんだよ。あんな親父…」
「どんなお父さんでもあなたのお父さんです。誠心誠意話しますよ。許してもらえないとしても、せめて宣言はしておかないと。あなたをもらいますと」
「随分と不遜な婿だな」
直江らしいと言えば直江らしいが。
「そのうち、あなたのお母さんにも、会いに行きましょう。仙台へ」
「お袋…?」
「ええ。離れていても家族であることには変わりないでしょう? きっとあなたのことを心配していますよ」
高耶はいつか母親からもらったバースデーカードを思い出した。
幸せを祈っていると母の字で書かれたそのカードには小さなボタンがついていて、直江に手を添えられて押すと、安っぽい音でバースデーソングが流れた。
シンプルなそのメロディーに込められた母親の想いが、今また高耶の心に甦る。
「そう、だな。…会いたい」
今は素直にそう言える。
そして、母にも今の家庭で幸せでいて欲しいと心から願っている。
そんな話をしているうちに、地下鉄の駅の入り口に着いた。
薄暗いその階段を降りて行こうとした時、ふと直江の足が止まっているのに気づく。
「あ、もうここまででいいから」
「いえ。ホームまで送ります」
気のせいか、淡い蛍光灯に照らされた直江の顔が若干青白く見える。
何かを躊躇っているようだ。
「どうした?」
「何でもありません」と答えるその表情がどこか苦しげで、高耶は気になったが、直江は「またすぐに会えますから」と言って階段を降り始めた。
「直江、色々とありがとな。今日は本当に…楽しかった」
人気のないホームで電車が来るのを待ちながら高耶がそう言うと、直江は背後からすっと高耶の腰を引き寄せた。
こんな所で!と、いつもの高耶なら肘鉄のひとつでも食らわせるところだが、深夜のうら寂しいホームでそんなことをする気も起こらず、大人しくその腕に抱かれた。
「幸せだ…」
そう呟くと、直江は黙ったまま高耶の腰に回した手に力を込めてくる。
その直後、遠くから電車の音が聞こえてきた。
二人の目の前に最終電車が滑り込んでくる。
ドアが開き、高耶が乗り込もうと足を上げた瞬間、直江にはしっと手首を掴まれた。
「忘れものですよ」
手に何か乗せられた。
見れば、今朝見たあの白い折り鶴だ。
ポケットに戻したはずなのに、いつの間に落としていたのだろう。
高耶は折り鶴を手に、電車に乗った。
ホームに立つ直江が高耶に言う。
「それを私だと思って、大切に持っていて下さい」
「え、この鶴、お前が…」
折ったのか、そう聞こうとした時、高耶の唇にふわりと軽い口づけが降ってきた。
その唇は想いのたけを込めるように一瞬だけ軽く高耶の唇を啄ばむと、淡雪の薄片がすうっと溶けるように儚く離れていく。
そして次の瞬間にはもう、高耶が何か言葉を紡ぐ間もなく、目の前でドアが閉まった。
ウィンと唸りを上げて電車がゆっくりと動き出す。
高耶は手の中にある折り鶴を不思議そうに眺めてから、再び顔を上げ、はっと息を呑んだ。
遠ざかるホームに佇み高耶を見送る直江が、いつの間にか、あの衛士姿の直江になっているではないか。
「直江っ!」
こちらを見つめ返すその唇が、「すぐに行きます」と言ったように見えた。
すぐに行く? どこへ?
その時、高耶は唐突に悟った。
ああ、そうか。
そうだったんだ…。
手の中の折り鶴が柔らかく発光し始める。
夢、だったんだ。
この幸せな未来は、全部、夢だったんだ。
こんなに都合のいい日々がオレを待っているはずはないじゃないか。
高耶は折り鶴を見つめながら自嘲気味に笑う。
でも、楽しかった。ありがとう。もう、いいよ…。
そう語りかけると、明滅していた鶴は瞬く間に眩しいほど光り出し、電車の窓を擦り抜け、霊鳥となって外へと飛び立った。
その刹那、地下を走っていたはずの電車は地上へと出た。
窓の外では、雲の合間から朝陽が差し込んでいる。
電車は雨上がりの伊勢の町を走っている。
所々破壊され、焼け焦げたような町並みが見える。
銀色に輝く大きな霊鳥が、導くように電車に平行して飛んでいく。
行く手には、空高く聳える巨大な光の柱。
その根元にある密林を目指して電車は走る。
あの光の柱へ行かなくてはならない。
そこで、信長と対峙しなくてはならない。
少しでも多くの人たちの幸せのために。
己が信じる世界を守りとおすために。
それがオレたちの最上のあり方であるなら…。
オレたちにどんな未来が待っていようとも…。
そうだろう? 直江。
甘い時間は終わった。
夢はもう終わったのだ。
滑空する霊鳥の光が炸裂し、すべてのものが真っ白く塗りつぶされていく。
それからどれくらい経っただろう。
やがて、声が聞こえてきた。高耶を呼ぶ声が。
「高耶さん…。高耶さん…」
高耶は密生した植物の褥の上に動かない身体を横たえたまま、重い瞼をゆっくり開けると、目の前にある男の顔を認め、かすかに微笑した。
なおえ…。
(折り鶴のねがい・完)