雲隠れ
















傷ヲ舐メ合フノデハナイ。傷ヲ広ゲ合ヒ、血ヲ啜リ合フノダ。
















「いつまでそうして黙っているつもりだ、法師」





人里からさほど離れてはいない山中。

それでも人気の無い夜の森はどこか不気味で、秋風が黒い木々をざわめかせると、心の中まで冷ややかに荒んでいくような気がした。

昔の貴族が夏の離宮として建てたものだろうか。今は人から見捨てられたそのぼろ屋敷で、弥勒は柱に凭れながら荒れ放題の庭を見るともなく眺めていた。


低く、それでいてよく通る声が、酒香漂う屋敷の縁側に響くと、弥勒は項垂れた顔を僅かに上げた。

すると、秋風が夏の間中伸び放題だった雑草をサーッと冷たく撫でて通り、流れる天上の雲が円い月を覆い隠した。それと同時に、月光に照らされていた弥勒の頬から明かりがすっと引いていく・・・



「あなたが・・・酔ってしまうまで、です」



後ろを振り返らずに弥勒がそう答えると、背後の闇で「フンッ」と軽く鼻で笑う気配がした。

しかし、次の瞬間、何の前触れも無く、いきなり首の後ろに芳醇な香りを含んだ吐息を吹きかけられ、弥勒は初めて自分が完全無欠の最強を誇る妖と対峙していることを思い知らされるのだった。



「愚かだな・・・」



耳元に落ちた響きの冷酷さとは裏腹に、首筋にかかる息は意外なほどの熱を孕んで弥勒の肌に絡みついた。



「私を酔わせるのは、お前の役目かと思ったが?」



そう小さく詰るように言葉を紡ぐと、純血の妖・殺生丸はその妖艶な色香を隠そうともせず、しなり、と弥勒の肩にしな垂れた。

そうして、耳元に息を吹きかけられたと思った瞬間。



「いっ・・・」



カリッと音がするほど強く耳朶を噛まれた。錆びた鉄に似た匂いが鼻につく。殺生丸は甘い蜜でも吸うかのように耳たぶに流れる血を啜る。

精気を吸い取られるようなその感触に、弥勒は微かに身を震わす。

ひとしきり血を啜ると、殺生丸は尖らせた舌を弥勒の耳の中へと潜ませてきた。耳の形に沿って、ゆっくりと、丹念に、舐め回していく。

クチュクチュと耳の中を舐められる音が異様なほど大きく弥勒の鼓膜に響く。淫らに濡れた音に、脳味噌まで掻き回されているようだ



自分は一体、何をしようとしているのか。醒めているのか、昂ぶっているのか・・・。


いや、麻痺している、というのが一番正しい表現かもしれない。



そうだ。もっと、麻痺させてくれ。


怪しい雲行きを見上げながら、弥勒は思う。



この夜空を流れゆく雲と同じくらいの速さで・・・、木々の葉を千切れさせるほどの強さで・・・、俺をどこか遠くへ吹き飛ばしてくれ。


そうでないと、俺は醜い姿を晒しながら、青々と茂る樹に縋りつき、その美しい花を握りつぶしてしまうから・・・。





「貴様も諦めの悪い男だ」



人の思考を読んだようなことを囁くと、殺生丸は傍らに置いた盃を手に取った。並々と酒の注がれたそれに口を付ける寸前、弥勒がそれを横から奪い取る。

口端から一筋透明な液体を溢れさせて、一気に呷った。



「悪くない呑みっぷりだ」



片頬に酷薄な笑みを浮かべる殺生丸を、弥勒は気だるげに振り向いた。



「忘れさせて、くれますか?」



「何を」とは言わぬまま、人と妖は見つめ合う。


その時、雲の合間から中天に上りつめた月がほんの僅かに光を漏らし、刀身のように細い光の筋が、殺生丸の冴えた美貌を撫でて通った。

その一瞬の間に、無表情な顔に光る二つの金色の瞳が余りに強く美しく煌き、弥勒は訳も判らぬまま酷く悲しい気持ちになった。

しかし同時に、毒に溺れるまま毒を欲しているような、そんな後ろ暗い欲望の渦が己の中に湧き起こるのをはっきりと意識せずにはいられなくなった。



弥勒は殺生丸の右腕をぐっと掴むと、虚しく風に翻る左袖を引っ張った。するり・・・と、常ならず鎧を纏わぬ雅な着物が肌蹴る。今は無いその片腕を殺生丸から奪った者の顔が弥勒の脳裏を過ぎった。

そこまで憎しみ、傷つけ合うほどの血の絆が彼らの間にはある。


だけど。そんな絆さえも、あの愛おしい半妖を留めておくことは不可能なのだ。



殺生丸は弥勒のその視線に気づいてか、口もとに薄笑いを浮かべた。

が、程無く。どんよりと重たい雲が幾分の光も漏らさずに、月をすっぽりと覆い隠し、その笑いもすっと影を落として闇に消えた。





「とんだ愚か者だな」


「お互い様でしょう?」





暗闇から湧いて出た投げ遣りな言葉のその後は、どろどろに蕩けそうな口付けだった。

どちらからとも無く相手の舌を激しく嬲り、絡め、吸い、唾液を注ぎ注がれる・・・醜くて、汚くて、厭らしい口付けだった。








つづく





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