約束の眺めを、君に

前編







「よう大将、なーにシケた面ァしてんだよ? 飯が不味くなるぞ?」

昼休みの教室でコロッケパンを右手に持ちながら、左手で頬杖をつき、焦点の合わない目でぼんやりと宙の一点を見つめていた高耶は、そう声をかけてきた相手へと視線を上げた。

「千秋…」

「どったの? 何か嫌なことでも思い出したか? 前の宿体のこととか…」

紙パックの牛乳をストローで飲みながら、千秋は意地の悪そうな顔でニタリと笑う。

「おかげさまでさっぱり思い出せねえよ」

「じゃあ何? てめえがそんなカオしてっと、こっちの飯まで不味くなるっつうの」

高耶はしばらく憮然とした表情を浮かべていたが、やがてフンと鼻で短いため息をつくと、重い口を開いた。

「直江ってさ、心に決めた相手とか、いんのかな?」

途端に千秋の口からプッと牛乳が吹き出た。

「きったねぇな!」

ゲホゲホと涙目になって咳き込む千秋の心境は、高耶にはわからない。四百年飽きもせず因縁の愛憎劇を繰り返してきた唯一無二の相手の口からそんなことを言われる直江に、千秋は心底同情を覚えた。

「何でまた、そんなこと思ったんだ?」

高耶の話によると、こうである。三日ほど前に直江から高耶の家に電話があった。留守だった高耶に「折り返し電話が欲しい」との伝言があったので、何度か直江の実家に電話をしているのだが、その都度留守でなかなかつかまらない。迷惑かと思いつつ、昨夜、少し遅めの時間に電話してみたところ、母親が困ったように高耶に告げたのである。

「今夜はもう帰って来ないと思いますよ。あの子とどういったご関係の方が存じませんけど、あの子が出歩いてばかりいることはあまり他言しないで頂けないでしょうか…」

ここだけの話ですが、と断って母親は続けた。

「どうやらあの子、複数の女性とお付き合いしているようですの。こんなことお願いするのは筋違いかもしれませんけど、不要なトラブルは避けたいもので。あの子ももういい年ですから、きちんと心に決めた方とだけ付き合うよう、私からよく言い聞かせますから」

それを聞いて高耶は唖然としてしまった。自分より十歳以上年上で、あの外見に、あの世慣れた物腰だ。言い寄ってくる女など何人いてもおかしくないし、そういった女たちと大人の付き合いをしていたとしてもまったく不思議はない。それはわかる。わかるのだが、高耶の中に何かしら受け入れられないものがあった。

「で、お前は何をそんなに気にしてるワケ?」

千秋に問われて、一瞬、高耶自身言葉に詰まった。

「な、何をって…。だから、あいつがだらしないことしてるからだな…ちゃんと心に決めた人がいるのかどうかと心配をして…」

ハーアーと、千秋は大袈裟なため息を吐いて首を左右に振る。

「おめえは直江の親御さんかっつうの。ほんとはそんなことじゃねえんだろ? 直江の野郎が何人と付き合おうが、誰と付き合おうが、おめえはあいつが誰かと付き合ってるってこと自体が許せないんだろ?」

「なっ、ばっ…んなわけあっかよ。何でオレがそんな嫉妬みたいな真似しなきゃならねえんだよ! 冗談じゃねえ」

プイとそっぽを向いて見せるが、内心冷やりとした高耶だ。直江が自分に寄せてくる何気ない気遣いや、あの包み込むような優しさ。高耶はいつの間にか、それがまるで自分だけに与えられる特権のように思い込んでいたのである。あの穏かで慈しみ深い眼差しが自分以外の人間に向けられている…そう考えただけで胸の中にもやもやとしたものが澱のように沈殿していく。何か、裏切られたような気さえしてきてしまうのだ。

「まあ、おめえの気持ちもわからないではないがな。あの野郎だって、いい年こいた男だ。女の一人や二人いるだろうし、特にトラブル抱えてるわけじゃねえんならおめえが口出すことでもねえだろ」

本当なら、「直江の欲求を満たしてやれないお前に文句言う権利はねえんだよ!」と一喝してやりたい千秋だったが、さすがにそこまでは刺激が強すぎるだろうと思って止めた。まったく、こいつら主従にはほとほと付き合いきれねえ…と内心毒づいた千秋は、そうだ、とあるものの存在を思い出した。

「直江の所業がそんなに気になるってんなら、おめえも少しは学んでみたらどうだ」

「学ぶって、何を?」

「異性交遊ってやつをだ」

そう言って千秋が制服のポケットから取り出したのは、くまのぬいぐるみのイラストが入った淡いピンク色の封筒だ。

「何だよこれ」

「聞くまでもねえだろ」

「小遣いでもくれんのか?」

「アホか! 何で俺様がこんなファンシーな封筒でてめえに小遣いなんかくれてやんなきゃなんねえんだよ! ったくこのボケが。預かったんだよ、今朝、おめえに渡してくれって」

実を言えば、これまでにも何度か高耶宛にこういう類のものを預かったことがあった。見てくれはいいくせに、何しろこのとっつきにくい性格だ。想いを寄せても直接告白しづらいのだろう。一緒にいることが多い千秋に渡してくれと頼んでくるのだ。

しかし、それを言えば譲の方が高耶とつるんでいる時間は長い。譲も同じような目に遭っているのではないかと思ってこの間聞いてみたら案の定だった。だが、この小姑は何と、「高耶は誰とも付き合わないよ」と無下に却下しているというのだ。恐るべきは成田譲である。婦女子の味方を豪語する千秋には到底真似できない。

これまでは一応預かっておいて、こっそり陰で捨てていた。渡しても無駄だとわかっていたし、ひねくれもののこの大将にはかえって逆効果で悪い印象を与えかねない。だから涙を呑んで悪役を買っていたのだ。でも今日はそれも馬鹿馬鹿しくなった。このはた迷惑なすれ違いバカップルに一石投じてやるのも面白いかもしれない、そう思った。

「んじゃ、渡したからな。ついでに返事もしといてやるよ。ソッコーOKってな」

「おい、ふざけんなよ。返事すんならちゃんと…」

断っておけよ、と高耶が言おうとした横から、「千秋くん、千秋くん、千秋くーん」と甲高い声で割り込んできた女子がいた。森野沙織である。

「ねえ千秋くん、大変。またユーレイ騒動があったの、知ってる?」

「幽霊騒動? また骸骨武者でも出たのか?」

千秋と高耶は急に真率な表情になり、眉根を寄せる。

「違うの。今度は女の人の霊。男子生徒を付け狙って、精気を吸い取ろうとするんだって。その子ね実は…」

どうやら、三年ほど前、城北高校在学中に交通事故で亡くなった女子生徒らしい、と沙織は言った。高耶は千秋に目配せし、調べるよう暗に指示を出す。ただの幽霊騒ぎならまだいいが、加助らの前例がある。万一怨将でも関わっていたら厄介だ。千秋は黙って頷いた。

「そんでね、噂ではその女の子のユーレイが狙うのって美男子ばっかりなんだって! ユーレイも美形好きなんだねえ、アハハ…。だから、危ないから千秋くんには知らせとかなきゃと思って。あ、仰木くんも一応ね、一応」

「何だよ、一応って」

「ほら、仰木くんだって、一応美形じゃない? あ、成田くんなら大丈夫だよ。一番に知らせといたから! えへっ」

森野もそのユーレイとやらも、ミーハーなことで…と、高耶は呆れて肩を小さく上下させた。こんなおちゃらけた幽霊騒ぎなら単なるデマかもしれないし、本当だとしても大した被害はなさそうだ。それにしても、これだから女というやつは苦手だ…と、そう思ってから高耶は「あ!」と思い出した。さっきのラブレター!

「おい千秋っ…」

振り返ると、もうそこに千秋はいない。ヒラヒラと手を振って教室のドアから出て行くところだった。

「あんの野郎〜」

思わず憎々しげに手の中のくまさん封筒をギュッと握り潰してから、いけね…と慌てて皺を伸ばす高耶だった。



その日の放課後のことだ。
高耶は今日も直江の家へ電話するべきかどうか迷いながら昇降口を出て、校門へ向かって歩いていた。電話してみて、もしまた不在で、今夜も外泊などと言われたらやりきれない。でも、もしかしたら今度こそは直江が出て、昨日お袋さんが言ったことは誤解なんだと、そんなひどい真似するわけないでしょうと、いつものあの誠実そうな声で否定してくれる可能性だって…。

いや…、いや、いや。オレは一体あいつに何を期待しているんだ。そうやって何でもかんでも人に期待するから、裏切られて痛い目みるんだ。心の隙を見せたら負けだ。だけど…ここ何日も直江の声を聞いていない。あいつのことだから、電話が繋がらないオレのこと心配してるんじゃないだろうか。心配? 女と外泊してるような奴がか? 千秋だって言ってたじゃないか。女の一人や二人いてもおかしくないって。紳士ぶって、中身は結局そういう奴なんだ、あいつは。そうに決まってる!

そんな風に高耶がひとりで勝手にぐるぐる回っていると、突然至近距離から声がかかった。

「仰木くん!」

びくうっ!と些か大仰に驚いて立ち止まり、相手を見ると、知らない顔の女子生徒である。いつものぶっきら棒な調子で「何か用か?」と問いかけようとした時、相手の方から先制攻撃を喰らった。

「OKしてくれて、ありがと」

「は?」

「は? じゃないよ。手紙読んでくれたんでしょ?」

ああ。忘れてた。厄介ごとがここにもひとつあったのだ。因みに手紙なら封を開けないまま鞄の中に突っ込んである。

「あのさ、千秋が何て返事したのか知らないけど、オレは…」

と言いながら再び校門へと足を向けたその時、高耶の目に見覚えのある車体が映った。ダークブルーのベンツ560だ。パッと一瞬顔を輝かせかけた高耶だったが、すぐに腹の底がムカムカしてきた。胸中にまた様々な思いが去来する。そして、最終的に主導権を制したのは猜疑心だった。

「なあ、お前、これからヒマ?」

高耶は前方のベンツを睨みながら言う。

「うん、ヒマだよ」

「じゃあさ、どっか行かねえ? 二人で」

「うわ、行く行く!」

女子生徒は目を輝かせて高耶の横を歩き始めた。高耶は車に気づかないフリをして校門を素通りしていく。

「高耶さんっ」

慌てたように声をかけてくる直江をゆっくり振り向くと、高耶は薄い笑みを口もとに浮かべてみせる。

「いたのか、直江。何か用? 悪いんだけど、オレ、先約があるから、急ぎじゃないならまた今度にしてくれないか」

「高耶さん…」

追いすがろうとする直江に、切れそうなほど鋭く冷たい流し目をお見舞いすると、高耶は女子生徒の肩にそっと手をかけ、心持ち抱き寄せるようにして、そのまま繁華街の方向へと去っていってしまった。

直江はなすすべもなく二人の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。高耶が女子生徒と付き合っているなんて話は聞いたことがない。そもそもあの高耶が女性と付き合うなんてとても信じられない。信じられない…けれど、直江はたった今それを目撃したのだ。正直、ショックだった。だが、直江にはもうひとつ、気になることがあった。今の女子生徒である。何となく嫌な胸騒ぎがするのだ。厳しい表情で、直江は高耶たちの去っていった方向をしばらくじっと睨み据えていた。



女子生徒は春日由花里(かすがゆかり)という名前だった。高耶の隣のクラスの生徒で、外見は至って目立たない方だ。というより、むしろあまり可愛い部類ではない。似合わない赤いプラスチックの縁の眼鏡をかけていて、小さくて低い鼻の上から両の頬にかけてたくさんのそばかすがある。もちろん、高耶にとってそんなことはどうでもよい。端から興味がないのである。

さっきの直江の慌てた様子に、ざまあみろと胸がすく思いがしたのも束の間、高耶は松本駅前のマクドナルドで目の前の由花里に何と言って断ったらいいかと頭を悩ませている。この由花里、素直というべきか、自分勝手というべきか、てっきり高耶が自分のことを気に入ってくれたものだと思い込んでいるらしく、さっきから自分のことばかり話して口の休まる暇がない。

自分の外見に対する自信の無さから卑屈になって、じっと黙ったままでいるようなタイプよりはマシかもしれないが、女を相手にするというのはこんなにも面倒臭いものなのか、と内心辟易する。自分の好きなテレビ番組の話とか、飼っている犬が悪戯好きでどうのとか、親友の彼氏が浮気して大変な修羅場だったとか、そういうことを延々と聞かされても困るというものだ。妹の美弥が相手なら最大限に発揮される高耶の優しさと庇護欲も、無関係の女相手では終始パワー不足である。

あいつは女と付き合っていて疲れないのだろうか…と、高耶はまた直江のことを思った。いや、あいつなら聞き上手だから、きっと適切でさりげない相槌を自然に使いこなし、相手を喜ばせるのだろう。思い返してみれば、普段は無口な高耶も直江の前では自ずと多弁になることが多かった。今思えば、直江のあの懐の深さは貴重なものなのかもしれない。ついさっき顔を合わせたばかりなのに、高耶は直江のことを妙に懐かしく感じた。

大体、直江なら女連れでファーストフード店なんかには絶対入らないだろう。大通りから外れた狭い路地にあるような、小さくても情緒ある粋な喫茶店に入るに違いない。金持ちが道楽でやっているような店だ。紅茶の種類が十何種類もあったりするんだ。そういうリサーチには余念のない男である。まったく、つくづく嫌味な奴だぜ。そう悪態をつきながらも、高耶は無意識のうちに自分がそんな男を従えていることに微かな優越感を抱くのだった。

「仰木くん、私の話つまらない?」

気づけば直江のことばかり考えていた高耶に、由花里が初めて不安そうな表情で問いかけてくる。

「あ、いや…ゴメン。そういうわけじゃないけど、オレ…」

本当は誰とも付き合うつもりはないのだと、ここはひとつはっきり言ってやらなくては。そう思った次の瞬間、「だよね!」と由花里が満面の笑みを返してきた。

「私たち、すごく相性いいと思うよっ」

何を根拠にそう言うのか。困惑する高耶の手を取り、由花里は立ち上がる。

「ねえ。夏物のお洋服見たいの。付き合ってくれる?」

断る間もなく、由花里は半ば強引に高耶をパルコまで連行した。そもそも、自分が直江への当てつけのために咄嗟に彼女を利用したのがいけなかったのだろう。自業自得だと諦め、今日だけは由花里に付き合ってやることにした。

ファッションブランドの店をいくつか見て回り、本屋やCD屋を冷やかして歩いた。由花里はカットソーを買うのに迷っていて、高耶にどっちがいいか聞いてきた。美術の成績が実は2だった高耶である。美的センスにははっきり言って疎い。けれど、聞かれたからには答えなければと、由花里が両手に持っているものではなく、別の棚にある水色の、短い袖の形がすっきりと印象的な一着を指差すと、由花里は「ええ?」と意外そうな顔をしつつも、結局高耶の選んだものを買って満足そうな顔をしていた。

パルコを出ると、外はもう夕闇が降り始めていて、高耶は由花里を家まで送って行くことにした。

「今日はありがとう。すごく楽しかった」

静かな住宅街で、由花里が少しだけ高耶に近づいて嬉しそうに言う。自分の肩より低いところにある由花里の顔をちらりと見遣ると、あどけなさの残る無邪気な笑みを湛えている。オレンジ色の夕陽に照らされたその鼻ぺちゃ顔が、ちょっとだけ可愛く見えた。

「仰木くんって、すごく優しいよね」

「別に、優しかねえよ」

「ううん。優しいの。私よくわかるよ。仰木くんってあんまりいい噂ないけど、本当は他人の痛みがよくわかる人なんだよね」

根も葉もない噂を立てられても言い訳ひとつしてこなかった高耶だ。人からむやみに恐れられることはしょっちゅうだったが、「優しい」などと言われたためしはない。何でまたそんなことを言うのだろうと不思議がる高耶に、由花里は淡々と語る。

「うちもずっと片親だったから、何となくわかるんだ。仰木くんは優しいし、とても強い。辛い思いとか寂しい思いをいっぱいしてるのに、周りから誤解されても堂々としていて、人に媚びたりへつらったりすることもなくて、なんて強い人なんだろうって、いつも感心してたの。私みたいな甘ったれはそこまで強く生きられないから憧れちゃうよ」

「お前んちって…」

「うちは母子家庭。私はね、不倫で生まれた子なの。だからお父さんは生まれた時からいなかったんだ。小さい頃から人に汚いものでも見るような目で見られて…子供って幼いながらにそういうのに敏感なんだよね。私は悪いことしてないのに、何でそんな風に見られなきゃいけないんだろうって、ずっと思ってた。お父さんがいたらきっとこんな目には遭わないのにって、愛情にも飢えてた」

高耶は思わず目を丸くした。この明るく屈託のない性格の由花里にそういう背景があろうとは思いもしなかった。

「だけど、私、誰も恨んではいないよ。お母さんのことも、お父さんのことも、私を侮蔑する人たちでさえも。辛い思いをしてるのは私だけじゃない。自分が痛い目見てるから、そういうのは自然とわかるし…」

由花里の方がずっと強くて優しい、と高耶は思った。自分は物わかりのいいフリだけして、本当は心底母親を恨んでいた。

「まだ小学生の頃、誕生日に一度だけ、お父さんに会ったことがあるの」

由花里は訥々と語った。その日、車で来た父親は、一日かけて由花里をいろんなところに連れて行ってくれたらしい。とても優しい人だったようだ。夕方になって、最後に二人は城山(じょうやま)公園に行き、展望台から夕陽を見た。由花里は、ここを下りたらもう父親と別れるのだと思うと、下りるのが嫌になったと言う。

「夜景を見るまでいるってぐずる私に、お父さん言ったんだ。夜景はいつか、お前を幸せにしてくれる人と一緒に見にきなさい、って」

夕陽が二階建てのアパートの陰に沈むと、由花里の顔に差していた光が音もなく掻き消えた。

「そんな優しいお父さんの思い出があったからかな、私、男の人の優しさに弱いんだよね。だから早く結婚して、幸せな家庭を築くことに憧れてるの。お母さんのことは好きだけど、お母さんみたいな辛い恋は、したくないよ。…私ね、前に一度だけ男の人と付き合ったことがあるんだ」

バイト先で知り合った年上の人で、自分にはもったいないくらい優しくてカッコいい人だったと由花里は語った。高耶にちょっとだけ似ていたらしい。由花里は嬉しくて、毎日が楽しかった。高校生なのに早すぎるかもしれないけれど、この人となら結婚して幸せになれると信じていたのだと言う。

「私の誕生日が近くなったある時、彼がプレゼント何がいいって聞くから、私、城山公園の展望台で一緒に夜景が見たいって言ったの。いつしか、それが私の夢になっていたから。そして、当日の夜、公園の入口で待ち合わせることになって、幸せな気分で城山公園に向かっていたんだけど…途中、交差点を渡ってる時に、急に信号無視した車が私の方に暴走してきて…」

高耶は息を呑んだ。由花里は当時のことを思い出したのか、心持ち顔が青ざめている。

「はねられた…のか?」

無表情のままゆっくり頷く由花里を、高耶は目を細め、痛々しげに見つめる。暴走車にはねられたなんて、随分大きな事故だったろうに、今こうして普通に高校生活を続けていられるのは不幸中の幸いと言うべきかもしれない。

「けど、それなら、その彼氏はどうしたんだよ?」

もう付き合っていないということは、その後別れたのだろう。でも、恋人がそんな事故に遭ったのなら、普通なら心配してずっと傍にいてやるものじゃないのか。高耶はもう少しで感情のままに批判の言葉を口にするところだったが、悲しげに微笑する由花里を見て、何も言えなくなってしまった。誰よりも辛い思いをしたのは由花里なのだ。何か事情があったのかも知れない。よく知らない自分が軽々しく口を挟むことではないのだろう。

「仰木くんは、本当に優しい人でよかった…」

「あ…あのな、春日…」

今度こそ、きちんと言わなくてはならなかった。言い出しにくいタイミングだったが、ここではっきり言わなければ余計に彼女を傷つけることになる。

「オレ、本当は誰とも付き合うつもりはないんだ。今日、オレから誘っておいて…ゴメン」

由花里は一瞬眉根に皺を刻み、泣き出しそうな顔をしたが、すぐに口もとに微かな笑みを浮かべた。

「そっか…そうだよね。何となくそんな気はしてたんだ。仰木くん、ほんとは他に気になる子がいるんでしょ?」

「いねえよ、そんな奴」

ポケットに手を突っ込みながら素っ気なく否定する高耶を由花里はしばらくじっと見つめていたが、やがて「ひとつだけお願いがあるの」と言い出した。

「三日後の6月30日、私の誕生日なんだけど、城山公園で一緒に夜景を見てくれる? あの時見ることができなかった眺めを今年こそ好きな人と一緒に見たいの」

切ない過去を背負った由花里のせめてもの願いを無下に断ることもできなかった。由花里も「片親」であるということに、同じ境遇の者にしかわからないある種の共感のようなものを抱いたからかもしれない。そんな由花里が不運の事故に遭って果たせなかった夢を果たしたいと言うのであれば、断れるはずもない。高耶は「わかった」と由花里に約束した。

母子家庭だと言っていた由花里の家は、予想に反して立派な一軒家だった。豪邸の部類に入ると言ってもいいくらいだ。金銭面だけは恵まれているのかと思うと、少しは救われる思いがした。

由花里が家に入っていくのを見届けてから、高耶はようやく自分の家路についた。遠回りしたせいで少し遅くなってしまった。

中天に瞬く星を見上げながら、高耶は由花里の言葉を思い出す。自分のことを「強い」などと言っていた。でも、実際はそんなことはない。きっと、その逆だ。つっぱって、人を寄せ付けないようにしているのは、自分が弱い人間だからだ。本当は由花里と同じように優しくされることに飢えていて、一旦優しくされようものならどこまでも際限なくその優しさを求めてしまいそうだから…、もし裏切られたりしたら二度と立ち直れないくらい傷ついてしまいそうだから、そうして防御線を張っているのだ。

現に、今の自分はどうだ。直江の向けてくるあの優しさが、自分ひとりに向けられるものではないと…、複数の女を口説くのと同じように不誠実なものだったのではないかと考えただけで、こんなにやきもきしているじゃないか。どうやら知らず知らずのうちに、直江の優しさに依存してしまっていたらしい。そんな安っぽい優しさなら、初めからくれなければよかったのに。そうすれば、こんな気持ちになることもなかったのに…。そんなことを思いながら、高耶は梅雨時のまだうっすらと肌寒い夜気に首を竦めるようにして歩いた。



すでに夕食後に家族でテレビでも観ている時間帯なのか、団地には人影もなく、静まり返っている。少し疲れた足取りでとぼとぼと階段下まで歩いて来た時、不意に物陰から伸びてきた腕に手首を掴まれ、高耶は飛び上がりそうなほど驚いた。

「直江っ!」

「随分と遅いご帰宅ですね」

いつからここで待っていたのか、無表情な顔に貼りついた二つの目がどことなく高耶を責めているようだ。一瞬、背筋に冷たいものを感じたが、高耶はすぐに構え直した。

「…お前ほどじゃないけどな」

そう言ってやると、直江はピクリと眉を吊り上げ、何かを探るように高耶の顔を覗き込む。

「どういう意味です?」

「自分の胸にでも聞いてみるといい」

冷ややかに言い放って、高耶は踵を返そうとしたが、直江は手首を掴む手を放さなかった。

「何だよっ、オレに用なら、さっさと言え」

「さっき一緒にいた女子生徒。不穏な霊気をまとっていました。気をつけて下さい。もしかすると、どこかの怨将が罠を仕組んでいるのかもしれません。あなたはまだ完全には力を取り戻していないのですから、あまり軽率なことはしないように…」

高耶はしばらくじっと直江の目を見つめていたが、やがてどこか苦しそうに目を細めると小さく呟いた。

「言いたいことは、それだけかよ」

触れれば壊れそうなガラス細工のような空気をまとって見つめてくる高耶に、直江は思わず掴んでいた手を放す。

「何をそんなに怒っているんですか」

「怒っちゃいねえよっ!」

高耶は泣き出しそうな顔で怒鳴り返した。

「ただ…こっちが何度も電話してんのに、お前が…、お前が、その…」

「うちの母から何か聞いたんですか?」

ハッとして見上げてくる顔に、何らかの言い訳を期待している表情を直江は読み取った。お節介な母親から女遊びが過ぎるということでも聞かされたのだろうが、あいにくそのことについては、言い訳などできる事情はない。それは取りも直さず事実だからだ。

「連絡が行き違いになってすみませんでした。今度からは気をつけます」

「そんなことを言ってるんじゃねえ!」

高耶は瞳に憎悪の炎をともして直江を睨みつけてくる。

「…何人もの女と付き合ってるって、本当なのかよ?」

適当な嘘でその場を取り繕おうとすればできた。でも、直江はあえてそうしようとは思わない。記憶のない高耶と少しでも長く穏かな関係でいたいと願う一方で、高耶のぶつけてくる嫌悪はいっそ快感ですらあった。心のどこかで、もっと傷つけばいいとさえ思ってしまう自分がいる。

俺がどれだけあなたを欲しているかも知らないくせに。あなたに向けたくても向けられないこの情熱を紛らわすために女を抱いているのに。そんなことも知らないで、無邪気な嫉妬を俺にぶつけてくるあなたが憎い…。マグマのようにどろどろと流れ出るそんな感情を密かに視線に込め、直江も高耶を熱く見つめ返す。

「本当だったら、どうだと言うんです?」

その瞬間、高耶の口もとが強張った。それを見た直江はフッと軽く息をついて、今度はひどく涼しげな眼差しになって高耶を挑発する。

「別に誰に迷惑をかけているわけでもない。ただの大人の付き合いでしょう? あなたに文句を言われる筋合いはありませんよ」

「なっ…。お前の誠実さや優しさなんて、そんな程度のものだったのかよっ。忠臣ぶって、自分が傷ついてまでオレを庇ったのも、結局女を口説き回るのと同じ感覚だったんだろっ」

「私がふしだらな女遊びを止めればいいんですか? 一人の女性だけを愛せばそれで気が済むんですか? 違うでしょう? あなたは私が自分以外の者に見向きすることが許せないんだ。そんなのはただの傲慢というものですよ」

高耶は蒼白な顔で息を呑んだきり、何も言えなくなってしまった。しばらくして、「オレはお前に、何も求めてはいない…」、そう自分自身に言い聞かせるように呟くと、もう直江の顔を見ようともせず、俯いたまま、安っぽい蛍光灯に照らされた階段を静かに上っていった。







約束の眺めを、君に 後編へ→