折り鶴のねがい
其二 青空の下の再会
十月の空はどこまでも青く、高い。
吹く風はからりと爽やかで、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込めば、自分の身体まで透明になってしまいそうだ。
直江と会うのは、何ヶ月ぶりだろう。
試験前はとても会う余裕などなかった。
最終試験が終わり、合格発表があってからもう二ヶ月余り経っているが、今度は直江の仕事が忙しくなり、会う予定が延び延びになっていた。
かれこれ、三、四ヶ月顔を見ていないかもしれない。
最後にあったのはつい昨日のようにも感じられるが。
何だか妙な感覚だ。。
毎晩おやすみコールだけは欠かさなかい彼に、「鬱陶しい」などとわざと文句を垂れてやることもあったが、本当はあの声を聞くだけで焦る気持ちが落ち着き、勉強に集中することができた。
直江は、いつでも心の支えだった。
直江がいつも温かく見守ってくれていたから、今の自分がいる。
今日は少しだけ優しくしてやろう。
そんなことを考えながら、高耶は駅まで早足で歩いた。
JR、メトロと乗り継ぎ、待ち合わせ場所のあるT駅へと向かう。
電車に揺られながら、ふと、自分が以前マスコミの標的になっていたことを思い出す。
でも、今はこうして普通に電車に乗っていても、誰も自分に注目しない。
世間の関心なんて、良くも悪くもそんなものなのだろうか。
ドア脇に立ち、停車した駅で乗降するたくさんの人を眺める。
何気なくジーパンのポケットに手を突っ込むと、中で指先が何かに触れた。
何だ? と思って取り出してみると、白い折り鶴だった。
懐紙で折られたようなそれは、余程几帳面な人間が折ったのか、角がぴんと立ち、寸分の狂いもなく端と端が合わさっている。
どうして、こんなものがポケットに入っているのだろう。
自分で入れた覚えなどないのに…。
首を傾げつつ、それをポケットに戻した時だった。
視界の隅に、ひどく馴染みのある顔を見た気がした。
地下鉄のホームを見て、心臓が飛び跳ねた。
直江だ。
直江がホームの雑踏の中に立っている。
それも、今の直江ではない。
ぼろぼろに破れかけた衛士の制服を着た直江だ。
「直江っ!」
思わずそう叫んだ瞬間、プシューと無情に電車のドアが閉まった。
高耶はドアに貼りつくようにして直江を見るが、直江は高耶に気づいているのかいないのか、ただこちらを向いて、どこか悲しそうな表情を浮かべたまま突っ立っている。
電車はすぐにスピードを上げ、その姿はあっという間に小さくなり、見えなくなった。
胸に得体の知れぬ動悸を感じる。
確かに直江だった。
でも、あんな格好で、あんなところにいるはずもないのに。
今彼は、車で宇都宮から待ち合わせ場所へと向かっているはずなのだ。
急に不安になって、高耶は携帯電話を取り出した。
見れば、いつの間にかメールの着信が入っている。
「橘義明」とある。
直江からだ。
『渋滞のため、少々遅れます。すみませんが、待っていて下さい』
短い文章を二、三度読み返し、ホッと胸を撫で下ろす。
大丈夫だ。
ちゃんと、直江と繋がっている。
もうすぐ直江と会える。
さっきのは、今朝の悪夢が引きずって見せた幻に違いない。
大丈夫。もう自分たちは、離れ離れになったりはしない。
闇戦国は終わった。信長と戦う必要もない。
オレたちは、オレたちのために、ともに生きていけばいいのだ。
高耶は直江からメッセージの届いた携帯をそっと胸に当て、目を閉じた。
T駅でメトロを降りると、高耶は直江が待ち合わせに指定したカフェに入った。
歩いてきて少しだけ暑くなったので、冷たいオレンジジュースを注文した。
外に並べられたテーブルにつき、高耶は周囲の街並みと行き交う人々を眺める。

リバーサイドにあるこの地区は近年開発が進んだらしく、新築のマンションが多い。
小中学校の校舎は新しく綺麗だし、図書館などの公共施設も充実しているようだ。
どんなセレブが立ち寄るのか、お洒落な店も結構たくさんある。
このカフェもそうだ。
ぬいぐるみのような小さな犬を連れた上品な服装の中年女性や、早々に定年退職してゆとりある生活を楽しんでいるらしい溌剌とした初老男性。
高耶はそんな中で自分が少し浮いているのではないかと気になった。
数年前までこんな明るく小奇麗な場所とは無縁の生活を送っていた自分。
四万十の戦場を泥まみれになって駆け回り、伊勢で血みどろの死闘を繰り広げた日々。
赤鯨衆のみんなはどうしているだろう?
嶺次郎は? 小源太は?
久富木や斐川、寧波に青月は?
武藤はどうしたろう?
卯太郎は元気だろうか?
兵頭は…やはり室戸丸と一体化したままなのだろうか。
ひどく懐かしい気がする。
もし、オレが家裁の調査官になるだなんて知ったら、みんな何て言うだろう。
「やめちょけ、やめちょけ。似合っちょらん」
ふいにそう言われたような気がして、高耶はひとり苦笑した。
夜叉衆の彼らはどうだろう。
千秋はきっと相変わらずだろう。
綾子姐さんは換生したのだろうか。
色部さんは…、高坂は…、小太郎は…。
昨日のことのようにも思えれば、もうずっと手の届かない遥か昔のことのようにも思える。
今、自分がここにあることは奇跡だ。
仰木高耶としてずっと密かに抱いていた夢を叶え、直江とこうしてともに手を取り合い、穏かな生活を送れる日が来るなんて。
直江との苦しかった日々を思う。
互いに神経をすり減らしながら、時には憎しみをぶつけ合った。
愛を紡いでからも、戦いの日々は二人に安息を与えることはなかった。
…本当に、奇跡だ。
直江…。
心の中でそう呼びかけた途端、昼前の高い日差しが急に目の前で遮られた。
顔を上げると、長身の懐かしい黒いスーツ姿がそこにある。
「直江!」
「お待たせしてしまい、すみません。高耶さん」
広い肩幅、厚めの胸板。
色素の薄い柔らかな髪、慈しみ深く見つめてくる鳶色の瞳。
自分の名を呼ぶ落ち着きのある低い声…。
「直江」
自分が最もよく知る男。
自分が唯一愛した男。
彼が今目の前にいる。
「どうしたんですか、高耶さん?」
少し慌てたように言う直江に、高耶は初めて自分の目から涙が零れていたことに気づく。
それを拭おうと伸ばされた直江の手を払いのけ、慌ててシャツの袖で目を擦った。
「なんか、目にゴミが入ったみてえ…」
直江の姿を見た途端、感極まって泣いてしまったなどとは口が腐っても言えない。
素直じゃないのは自分でもわかっていたが、直江はそんな高耶をもう充分承知しているのか、ただ優しく微笑むだけだ。
「じゃあ、行きましょうか?」
「お前、車は?」
「先にマンションの駐車場に停めてきたんです。すぐそこなので」
マンションというのは、これから二人で住む予定のマンションのことだ。
高耶としては東京はちょっと苦手だけれど、直江に松本に来いとも言えず、来春から始まる研修は東京で受けることを希望している。
直江も、橘不動産が本格的に東京に進出するとかで、近々東京に常駐することになるらしい。
そのマンションに向かって歩いて行くと、意外にも古い下町のような風情の家並みが残っていて高耶は驚いた。
狭い路地に木造の二階家が軒を連ね、物干し台で洗濯物が風に揺れている。
家々の玄関先には鉢植えが並び、猫が毛づくろいしている。
そこだけ見れば、まるで昭和三十年代の日本を見ているようだ。

「面白い町でしょう?」と、直江が高耶の思考を察したように言う。
「ここは新しいものと古いものが混在している町なんです。新しいものばかりだと、生活には便利でもどこかぎすぎすしてしまうでしょう? そんな中にこういう昔からの家並みを見出すと、どこかほっとする…」
「オレ、どうせなら、あっちの家の方に住みたいな。何かああいうのって楽しそうだろ?」
そう言うと直江は少し困ったように笑いながらも、「わかりました」と頷いた。
「今度探しておきますよ。橘不動産の威信にかけて」
マンションの傍まで来ると、高耶はその大きさに圧倒された。
真下から最上階を見上げていると首が痛くなりそうだ。

「32階の角部屋です。うちが所有している賃貸用物件なんですけど、ちょうど先月借主が退去して…長兄に頼んで押さえてもらったんですよ」
「いいのか、こんな高そうなところ」
「家賃は給料から天引きすると言われました」
それがいくらだか知らないが、エントランスのゴージャスさ加減や、エレベーターが全部で8基もあるところからして、相当な額になることは確かだろう。
「オレも…最初は給料低いけど、ちゃんと金入れるから」
「頼もしいですね」
そう言って、直江はエレベーターのボタンを押すと、扉もまだ閉まり切らないうちから高耶の身体を抱き寄せた。
「おっ、お前…」
「大丈夫。途中の階からなんて誰も乗ってきやしませんよ」
背後から高耶を抱きすくめ、首筋に顔を埋めてくる。
匂いを嗅ぐようにゆっくり深呼吸してから、「久しぶり、ですね」と直江は呟いた。
「ああ…」
首を捩って短く答えると、至近距離で視線が絡み合う。
その熱い眼差しを受けとめるだけで、身体が蕩けそうだ。
高耶の唇がどこか苦しげに開きかけ、直江が首を傾げるようにして顔を近づけてくる。
唇と唇があと少しで合わさろうとしたその時、高速エレベーターはあっと言う間に32階に到着し、扉が左右にスーッと開いた。
そして、次の瞬間、高耶は直江を突き飛ばしていた。
開いた扉の向こうに、若い女性が驚いた口をあんぐり開けたまま立っていたのである。
高耶はすぐさま俯き加減でエレベーターを飛び出した。
「お前があんなとこであんなことしようとするから…」
「いいじゃありませんか。見せつけてやれば」
「冗談じゃない! きっとここの住人だろ? ご近所さんだろ? 変な目で見られるのはまっぴらだ」
「好都合ですよ。あなたはすでに人のものだということを知らしめておくべきです。今後のためにいい」
「お前の脳みそはどうかしてる!」
思わぬことで言い合いが始まった。
直江は少しだけ険しい顔つきで部屋の前まで来ると、素早く鍵を開け、高耶の手を引っ張って乱暴に中に連れ込んだ。
部屋の中は薄暗い。
直江は靴も脱がないまま、高耶を玄関の壁に押さえつけ、顎を掴まえる。
「あなたはもう少し、私の気持ちを理解するべきだ」
「なおっ…」
「もう一秒も我慢できないんですよ」
そう言うなり、噛み付くようにキスをされた。
身体を密着させながら、直江の手が、高耶の身体のラインをなぞるように這い回る。
「俺がどれだけあなたを欲しがっていたか知っていますか?」
骨が軋むほど、強く抱き締められた。
「ずっとあなたに会えなくて、狂い死にしそうでした」
「直江…」
本当に苦悶するような顔で言う直江に、高耶の心も揺れた。
直江の頬にそっと手を当て、小さな声で子供っぽく口走る。
「そんなのオレだって同じだ…」
「知ってますよ」
直江は若干勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「さっき、俺の顔を見ただけで泣き出したでしょう?」
「なっ、あ、あれは…」
知りつつ黙っていてくれるのかと思ったら、この男も大概意地悪だ。
高耶は仕方なく、降参、というようにぶっきらぼうに言い放つ。
「ああ、そうだよ。悪かったな。お前が足りなくて、息もできないほど苦しかったよ!」
言いながら、高耶は腕にぐいっと力を込め、直江の大きな身体を玄関の上がり口に押し倒す。
その身体を押さえ込むように上から跨ると、禁欲的にかっちりと着込んだスーツのボタンに手をかけ、一気に剥ぎ取った。