雲隠れ





外伝其一











私ニモ教ヘテクレナイカ、オ前ノ見テイタ快楽ヲ。
















人里から遠く離れた、森の奥深く。
小川の縁に生える大木の幹に凭れるように座る殺生丸が居た。


奈落が滅せられて後、日はひとつ、またひとつと重ねられ、どれほど経過したのか。散在していた四魂の欠片も集められ、それを廻って騒然としていた妖怪たちも一通り穏やかになっていた。

もっとも、この妖ばかりは四魂の玉如きで一喜一憂するはずも無かったが。





殺生丸は独り、長くしなやかな指を冷たい水に浸して川面に跳ね返る西日のきらめきを、意味も無くただ無表情に眺めていた。

水は殺生丸の白く細長い指に戯れるように絡みつき、柔らかい波紋を作る。しかしそれは留まることを知らず、流れては絡み、絡んでははまた流れ・・・妖の美しい指先だけを残して次から次へと流れ去っていった。



その時、流麗な眉が不意に微かに跳ね上がった。

殺生丸は自嘲気味な笑みを口元に浮かべると、水面を見つめたまま冷たい美声を放つ。



「何の用だ」



背後の木陰からサクッと落ち葉を踏みしめる音がして、深紅の袖先がちらりと視界に入った。





「殺生丸・・・・・・」

弟が、兄の名を呼んだ。



わざわざ殺されに来たか・・・と悪態をつきかけて、止めた。

奈落と相討ちとなり死の淵へと落ちようとしていた犬夜叉を自分が天生牙で救い出したことは、きっと仲間から聞いているだろう。

今更、か。




「殺生丸・・・」

言い出しにくそうに、もう一度自分の名前を呼ぶ弟を、殺生丸は気だるそうに目だけで振り向いた。



「・・・俺、決めたんだ」



流れを弄ぶ殺生丸の手がふと止まった。



犬夜叉は一呼吸置くと、静かに続きを口にする。



「人間に、なる」



「・・・・・・」





「四魂の玉で、人間になる・・・・・・そして、かごめの国へ、行く」





殺生丸は犬夜叉の顔から目線を逸らし、しばし水の底を凝視しているようにじっと瞳を伏せていたが、やがて無機質な声で返答した。

「だから、何だ?」



「・・・・・・」

犬夜叉の心が揺れているのが手に取るように判る、そういう沈黙だった。



「・・・お前がどう生きようと私の知ったことではない。まして下衆な人間などになると言うのなら尚更だ」



「人間になって向こうに行ったら、もう戻って来れねぇ・・・」



殺生丸はゆっくりと犬夜叉に振り向いた。そして、苦笑交じりに言う。

「私に、引き止めて欲しいのか?」


「・・・・・・」


「あの法師と暮らせば良いだろう・・・そう言って欲しいか?」


犬夜叉は唖然として殺生丸を見つめている。本心を探り当てられたことよりも、先ず弥勒との関係を気づかれていたことに動揺しているようだった。


「私が気づいていないとでも思っていたのか?・・・お前は逢うたびに法師臭かったからな」


「でも・・・あいつは、そう言ってくれなかったから・・・引き止めて、くれなかった」


「当然だろう」

その短い一言に一瞬、犬夜叉の金の瞳が弾けるように揺れた。


「お前は一番身近なはけ口だった、それだけのことだろう?」


「違う!あいつは・・・そんな奴じゃないっ!!」


激昂した犬夜叉の言葉尻に被せるように、殺生丸はぴしゃりと言い放つ。


「私と議論してどうする? 犬夜叉」


しかし、犬夜叉はぴくりと体を小さく振るわせ、口元に寂しげな笑みを浮かべただけで、それ以上反論しようとはしなかった。







この弟は、一体何のためにわざわざ自分に逢いに来たのか。

自分の想いを必死に殺そうとしているような、そんな寂しい微笑みは、愛し合う父母の間に生まれた犬夜叉が生まれながらに備えていたであろう優しさをも滲ませているようで、殺生丸は複雑な想いのうちに微かな苛立ちを覚えた。


それに・・・その全身から発する切なげな匂い。

恐らくはここ当分の間、法師に抱かれていないのだろう。自分ではつゆほども気づいていないのだろうが、甘く強請るような気配が哀しいほど濃厚に、成熟と未成熟の間を彷徨うこの半妖の体を包んでいた。



行くな、そう有無を言わさず命令してやれば良いのかも知れない。

或いは、頼りなげなその体を強く抱き締めてやれば良いのかも知れない。

荒々しく唇を重ねて、その熟れた体を狂ったように愛撫してやれば良いのかも知れない。

でも、そんなことはするはずもないし、出来るはずもない・・・



憎しみ合うようになったのはいつからだったか。

本当を言うと、はっきりとした憎悪の理由は遥か時の彼方に置き去りにされていた。

ただ、この出来損ないの危うい半妖に対する狂気染みた執着――憎しみも蔑みも通り越し、純化された執着だけが、兄と弟を結ぶ絆だったのだ。





「帰れ愚か者が」



冷たい一瞥を返しながら殺生丸は内心苦笑する。だが、そんな味気無い態度でしか・・・最後まで冷たく突き放すことでしか・・・愛する方法の無いさだめだった。





自分で言い放った言葉の苦々しさを噛み締めていると、突然、ふわりと柔らかい銀糸の髪が殺生丸の頬をくすぐった。

胸に僅かな衝撃を感じ、すぐ目の前の意外な光景に殺生丸は思わず一歩退く。



その嗅ぎ慣れたはずの匂いは鼻のすぐ下で嗅ぐと柔らかい体の温もりと共に遠い記憶を呼び起こし、程無くして掻き消えた。入れ替わりに脳裏に浮かび上がったのは、誰かの腕の中で乱れ狂う半妖の肢体。頭の片隅ではそれでも自分の所有物だと認識していた弟の嬌態。

脳天まで欲情の槍で貫かれたその体は淫らにしなり、溢れ出しそうな快感のやり場に困っているのか、それとももっと欲しいと強請っているのか、四肢を妖しく宙に泳がせていた・・・。

誰かが更に強い力で揺さぶると、半妖は、悦びの波が全身を駆け巡っているというように、ふるふると全身を震わせた。



胸に感じる温もりは、体の芯に火をつけた。

殺生丸は自分の中に湧き上がってくる衝動が後ろ暗く背徳的な欲望であろうことは自覚しながらも、その欲望の先が一体「どちら」へ向いているのかまでは突き止められぬまま、やがて犬夜叉がそっと体を離した。





「・・・迷ってる訳じゃないんだ。ただ、お前に・・・」俯いてそう言いかけた犬夜叉は一段と声を落として呟いた。「・・・あ、兄上に、さよならを、言おうと思って・・・」





口に出す術も無い愛しさが込み上げてきたのと同時に胸を焼いたのは、この淫蕩に見えるほど美しい半妖の体を思うさま揺さぶっていた男への嫉妬だろうか・・・・・・





肉食動物のようにしなやかな素足が、一歩、また一歩と、自分から永久に遠ざかっていく。

殺生丸は夕闇の中に浮かぶその白い足が次第に小さくなっていくのを見つめながら、腹の底で燻り続ける熱を持て余していた。



そして、艶かしい半妖の体を貪っている男に向けられていたはずの嫉妬がいつの間にか、男に貫かれて打ち震え、無上の快楽にむせび泣く半妖の身の上へと移ろっていたのをそれと意識したのは、夜も大分更けた頃だった。



冷たく冴えた美貌を持て余すように、高貴な妖は自分と同様、独り遣る瀬無い夜を凌いでいるであろう人間の男を想っていた。














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